第44話 番外編 白の憂鬱 中編
道反は他族を寄せ付けないために迷いの森に囲まれており、常人では一生かかっても辿り着くことはできないらしい。志貴の言葉を借りるのなら『宗像でない者は彷徨うか、喰われるところ』だそうだ。
だから、道案内役として志貴が出迎えてくれるのがいつも通りだ。
その案内役が時折意識を失いかけるから、こちらとしてはヒヤヒヤする。
でも、新たなる発見があった。志貴が道を覚えているのではなくて、道反という場所は志貴さえ連れていればひたすらに一本道を歩けば良いらしい。
そして、道反が志貴を拒んでないことに正直ニヤリと笑みが溢れてしまいそうだ。この様子だと王樹も王樹の泉も完全に拒んではいない。
実に中途半端でしかないこの状況はまだどうとでもできると言うことの証明でしかないのに、彼らは『宗像』すぎるゆえに気づかない。
さらに言うのなら、狙われるのは志貴とは限らないのにとため息が溢れる。
志貴を本気で落としにかかるのなら、こんな生半可なやり口ではうまくいかないだろう。
僕が彼女を完璧に抹殺するのなら、一瞬で片をつける。わずかな猶予すら与えてはならないのがセオリーのはずだと思う。
「気づいている人はいなさそうだな」
何がと志貴が僕の顔を見上げてくるが、僕はいいやと首を振った。
平屋の日本家屋の入り口まで辿り着くと、奥から宗像時生が飛び出してきた。
「どこ行ってたんだ!」
どうやら必死に志貴を探していたらしく、いつも冷静沈着で感情の見えない彼の表情が分かりやすいほどに強張っていた。
志貴は時生の声にびくりと体を震わせ、何も言わなかった。
直後、喉の奥に液体が溜まるような濁った音がして、志貴が真っ赤なものを吐き出した。
志貴の名前を悲鳴にも似た声で呼んだ時生があっという間に志貴の体を抱え上げた。
僕にひたすらに礼を言いながらも時生は慌てて奥へ姿を消していった。
「志貴が戻った! みんな、頼む! 急げ、輸血する!」
あそこまで行けばもはや輸血など意味をなさないレベルだろう。
とはいえ、志貴は腐っても千年王だ。多少の体力稼ぎ程度には効果を発揮するかもしれない。
「これ、僕が思っていたよりひどいな」
宗像の中枢にいる連中は誰をとっても他の血族が喉から手が出るほどに欲しい人材ばかりだ。
ずば抜けて優秀であり、とんでもなく手強い人達であるはずなのに、これはどうしたことだ。
まるで統制の取れないパニック状態。
今なら確実に僕一人で宗像をぶっ潰してしまえるほどに脆い状況にも思える。
入れ替わりに飛び出してきたのは志貴の父である宗像泰介だった。
「志貴一人で宗像はこうなるわけですか」
そういうことだと苦しい笑みをうかべた泰介は僕を中へ促しながら頷いた。
奥では慌ただしく志貴の世話をしているらしい時生や公介の声が聞こえた。
双子の妹である咲貴や冬馬の姿もあった。
宗像の中枢が全てここに集まってしまっている。それだけ重大なトラブルということだろうが、道反以外を落とそうとする奴がいたとしたならば好き勝手できてしまうぞと脱力しそうになる。
「泰介さん、正直に言っても怒りませんか?」
どうぞと泰介が足を止めた。その背中に疲労が滲み出ている。
東の雄の名を惜しげもなくいただくこの男すら分かりやすく気落ちしているのがどこか歯痒かった。
「宗像って馬鹿なんですか?」
この僕の言葉にあの泰介が驚いたように目を見開いた。
