第25話 心を打ち砕かれるほどの裏切り
「一心が外のことを何も話してくれない」
「そりゃそうだろう。 最後の切り札を安易に晒すようなことしたくないからね」
「飛び出して行ったりしないのに」
「怪しいものだね。 一心の許可なしに話すわけにはいかないよ」
「どうして一心の許可がいるのさ!」
「ここでの志貴の教育係は彼だしね。 それに彼に嫌われたら大変なのは志貴の方でしょ?」
「時生! それはそうなんだけど、それとこれとは別で、ほんまにお願い!」
「どうしたものかな。 そこまで言うのなら、まあ、良いでしょう。 だけれど、これだけは理解しておくこと。 今の君は脆弱だ。 勇んで立ち向かったとして周りを巻き込んで相打ちなら上等、犬死にが関の山。 それに事態を収集できるほどの能力もない。 つまりは外の状況を把握したとして、君では何もできないということ」
「きっついことをさらりと言うね」
「一心が話したがらないのはこれを君に言いたくないからだと思うけど」
「ものすごく凶悪な言葉が並んで、痛いほどに刺さりました」
「聞かなければこれを言われなくて済んだのにね。 ほんとに哀れな性だよね」
表情を変えず話す時生に苦笑いして見せると、深いため息をつかれた。
そして、ようやく口を割った時生によると道反の外では異常増殖した悪鬼と黄泉使い達の攻防が続いているらしかった。
宗像本家の私も公介も不在、穂積の当主である冬馬も不在。
津島・白川の不満は最高潮に達していることだろう。
今にも聡里の怒号が響いてきそうだ。
週に一度は道反に来ていた咲貴の姿がこの数日見えなくなっていたのはそのせいか。
「なるほどねの状況ってことか」
咲貴の逢いたい人は冬馬であり、私はついでなのであまり気にとめていなかったが、ついに熊野を離れることが出来ない状況になったということだろう。
道反でもあの一心が傷を負って戻るのが日常茶飯事となっているのだから、もう限界のはずだ。
それでも、一心は私を外に出すことだけは許可しなかった。タイミングがあるのだと絶対に道反の結界から出してはくれなかった。
「知ったとて、役立たず」
薄い膜のような世界を別ける境界に手を伸ばし、届くか届かない所で指先を迷わせる。
心はこの場を離れ、どこか頭を整理できるような静かな場所へ出ていきたかった。
いや、何も考えず自分が出来ることをして暴れまくりたい衝動すらあった。
だから、ここに閉じ込められているという現状は心穏やかなものではなかった。
「じっとしておけってのは、今の私には死ねと同意の言葉なんだけどな」
物心ついた時から、お前には期待しているのだからどうかよろしく頼むと突然恐ろしくも重い荷物を背中にポイっと放り投げられた。
慢性化した病のように心の根っこにからみついてしまったそれは自分自身ではどうにもできない蔦となっていた。
このまま無理をして、作り笑いをして、全てを受け入れるそぶりをして、明日を生きようと試みればみるほどに、苦しくなる悪循環だ。
今朝、時生が準備してくれた食事も結局、少し箸をつけただけで、全員がそろっていたその場所から逃げ出した。
居心地が悪いというのを通り過ぎて、まともに呼吸ができなかったのだ。
私が静かに席を立った時に冬馬は何かを言いかけてやめ、一心はちらりと目を合わせただけで追ってくることもなかった。
私の精神は17歳に見合うほどに成長しておらず精神年齢が低すぎるのだろう。
時生に稽古をさぼるのかときかれたけれど、何も答えなかった。
縁側に座り、橘をみつめる。梅の木とは随分と違う。
樹高は3m程度で遠目にもよく見える。細く伸びた若い幹には棘があり、密に生えている枝の色は生気あふれた緑。枝より濃い緑色で光沢のある葉は硬質で楕円形、つるつるとした滑らかな表面の黄熟の小さな果実をつけている。
よく目を凝らしてみて、やはり季節感がないのはここも同じなんだなと笑ってしまった。
花の後につくはずの果実と白い5弁花が同時に存在しているのだ。
一番背の高い橘がきっと壮馬で、棘のある若い幹のある橘が一心のだろう。
