第40話 番外編 Happy Valentine「一心の場合」

 縁側で穏やかに茶などを飲んでいたはずの泰介の背中が急激な怒りに満ちている。

 だいたい想像はつくが、こちらもいたたまれない気持ちになる。

 冬馬に何となくきいていたが、今日は咲貴を連れてお出かけらしい。

 咲貴にはっきりと伝えるとか何とか、言っていた気がする。

 それが泰介の耳に入ったのだろう。間違いなく、それが原因で娘命の男の背中に狂気的な怒りがにじみ出ている。

 やめとけと思うのに、志貴が空気を読まずに泰介のもとへ歩み寄り、スマホの画面を横から覗き込んでいる。


「泰介さんさ、趣味悪くない?」


 おいおい、魔物に向かってなんてことを言うんだと、俺は息をのんだ。


「デートの邪魔しちゃだめだよ。 咲貴に本気で嫌われるよ?」


 志貴の無敵っぷりは尋常じゃない。泰介がどれだけえげつない大人であるのか理解していないというより、本気でわかっていないだけなのだろうが、言葉を選んでくれよと切に願ってしまう。


「咲貴からショックだってLINE来てたよ。 泰介さんが邪魔するって」


 泰介がえっというように志貴の顔を見上げている。


「どういうことかな?」


 もう勘弁してくれと見ているだけの俺が肝を冷やすほどの泰介の口調にも、志貴は何一つ思わないのか平気そうな顔をしている。


「これ、マジで娘に嫌われちゃうやつ、はい終わり!」


 志貴は泰介のスマホを取り上げる。

 そして、こちらへきて、はいっとこの俺に大魔王のスマホを預けてきた。

 おそろしい視線はこちらにも向かっているという自覚はないのか、この阿呆と志貴をみると、まったくわかっていない天然ぶりで小首を傾げられた。これで、俺が間違いなく標的になる。胃がきりりと痛んだが、小悪魔のしりぬぐいは仕方ないかと肩を落とした。


「一心、君はどう思う?」


 泰介の静かで、粘着質な視線がまっすぐにこちらへ飛んでくる。 

 ほら、来たじゃないか。わかっていたのだが、来てしまったじゃないかと脱力してしまう。こうなれば、もう、何を聞かれても、優等生回答のみだな。


「冬馬がさ、まだ大学生の分際でさ。 僕の娘の一人を連れて東京へお泊り旅行らしいんだよね。 どう思う?」

「冬馬だし、大丈夫では?」

「何が大丈夫なの?」


 身も毛もよだつほどの冷気。泰介は本当にヤバイ奴だ。サイコさんだぞ、この父親。助けろと志貴に目をやると、志貴はニコニコして時生のチョコレート作りをみているだけで、こちらを向こうとしない。


「あ~、そうだ! 志貴、みんなでディズニー行ってみようではないか?」

「変な言葉遣い。 一心、急にどうしたの? ディズニーランドとか行くようなタイプじゃないのに、頭でもうったの?」


 志貴が怪訝そうにこちらを振り返った。いや、俺がおかしな行動をしているのはそもそもがお前のせいだろうがと軽く目配せをしたが、志貴はまたそ知らぬふりで時生のチョコレートにナッツを投げ込んで楽しんでいる。


「つべこべ言うな、志貴! ほら、チョコレートより、初めてのディズニーランド行こうじゃないかい? 行ってみたいって言ってたやろ?」

「いや、行かないよ。 どうして今? このタイミングは邪魔しに行くだけやんか」

 

 真顔で志貴がいやだと舌を出した。


「行ってみようよ~、志貴くん!」


 このバカ、頼むから行くって言ってくれ。志貴に背を向けている泰介の般若の相は俺だけにしか見えない。戦慄が走るほどの威圧を受けているんだぞと志貴に目配せするが、彼女はふいっと顔をそむけた。


「ほら、俺が連れて行ってやるって言うてんやから!」

「なんか、それ、いやや」


 志貴め、そんな返しをしてくれるな。

 俺とてやりとうてしているわけではない。


「いやぁ、大人の一心が引率してくれるなら安心だよね。 志貴、初ディズニーだって、行っておいでよ」


 泰介の顔には今すぐにでも行って邪魔してこいと書いてある。

 志貴はその泰介の圧をものともせず、邪魔はしないと宣言して、ついには居間から出て行ってしまう。

 取り残された俺と時生は苦笑いだ。

 ここからはまさに生き地獄。双子の父親がいかに悪夢のような強さを博すかを俺達は知っている。

 そこそこに可愛い娘が二人も居るってのは父親として本当にうかうかしていられないよねと俺をぎろりとみてくるあたり、先がおもいやられる。


「泰介さん、ほら、Valentineだし、今日、富貴さん来るんでしょう?」


 何としても話題を変えたい時生が言葉を絞りだしたらしかった。

 だが、泰介は無言のままだ。

 悪鬼にだってこんな汗をかいたことがないのに、泰介の静かなる威圧は半端ない。

 嫌な汗が首筋を流れ落ちていく。


「ほら、早く、空港へ迎えに行ってあげないと!」


 今度は俺が腕時計をみせてみる。

 泰介はそうだねと静かにうなずいた。

 そして、ようやく玄関へ向かって歩き出してくれた。

 これで、安心だと一息つこうとした瞬間、泰介がくるりと振り返った。


「ねぇ、一心は大人の男だよね?」

「はい、もちろんです!」

「朔ってだけで、何でも許されると思わないことだよ?」


 おっかなすぎるくぎを刺された。今日一番に笑えない。

 先日、イチゴパフェを食べに行っただけで、じわりと詰問された記憶が新しい。


『志貴にはまだ悟らせないことだよ』


 怖すぎるメッセージだ。

 お前、可愛いわんこにじゃれられる程度にしておけよと言われたみたいなものだ。


「君も男なのにねぇ、それも若い男なのにねぇ」


 時生に心底憐れまれ、俺は肩を落とす。

 はい、と時生から小さな包みを渡された。


「何、これ?」

「志貴が朝から作っていたチョコレート。 作って終わりだって言って捨てようとするから、今年も僕が食べるから置いておいてとお願いしておいた」

「おい、ちょっと待て。 何がどうなったら、そないな展開になるん?」

「はぁ、君はやっぱり気づいていなかったのか。 こっちへ来て、一心」


 時生に促されて、続きの間へ足を踏み入れた。

 段ボールにはチョコレートの箱が山積みだ。


「段ボール3箱分が一心宛て、後は泰介さんと僕宛で1箱」

「あんだけようわからんチョコレートは食わないってわざわざ言ってんのになんやこれ」

「無駄みたいだね。 身内からもただならぬ人気の君には毎年、高級なチョコレートが段ボールいっぱいになるくらい来る。 もちろん、身内外からもだけれどね。 今年もご覧になった通りこんなにある。 今朝、この山を見た志貴は大ため息」