「僕は部外者であり、宗像の世界観で生きていないから客観的に見ることができる。 あなた方の根本にある考え方を見直さないとドツボですよ。 僕は泰山の主人である以前に白の千年王です。 この意味がわかりますか? 志貴は宗像の主人である以前に紅の千年王です。 僕たちはたまたま泰山と宗像に生まれ落ちたがために、その主人となったに過ぎない。 もっとわかりやすく言いかえましょうか? 僕らはいつでも泰山と宗像を放り出したって問題にならないということです。 そもそも僕らは泰山や宗像のためだけにいるというわけじゃない。 千年王というのは冥界の軸となる異能のことであり、固有の場所に縛られる必要などない」
「それはつまり?」
「完全に切り離されたとて、そこに大した問題は発生しません」
「そこに志貴の意思はなくとも構わないと?」
「本当にわかっていないみたいですね。 もう、良いですよ。 本当にどいつもこいつも平和ボケしている。 どんだけ間抜けなのか。 殺すつもりなら、そもそもこんな甘いやり口はしない」
僕の言葉に泰介がわずかに息を飲んだ。
そう、あなたが一番にそれに気づかないといけないんだ。
泰介が足を止め、唇を指先で押さえて眉を顰めた。
「千年王を狩るのならワンチャンスで絶命しかない。 こんな時間をかけるようなやり口はあり得ないでしょうが。 それに志貴を狩るなら、僕も同時に狩らねば意味がない。 この意味わかっていますか? 千年王が二人並んで、共闘状態でいるのなら片方だけは無意味すぎる。 どちらかが補ってしまいますからね」
志貴が弱ることはあっても、命を落とすまでには至らない。それは僕が同胞としているからでしかないのだけれど。
「仕掛けている輩は僕という存在がいることを十分に理解していますよ。 その上であなた方の弱点が志貴だと言うこともよくわかっている。 つまり、この狩りの対象は志貴じゃない」
「どういうことだ?」
「さて、ここからはまだ話せません。 泰介さん、志貴のことしか見えていない盲目な皆さんを集めてくれますか? その新しい王とやらも全員です。 ただし、志貴と一心さんは外してください。 これを飲めるのなら、僕が善良な魔法使いになりましょう」
高くつきそうだねと呟いた泰介は小一時間後に条件通りの人員をひと所に集めた。
一心の気配が本当にない所を見ると、泰介は一心をきっちりと言いくるめたようだ。
「志貴は目を覚さないように眠らせてある。 一心にはその部屋の外で護らせているから、離れることはできない」
泰介は底意地が悪いなと思いながらも、僕はそれが最も単純かつ効果的な策に感じた。
「それにしても、宗像はもうちょっと頑張った方が格好つくと思うけど」
世界中に恐れられている血族のくせに、何とかしてもっと格好つけろよとほとほと思うことだらけだ。
トップの執務室や最高会議の場、部署別の待機室、迎賓館などありゃしない。
あるのは武器庫、呪符庫、衣装庫、道場、前室と言われる任務待機部屋、各々の居住区域、以上終わりだ。そして、そのどの場所にも鍵がかかっていない。
心地よい井草の香りがする20畳程度の広さの道場が最高会議の場というのかと僕はガックリと肩を落とした。
畳の上に座布団を敷いて、円形に座り顔を突き合わせるのが宗像のスタイルらしい。
泰介、公介、咲貴、冬馬、時生、聡理、そして、『彼女』とその妹という人が一堂に会した。
例の彼女は黒髪に琥珀色の瞳、なるほどと息が漏れるほどの美人だ。
彼女の名前は白川巳貴、歳の頃は20代前半。知的な印象を与える切長の目と整った鼻梁で可愛いというよりはハンサムな女性だ。
女性らしいボディラインに、スラリとのびた四肢はまるでモデルのようだ。
女性として艶が出てくる年齢に達する前に肉体の時を止めてしまった志貴がこの先も得る事のできないものばかりだ。
「これはこれは、また皮肉な感じですこと」
ネガティブ大王の志貴であればご機嫌な程に劣等感を抱くだろうなと苦笑いをしてしまった。
後任者の彼女の方が一般的に見たら一心と釣り合いが取れてしまうからだ。