鬼達の橘はそれぞれに活きが良い。彼らの心身は健康で、生気に満ち溢れているということだ。
それに比べ、私はつい先日まで持っていたはずの覚悟も決意も二転三転。
気がついたらすぐに投げ出しかねない。
「朔、お前、外をみてきてくれないか?」
足元で長くなって眠っていた朔がピクリと耳を動かし、怪訝そうに首を持ち上げた。
『お前は阿呆か。 俺を外して何かあったらどうするつもりだ』
鼻にしわを寄せて、怒髪天を衝く状態なのはよくわかったが、朔がどれだけ嫌がろうとももう決めていた。
「咲貴を助けてきて。 お前は私の刃なんだろう?」
ゆっくりと縁側から立ち上がった。
これに朔が唸り声をあげて、私にかみつこうとした。
「逆らいたいならそれでいい。 かみつきたければそうすればいい」
噛みつこうとする朔の前に膝を折ってみる。
朔に腕を差し出してみると、朔はそれを嫌がるように鼻先をはずす。
「朔、咲貴のもとへ行け。 これは命令だ」
朔は悲し気に唸り声をあげて、私の足を止めるように前に回り込んだ。
朔は不服そうに一度だけかぶりを振って、消えていった。
空を見上げると、雨のしずくがポトリと頬に落ちてきた。
雲など一つもないのに、結界内でも雨がふるのだな。
受け止め切れない現実に出逢う度に、その答え探しを強要された気分になり疲れた。肩書や血統をとっぱらったら、最後に私に何が残るというんだ。
心が壊死寸前だ。
胸が痛い。
誰が敵で、誰が味方で。
誰が真実を語り、誰が虚構を語るのか。
一歩一歩足を進めていく度に一人一人の顔が脳裏をよぎる。
冬馬の顔を思い浮かべてみて、小さく息を吐いた。
冬馬に欺かれていたのならそれはもう私の運が尽きたということだろう。
信じて良い相手すら、今の自分の弱さはきっと疑い、失態を犯す。
踏みとどまれ、ネガティブの渦に引きずりこまれるなと思うと鴈楼蘭の顔が脳裏に浮かんだ。
冥界に放り出された時に、楼蘭からきいた話を思い出した。
黄泉使いは悪鬼に関与できるが人には関与できない。
冥府は人には関与できるが悪鬼には関与できない。冥府を裁くことができる役割は黄泉使いの王のみだと。
楼蘭は冥府の役人に追われているとあの時言っていた。
あの時、悪鬼に対処する能力がない冥府側に託された仕事を彼が放棄したからだともきいた。間違っていると思う仕事は受けなかった、そうしたら追われたと。
間違っていると思った仕事の内容を私は聞かなかった。
しくじったと今ごろ後悔だ。
まだすっきりとは見えてこないが、そこにヒントがあるように思った。
冥府にとって一番の厄介者は間違いなく黄泉の王。現時点でいうなら私だ。
事態をごちゃまぜにしているから見えていないのか。
核心にあるものはシンプルなのではないのか。
楼蘭同様、私だって誰も信用できない世界で生きるなど御免こうむる。
立場や環境、能力、権利、周囲の人間の真実の姿を一度ひいてみる必要がある。
俯瞰して物事を見て、それから判断する。
そうしないと私は私を諦めて、命の炎を自ら消すことにやぶさかでなくなる。
道反の中で自分だけの結界をはった。
ここへ来てようやく生み出した私独自の瞑想方法だ。
庭へ裸足のまま降りてみる。
手入れされてはいるものの、白砂利が足の裏を刺激してきて集中したいのに何やら落ち着かない。
望に特命を与え遠くへ出し、朔を自ら遠ざけたのだから私は丸腰だ。
本当に身ひとつ。
声にならない孤独だけが、ゆっくりとゆっくりと足先から背を這うようにのぼってきてほんの少しだけ身を震わせた。
足を踏み出すごとに、体重分の負荷がかかった足裏に突き刺さるような痛みが来る。
静まれ、自分。鎮まれ、私の魂。
左に七歩、次いで右に七歩。
くるりと左回り。
泣くな、私。
皆が愛しいのは静梅の玉を宿した私だってかまわないじゃないか。
この現実からもう逃げるな。
つたない足取りであったとしても、私はここまで生きてきたはず。
痛みをちゃんと味わったなら、きっと正しい道がみえるはず。