「待て待て、そういえば俺、志貴からもらったことないわ」

「君はチョコレートを食わないと宣言してらっしゃるわけだからねぇ。 志貴は渡せるわけがない。 それにさ、宣言してるくせに去年、君、ひとつだけチョコレート食べただろう? 君のことだ、どうせ微塵も覚えてないくらいだと思うけど、志貴はそれをちゃんと覚えてた」


 時生に言われて記憶を探るが、どうにも出てこない。本気で困惑するしかない。


「去年も志貴はチョコレートを作ってたって知ってたかい? 公介さんのところへ行って一生懸命作ってきたのに、そのチョコレートは君の所へは届けられず、僕の所へ来た。 何でだと思う?」


 去年のValentineの夜は志貴が高熱を出して、慌てて王樹へ向かった記憶しかないが、はっとした。


「万智が来てた時に、志貴がその場にいたってことか?」


 ご名答と時生はうなずいた。

 万智というのは俺の幼馴染で、同級生。遠縁にあたる黄泉使いだ。


「元カノでしょうが?」


 時生に図星をつかれ、俺ははぁとため息を漏らした。

 俺と志貴には10歳の年の差がある。

 いくら朔の俺でも、この年齢差は埋めることができない。


「そりゃ、どうにもできんだろうが」


 時生と志貴は稽古を済ませた後、外でお茶をしていたらしい。そこで俺と万智をみかけたというわけか。時生は一応は止めてみたが志貴はどうにも気になり後を追ってしまったのだと苦い顔をした。


「思い出した! チョコレート、万智が持ってきたんだった。 久しぶりだなって話して、ちょっとそれをつまんだ気もしたり、しなかったり?」


 それだけしか覚えてないのかと、時生が小首を傾げるから、俺はもっと不安になる。まだ何かあると言うのだろうかと俺が今度は首を傾げた。


「一心、君はどうでも良いと本当に記憶をすぐに消去してしまうんだねぇ。 ある意味で才能だけど。 まぁ、良いか。 じゃ、はい、これを見て思い出しなよ」


 時生は指先で水鏡を描く。

 その中には一年前の俺と万智がいる。

 万智はこんなに俺に近寄っていたのかとあらためて驚くほかない。


「ねぇ、一心。 黄泉の鬼ってさ、黄泉との境界を護る役割より、女王の子守りが大事なんでしょう? つまらなくなったら、いつでも相手をするわ」

 

 映像を見て、愕然とした。

 キスされたことも完全に覚えていなかった。

 俺は万智の話を半分も聞いていなかったというか、興味がなかったから適当に流していた。

 何の魅力も感じなかったし、朔になったことを悟られたくなかった。面倒だな、早く終わらないかななんて考えていた気しかしない。

 故に、万智が何をしてきたかなんて全く気にも留めていなかった。

 だが、さすがにこれは罰が悪い。


「これを見たと?」


 大人成分の多い万智のこのキスは少女漫画には登場しないクラス。

 俺は本当に何の気にも留めていないし、外国のあいさつ程度で流したから記憶にも残ってはいないものの、恋愛幼稚園児の志貴への精神的な打撃としては強烈だったことだろう。


「これはショックのあまり高熱を出してダウンした志貴の記憶から引き抜いておいた映像。 でも、志貴は今年のチョコレートもゴミ箱に捨てようとするから、どうしてときいてみた。 そうしたらさ、一心は一つだけチョコレートをもらう人がいるだろうからやめておくって言うから」


 時生が胸の前で腕を組んでうなった。


「その一つって誰なのってきいたら、わからないけど、居ると思うって。 流石、女王様。 映像は引き抜いて、事実をもみ消したのに、心に残った感覚は記憶されたままってわけ」


 時生も察しているのか、俺をさらに深く憐れむような眼で見た。


「志貴には君の人生を縛ったという負い目がある。 どうしたって、その負い目はぬぐえない」

「俺はあいつの朔やぞ?」

「それを誰よりも明確に理解しているのは志貴だよ。 朔だから、そばにいる。 朔だから、そばにいなくちゃいけない。 これが志貴の思考だよ。 だから、君に甘えていても、じゃれていても、好きだ、好きだって騒ぐだけで止める。 それに、壮馬さんの最期を彼女は知ってるしね」


 それを言われてしまうとぐぅの音もでない。

 縛りが破滅を呼んだ結果を見たのは俺も同じだ。


「志貴は他にもまだ何か言ってた?」


 俺の問いに時生はほんの少しだけ、目を伏せた。


「この先も、自分が眠る時まで朔としてそばにいてもらわねばならないのは本当に申し訳ない。 だから、一心が誰かと幸せになるのなら私はこらえるってさ」


 時生から聞かされた志貴の言葉に体中から力が抜けるってこういうことを言うんだなと俺はその場にしゃがみこむしかなかった。


「本当の阿呆やな、アイツ」


 志貴は明後日の方向に大きな誤解をしている。恐ろしいまでに伝わっていない俺の悲しいほどに蓄積したままの愛情。


「今年、楽しそうにチョコレート作りしだしたからホッとしてたんだよ。 よかったなぁって。 でもさ、出来上がったら涙ぽろぽろ流すから、これはもうだめだなぁって思ってさ。 志貴との約束を反故にして君にちくることにした」


 時生が椅子にすわって、コーヒを口にしながら苦笑いした。


「一心が志貴を大事にしてるのは周りはわかってるんだけどね。 志貴からすれば、その大事にされている理由は『王だから』でしかない。 もうそろそろ形をかえるべきかなって、僕はそう思うんですけどね。 そこに居るんでしょう? 泰介さん」


 はっとして振り返ると、障子の後ろから泰介がひょっこりと姿を現した。

 俺は志貴がからむとこんなに無防備になるのか、背後にあった気配すらわかっていなかった。どこから聞かれてたんだと、背筋が凍る。


「本気で泣いちゃってますよ、志貴。 嬉しそうに作ったチョコレートをなかったことにしちゃうほどに追い詰められていますけれど? 愛情の形をもっと志貴にわかりやすくしてあげないと、壊れちゃいますよ。 愛娘を他の男にやるというお腹立ちは良く分かっているつもりですけどね。 結局、志貴には一心を除いて誰もいない。 それに、もうご存じでしょうけれど、志貴はそれでなくとも、このところ不調続きなんですよ。 だから、何を言われても外出をしないんですよ? 今回だって、ディズニーへ本当は行きたかったかもしれない。 でも、外出したら迷惑をかけるかもしれないからとやめるんです。 せめて、心だけは安定させてやりたいと僕は思ってるんですけれどね。 まぁ、僕は志貴の味方なので、いつでも、さらっとあなたの敵にまわるつもりでおりますけどね。 近い内にこうして一度伺うつもりでしたけど、そんなに一心を信じられないですか?」


 時生はむんっと口を一文字に引き結んだ。

 泰介は舌打ちをして、俺を見た。その目つきはとても正真正銘の甥に向けられたものとは思い難く、苛烈だ。


「信用しないわけじゃない。 どうせ最終的には一心しか救えないこともわかっているつもりなんだけどね。 『朔』は馬鹿だから、優先順位を間違う生き物だ。 己の王のためになら、理など二の次、黒魔術すら厭わない。 とどのつまり、志貴が堕ちたら、君はちゃんと殺せるのか?」


