第2話 白い炎に奪われた時間

 ひどく混乱していた。

 かがめという師匠の声と爆風、そして、血の匂い。

 何もかもが一瞬だ。

 現実味のない、どこかおかしな感覚と今まで感じたことのないレベルの恐怖が混在している。

 師匠の片腕がない。

 まだ思考が追い付いてこない理由は目の前に広がっている景色のせいだ。 

 ついぞさっきまであった木々がなくなっているどころか、まるで爆弾が投下された後のように、何の痕跡もなく、風景ごとえぐりとられている。

 悪鬼だけを焼き尽くす私たちの炎とは性質が違いすぎる炎が今、目の前にある。

 ただひたすらに白い炎。

 粘稠性の高い泥のような、生コンクリートのような見たこともない形状の炎。

 ゾッとする感覚の後、肺が締め付けられるような息苦しさを覚え、わずかに遅れてこの感覚が巧く唾が呑み込めないほどの圧倒的な恐怖なのだと理解した。

 目がどうしても一点をみつめたきり、そらすことができない。

 まるで金縛りだ。

 駄目だとわかっていても動けない。

 真っ白い異様な炎の中心には確かに人がいる。

 その顔を確かめようとした瞬間、ただならぬ状況を察した師匠の声が縛りを切り裂くように夜闇に響き渡った。

 見るんじゃないという師匠の声に、我に返った私はようやく視線を自分の意志で動かすことができた。口答えなどできる余裕などあるわけがなく、言われるがまま迷うことなく目を閉じた。

 間髪入れず、腰が抜けたままの腑抜けなこの私の身体を、師匠が残った片腕で抱え上げてくれた。

「逃げ切るまで、絶対に目を開けるなよ」

 師匠はそう言って、縦横無尽に走り出した。

 まるで伊弉冉に追われる伊弉諾の物語のように、振り返ることなく走り抜ける。

 汗をかくのが嫌いなくせに、獣道を器用に駆け下りていく。

 息が上がってきている師匠の声に素直に従うも誰かがせせら笑うような気味の悪い声が幾度も耳に届いた。思念を飛ばしてきているようで、全身が総毛だつ。


『お前は大丈夫だ』


 脳裏に突如として声が響く。それは師匠の声ではない。

 だが嫌な気のしない声。


『お前がやるんだ』

 