当事者の一心はこれに全く気づかないだろうが、僕と志貴はそういう所が似ていて、やや女々しい傾向にあるから手に取るようによくわかる。
「でも、まずは思ったとおりだったな」
僕が突然立ち上がって、その彼女の長い髪を手にしたものだから、驚いた彼女は身を後方に引いてしまった。
「千年王相手じゃ、さすがに完璧な移行ができていないわけだ」
きっと僕でないとわからない事実だ。
志貴の髪色は塗れば烏、深淵の闇より深い黒だ。だけれど、巳貴の髪は夜明け前の濃紺に近い黒だ。
ぐいっと顔を覗き込むと、琥珀色の瞳も色の深さが異なる。
志貴が深いアンバーであるのに対し、彼女は透き通った柔らかいアンバー。
「君も抵抗してみているわけ?」
当たり前だろうと大声を上げた彼女の目に大粒の涙が浮かんでいた。これにはさすがに驚いた。
「どうして私が宗像の至宝の今を奪わねばならない? そんなもの望むはずがない」
唇を震わせて、涙いっぱいの彼女に嘘はないだろう。
だけれど、巳貴は王のスペアとなりうる肉体を有している。志貴の代にこの役割が振られるという段階で恐怖の対象とも言える。
「それでも相手が志貴では仕方ないか」
志貴は宗像のよくある王の一人とは言い難い。つまり、桁違いの能力ホルダーであるため、そう簡単に持っているものを移行できるとは限らない。
「でも、出来るようになったことが爆発的に増えたはずだよね?」
僕が害する意志を持って首筋に手を伸ばすと、わかりやすくそれを避け切ることができる。
本人も驚いているようだけれど、底上げしている何かが流れ込んできている。
志貴相手ならこんなことはしないのだけれど、別に何とも思っていない彼女には平気にしてしまえる自分が嫌いになりそうだ。
不意に足払いをして彼女がバランスを崩した瞬間にその右肩を踏みつけた。
さて、どうしようかね。
大剣を手に呼び出し、首を落とそうと振り上げてみる。
「おやおや、何より大事な志貴を放置して飛び出してきちゃいましたか? あ〜、それ我慢ですか? 唇から血が出てますよ。 悔しいのに、動いちゃうんですか。 なかなかに哀れですね」
朔の危機回避能力とはお見事だな。
僕の大剣の刃を手で握り締め、巳貴の体を自分の体の後方へ下げている。
でも、一心は唇を噛んで必死にこらえている。心と体のしたいことが一致しないのだろう。
「こいつを護りたいわけやない」
「そんなこと、皆、知ってますよ」
僕はパチンと指を鳴らした。
室内に小さな竜巻が起こり、体長3mはある白鷹が眠る志貴を抱えて姿を現した。
一心の目が大きく見開かれ、みるみる顔色が失われていく。
何かを言おうとして一心の言葉は喉の奥でかき消された。
「この先、僕レベルの輩が意図して動けば、あんたはこういう手法を取られる度に志貴に手を出されるって証明ね」
僕は白鷹に一つ頷くと、すぐそばにいた泰介に眠る志貴をそっと預けた。
「これは宗像全員に言っておきますよ。 今回、僕はまんまと志貴を廃せたんですよ、わかりますか? 僕だから信用しましたでは済まないんですよ。 志貴さえ手に入れば宗像は必要ないって僕が思えばどうなっていたと思いますか?」
音もなく気配も悟らせず、槍の先が僕の喉首数センチで構えられている。目にも取らまぬ速さは圧巻ではあるが、冬馬では僕を傷つけられない。にっこりと笑んで、それを指先で押し返すと、冬馬が盛大に顔を顰めた。
背後では公介と咲貴、聡里までも2段目を構えてみたようだけれど、僕はふうっと息を吐いた。だんっと畳を足で蹴りつけると僕の封印陣が彼らの動きをさらりと押さえ込む。
「せめて、冬馬くんと同時に来ないとね。 やめです、やめだ! はい、ここまでね。 僕は志貴にだけは嫌われたくないので、宗像の敵にはなりませんよ。 でも、もうちょっと危機意識は持ち合わせた方が良いですよ。 今の宗像はあっという間に潰せちゃうから」
