第6話 逃げるのは終わり
後ろを振り返ると、侑佳さんが必死に追いかけてくるのが見えた。
息が辛い。懸命に逃げようとするも、観戦帰りのお客さんが多すぎて、スピードを出せない。
「うう、こんなに人がいちゃ」
このままじゃ確実に追いつかれる。
それなら別の作戦だ。急に方向転換し、トイレの角を曲がる。勢いを止めず、そのまま一周。うまくいけば私を見失い、あらぬ方向へ駆け出すだろう。
足を止め、建物の陰から追いかけてきていないか様子を伺う。
追いかけてきている人はいない。
「撒いたかな」
肩が叩かれ、ぎょっとする。
恐る恐る振り返ると侑佳さんがいた。
「げっ」
「もう逃げられませんよ」
顔が怖い。
体力はもう限界だ。大人しく降参する。
「早紀さん、どうして逃げるんですか」
「足治ったんだね、よかった」
「そういうことじゃなくて」
はぐらかそうとしたら、睨まれた。
「どうして、どうして何も言わずに去ったんですか」
彼女に何も言わず、東京から離れ、福岡に来た。
責められるのは当然だ。
「ごめん、ね」
「心配したんですよ。事件に巻き込まれたんじゃないか、早紀さんの身に何かあったんじゃないかって」
「ごめん」
「謝罪はいりません。ああ、もう!ともかく元気そうで良かったです!」
「うん、元気にしているよ」
がしっと両肩を掴まれ、凄まれる。
「詳しく話を聞かせてもらいますよ」
会っていないうちにずいぶんたくましい子に育ったようだ。
話しやすい店ということで、二人でファミレスに入った。
お店は試合後だったが、あまり混んでいなく、話すにはちょうどよかった。
「アウェイに応援に行くほど、熱心だったんだね。まさか福岡で会うなんてね」
「なかなか行けないですけどね。ちょうど休みが取れたんで、観光もかねて来ました。まさか私もこんな所で、早紀さんに会うなんて思いませんでしたよ」
「急に福岡へ行って欲しいと上司に言われたの」と嘘を織り交ぜ、近況報告をする。
「安野さんは元気にしている?」
「元気溌剌って感じの人ではないですけど、元気だと思いますよ。とてもいい人、だと思います」
いい人。
含みのある台詞に聞かなくてもいいのに、聞いてしまう。
「付き合っているの?」
「……あっちから告白されました」
心の中で安野さんを褒める。
彼の気持ちは本当だった。彼ならきっと……。
「おお、そうなんだ。いいね。返事はもちろんオッケーだよね?」
「まだ返事はしていないです」
「何で?」
彼女が目線を下げ、前に置いてあるコーヒーカップを見る。
どうして?彼は良い人で、本気だ。本気で彼女のことが好きで、大切にしてくれる。
言葉を待つ。
取っ手を指で弄りながら、侑佳さんがゆっくりと口を開いた。
「しっくり、こないんです」
「しっくり?」
「悪い人じゃないんです。私の趣味も理解してくれています。でも」
彼女が顔を上げ、私をまっすぐに見た。
「恋は理屈じゃない。どこか物足りない。ビビッと来ないんです」
「ドラマの見すぎだよ」
「ですね。だから彼氏ができずに、親が代理婚活するんです。ただこの人でいいや、と無理して好きになろうとしたって意味がないんです」
彼女の言うことはよくわかる。
私もそうだった。
私の思い描く、恋は妥協でも、無理してするものでもない。
理屈じゃない。
誰かの代わりなんてなくて、理由なんて定義できない。
彼女が私を見て、微笑んだ。
「早紀さんにまた会えて良かったです」
「ええ、私も会えてよかった」
「良かった」
なら、この激しい鼓動は、彼女の笑顔を見て痛む心は、どう定義すればいい?
飛行機の時間が迫っているということで、駅の改札前まで見送ることになった。
言いたいことはたくさんある。話したいことはたくさんある。
けど、話したら溢れてしまうから。言っちゃいけないことまで話してしまうから、何も口に出せなかった。
出てくる言葉は、当たり障りない確認。
「このまま東京に帰るの?」
「はい、明日は仕事なんで」
「そうなんだ、じゃあ、元気で」
彼女が寂しそうに笑った。
「またね、とは言ってくれないんですね」
「……」
もう会わない。もう会わない方がいい。
彼女は告白されたのだ。彼と付き合えばいい。
それが普通で、彼女の幸せで、この世界の常識だ。
でも、しっくりとこない。
同じだ。私と彼女は同じなんだ。
彼女となら、侑佳さんとなら、私は……。
可能性を否定する。
でも、彼女は望む。
「早紀さん。また写真を教えて欲しいです。貰ったカメラ、毎週使っていますよ。あの頃と比べて断然上手くなっています」
「そうなんだね」
できるだけ淡白に答える。
見たい。教えたい。
何より、彼女といたい。
でも、私は大人だから。私は女で、彼女は女で、
「私、やっぱり早紀さんがいないと辛いです」
「え」
否定して、積み上げてきた防壁が、一瞬で崩れる。
「仕事のことだから仕方がないと思います。でも早紀さんと写真や旅行の話をするのが、一緒にサッカー観戦するのが私の楽しみだったんです。早紀さんといるのが何よりも楽しかった」
そう言って、彼女は私に抱き着いた。
温かい。
「ありがとう、早紀さん」
侑佳さんが耳元で言葉を発す。
「侑佳、さん……」
身体が離れる。
そして、切なさの混じる微笑みを残し、改札をくぐり、去っていった。
私は、動けなかった。
彼女がいなくなっても、ずっとその場に固まったままだった。
理由なんてわかっていた。
「駄目……」
忘れようとした。
福岡にいけばもう会わなくて済むと思った。会おうと思ってもすぐに会えにいけず、心を折ろうとした。
忘れられない。気持ちは揺らがない。
携帯を見ると、写真が送られてきていた。
侑佳さんからだ。
ユニフォームを着た、彼女の写真。きっと今日スタジアムで、自分で撮ったのだろう。
勝った後だろうか、満面の笑みは私の心に、さらなる動揺を与えた。
彼女の声が聞こえてくる気がする。「早紀さん」と優しく、慕ってくれる声が聞こえる。
会いたい。抱きしめられた温もりが忘れられない。耳元に残った言葉が消えない。
「駄目だよ。侑佳さん、侑佳さん……」
彼女の代わりなんていない。
私だってそうだ。侑佳さんといるのが何より楽しかった。
だから、逃げるのはもうやめよう。
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