何かを手にしたらきっと、何かがこぼれ落ちていく。
これを繰り返すのが当たり前のはず。
左へ七歩、右へ七歩。
道反の外で何かが起きている。
最終兵器として護られていることだけはわかるが、それでももう納得できそうにない。
「ずば抜けたたった一人など生まれてはならなかった」
背にとんでもない衝撃がきて、追って、息苦しさが襲ってくる。
不覚にも全く気配を感じ取ることができなかった。
結界に入り込まれるなんてありえないからだ。侵入者との力の差がこうもあるとはと皮肉っぽく笑ってやるしかない。
視線を落とすと、左胸から鋭利な刃物の先が突き出て見える。
白い胴着がいっきに流れ出してくる熱いもので真っ赤に染まっていく。
引き剥がそうと身をよじるが、しっかりと首をとらえられた。
刃物を引き抜かれた傷口に今度は深く何かを差し込まれた感覚がした。
振りかぶって、相手の顔をみると言葉がでなくなった。
何でという一言すらもう出ない。
驚きを通り過ぎて、私の脳みそが状況を理解できないのだ。
喉の奥から口腔内にまでたまりきった血液でむせるだけで、言葉が出ない。
言葉にかわって涙がようやくこぼれ落ちた。
心に受けた衝撃が大きすぎて、戦闘意欲が消失し、視界が涙と脂汗で遮られていく。
それでもと、最後の力を振り絞って身体をよじり、何とか身体を離すことに成功した。
逃げることなどできるはずもなく、足はもつれ、ただ白砂利の上に転がるだけ。
殺される、死ぬってこういうことなんだなとぼんやりと男の顔を見上げた。その男の腕は肘あたりまで私の血でぐっしょりとぬれていた。
脈打って流れ出ていく私の血液から避けるように、足をひいている姿をみると、もう涙もでなくなった。
金属がすれる音がして、今度こそ私の首を落とそうとしている。もうまぶたを持ち上げなくてもわかってしまう。この至近距離、この状況をひっくり返せる黄泉使いなどもういない。
この状況はもう絶対に覆すことは出来ない。
私のこの状況に誰も気づくことは出来ない体。
朔と望を側から外したつけだ。
私の人生最大の判断ミスだ。
「御身は唯人ではないと言うのに自ら丸腰になるとは浅慮が過ぎた」
幼い頃は公介と望、成長してからもそれはかわらず。そして、今はさらに一心や時生、朔までいる。そうか、だからこの機会を待っているしかなかったのか。
だから、外で問題を起こして揺さぶりをかけるしかなかったのか。
声すら出ず、あふれかえってくる血液を吐き出し、ようやく訪れた痛みと寒気に身を丸めるだけ。
身体中の感覚がぼんやりとしてきた。
ダメだと何が起きたのかをもう一度必死に把握しようとする。
そうか、殺されかけているんだ。
どこを刺され、どこをどのように負傷したのか。視線を下げると胸の真ん中が真っ赤だ。
「心臓一突きで即死が理想的だったと言うのに、苦しみを残してしまうとは申し訳のないことだ。 故に、すぐに楽にして差し上げる」
手元が狂ったと言うような軽い物言いに身震いがした。
起死回生を図るべく、手に武器をと左手に力を入れようとしたところを男は見逃してはくれなかった。
指の骨が音を立てて折れるほどに強く踏みつけられた。
「布津御霊はよろしくない」
ギリギリと踏みつけられながら、ゆっくりと男の顔を見上げた。
「こうしていると弱い者虐めをしているような気になるが、君は圧倒的強者でしかないからこの罪悪感はなかったことにするよ。 抵抗は意味をなさない。 この先に待っている地獄を知らずに逝きなさい。 魔から遠ざけてくれていた鉄の扉を開けてしまったのは自分自身だと言うことをお忘れなく」
これが真実だ。
笑える。
いざという時に、私には誰も居なかった。
本当に自業自得だ。
ごめんね、泰介さん。あなたが護り抜いてくれた玉はもう抜き取られているはずだ。
公介さん、貴方にもう一度、宗像を背負ってもらわなくちゃならなくなるね。
父さんが幼かった私との間をつなぐために貴方を選んで預けたように。
宗像は死んではならなかったのに。
でも、まだ、貴方がいるから大丈夫だよね?