「宗像の存続なんか興味ない」
ゆらりと一心が立ち上がった。
今すぐにでも朔の役割を解きやがれと抑揚のない声で独りごち、一心は尻餅をついたままの巳貴をきつく睨みつけた。
「お前が宗像の新しい王なんやったらさっさと俺を手放せ」
「私だってそうしたい! 朔に致命的なダメージがあって次が立った例はあると聞いたが、健全な朔を捨てた王の前例がない。 手放して、あなたが死なないという確証がないんだ。 死んだあなたをお返しするわけにはいかない」
確かに、彼女のご意見はごもっともだ。
だけれど、僕は彼女にある疑問を抱いてここにいるんだ。
「千年王の番の縛りをどうしてたかだか宗像の王とやらが超えられたの? あぁ、一心さんはちょっと黙っておいてね。 さて、僕が聞きたいのは君だ。 新しい王とやらさん、君はこのバグのような現象をどうして起こせたの?」
僕がバグと言葉を口にした瞬間に、目の前にいる一心の顔が一気に凍りついた。気づいたか。ようやくかよと僕は半笑いだ。
「志貴の記憶を読んだんだけど、王がスイッチしかねない瞬間、志貴は確かに一心さんから離れてくれ、やめてくれと叫んだはずだ」
志貴は本物だから、システムの内容を把握していなくとも違和感があったのだろう。
『彼女』が一心のそばにいるのを本能が拒否して声高に叫んだのだ。
突然、離れろ、嫌だと叫んだ志貴に周囲は驚いたことだろう。
一心は首を傾げて、大事には思っていなかったそうだ。でも、志貴は身を震わせて、真っ青になりながら嫌だと悲鳴を上げたものだから、流石にその場が一瞬凍りついたらしい。
全身汗びっしょりになるほどに震えた志貴を案じて駆けつけようとした一心の肩を掴み止めたのはこの巳貴だった。
怪訝そうにその手を振り払おうとした一心がその場に膝をおる。
痛いと胸を抑えて、志貴が意識を失ったのがほぼ同時だった。
志貴は髪の色を失い、巳貴がその色を奪った。
ここに来て、初めて、宗像の連中はあり得ない事態が起こったのだとようやく把握した。
「お前、志貴が制止をかけていたのに、どうして動けたんや?」
一心の眉間に深く深く皺が刻み込まれた。
そう、そこだよ。それが謎解きの糸口だ。
「一心さんの言うとおりだよ。 宗像の地にあって、宗像の人間しかいない場で、最も言の葉の縛りが強いのは志貴なのに、君はその声を無視して動くことができた。 困ったちゃんだねって言って済ませられる問題じゃない。 僕のように同等であれば話は別なんだけれどね。 だから、君は何者なんだってことだよ」
僕がため息まじりに呟くと、確実に何かに気がついた時生が舌打ちをした。
そして、こともあろうに彼女の首を片手で掴んでもう一度、畳に押し付けた。
当然、一心の意思とは無関係に時生の腕の骨を砕いてしまいかねないほどの力で掴みにかかる。
「これではっきりしたじゃないか。 宗像の王と朔に心の交流など不要みたいだね。 役割から愛しい気持ちは生まれないらしい。 しかしながら、器と中身は一致していなくても役割を果たしてしまうとは実に哀れな支配関係だね。 さて、無駄話はそこそこにして、聞いておきたいんですけれど、宗像には憑依師って便利な者がいるんだろう? もうお気づきですよね? この事態を引き起こしたのが誰であるか」
「私はただ妹と白川の新しい跡目になることのご挨拶に来ただけだったんだ!」
彼女の訴えを聞くにあたり、僕には知る由もない志貴が王として立つまでの宗像の戦いがあったようだ。その最中に巳貴の兄が亡くなったそうだ。
志貴を護るために全勢力を尽くして戦って命を落とした白川家を労う意味でも、次の跡目となる二人の面会を許可した場で起きた悲劇だったらしい。
