第117話 F級の僕は、四方木さんの手の平の上で踊らされてしまう


5月25日 月曜日2



僕は目の前に唐突に差し出された斎原さんの右手を前に、しばし固まってしまった。


果たして、この手を握るべきか否か?

今、重大な選択を、心の準備も無いまま迫られている。

僕は彼女の右手を……


「やあやあ、遅くなりまして」


ふいに、その場の雰囲気とは明らかに場違いな、のんびりした声が聞こえて来た。

声の方に視線を向けると、少し離れた道路端に、均衡調整課の制服に身を包んだ四方木さんと更科さんが立っていた。


いつから、あそこに……?


状況がよく呑み込めない僕の方に、四方木さんと更科さんが笑顔を浮かべながら、近付いて来た。

と、彼等の前に、斎原さんが連れて来た2人組の黒服が立ちはだかった。

斎原さんは、四方木さん達に冷ややかな視線を向けた。


「四方木、これは何の騒ぎかしら?」

「あ、これは斎原様、奇遇ですな。てっきり、富士の方にお戻りになったかと……」

「今から帰るところよ」


斎原さんが、僕の方に再び笑顔を向けた。


「中村君、さ、行きましょ?」


斎原さんは、僕の手を取ると、歩き出そうとした。

そこに、2人組の黒服に阻まれたまま、四方木さんが声を掛けて来た。


「おや? 斎原様、中村さんと何かお約束でもありましたか?」

「そうよ」

「分かりました。では、我々、手早く用事だけ済ませて、さっさと退散しますね」


四方木さんは、更科さんの方を振り返った。


「更科君、中村さんにアレ、お渡しして」

「はい、所長」


手に持つカバンから封筒を取り出した更科さんが、2人組の黒服をさりげなくかわしながら、僕の方に歩み寄ってきた。


「中村さん、これ、お届けに上がりました」


僕は、差し出されるままにその封筒を受け取った。

封筒には、均衡調整課の文字が入っている。


「……更科さん、これは?」


更科さんは、笑顔のまま言葉を返してきた。


「中村さんの新しいIDカードですよ」

「僕のIDカード?」


IDカードは、キャッシュカード大の身分証だ。

名前や生年月日、それに等級等の個人情報が磁気で記録された銀色のカード。

僕のそれは、今の大学の学生証に組み込まれている。

当然、再発行等の手続きをした覚えはない。

いぶかしみながら封筒の中身を確認すると、緑色のカードが一枚入っていた。

表面に、僕の名前、写真、そして……


『N市均衡調整課嘱託職員』の文字が刻まれている!?


それを目にした斎原さんが、不愉快そうな表情になった。


「四方木、これはどういう事?」

「いえいえ、そちらの中村さんとは前々からお話させてもらってましてね。昨日付けで、彼をN市均衡調整課嘱託職員として採用させてもらったんですよ」


その話は、返事を留保したはずだけど……?


戸惑いながら僕が声を上げようとした時、にこにこ笑顔の更科さんが口を開いた。


「中村さんには、早速今度の調査に参加してもらう予定ですから、この前お話しした通り、今日のお昼からのブリーフィング打ち合わせも出席して下さいね」


参加を了承した覚えの無い調査とは、恐らく富士第一ダンジョンの調査の事だろうけど、ブリーフィング?

そんな話は初耳だ。


それはともかく……


今この場で、クラン『蜃気楼ミラージュ』を取るか、N市均衡調整課を取るかの究極の選択を迫られている?