「俺が志貴を殺す!?」


 志貴を殺せるかという質問自体が俺にとっては耐えられんことだ。 その質問内容を詮議するだけで吐きそうになる。


「わかりやすく、そんな風に狼狽するような君だから、ダメだと言ってるんだよ。 僕は親だから、志貴が堕ちたのなら志貴の命を迷わずに絶つよ」


 泰介は真顔でとんでもない言葉を口にした。

 愛娘であっても殺すと断言する泰介を俺は思わずにらみつけていた。

 俺の中の本能が敵と認識している、そんな感覚に囚われる。


「志貴が罪穢れにまみれ、登貴のようになる前に、きっちり殺せる覚悟はあるかと聞いてるんだ。 それができる奴じゃないと志貴を本当の意味で護ってやれないってことはわかるか? 今、泣いていたって構わないさ。 中途半端な奴と添わせる方が後の不幸というもの。 それに、朔が人生のパートナーである必要もないからね。 何なら、鴈楼蘭の方が僕からしたら君より安牌だよ」

「鴈楼蘭が志貴のもしもの時に首を狩れるとでも?」

「少なくとも君よりは迷いは少ないと思っているけれど?」


 泰介にいちいちむかっとくることを言われるが、俺の中でもわずかばかりの迷いがあったことをはっきりと自覚した。

 志貴の首に刃を立てるイメージをするだけで、血が逆流してきておかしくなりそうだ。

 壮馬に襲撃され、志貴の首を落とされかけたあの瞬間を思い出すだけで、今でも震えがくるのに、どうしたって無理だろう。


「俺はやっぱり志貴に手をかけることはできん。 自分の手で命を奪うことは無理やと思う。 だから、志貴が堕ちきる前に、俺が自分の首を斬ります」


 時生と泰介が驚いたような顔をして俺を見た。

 俺は何かおかしなことを口にしただろうか。

 朔という俺の身体に刻まれたプログラムは王と一蓮托生だ。俺が死ねば、志貴はもう長く生きてはいられない。死への一方通行のプログラムが走りだすことになる。


「俺が死ねば志貴も死ぬ。 でも、痛みや恐怖を味わうことはないままで済む。 俺にはそんなやり方しかできんけど、それでも不満ですか?」


 志貴の首に刃を立てることはできないが、俺は自分の首になら躊躇なくできる。

 それなら問題ないじゃないかと思った。

 泰介はすんなりと納得している感じはしないが、しぶしぶ認めようとしている、そんな感じだ。


「女関係は綺麗にしただろうね? まぁ、不穏な因子があれば僕が速攻で抹殺するだけだけれど?」


 ぞっとする物言いの泰介だが、俺には他に誰かをつくる必要もないので、どうぞどうぞという感じだ。


「全く嫌になるよ。 志貴は志貴で問題児の君だし。 咲貴は咲貴で心に闇を抱えたままの冬馬が良いと言う。 本当に面白くないよ」


 問題児といわれるのは不本意だが、言い返すのも面倒になりだんまりを決め込んだ。

 泰介は今度こそ、空港へ迎えに行ってくると背を向けた。

 好きにしろってことかなと時生と顔を見合わせた。


「お嬢はどちらへ?」

「道場かな? 僕の目がない時間は、槍を振り回しているんじゃないかな? 本当はまだ闘いたいんだろうなと思うよ。 以前と同じように出て行きたいんだろう。 でも、槍を振り回す度に考えてもいる。 穢れ、倒れたら、どれだけの人間に迷惑をかけるのかって。 あのね、一心、黙っていたけど、君の不在をよいことに、志貴の馬鹿たれはこっそり悪鬼を祓いに単独で出たんだ」

「それ、3日前か?」

「やっぱり気づいてたのか。 そう、3日前の夜だ。 わかりきったことではあるけれど結果は吐血。 Sランクの悪鬼1匹のわずかな返り血程度で吐血だ。 勝負は圧勝するのに何でだって志貴は怒り狂っていたけど、同時に理解したはずだ。 まぁ、それをわからせるためにわざと泳がしたのだけどね」


 時生がゆっくりと目を伏せる。

 志貴の現状はもう闘えない。闘ってはいけないのが王なのだ。

 一番強い奴が一番穢れに弱い。故に、最強は最前線にはでられない。最強なのに、最強であるその能力を示すことはできない。


「ままならんな」


 女王となった志貴は穢れに弱くなったせいで、これまでの闘い方から大幅に変更せざるを得なくなってしまっていた。

 ストレスがたまるという言葉では片付けられない苦痛だろう。


「黄泉使いとしてのアイデンティティは崩壊しているだろうから、君が抱きしめてやるしかない。 たぶん、志貴は今、自分に何もないと錯覚している頃だろうから」

「お師匠様の言葉は重いな」


 師匠であった公介は最前線向きであるため、現在の志貴には不向き。泰介も同様に不向き。当然、俺も不向き。

 そうなれば、後方支援向きの時生が二人目の師匠として立つことになる道しか残されていなかった。

 槍を振り回して生きてきた志貴から槍を取り上げ、術を使いこなせと示す時生はそばにいる時間が長いだけあり志貴の心の機微を感じ取るのがうまい。


「もう少しかかるとは思うけれど、別の方法を完璧に身に着けさせてみせる。 それが成るまでは何とか持ちこたえさせて欲しいんだ。 ようやく強くなれたのに、ようやく皆に認められたのにって繰り返される悲しい言葉を何とかしてあげて欲しい」

「承りました。 とにかく、探してくるわ」


 俺は時生から渡された小さな包みをもって道場へと向かう。

 母屋の裏からの渡り廊下を通り過ぎ、庭園を右にしながら、ぼんやりと考える。

 俺は志貴が闘わなくて良いならそれが一番だと思っていた。

 でも、宗像本家の後継としての実力をつけろ、誰よりも凄絶に強くあれと生きてきた道のりを思うと、現状は生き地獄だ。女王という看板はあるが、『それだけ』なのだ。

 どうして俺はいつも後手にまわってしまうのだろう。髪をぐしゃぐしゃにしてみて、ふうっと息を吐いた。10年も先に生まれているのに、どうしてわかってやれなかったのか。

 宙に手を伸ばしてみる。

 

「俺はもう二度と戦場に立たせたくないんやけどな」


 志貴が倒れこむ姿を思い出すと苦しくなる。

 うねりのないまっすぐな黒髪を指ですくいあげるとそれは指の隙間からさらりと零れ落ちてしまう。

 血の気のない肌の色、爪の先など簡単に紫色にかわってしまうほど冷たい。

 あれだけ活発だった志貴の身体は日に日に線が細くなり、駆ける姿など皆無となってしまった。

 あれほどの激闘を勝ち抜いたのに、この虚無感はなんなのだろう。

 勝ったのに、負けたような気になる。

 史上最強といわれている女王の現実がこれだ。誰がこれを想像したことだろう。


「ただ時間だけが無限に続く、生ぬるい毎日はあいつの感覚を奪ってしまうよな」


 道反には季節がない。寒くも暑くもない。この刺激がない空間は志貴の心をさらに鈍く切り裂いているような気がした。

 近頃、ここに居ることが志貴にとって本当に安全で、正しいのかわからなくなってきていた。

 のろのろと足を進め、道場まで5メートル。どんな顔をすればよいのだろうかと思いながら耳を澄ませたが道場の中からは何一つ物音がしない。急に不安になって飛び込んだ。このところ、見つけるたびに志貴が倒れているからだ。