「一心さんを見て、自分のものだと思った?」
僕の問いに、彼女は本当にわからないんだと首を振った。
嘘だなと僕が言葉をこぼすと、みるみるうちに彼女の顔色が蒼くなる。
「記憶はあるはずだ。 しっかりと思い出してごらんよ。 それとも、そうだな。 例えば、誰にいじられた?」
僕がこめかみを指でトントンと突いて見せると、巳貴が息を飲んだ。
思い当たる節があると言うことだ。
「どんな景色がそこにあるの? 泰介さん、時生さん、彼女の頭を覗くべきだ。 それとも僕が見ても良い?」
泰介と時生がほぼ同時に首を横に振った。
この二人は確実に気がついたな。
「一心、可能な限りの全力で防御してしまわないようにこらえろ。 できるか?」
泰介は公介に眠ったままの志貴を預けるとゆっくりと立ち上がった。
「白川天音、現存する最強の憑依師は君なのだそうだね。 君の姉の無実を証明するためだ。 力を借りれるかい?」
天音と呼ばれた線の細い女性がゆっくりと顔を上げた。
そして、泰介の方ではなく、時生の表情を伺うように視線を動かした。
「天音、ここにいる面々に晒したとしても君だけが受け継いでいる白川の秘匿呪法は護られる。 大丈夫だよ」
時生がゆっくりと頷くと、ふわりと柔らかい微笑みを浮かべた天音は巳貴の方へと視線を動かした。
「格上に潜るのは初めてです。 だから、もしも失敗した時は私の身体を焼いてください。 そうすれば私が姉を内側から殺して連れて逝きます。 この先、解決方法がないのなら、私はそうするつもりだったんで、あまり気にされず、サクッとお願いいたします。 時生さんになら、殺されても悔いはありませんから」
これには流石の時生も真剣に困ったような表情を浮かべている。
「正直なところ、白川には別命が口伝で受け継がれてきているのは知っていましたし、兄が亡くなる前にそれを託されたのは姉ではなく私だった。 ずば抜けた才のある姉が選ばれなかったのは『選べなかった』からで、その理由を考えておくべきだったのです。 姉は憑依師ではなく、白川には稀にしか生まれない召喚師。 召喚師は宗像本家の十八番。 思い返してみても、隠し宗像の血筋を我が家が姉妹として預かり育てていただけのことで、名前にもしっかりと示されていたと言うのに何一つ疑ってこなかった。 兄が姉をデビューさせず、何かと理由をつけて外に出さずにいたわけを私が踏み込んで確認しておくべきだったんです」
天音が巳貴ににっこりと笑んで、一言だけつぶやいた。
「私は裏を選べない」
ぞくりとさせるほどの冷たい言葉に僕は天音の横顔に釘付けになった。
だが、次の瞬間、彼女の姿はどこにもない。
視界から消えたのだとわかり、息を飲んだ。この僕が見失ったのだ。
宗像は本筋でない系統にもこれだけの異種を抱えているというのかと首筋がヒヤリとしてしまう。
「頼む、俺をおさえ込んでくれ!」
一心の切ない声に、冬馬と時生がはがいじめにしておさえつけた。
一心も保護すべき相手を何とかして護らないように抵抗している。
馬鹿みたいに唇を噛んでいるから、血がこぼれ落ち、一心のその目は血走っている。
巳貴の目がひたすらに苦痛を訴えるように見開かれ、四肢を激しくばたつかせているのを泰介が押さえ込んでいる。
女性が目の前でとんでもなく苦しそうなのに、僕ときたら平然とそれを見てしまっていて、ほんの少しだけ嫌気がさした。
だから、僕は離れた場所にいる公介のそばへ歩み寄ることにした。
「志貴がその気になれば腕力でこじあけて、取り返せると思うんですけどね」
公介が苦笑いして、深いため息をついた。
腕の中で眠る志貴の方へ視線を落とし、公介は何かを言いかけてやめた。