僕の戸惑いを他所に、斎原さんは、僕の傍を離れ、四方木さんにつかつかと近付いて行った。


「いつから、均衡調整課は、F級を採用するようになったの?」

「そうおっしゃる斎原様こそ、もしや、F級をクランにご勧誘中でしたか?」


四方木さんは満面の笑顔で、斎原さんはこれ以上無い位の氷のような表情で、お互いしばらく無言で視線を合わせていた。

数秒後、斎原さんの表情がふっと緩んだ。

彼女は、僕の方を振り返った。


「中村君、またね。富士第一で待ってるわ」


そして、彼女は2人組みの黒服に合図を送ると、アパートから少し離れた場所に停めてあった黒塗りのリムジンに乗り込み、走り去って行った。

それを見送った僕は、一気に肩の力が抜けるのを感じた。


「危ない所でしたね~」


僕の傍に歩み寄ってきた四方木さんが、声を掛けて来た。


「もう少しで、斎原様に拉致されちゃうところでしたよ?」


僕は、四方木さんに、緑のIDカードを見せた。


「コレ、何ですか?」

「見ての通りです」

「均衡調整課に入るって話、返事はまだしてなかったと思うのですが」

「じゃあ今、お聞きしても宜しいですか?」

「……とりあえず、お返事はまた今度って事で……」


僕は、緑のカードを封筒に入れて、四方木さんに返そうと差し出した。

四方木さんの目が細くなった。


「ソレ、お持ちになっていた方が、色々便利ですよ?」

「でも、僕はまだ、均衡調整課の嘱託職員では無いですし」

「中村さん」


四方木さんが少し試すような視線を向けて来た。


「斎原様が、あの程度で諦めると思いますか?」



―――中村君、“またね”。富士第一で待ってるわ



僕は、彼女の別れ際の言葉を思い出した。


「それに、早晩、他のS級の方々も、あなたの存在に気付いちゃいますよ?」


S級は、斎原さんだけじゃない。

他のS級やクランからも、“狙われる勧誘される”と言いたいのだろう。


「だからソレ、虫よけ代わりにお持ちになっていて下さい」

「……」


僕は少し迷った後、封筒を持つ手を下におろした。

あの斎原さんでさえ、僕がこの緑のIDカードを手にしたのを見て、帰って行った。

このカードが、“虫よけ”に使えるのは、事実だろう。


「……分かりました。コレは、一時お預かりするって事で」


僕は、封筒をカバンに入れた。


「それでは、僕はこの辺で」


随分時間をロスしてしまった。

今日は、アリアと異世界イスディフイあっちで『カロンの墳墓』に行く約束をしている。

早く大学に行って、学務課で休講届け提出してこないと、約束の10時に間に合わないかもしれない。


スクーターに跨ろうとした僕に、四方木さんが声を掛けて来た。


「そうそう、午後1時から、均衡調整課第一会議室で、今度の調査のブリーフィングするんで、遅れないで下さいね」


僕の足が止まった。


そういやさっき、更科さんもそんな事、言ってたっけ?


僕は、四方木さんの方を振り返った。


「すみません、富士第一の調査、僕は……」

「中村さん」


四方木さんが少し悪戯っぽい顔になった。


「富士第一の調査、あの斎原様も顔出す予定なんですよ」

「はぁ……」

「調査の時いなかったら、斎原様にバレちゃうかもしれないですよ?」

「何が、でしょうか?」

「その緑のIDカードが、ただの虫よけだって」


僕は、思わず四方木さんの顔をまじまじと見てしまった。

この人は……笑顔で僕の外堀を埋めにかかってる?

しかし、四方木さんの言う事も一理ある。

仕方ない……


「……分かりました。富士第一の調査、参加します」


四方木さんが目に見えて嬉しそうな顔になった。


「良かった良かった。調査は、特別手当も出ますしね。それでは、今日の午後1時、お待ちしていますよ」


僕に背を向けようとした四方木さんを、僕は呼び止めた。


「四方木さん、少々お願いがあります」

「何でしょう?」

「調査には参加します。ただし、嘱託職員としてでは無く、個人の資格で参加させて下さい。その代わり……」


僕は、四方木さんの反応を確かめながら言葉を続けた。


「他のS級やクランの皆さんへの説明は、四方木さんにお任せします」


四方木さんがにやっと笑った。


「分かりました。とりあえずは、それで行きましょう。なあに、中村さん、一緒に調査参加して貰えれば、均衡調整課ウチの良さ、直ぐにご理解いただけると思いますよ」

「それと、今日一日、どうしても外せない用事がありまして。明日時間作りますので、今日のブリーフィングへの参加、勘弁して貰えませんか?」


今日は是が非でもアリアとの約束を守る。


僕に笑顔を向けながら、四方木さんが言葉を返してきた。


「ま、突然当日になって、ブリーフィングの話持ち出した我々の方が悪いですからね。それじゃあ、明日、中村さんの都合の良い時間に、またご連絡ください。調査の詳しい内容、お伝えしますので」



四方木さんと更科さんに別れを告げた僕は、大学へとスクーターを走らせた。


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