「志貴!」


 そこには志貴の姿がない。もぬけの殻だ。つい先刻まで稽古していたのか槍がそのまま畳の上に転がっているのに姿がない。

 しばらく道場周囲を探してみたが気配がない。

 自然と駆け足になり、動悸がする。

 自分の目の届かない場所で彼女の身に何かが起きていたらと思うと目の前が暗くなる。

 俺の目が届かない場所へなど1人で行けるはずがないんだよなと、はっとした。


「俺、朔やんな?」


 近頃、狼になって過ごすなんてなかったから失念していた。志貴の気配を読むだけで済むじゃないか。瞼を閉じて紅炎の位置を探るだけだ。

 ほら、手に取るようにわかる。志貴の元へと手を伸ばすだけで済む。

 次に瞼をもちあげると黄泉平坂にいた。


「あいつ、なんで禁域に来てんねん?」


 志貴が何を考えているのかがわからない。胸がざわざわしてかけだした。

 千引き岩のあたりで志貴の話し声がして、足を止めた。

 志貴の向こう側に赤い髪が風に舞うのが分かった。嫌な髪の色だと思った。俺の知っている赤い髪は鴈楼蘭一人だからだ。

 彼が志貴を気に入っているのも知っていたから余計に良い気分ではない。

 志貴と彼が今の東側の二強。志貴にとって彼は大切な同盟相手。

 でも、どうしてもイライラが止まらない。

 楽しそうな話し声がして、二人で何かを口にしているのも気に食わない。


「あぁ、一心さん。 こんにちわ!」


 楼蘭が先にこちらに気づいて、振り返った。


「連絡がなかったと思うんやけど?」


 駄目だ、笑顔が作れそうにない。落ち着け、俺と言い聞かせてみるが子供じみたイライラがとまらない。


「あぁ、すみません! 上手くできたから急いで来ちゃったんです」


 楼蘭がすみませんと頭を下げてきた。こいつのこういう所が嫌いだ。志貴の前では徹底的に良い仲間の顔をする。男を出してきたのなら木っ端みじんにしてやるのにと思う。


「そんなことは気にしなくて良いよ! それより、見て、一心! これ、楼蘭の手作り! すっごい上手なんだ!」


 俺の気も知らず、志貴はここ数日で一番の笑顔だ。一も二もなく腹が立った。

 楼蘭と楽しそうにしている志貴なんか、もう見ていたくない。


「Valentineって、女の子から男の子に渡すって決まってないんですってね。 恋人にだけ渡すものじゃなくて、大切な人に届けても良いってきいたものだから! チョコレート作るのってなかなか楽しくて! お返しに、さっき、志貴からはチロルチョコいただいちゃいましたよ! ほら、チロルチョコセット!」


 楼蘭が嬉しそうにこちらへみせてくる。絶対にわざとの笑顔。志貴の手作りチョコレートが渡ったわけではないが如何せん腹が立つ。


「チョコレートくらいで容易く越境すんな」


 言葉にとげがあったとは思うが、どうしても自分のいないところで逢って欲しくはなかった。楼蘭は俺の中で敵の範疇だ。俺から志貴を奪い去ってしまう可能性のある男だという認識が拭い去れない。これが嫉妬なんだなと思い知って、少しだけ自嘲気味に笑った。


「そんな言い方ないだろう? チョコレートぐらいってなんだよ」


 志貴がわずかに眉をひそめ、俺をぐっとみると、謝れとつぶやいた。

 楼蘭が割って入るように、志貴に気にするなと一生懸命になっていた。

 俺はその楼蘭の動きに余計に腹が立った。


「謝らん」


 俺は胸の前で腕を組んだ。

 楼蘭がまじかというように俺を見たが、無視だ。


「そもそも、何も言わずに千引き岩へ来るなんて! しかも、アポなしの客と逢うってどういう了見だ!? 姿がない、どこかで倒れているんやないかって探したんやぞ? お前こそ謝れ!」


 まくしたてるように怒鳴る必要もなかったのだが、腹の虫がおさまらなかった。


「謝らん!」


 志貴は唇を引き結んで、目を背けた。

 今度は志貴の方をまじかと楼蘭が見た。


「おい、鴈楼蘭。 俺は著しく機嫌が悪いんや。 用が済んだのならとっとと帰ってくれへんか」


 楼蘭は苦笑いで、そうでしょうねとうなずいている。


「楼蘭、まだ居て良い!」


 楼蘭はえっというような顔をして、志貴の方をみた。まるでテニスを観戦している客のような動きをしながら、楼蘭はどうしたらよろしいのでしょうねと困り果てている。

 そこへ、時生が現れた。


「白の王、僕がお茶でもお出ししましょうね。 痴話げんかはそっとしておいて、先に母屋へ戻りましょう」


 時生の救いの手に楼蘭はにっこりとして、先に行ってますよと急ぎ足で去っていく。


「どこが痴話げんかだ!」


 志貴はふくれっ面のままで、視線をあわそうとしない。

 楼蘭と時生の姿が見えなくなったころあいを見計らって、俺は包みをポケットから取り出した。


「こっちみろ、志貴」


 俺は志貴の顎をつかんで視線を強引にもちあげ、包みをその鼻先に差し出した。 


「何だよ、それ」

「お前が捨てようとしたチョコレートや、ど阿呆」


 何だとと志貴が驚いたように目を見開いた。


「お前、毎年毎年、時生に食わせてどないすんねん」


 びくりと志貴の肩がはねた。傑物のくせに、こんなに些細なことに震える心をもっている彼女は唇を色がかわるまでかんで、一生懸命こらえようとしている。

 ほら、帰るぞと言う意味をこめて手を差し出したのに志貴がそれを払った。


「お前な!」

「うるさい。 1人で」


 志貴の言葉が途切れた。彼女の顔色がおかしい。真っ白だ。唇の色も真っ蒼。

 ぐらりと身体が前のめりになっているのに、俺には手を伸ばそうとしない。


「頑固者!」


 とっさに受け止めた時には志貴の意識はなかった。とっくに気が付いていたが、筋力が落ちただけでは説明がつかないほどに細くなったと体感した。

 皆にそれを悟らせないようにボディラインがでない服を選んでいるあたり、志貴自身も絶対に気が付いている。


「お前、何が原因でこんなことになってんねん」


『原因なんて、お前しかないだろうに』


 声の方を見上げると千引きの岩の上に誰かが居る。

 若い男だ。白髪、いや、銀色の髪の気もする。


『強すぎる力は使わねば害はないが、行使しようとすればその者を蝕む。 それを自覚しているのに、その王は孤独ゆえに、使おうとする。 何故か? 紅の王には絆がないからだ』