 また声がする。

 その瞬間、ひどい頭痛がした。


『お前がやれ』


 どこか懐かしい声の響きである気もするが、誰の声であるのかがわからない。

 やれと言われてもと眉を顰める。


『悪いが、勝手にする』


 何をと私が問うより早くに私の意識はそこでぷつりと途切れた。




 規則正しい寝息が聞こえ、ゆっくりと瞼を持ち上げる。

 戦闘の気配のしないやけに平和な空間にいることはよくわかった。

 目を覚ました時に視界に飛び込んできたのは白い炎ではなく、見慣れた古い杉板でできた天井だ。見慣れた傷だらけの柱があったからすぐに本家に戻されていたことがわかった。

 すぐ隣からは治療を受けたらしい師匠の寝息がきこえた。

 自分が何をしていたのか、よくわからずに、師匠の寝顔をみつめた。

 何をしていたっけと首を傾げた瞬間、ぞっとするぐらいの恐怖が蘇ってきた。


「白い炎!」


 ベッドから慌てて体を起こすと、自分の右腕に激痛が走り、夢ではないと悟った。

 傷口に手で触れてみるとその痛みの激しさにたまらず、声を上げてしまった。

 この私の声を聞きつけた母がものすごい勢いで部屋へ飛び込んできた。

 良かったともみくちゃにされながら、疑問符だらけだ。

 痛みの元凶に目をやると幾重にもまかれた包帯。この下には指先までしびれが走るほどの傷があるのだろう。 

 腕を持ち上げようとするだけで声が漏れるほどの痛みがある。

 私には怪我をした記憶などない。

「覚えてないとかないやろ」

 疑問の言葉が無意識にこぼれおちた。

 母の表情がわずかに曇り、だがすぐに、それを打ち消すように彼女はわずかに上ずった声でこう言った。


「あれだけ大変な山道を駆け下りてきたんだから傷くらいできる」


 違和感だらけのこの回答に、今度ははっきりと疑いを口にした。

「こんなに痛いなら覚えてるはずやろ」

 母は一瞬だけ目を見開いて、すぐにそらした。

 そして、見事なまでに歯切れの悪い答えばかりをならべ、もう直接目を合わせようとしない。

 年より若くみられがちで、豪快そのもの、竹を割ったような性格の母。

 嘘のつけないこの人は確実に何かを隠そうとしている。

「もういいんだってば! 何もなかったと言ってるじゃないか!」

 珍しく声を荒げる母の手から紅の仮面が滑り落ちた。

 よくみると、母の髪は雨に濡れていたのか、汗なのかびっしょりだ。

 それにマントも着たままだ。

 仕事もそこそこに片づけ、慌ててこの場へ舞い戻ってきていたのだとようやくわかった。

 このやりとりに片腕を失くし、とんでもなく痛いはずの師匠が目を覚まして、私の名前を呼んだ。もう追求するなというニュアンスがこめられている響きだ。

 それが例えようもないほどに無性に悔しかった。

 ふいに怒りがこみ上げてきたが、すっと視線をうつすと、そこには血を失いすぎたのか今や土気色の肌をした男の顔があり、私のチープな感情はあっさりと吹き飛んだ。

「お前が気を失うから悪いんだぞ。 俺なんぞ、腕持っていかれたんだからな」

 あっけらかんと豪快に笑って見せる師匠の顔をまっすぐに見ることができなかった。自分をかばって失ったのだから余計にいたたまれない。

 彼が単独であったならばひょっとしなくてもこんな怪我はしなかった。

 自分の未熟さが生んだ現実がこれだ。

 おそるおそるもう一度、ゆっくりと師匠である男、伯父の宗像公介の方へ目をやると、彼は一つだけ頷いてみせた。

 いつも飄々として、緊張感のない笑顔がトレードマークのはずの公介が眉間にしわを寄せている。 

 念を押すように、公介は目くばせをした。

 あふれんばかりの言いたいことはもう封じられるしかない。

 唇の内側をかんで、公介の言葉通りに飲み込むしかない。

 公介はむかつくが、間違いは犯さない。

 腐っても伯父なのだし、それに逆らう必要もない。

 思う所はあっても今は待つのが正解なのだと言い聞かせた。

 公介はそっと体を起こすと、無事だった方の腕をわざわざ伸ばしてくる。

 今度は伸ばされた手から逃れることはせずに黙って撫でられることにした。

 頭をなでられながら、今は飲み込むしかないのだと再度、言い聞かせ、目を閉じた。

 身体は疲れ切っており、そこら中が筋肉痛や打ち身だらけだった。

 公介になでられて、こうやって目を閉じていると、いくらでも眠れてしまう気がする。

 身体が沈んでいくような感覚がして、私は不覚にも眠りに落ちてしまった。

 その結果、伯父が何を思って、この部屋を出ていき、姿を消したのか、その意図するところを何一つ聞くことができなかった。

 あの時、真実、何が起こったのかを知る唯一の人間が消え、私は成り行き上、たった一人で黄泉使いの大家である宗像家を背負うこととなった。




 死後、人間はしばらく己の生の学びを得る旅に出る。

 死して終わりでないというのはこのためだ。

「汝は何であるか?」 

 これが最後の問答となる。

 天国と地獄のジャッジの問答と言うわけだ。

 これを見事にクリアできた者、つまりは学びを悟り得た者から順に真実の死を許される。

 死を許された者は冥府にある審判の門をくぐり、黄泉にあるとされる真実の泉で新たな名を与えられ、全ての苦痛が取り除かれ、魂の再生の場へ進むことが許されるというわけだ。

 これが、俗に言う天国だ。

 これとは逆に学びの得られない魂は人型を保ち、生前同様に様々な苦痛を感じ続けながら、現世にとどまることになる。

 とどまればとどまるほどに、喜びや楽しみを司る正の感情は失われ、怒りと悲しみを司る負の感情に支配されることとなり、己の学びを遠ざけてしまう結果となる。 

 その上、運の悪いことに悪鬼はその負に傾いた魂を好んで食らう。断末魔の叫びをあげ、血を流す魂を悪鬼は食らい続ける。完全に食らわれつくすまで悪鬼の捕食は続き、最後の肉片一欠けになったとしてもあの世に行くことが許されない。これが、俗に言う地獄となる。

 地獄にはさらなる地獄がある。

 迷える魂の中には悪鬼に転成し、飢餓地獄に身を落す者もおり、魂を食い続けることだけが、飢えをしのぐ唯一の手段となる。悪鬼になった者に終わりは決して訪れることはなく、飢える感覚から永遠に逃れられず、狩られることだけが終わりを得る方法となる。

『悪しき者、死して許されることなし』

 地獄に落ちる魂は、ごく稀な例を除き、己を知らない罪深い人間ばかりだ。

 どうやら、肉体の死を迎えた後も、尚、学ばぬ者を徹底的に罰するというのが死後の世界の規定らしい。

 故に、死んだら楽になるは違う。死んだら終わりになるというのも違うというわけだ。

 だから、黄泉使いとして生きている性質上、自分自身に問いたくなる。

 吾は何であるか。

 吾は何者であるか。

 まだ、答えは見つからない。このままじゃ、地獄まっしぐら。

 くわばら、くわばらと話をそらしてみても、解決するわけじゃない。

 だから、迷いながらも、自分の魂に与えられた教育期間である寿命を生き抜くしかないのだろうと受け入れるしかない。


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