「僕はたぶん志貴にしか感情が動かないんです。 育ちが悪いんで、誰が死のうがそんなに簡単に心が乱れることはない。 僕はそもそも志貴が思うような善良な人間じゃないんですよ。 でもね、志貴が悲しむ姿は僕も見たくないんです。 だから、いざという時は僕が魔法をかけますよ」
公介が優しく笑んでこちらを見る。
どことなく志貴と似ている目元だから、ほんの少し気恥ずかしくなる。
顔をつき合わせるのも面倒になり、胡座をかいて、どういうオチがつくのかを見守る。
「一心が狙われたってことを見せようとしたのか?」
公介が唐突に僕に聞いてきたから、それに僕は一つ頷いた。
「僕が一番怖いのは志貴じゃない。 どうしてかわかりますか?」
「千年王同士の殺し合いは不毛だからか?」
「そう、そもそも決着がつかないんですよ。 死に難い者同士が無限試合を繰り返すことになるだけだしね」
「首を落とせば死ぬだろう?」
「千年王の首を互いに落とし合えると思います? どこかのタイミングで飽きるに決まってる。 だけど、千年王が注意すべき対象は確実にいる」
「それが一心だと言いたいのか?」
「一種の勘のようなものなんですが、彼はおそらく僕にとっては鬼門中の鬼門のような存在のはず。 僕は僕自身の弱点を晒すわけにはいかないから何がとは言わないですけれど、千年王であればまずは彼のような存在を自分の周囲から弾きますね。 だから、彼をはめた奴の考えそうなことならよくわかる」
恐ろしく頭の回る奴が仕掛けていることは明白で、これは志貴が生まれてくる前から周到に準備を進めていたはずだ。
「志貴は千年王なのに、そんなもんをそばに置いて置けるのか?」
公介の言葉に僕は思わず吹き出してしまった。
「それこそが千年王の頂点にいる紅の強烈なお馬鹿ぶりの証明ですよ。 最大の脅威を最大の防御壁として備えているのは実に天晴れだけれど、一手間違えば与えられた時間もパワーも全て失う。 それでも、素知らぬ顔してハイリスクをハイリターンに変えてしまう紅が心底怖いですよ」
「ハイリターンってどう言うことだ?」
「うまい言葉が見つからないんですけどね。 僕らは月の光みたいなものでしょう? 陽の光の下では何の価値もない。 さらに言うなら生きている物には手を出せないし、出す意味もない。 これが僕らの世界の境界線です。 その境界線の向こう側に居かねない波長を持っている人間が時としてこちらに紛れ込んだりする。 宗像一心が一人だけ色が違うと感じたことはないですか?」
公介がいいやと首を振る。
「そこが彼のいやらしいところです。 おそらく、彼は志貴を超えようと思えば超えられますよ。 それなのに、彼は絶対に超えはしない。 志貴に己と違うのだと認識されたくないから、何も語らずに終生本気を見せはしないでしょうね」
志貴を超えられると言った僕に向かって、紅より上がいるのかと公介が首を傾げた。
「僕らの境界線の内側には志貴を超える者は現存しないはずです。 だけど、境界線の向こう側はわからないというようなニュアンスで解釈していただけたらわかりやすいかと」
「言葉遊びに煙に巻かれたような気がするよ。 でも、何となくわかったと言うより、腑に落ちたような所はある。 志貴が朔として一心をそばに置いていてくれるから、敵にまわるイメージはゼロになったが、朔だとわかる前の一心は扱いづらかったから正直敵に回ったら厄介だなと思ったことはある」
「それが普通の感覚ですよ。 身内ですらコレなんですよ? 彼を迷惑に思う輩の気持ちになってみてください。 それこそ、宗像一心を『朔』という檻に閉じ込めておかないといけない理由になる。 彼がその檻を愛おしく思ってしまうように仕向けて牙を削ぎ、ゆるゆると飼い殺し、檻に閉じ込められたままの最大の脅威を赤子の手をひねるより簡単に縊り殺す。 実に最高のプランニングでしかない」