 男が俺の腕の中にいる志貴を指さしている。

 どういう意味だと俺は岩の上を見上げる。


『すべてにおいて片道通行』

「俺だけが満足しているとでも言いたいのか?」

『そうではないと言えるのか? どうせ喰うのなら王の不安すら喰ってやればよいものを。 お前は王を定めているが、王は番を定めることができていないまま。 お前だけが安心の世界にいる』


 愕然とした。契約にそんな項目はない。だが、神の言葉に嘘はないことも知っている。そうだとしたら、俺はどこかで間違ったということだ。


『王はお前を縛れないままで哀れだ。 お前は王をそそくさと縛ったというのにな』


 男はせせら笑う。その嘲笑は俺の未熟をさしてのものだとすぐにわかり、苛立つと同時に気がふれそうなほど自分への憤りがあふれ出してきた。


『この紅の王はまさに名ばかり。 至高の名をいただいているというのに孤独。 魂はまるでそこにあるだけの宝玉の如くだな』


 声色に威圧が混じっている気がした。

 だからこそ、どうしたらよいのかなんて、この男には聞いてはいけないと直感した。

 おそらく、この男は道反大神。神とは絶対に一線を画しておかねばならない。


『血より重要なものは魂だ。 魂を喰め、喰むのは血ではない』


 俺はどういう意味だと尋ねることをやめた。

 この問答を続けると神の意図に飲み込まれ、操作されかねない。

 自分たちはまだ人であり、人として迷いながら模索して自分で歩いていかねばならない。

 神は世界の中立である以上、最大多数の幸福を願うもの。

 神の示す道を選ぶ方がおそらく正しい。

 でも、うまくない生き方かもしれないが、俺は正しくなくても、傷だらけになっても自分で考え、歩く方が良いと思っている。


「助言はありがたくうけとる」


 これ以上は危険すぎると判断し、俺は志貴をつれて千引きの岩を離れた。

 ただでなくとも、俺も志貴も人でありながら、人の寿命を操作している生き物になっているのだから、人生の歩み方は傷だらけでも自分達の足で歩くことだけはやめてはいけない。

 母屋へは戻らずに、空間を切り裂き、王樹の泉へと半ば強引に志貴を連れて行くことにした。

 強引な手法で王樹へとたどりつくことはここ最近ではめずらしくなかったから、王樹は何も言わなかった。

 白い手たちに自分がやると指示を出して、眠ったままの志貴をつれて泉につかることにした。

 俺は本当に間違ったのだろうか。

 あの時、あれだけ食むことを嫌がった志貴にやらせるべきだったのだろうか。

 食むのは血ではなく、魂だというあの神の言葉が脳裏を埋め尽くす。

 神の言う縛りは宗像の王と朔の縛りと何かが違っている気がする。

 まぁ、縛りなどなくてもそばに居るのだけれどと肩を落とす。

 水の冷たさに覚醒した志貴がゆっくりと瞼をもちあげ、すぐに罰悪そうに目を伏せた。


「倒れたんやぞ?」


 うんと志貴はうなずいた。目に光がない。今の彼女には何か目標が必要なのかもしれないと漠然と思った。


「外に出たいのなら、俺が連れていってやる。 仕事がしたいのなら、俺の仕事に連れていく。 俺がいれば穢れから護ってやれる。 だから、頼むから一人で動くな」


 志貴は小さくうなずいたが、さびしそうな目のままだ。彼女の欲しいものはきっとこんな言葉じゃない。俺だってわかっている。それでも、これが精いっぱいだ。


「頼むから、俺の目の届かないところへ勝手に行くな。 ほんまに生きた心地がせん!」


 ぎゅっと志貴を抱きしめ、その首筋にそっと唇を這わせた。本当に無意識に自分がとった行動に、俺自身がはっとした。


「すまんっ」


 志貴の身体に緊張が走ったのがわかり、すっと唇を離した。怖がらせるつもりは毛頭ないし、追い詰めるのもしたくない。だけど、触れたいという気持ちの止め方がわからなかった。


「つまらんことを言うぞ? 俺はお前が楼蘭と逢うのは気に食わん」


 俺ははぁと息を吐いて、志貴の肩に額を押し付けた。どうにか踏みとどまれと叱咤激励しながら必死に歯を食いしばった。


「どうして? 楼蘭は仲間じゃないか」


 志貴の言葉の歯切れが悪い。体は緊張状態のままだ。彼女に悪いことを強要しているような感覚がして、自然に眉をひそめてしまった。


「楼蘭は男やぞ。 俺も男だしな。 お前、わかってやってんのなら、相当悪いぞ?」


 もう何の言い訳にもならないか。悪い大人になっても仕方がないと割り切った俺は志貴の耳にかみついた。びくりと体を震わせて、志貴の肌色がうすく桃色へかわっていく。


「いいか、志貴。 俺はもう我慢せん。 お前もそうしろ。 俺を喰いたいなら迷わずに喰え」


 もうだめだと覚悟を決めた。我慢したくないのは俺の方だと認めることにした。


「それだけは嫌だ!」


 志貴に急に素に戻られ、今度は俺の方が驚いた。


「大丈夫だって!」


 俺は志貴を振り向かせるが、絶対に嫌だと首を横に振るだけだ。


「志貴、これは」


 王と朔の関係上、当たり前の事なんだと説明しようとしたが、言葉半分で断念した。志貴のその大きな目にいっぱいの涙があったのだ。


「俺はほんまに大丈夫なんやぞ?」


 泣いてほしくなかった。だから、俺を食めと口にしようとしたが、志貴は狂ったように首を横に振り続ける。


「我慢できる! 喰わない! 眠れば大丈夫なんだ! 眠ってしまえばすぐおさまるんだ。 嫌なんだ、本当に嫌だ! 大丈夫、私はおかしくならない! 一心を傷つけたりしない! これ以上、迷惑かけないから! ごめん、一心、大丈夫なんだ! だから、本当にごめんなさい」