朔、あんたの言うとおりだった。あんたを側からはなすべきじゃなかった。
「一心」
最期くらい一心の顔がみたかったな。一心の匂いもあたたかさも大好きだった。
一心、一心、一心。
どうしてこんなに名前を呼びたくなるんだ。
最初の一撃で深くえぐられた傷口からどくどくと流れでてくるこの血は宗像の血。
従兄である一心にも半分は同じものが流れている。
少しでも彼に近い物が自分にあって良かったなんてふと思いながら、息を吐きだした。
頭上で振り上げられているであろう刃によって私の首と胴はあっさりと泣き別れになるのだろう。
「冬馬、来ちゃいけない」
私が屠られる瞬間だけは冬馬に見せてはいけない。
神様、卑屈に生きてきたことを詫びるから、冬馬だけは来させないでください。
どうかそれだけはお願いします。
その時だった。足音が聞こえた気がした。
奇跡だ。誰かが来た。
でも、冬馬だけは来るな、来ちゃいけない。
さらにぼんやりとしていく意識で、もう一度だけまぶたを持ち上げた。
頭上で激しく火花が散り、硬質のものがぶつかり合う音が遅れて耳に届いた。
般若の面、少し癖のある巻き毛。手にしているのは布津御霊。
「一心」
急激に訪れる安堵感に唇が震えた。
とてつもない安堵感に声と身体が震えだした。
「なんでや、壮馬さん!」
私が言いたかった言葉を一心が口にした。
一心が必死なのは言うまでもないが、壮馬の方はこちらをちらりとみたがその表情に温度はない。
躊躇のなさが影響した力量の差はとんでもない余裕を壮馬に生む。
壮馬の力に完全に押し込められている一心の苦痛まじりの息遣いがきこえる。
「生身で黄泉に降りるなど本物にしか出来んことだ。 本物は存在してはいけない」
黄泉の鬼に選抜された一心はトップランクのはずだが、壮馬の前では力が出し切れない。
壮馬の手の中には深紅の卵大の石がある。
それを彼は足下の砂利の上に投げ捨てた。
一心が何とか阻止しようとかけだしたが間に合わない。
割られる。
古から繋がれてきた宗像の命が割られてしまう。
振り下ろされる切っ先は玉には届かない。一心よりも先にたどり着いた人間がいた。
「冬馬、来ちゃだめだったのに」
うるせえよと言うと冬馬はぐっと唇をかんでいた。
壮馬の刀をその肩で受けた冬馬は玉を一心の方へ足で蹴飛ばし、早く逃げろと声を荒げた。
冬馬はどうするというんだ。刀ごと壮馬を抑え込んで、あんたはどうするんだ。
一心が私を抱え上げてくれた。
こんな時に意識がもうろうとする。血を失いすぎた。
冬馬の名前も、もううまく声に出せない。
あんたも逃げてと言いたいのに。
※
遠くで規則正しいモニター音が聞こえた気がして、ゆっくりとまぶたを持ち上げた。
無機質すぎる見慣れない真っ白な天井をぼんやりとみあげていると、両腕には点滴がされていることに気がついた。おまけに酸素マスクまでつけられており、息苦しくてかなわない。
まだ生きているのかと口を開こうとしたら、喉がひっついてしまったようで声にならなかった。
覆い被さってきたのは咲貴だった。ぼろぼろに泣いたまま、顔をぐしゃぐしゃにしている。
ゆっくりと視線を動かすと、一心や時生、母さんにお爺様までいる。
「志貴、よく頑張った!」
一心がゆっくりと髪をなでてくれた。
何でこんなことになってしまったのかと問いたかったが一心が何も言うなと目で訴えてきたので、とりあえずは飲み込むことにした。
あれから、瀕死の私を熊野へ担ぎ込んでくれたらしい。
私は三日三晩、生死を彷徨いつづけ、奇跡的に只今は死を免れているようだ。