「その言い方、嫌な響きがあるぞ。 でも、千年王の志貴を殺さない理由は?」
「彼を殺し切るためのただの優しい檻扱いか、彼から取り上げて見せることで屈辱を与えるための代物か、それとも単純に愛しいゆえに生かすか。 どれをとっても気色悪い思考でしかない気はしますけどね」
「どうしてそこまで思考が読めるんだ?」
「わかりませんか? これを仕掛けているのが千年王の誰かだからですよ」
えっと公介が声を上げた。
「それも僕以外の千年王。 腹立たしいことですが、僕も利用されてるんです。 志貴を殺されたくはないみたいで、僕にそれだけは回避させようとする。 全く癪に障りますよ。 僕はそれがわかっていても動かざるを得ないんだから」
「でも、楼蘭がここでヒントを与える動きに出たらターゲットである一心を殺せないじゃないか」
「だから! そこだってば! 宗像に本当の敵が誰かを晒し、一心さんに目を覚ませと暗躍しておる奴もいるってことですよ。 はめようとしている奴と警鐘を鳴らしてリカバリーさせたい奴がいる。 あくまでも僕の推測でしかないけれど」
「後者はこれから起こり得る悲劇を先に学習させようとしているのか?」
「御名答。 おそらく、今起こっていることが全て真実の敵が起こしたことであれば、一心さんはもう死んでます。 一心さんを失った志貴は容易く手に入るでしょうしね。 それに、そんな重大局面にわざわざ僕を立ち会わせることなどないでしょうよ」
始まりはおそらく真実の敵が起こしたきっかけだったろうが、それを横取りしてワクチン代わりにすり替えた上手がいる。
先を読んで動いたと言うよりは時間軸をいじれる奴がいると思った方が良さそうだ。
そう思ったのは、巳貴の髪と瞳の色が完全に移行していないとわかった時だ。
そして、今、目の前で起きていることの全てが後の宗像を護る術を示していると気がついた。
「朔がなくとも千年王が立てること、紅の千年王の潜在能力を朔に限局せずに他にも譲り渡す必要があること、宗像が滅ばぬように裏の血筋が眠っていること、白川には強烈なお家芸のある血を持つ者がいること、朔と王のシステム自体がリスクになり得ること、そして、宗像一心だけは奪われてはならないこと。 どうします? これだけの情報量を誰かが手段を選ばずに急いで教えようとしていたとしたら僕はそれこそが緊急事態だと思うんですけれどね」
公介の額に脂汗が浮かんでいる。
ようやく事の重大性に気づけたのだろう。
「全ての糸はおたくの始祖とも言われている蒼の王に繋がりそうですけれどね。 蒼の千年王が築き上げたこのシステムは本当に有益ですか? 僕からしたら宗像の王は皆マリオネットでしかない」
僕はもう一度ゆっくりと視線を前方へ戻した。
巳貴の身体がぴくりともしなくなり、呼吸を止めたかのように見えたからだ。
「天音、もう良い!」
時生が宙を掴むように手を伸ばすと、空間から顔面蒼白になった天音の身体がこぼれ落ちてくる。
それを両腕で受け取った時生が泰介に視線を戻すと、泰介が巳貴の額に置いていた指を離しゆっくりと立ち上がった。
あの泰介が苦渋に歪んだ表情を浮かべている。
いや、これは激怒に近い表情なのかもしれない。
「システムの壊し方を考えよう。 事あるごとにこうまでも勝手をされたらたまらない」
泰介が見たものは想像にやすいなと僕は頬杖をついた。
一枚岩に見えた宗像にも獅子身中の虫がいるようだ。
何色だと僕が問うたら、泰介が苦虫を噛み潰したような顔をして一言だけ蒼だとつぶやいた。
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