 志貴の表情は怯え切っている。全身で嫌わないでと言われているようで、俺はその身体をしっかりと抱きしめてやった。


「私は喰わない。 喰って、縛り付けたりしない。 私はおかしくならない。 嫌なんだ。 登貴と同じことはしない。 絶対に縛り付けたりしない。 大丈夫、私は縛らない」


 心底、怯え切っている志貴の奥歯がカタカタと音を立てている。

 ようやくわかった。

 志貴は俺を喰おうという欲求が起こるたびに、強制的に意識を落としている。それも無意識にしていたのだろう。


「同じになりたくない、か」


 俺はどこまで信用されてないんだ。

 道反大神の言う通りすぎて、自分に腹が立ってきた。

 どうしてこんなになるまで気づいてやれなかったのだろう。

 血ではなく、魂を喰めか、なるほどなと思った。


「聞けよ、志貴。 縛る、縛らんはもう論外や。 俺はお前のもんやし、お前は俺のもんや」


 志貴がゆっくりと俺を見上げた。俺が何を言ってるのかがわかっていないようで目をぱちくりさせている。


「お前がどうこうではなくて、俺がお前をもう誰にもくれてやらんと言ってる。 わかるか? ああ、もう!」


 俺は意を決して、ゆっくりと志貴の唇に触れる。

 毎度、毎度、意識のない彼女へのキスは飽きていた。ちゃんと反応を確かめたい。


「チューもハグもフリーにしてやる。 この俺が無料や。 解禁日ってことや。 わかったか?」


 もう一度、ゆっくりと志貴の唇を味合う。

 恋愛幼稚園児はまだ状況が理解できていないのか、なされるがままでムードのかけらもない。

 だが、負けるかと引きずり込んでいく。ついばむだけの可愛いものじゃ済ませてやらない。

 他の男にはやらない。絶対に渡さない。

 志貴の両腕が俺の肩を押してくるが、負けじと顔を近づけた。


「俺の独占欲なめんなよ。 後になってからやっぱり嫌やって逃げても許さんからな。 わかったか? お返事は?」


 間髪入れずに、はいと志貴があまりに素直に言葉にするから俺は苦笑いだ。

 まだ自分の置かれている状態を正確に把握できていないらしい志貴は俺にされるがままだ。

 このまま抵抗なんかさせるはずもないし、正気になど戻してやるものか。

 人知れず泣く志貴の寂しさも苦しさも、何もかもを分け合うと覚悟を決めていることを思い知らせてやる。

 千年という年月は理解の範疇を超えている長さだ。時間がありすぎる世界に生きろと言われた宿命を一人で背負えとは言わない。


「お前には俺だけしかおらん」


 マインドコントロールだと言われようともう知るか。本当は他にも可能性があることを志貴には気づかせない。

 もう何も考えるな、考える余裕すら与えてやらない。

 これが俺の覚悟で、俺の好きという奴だ。思い知れとむさぼる。

 志貴の唇からきいたこともないような声がもれる。子供だとおもっていたのに、十分に煽られる。

 いつだったか、咲貴に漁夫の利を得たのは一心だと言われたことがある。

 今頃、本当にそうだったかもなと思う。

 俺は朔だが、志貴の恋人になるのは冬馬かもしれないと覚悟したこともあった。

 冬馬は誰よりも志貴のそばにいて、こいつをちゃんと愛していた。だけど、冬馬は穂積家の呪いの前に諦めた。冬馬に、あの時、諦めるなと言えば俺は志貴を失っていったかもしれない。

 楼蘭は楼蘭で俺に『王じゃなくてよかったね』とぬかしやがった。

 『僕が王でなかったのなら、退きはしなかったと思う』とも言われて、今でも胸糞が悪い。

 いけしゃあしゃあと今日のようにさらっと志貴に逢いに来るのもイライラする。

 そもそも、志貴がぼんやりとしているのが悪い。これ以上、楼蘭に簡単に付け入られては困る。だから、もう許さない。


「志貴、ちゃんと息をして」 


 必死にこたえるだけの志貴にわずかな休息を与える。

 でも、俺は唇を離したことをすぐに後悔した。少し離れたことで、潤んでいる彼女の目を見て、箍が外れそうだ。


「ごめん、まだ許してやれん」


 俺はギリギリの理性を盾にしたものの、どうにも気持ちが前のめりだ。努力むなしく、志貴の唇をふさいでしまう。

 ダメだと思うほどに、のめり込んでいく自分を止め切れない。

 こんなに女の唇は甘かったのだろうかとか、愛しいをはじめて認識した気がして、頭がおかしくなりそうだった。

 時間がたてばたつほど、身体を密着させるのはもう生き地獄となっていた。かき集めた理性で泉の岸に志貴を座らせ、わずかな距離をとることに成功したが、彼女の顔を見上げた瞬間、身体を離したことを後悔した。

 俺は今日一日、何回、後悔したら済むのだろう。志貴が俺の袖口を無意識に握りしめたまま、泣いていることに気づいてしまった。


「泣くな」


 強引すぎたかもしれないと今更ながら怖じ気付きそうになる。


「一心」


 志貴は俺の名前を呼ぶだけで、視線をあわそうとしない。ポロポロと涙がこぼれ落ちてくるだけだ。


「本当に独り占めしても良いの?」


 俺は志貴のこの言葉に酩酊しそうになる。

 この天然小悪魔め。この場面で出てくる台詞がそれかと、俺は苛立った目で見上げた。


「こんなに細くなりやがって!」


 志貴が肩をびくりと震わせて、困ったように眉根を寄せている。

 今にも消えてしまいそうで、怖くなってくる。こんな時に壮馬の言葉が脳裏をよぎった。


『その他大勢のためなどと言うのはたった一人を知らない者の妄言だ。 たった一人を決めたら、それが全てになる。 奪われないように自らの手を汚すなんてことは息をするより簡単になるぞ』


 壮馬はそう言っていた。

 壮馬が何もかもを敵に回してでも必死に護ろうとした登貴。今頃、壮馬の苦しみがわかる。奪われることが怖い。ただ怖いってもんじゃなくて、心理的に想像以上にこたえる。


「やばいな」


 俺は壮馬よりとんでもないことをしてしまうかもしれないと自覚した。だから、俺はその時が来たら潔く自分を終わらせようと決めた。

 目の前にいる俺の唯一と定めた相手は飛び抜けた美少女ではない。黄泉使いの封を解かなかったならば、傍目にはどこにでもいるような平凡な少女だ。

 だけれど、志貴と比べて勝る女の探し方がわからない。


「俺を振り回しやがって」


 生れ落ちてきた瞬間から志貴を知っている。

 おむつを替えたこともあるし、お風呂に一緒に入ってやったこともある。

 そんなんだから、恋愛対象として認識するまでにはさすがに時間がかかる。

 可愛い妹分からステップアップさせるには俺だって時間がかかったんだ。

 十数年かかって今度は俺だけを見てほしくて大人げない追い込み方をするほどに焦るとは情け無い。


「志貴のくせに女の顔するな」


 お前は小さかった。本当に小さかったんだ。

 子犬みたいに可愛くて、泣いてばかりいた。


「あんなにチビだったのに」


 志貴の頬に手で触れてみると、ふいに思い出したことがあり、思わず笑みがこぼれた。


『いっしん、どこ。 おらんの?』


 年長の俺を堂々と呼び捨てにしているのはほんの少しだけ舌足らずの志貴。

 冬馬と一緒に昼寝をしていたはずなのに、毛布をひきずるようにしてやってきた。

 ちょうど道場で一息ついて読書していた俺をみつけてかけてきたと思えば、俺に向かって4歳児が急に綺麗な一礼をした。

 驚いて、何事かと顔をみあげたら、眠れないんだと言って俺の膝を枕に眠りだした志貴。

 それがあまりに可愛くて、俺は稽古の時間を彼女の昼寝に提供し、後から泰介にひどく怒られたっけ。


「お前は覚えてへんやろうなぁ」


 何をと志貴が首を傾げた。仕草がまだ子供のままで、女というよりは女の子どまり、あの頃の面影が重なる。

 俺は冬馬が失恋した瞬間だとは言わなかった。4歳の冬馬は志貴を追いかけて道場にやってきて、俺のそばでゆっくりと眠る彼女の姿を見て、困惑した顔をしていたのだから。

 昼寝の度に抜け出して俺の所へくる志貴に、冬馬は稽古の邪魔になるからと言い聞かせようとしていたが、結局、志貴に号泣されて困っていた。

 今、思い出しても笑える。しまいには、号泣しすぎて眠れない志貴のために、俺が昼寝の番を泰介から命じられるや否や、冬馬は僕がいるのにと号泣。結果、二人とも俺のそばでくっついて寝ていたっけ。


