第26話 神の狐、帰還

 二度と体感したくはなかった寒風吹きすさぶ荒廃した大地。

 むき出しのゴツゴツした岩の上へ一心に寄りかかりながらも降り立ってみて、小さく身震いをした。その理由は簡単だ。以前ほど、この世界は私を拒絶しない。

 それはつまり、私自身が黄泉に適応しきったのか、もしくは著しく死に近くなったということだ。

 ひどく血を失ったせいか、自分でも驚くほどに目が回る。

 完全に平衡感覚は消え去っている。

 笑えるほどにどちらが上で、どちらが下かわからない。

 嘔気にまで襲われて、岩の上で弱々しくもへたりこんでしまう。

 次から次へと吹き出した冷や汗が額からぽとりと落ちてくる。

 痛いという感覚はもう麻痺しており、自分自身ではコントロールできそうにない呼吸と体中のきしみだけが私を攻め立てていた。

「随分とやられたわね、志貴」

 こんな時に、暢気すぎる久しぶりに聞く声に笑うしかなかった。これほどまでに安堵する感覚がくるとはと口角が自然にあがってくる。

「おかえり」

「あんた、へらへら笑える余裕すらあるの?」

 ゆっくりと顔を上げると、フードをかぶった黒ずくめの男がいる。狐の仮面をすっとはずした下にあったのは望の顔だ。

 望はよいしょと私のすぐそばに座り込み、私の髪をぐしゃぐしゃにした。

 今まで何してやがったとくってかかろうとした一心を時生が静かに羽交い締めにした。

「ぶっとばしてやる!」

 肉体は止められていても、お口のチャックまではどうにもならなかったと時生が苦笑いしている。

「あらやだ。 ぶっとばされるのはごめんだわ」

 望はあっけらかんと言いのけるとにやりと笑んだ。この表情は意地悪を思いついた時のそれだ。

「ようやく尻尾をつかまえて、これからどうするかと算段していた矢先に、先制パンチを食らったもんだからびっくりだったわよ。 まさか、壮馬だったとは予想外だったわ。 気がついて急いで戻ったけれど、アイツ、さすがというか、何というか。 とにかく、良く生き残った。 そばにいてあげられなくてごめんね。 皆のおしかりは後でいくらでも受ける。 志貴、私はちゃんと約束は果たした。 だから、あんたの願いは必ず届くと思う」

 望は片方の口角のみつりあげ、小さく頷いた。

 アイツとは壮馬を指しているのだろうが、これまでの水面下での戦いについて望は今すぐには多くを語ろうとはしなかった。


「やっと追いついた!」


 少女の黄泉の鬼、いや、咲貴だ。

 熊野の親玉になったらしく、堂々とした出で立ちだ。でも、般若の仮面を外すと、頬を赤くして、息が上がっている。

「馬鹿にしてんじゃないわよ! 私だってちゃんとあんたを護るためにいるんだからね!」

 冷静沈着な彼女が感情むき出しで怒っている。

 どストレートな彼女の感情表現にどこかうらやましく思った。

「我こそが狼の主であるぞと騒ぎまわって、熊野を戦場にかえてでもおびき出そうとしていたくらいやから、コイツ。 熊野の禁域をわざと開放して餌をばらまくほどの阿呆や。 流石というか何というか?」

 一心が咲貴を指さして困ったように笑った。

「でも、この阿呆が熊野を開放状態にしてくれていたから、お前を担ぎ込めたんやで? 出雲と熊野は表裏一体。 コイツの勘の良さに救われて今のお前があるんや。 さて、どうするんや?」

 一心が私の身体をよいしょっと担ぎ直しながら軽口をたたいた。

「どれほど未熟であったとしてもそれが志貴であれば皆護る。 どれほど馬鹿でも、どれほど愚かでも護る。 それがわからない君なのなら、全て終わって道反に戻ったら半殺し以上の稽古を僕がつける。 しつけをし直す」