「道反はどうなってるの?」
今は心配しなくて良いんだと一心がそっと手を握ってくれたが、どうしても気になった。仕方ないかと覚悟を決めたような顔をした一心が顛末を簡潔に説明してくれた。熊野へ私を担ぎ込んだ後、すぐに黄泉の守りにでていた時生を呼び戻し、二人で道反に封印をかけて、壮馬を閉じ込めたそうだ。
「冬馬は?」
「ここにはおらへん」
一心の返事をきくまでもなくそんな気がしていた。
冬馬が私を抱きしめた時におかしいと思うべきだった。
きっと冬馬は私の身にこれが起きることを予期していたのかもしれない。
胸の傷口が恐ろしいほどにうずきはじめた。
「冬馬はたぶん何かに気づいていたんだね」
自分で言葉にしてみて初めて痛感する。
壮馬を敵に回してみて裏切られるというのは絶望なんて簡単な物じゃないんだと知った。
「総出で出雲へ向かったなんて馬鹿なことを穂積家にさせてないだろうね?」
責任感の強い者の多い穂積一族ならばやりかねない。最高会は止めてくれたのだろうか。
「穂積当主の命令で動いている」
祖父の京一郎がうっすらと目に涙を浮かべて言った。その声はわずかに震えており、私の絶望感を助長させた。
「止めてくれなかったのか?」
クズめという言葉だけは何とかこらえたが私の怒りはもう制御できるレベルになかった。
「出て行け!」
一心や時生が私をたしなめるように首を振ったが、もう無理だった。
「梅以外は出て行け!」
宗像だけでという響きの持つ言葉が咲貴や母、祖父を傷つけるとわかっていてもそれをしなければならないほどに私自身が追い詰められていた。
心のどこかで津島を信じられないわけじゃないんだと言い訳がましくあがいてみても良かったのかもしれない。でも、それも今の私にはできない。
すべてを悟ったかのような表情をして、わかったと小さく頷いてくれた咲貴が先導し母と祖父を連れて出て行ってくれた。
乾いた空気ばかり送り込んでくる酸素マスクを外した。辞めろと止めに来る一心を静かに手で制した。
まずは左手の点滴の針を抜き取った。ぽたりぽたりとシーツに血がにじみ出てくるが大して気にもならなくなった。
せめて傷口をおさえてくれと腕をしっかりとつかんでくれた一心の顔をじっとみた。
「売られた喧嘩だよね」
どうにも啖呵を切ることだけは上手になってきたようだ。
一心にゆっくりと身体を起こしてもらうと絶叫してしまうほどに痛い。寸手のところで、とっさに右腕にかみついて、小さなうめき声を一つで食い止めた。
「お前、阿呆か!」
「私を殺したいなら私だけにすればよかったのに!」
一心の顔が苦しげにゆがんだ。時生までもがうつむいてしまう。
「私だけが隠れていて良いはずがない」
だから行くのだとベッドから降りようとしたところで、一心が何も言わずに抱き上げてくれた。自分の首に私の腕を回させてから、ぐっとこちらをにらんだ。
「今度は自分の腕をかむなよ。 痛いなら、俺の肩をかんでこらえとけ」
私は視線をそらすだけ。それに一心が舌打ちした。
「なぁ、志貴。 梅の花ことば知ってるか?」
私はうなずいて梅の花ことばは不屈の精神だろうと言うと一心はそれだけじゃないと笑った。
「高潔」
時生がそう言って、すぐそばで意を決したように空間を大きく切り裂いて、黄泉の道を開いてくれた。
般若の面をつけた一心と時生と共に、私は黄泉へ潜ることにした。
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