「私の好きと一心の好きは本当に同じ?」


 志貴がめずらしくまっすぐに俺を見て言った。

 好きだ、大好きだと志貴に飛びつかれて、迷惑だったことは一度もない。

 だけれど、志貴の好きが本当の好きなのかわからない。彼女はまだまだ子供で、男女のそれとはほど遠いと俺はじゃれさせるところで無理くり止めてきた。こんな俺にそんな質問をするとはどうしてくれようか。


「お前はどう思う?」


 志貴をゆっくりと見上げて、頬に手を伸ばして答えを待ってみるが、彼女は目を合わせることもなくうつむいた。耳を真っ赤にしたまま、わからないとつぶやいた。

 わからないとは何たることだ。我慢しかしてこなかった俺の気持ちがわからんというのなら、嫌というほどに教えてやろうと思った。

 成長を待ち続けて、10年の差がうまるまで、我慢してきた。

 志貴が冬馬や楼蘭ではなく、俺を選ぶまで、俺からは何もしないと決めていた。

 彼女の本当の気持ちがわかるまで、俺からは何もしないと、我慢してきた。

 俺のこの醜い独占欲を知られたくはなかったし、後に朔だから選びましたと言われては俺の自尊心がぶっ壊れてしまう。


「なぁ、志貴。 ここは静かやと思わへんか? 俺とお前だけや」


 静かすぎる空間に二人だけだ。水の音だけが響いて、心地良い。


「なぁ、志貴。 宗像らしい槍術じゃないと嫌か?」


 せっかく甘い空気なのに、俺自身が破壊してしまった。

 でも、志貴が今、欲しいのはこの話題の先にあるものだ。


「型ができないのは困るだろう? 私しかできないのに」

「終の型のことか? 槍でなくとも、要は糸をつむぐことができれば問題ない」


 ゆっくりと志貴の瞳に光が戻ってくるのがわかった。


「穢れから遠くあって、糸をつむげたら問題ない」

「そんなことができるの?」

「宗像らしくはなくなるだろうが、今のままよりは随分と動けるようになるやろ」


 本当は闘いの場になど二度と出なくて良いと思っているのに、どうにかしてやりたいが勝ってしまい、最終、俺が護ればよいかという思考に至る。


「どうすれば良いの?」

「時生と俺を信じるか?」


 うんと志貴がうなずき、俺の言葉の続きを待っている。


「約束してほしいことが3つある。 まずは師匠である時生の稽古に文句を言わないこと。 次に、勝手に槍稽古はしないこと。 最後に、習得するまで黄泉へ下りないこと。 できるか?」


 志貴はほんの少しだけさびしそうにしてから、しぶしぶうなずいた。


「誰もお前に何もするなとは言わん。 わかるな?」


 わかると志貴がうなずいた。


「皆がお前を心配してる。 わかるか?」


 わかると志貴がうなずく。


「皆がお前を護りたいと思ってる。 わかるか?」


 わかると志貴が大きくうなずいた。


「こだまって、俺に愛されるって決めたか?」


 うんとうなずいた志貴がぱっと顔を上げて、焦っている。流れ上、素直にお返事をしただけだったのだろうが、一度出た言葉はもうひっこめることができない。


「そうか、そうか!」


 目を白黒させている志貴の膝にわざと両腕をのせて、見上げてやる。


「一心! からかってるんだろう!?」

「本当にそう思う? この好きが俺だけならもうやめだ。 俺はよそへ行く。 俺は大人気だからな、彼女なんて秒でできるな」

「秒で彼女!? あぁ、でも、仕方ないか。 あ、待って、朔の役割だけはしてくれるよね? 大丈夫だよね?」


 この期に及んで、口にするのはそれかと俺は口元がひきつりそうになる。


「お前が朔として側におれと命じれば済むだろ? そうすりゃ、仕事はしてやるよ。 仕事以外の俺のプライベートは一切合切、自由行動な。 彼女は10人くらい、嫁は4人くらいで良いやろ。 強いガキを提供してもらって、せいぜい宗像を繁栄させたるわ」