 時生に至っては静かなる脅しをかけてくる始末だ。

「それはもう脅しでしょ」

「そう解釈してもらってもかまわないよ」

 背筋も凍るほどの威圧感ある時生の笑みにはもう逆らえなかった。

「わかったよ。 勝手にすれば良い」

 この私の言いようが気にくわないのか、時生が私に拳骨をくらわしてきた。

「よろしくお願いします、でしょう?」

 時生の目が本気で血走っているのをみて、あわてて小さくそれを復唱した。

「よろしくお願いします」

 一心の背中に顔をうずめながらぼやく。

「はい、白い悪魔退治、出発」

 望は一心と時生に小さく目配せをした。

 二人は何かを悟ったように、小さく息を吐いた。

「着くまでほんの少し休んでいて良い?」

 私はゆっくりと目を閉じる。

「志貴、深い眠りだけはダメやぞ?」

 わかっていると答えたかったけれど、どうしようもない眠気がくる。

 どうしようもない心地よさだ。

 引きずられるようにして、夢の中へ落ちていくのがわかった。

 あの夢って、玉が見せてくるものだったのではないのかなんて、突っ込みを入れながらも記憶の海に眠る。




「奇跡でも起きない限り、もう私はお前の元には還っては来られないだろう」

 行ってはならない、駄目だとしっかりと抱き寄せられたが決心はかわらなかった。

「私はね、もし自分が王でも獣憑きでもなかったらと考えたんだ」

「それでも俺はそばに居た」

 頭上からこぼれ落ちてくる声に、涙腺が崩壊しそうになる。

「それは違うよ。 私が王であり、獣憑きだったからお前がいるんだ。 今起こっていることのすべてが私を作る。 だから、もしもはない。 これは私のすべきことだ。 離してくれるか?」

「嫌だと断ったらどうする?」

「その腕を焼き切る」

「どうしていつもこうなるんだ! いつだって逃げ出してくれてよかったんだ!」

「逃げ出したところで何が変わる? 何一つ変わらない」

「殺されにいくようなもんだ!」

「それでも、皆を見殺しにすることはできない。 自分一人が生き残った世界に何がある?」

「俺がいるじゃないか! 俺は世界がお前を殺したなら、絶対に許さない。 いいか? お前がいかに戦に向いていないか、皆、知っているんだぞ! そうであるにもかかわらず、お前の能力だけを欲して戦場に来いと言いやがるんだぞ?」

 胸が張り裂けるほどの血のにじんだ声だった。

 この目の前の男は心の底から私の命を惜しんでくれている。

 仰せの通り私の肉体は戦いには不向きだ。

 悪鬼の血肉が触れよう物なら、あっという間に胸を病み、今度こそ致命傷となるだろう。

「それでも、私が王なんだ。 そうだろう?」

 そっと肩に置かれたままの手に自分の手を重ねた。

 大の男が緊張のあまりに唇の色を失っている。それにそっと触れてやると、悲しげに目を伏せた彼がいる。

「黄泉は誰からも干渉されるべきではないんだ。 王としてやられっぱなしは辛抱ならない」

「捨て置けばよかったものを! 俺はお前が無為に奪われるのを黙ってみていることだけはしないからな!」

「お前は無茶をしてはならないよ」

「それはこちらの台詞だろう? お前が出るというなら、俺ができる限りの数を叩く他ないだろうが! やめないというのなら、とめられないというのなら、お前の盾になるのが仕事だ」

「それではお前が!」

「だったらやめるか? できないくせに! お前は俺の願いを聞かないのだろう? だったら俺もお前の願いなどきいてやらん」

 般若の面を片手にきびすを返し、男がいきり立った感情をむき出しのままに先に部屋から出て行った。

「待て!」

 そうじゃない。違う。一緒に闘いたいんだ、私は。

 そうじゃない。本当はそうじゃないんだ、私は。

 混在する意識と感情。

 行かないでと伸ばしているこの手は誰の物?


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