「そんな! ありえんやろ!?」

「だって、お前が俺をいらんのなら、俺が誰と何をしようと関係ないやろ?」

「そんなん、嫌だ! いや、待って、これはやっぱ関係ないんかな!?」

「どっちや? 今すぐ答えろ。 ほんまに他所へ行くぞ?」


 かなり意地悪な言葉だったと思うが、俺はひかない。

 志貴が両目にうっすらと涙をにじませて、他所へ行かないでほしいと言った。


「そんなこと言うんやったら、この状況で、俺に対してどうするんが正解やと思ってるわけ?」


 志貴がおずおずと俺の頬に手を当てた。その手を握り返して、手のひらに唇を押し付けると、彼女があわてて手を引っ込めた。

 詰将棋もここまできたら、大人げない。さて、どうするかと思い、わざと顔をそむけていると、もう一度、志貴が俺の頬に両手を伸ばしてきた。


「で? 志貴は俺と顔を突き合わせてどうしたいんや?」


 俺の質問に、志貴は唇を引き結んで身体をこわばらせた。

 意を決した彼女から恐々だけれど俺に唇をよせてきてくれる。

 にやけてしまいそうだ。ずっと、これを待っていた。


「よくできました。 及第点をくれてやる」


 俺はもう一度、志貴を泉の中へ引きずり込んだ。驚いたようにして身を離そうとする志貴を羽交い絞めにした。


「一心!」

「何だ? お前が選んだ結果や」


 志貴が待てと俺の口を手で塞いだが、俺はそれをつかんで離して、より深く彼女を喰ってしまう勢いで唇をおしつける。息ができないとのけぞった志貴の首の後ろをおさえた。


「もっと大きく口を開けてみろ」


 抵抗する力がだんだんと弱くなっていく。

 そうだ、それで良いんだ、ひたすらに委ねろ。どさくさに紛れて、俺の首へと腕を回させて、さらに逃がさない体勢に入る。

 角度を変えるたびに志貴の声が漏れる。

 水音と息の音しか響かない空間で、俺は泰介に殺される覚悟を決めた。

 志貴の服の下へ手を差し込み、すっと背筋を指先でなぞりあげる。これにはさすがの志貴もこらえきれない嬌声をあげた。

 自分のあげた声に志貴は驚き、俺の肩を必死につかんで身をよじらせた。

 まだだ、トランス状態になるまで離してやらない。こういう時に10年という歳月を先行して生まれてきていてよかったと心の中で舌を出した。社会経験という奴が違うからな。

 途切れ途切れに声が漏れ、俺の名前を呼んで制止を求めているが、聞く耳をもたない。

 しばらくして志貴の腕の力が完全に抜けきったのを確認して、俺はようやく唇を離した。

 そして、わざと、俺の首筋を志貴の目の前にさらした。

 とろんとした目のまま、ぼんやりとした志貴が無意識に俺の首筋に歯を立てた。

 皮膚を裂かれた激痛など何もなく、それどころか、あまりの心地よさに俺は意識が飛びそうになるのを必死にこらえた。

 これは悪いドラッグか麻薬より絶対に質が悪い。

 ふいに力が抜けて、泉の中で志貴をおとしそうになり、俺は志貴の肩口をあまがみしてこらえた。

 噛みあとから流れ出てくる俺の血を志貴が舌先ですくってなめている。くすぐったいが、そのままで良いと志貴の髪をなでてやる。

 これはなるほど強烈だ。俺が志貴を食んだ瞬間に志貴の動きがほうけたように止まったのはこの麻薬に似た感覚が勝ったからだとようやくわかった。


「もっとしっかり噛んでも大丈夫や」


 俺はこせこせと血液を食んでいる志貴を促すと、彼女は素直により深く歯を差し込んだ。

 おかしなほどに痛くない。来るのは得も言われぬ快感だけ。思わず声がもれてしまいそうになるほどに気持ち良すぎて、歯を食い縛る。

 抱きしめている彼女の肉体に生気が戻っていくのがわかる。志貴はある意味で飢餓状態だったのかもしれない。

 これはどれくらいの頻度で必要になるのかなどと喰われながらぼんやりと考え込んでいると、正気に戻った志貴がかみついていた自分に気づき、おびえた表情で俺を見上げた。


「一心、どうしよう」


 志貴の声が震えていた。コイツは本当に阿保すぎる。

 俺の血にまみれている口元を指先でぬぐってやると、志貴は声にならない声をあげた。

 受け入れられずに、錯乱しているようにも見えた。

 俺はゆっくりと志貴を抱きしめてやる。

 一心と俺の名前を繰り返し繰り返しつぶやいている声が救いを求めているようにきこえた。


「俺もお前からいただくから、おあいこや」


 今度は俺が志貴の首筋に歯を立てた。ささやかな悲鳴の後、志貴が俺の首にそっと腕を回した。俺に食まれているというのに、彼女の全身からは安堵しかにじみでてこない。


「お前、もっと我儘になれ。 今日から俺を独占してええんやから」


 どこまで我慢していたんだと呆れるくらい志貴は泣いた。最後の最後には泣きつかれて眠ってしまった。

 俺は志貴の身体を岸にあげて、濡れた服を脱がせて、白い手達からうけとった大きな包布でつつんでやる。


「はぁ、本当に成長したんだな、コイツ」


 オムツの頃から知っている志貴の身体は嫌になるくらい美しい女性のものとなっていた。ダメだ、濡れたままの髪を見ているだけでもおかしくなりそうだ。


「本当に拷問だな」


 さっさと着替えをさせて、俺の膝を枕に志貴を眠らせた。

 煩悩を殺さねばならないかと、岸においたままにしていたチョコレートの包みを開いた。3粒だけだが、志貴の手作りというだけで破格にうまかった。

 そもそも、俺は別にチョコレートが苦手なわけじゃない。

 どうでも良い奴らからのValentineのチョコレートの山が苦手だっただけだ。


「Happy Valentine」


 俺は寸止めを食らったままだったが、眠る志貴の額に口づけした。

 もう、こいつなしでは無理かもしれない。

 オムツで追いかけてきた姿をまた思い出し、手で目を覆って苦笑いだ。

 自分が朔であり、オムツ姿のあれがまさかの自分の王と知った時の気持ちまで思い出した。

 相当凹んだよなとさらに苦笑いだ。

 何をしても可愛かったが、これが自分の王なのかと思うと、もっと美女が良かったなとか凹んだ日々が懐かしい。

 それなのに、幼子が血にまみれても美しいと知った時の慟哭。

 泰介の血に染まったままの幼い志貴をみて、不覚にも俺は美しいと思ってしまった。考えてみたら、もうそこから負けていた。

 公介が腕を落とされたあの時もそうだ。

 このままでは、逃げおおせないと踏んだ俺は強引に志貴の封印をこじあけた。強制的に王にして、志貴自身に闘わせた。それしか護るすべがなかったからだ。

 長い黒髪とあの琥珀色の瞳、そして、凄絶までに美しい白い肌。何て美しさなんだと俺は魂が揺さぶられた。

 布津御霊にひきずられながらも、爆発的なポテンシャルで登貴を退けることに成功したが、正式な手続きをふまずにこじ開けた封印だっただけに、志貴の暴走を食い止めるのに小一時間かかった。あの時に志貴にはじめてキスをした。あの時のキスと今のはもう質が違うけれど。


『私を殺すな』 


 女王としてのこの言葉にはさすがにしびれた。一言一句覚えているあたり、俺の方が病か。俺はいつから、立場を逆転されていたんだろう。

 道反へ行くことになってからも、狼の姿になって、ずっと見守ってきた。

 望の奴には悟られたくなくて、近くにはなかなか寄れなかったけれど。

 千年王となるまでの道のりを思い出すだけで、よくここまで来たもんだと思う。

 千年王になりえるのかというほどに、ネガティブな生き方しかしない志貴だったのに、結局は大輪の花を咲かせ、成し遂げてしまった。

 こんな時に咲貴の言葉をまた思い出した。

 

『冬馬が自ら戦線を離脱し、楼蘭が大人の男を出さなかったから、志貴を誰にも奪われずに済んだ。 ただそれだけでしょう? でも、あなたが誰よりも狡猾で、貪欲だっただけですよね? あなただけが志貴と何かを天秤にかけずに諦めなかった。 ずるい大人だとは思いましたけど、これが運命ってもんなんだと思います』


 狡猾で貪欲ね。

 確かになと一つうなずいた。

 志貴のもろさを知っているからこそ、ここぞという所はよくわかっていた。だから、俺があの二人にチャンスを与えるはずがない。

 冬馬が一番怖かったから、彼が志貴と本気で向き合おうとした時、俺は志貴が彼の気持ちに気が付かないように誘導した。本当に大人げなかったと思うよ。

 冬馬が側に近づけないように、彼の目に付くところで、気を失っている志貴をしっかりと抱きしめて、わざとそのまま眠ってみたりして。

 どうだ、えげつなく大人気ないだろうと、眠っている志貴の唇を指でそっとなぞった。


「愛してる」


 起きている時には絶対に言わないけどな。

 俺は最後の一粒を口の中へほおりこんだ。

 目覚めた時、志貴はどうするだろうか。

 俺は間違いなくこれまでと同じではいられないと自覚はある。

 恋愛幼稚園児の志貴を一気に大人にかえてしまうのかもしれない。

 もう一足飛びでもちょうどよい、そんな気がしている。

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