ヘレナ  2

「それがあなたの望みなの?」

「ええ、そうです。お姉さまにとっても、とても良い条件なのでは?」


 突然、私室にやってきて人払いをしたルイーズは、誓約書を渡してきた。

 感情の無い笑みを浮かべる妹を訝し気に見ながら、誓約書をもう一度最初から読み返す。

 そこにはルイーズが2度と侯爵家に関わらない代わりに家を出たあとこちらも2度とルイーズに関わらないという内容が書いてあり、ルイーズの署名がもうあった。


 確かにヘレナは未だに恐れている。実の妹でかつては守ろうと決意した、自分よりも当主としての素質があるルイーズを。


「あなた、本気なの?侯爵家を出ると言うことは貴族と言う身分も捨てることなのよ。もしかして平民として今までのように暮らせるとでも思っているの?」

「いいえ、まさか。私が市井に出れば悲惨な最期を遂げることは目に見えているでしょう。私は市井に身一つで出るつもりはありません。あるお屋敷に行きたいので、そのお屋敷に行けるように手配していただきたいのです。その後、私は侯爵家を頼ることは一切いたしません」

「・・・まさか、あの獣人のところじゃないでしょうね?」

「ええ、お姉さまのお察しの通りでございます。あの方の元に行くのに、身分は必要無いのです」


 遠い大国からやって来た獣人が爵位と屋敷を与えられ、自分の番を探しているという話は知っている。獣人が来た5年前、国中を騒がせた話題だ。


「あなた、番になれるとでも思っているの?」


 ヘレナは明らかな嘲笑を浮かべ、足を組んで真向いに座る妹を挑発した。


 引きこもっている屋敷の主人が次々と子息令嬢を追い返していることは有名な話だ。縁を持っておけば役に立つ、そんな邪な欲に振り回される獣人をかわいそうだとも思うが避けて通れない道だ。

 5年前から屋敷に入ってはいなくなっているのに、未だ繋がりを持とうとする者たちが後を絶たない。


 そんな中、国政の一端を担うドゥルイット侯爵家の次女があの主人の元に行くと言う。

 どんな笑い話にされるか、わからないわけではないだろうに。


 するとルイーズは冷ややかに姉を見つめ、口を開いた。


「お姉さまにとって都合の良い条件を出しているのに、私はそんなことまで話さなければいけないの?」

「っ!!」


 虚仮にされた憤りからヘレナは思わず立ち上がり、平然と見上げる妹を睨みつけた。


 この場にもし執事や侍女がいたら止めに入るか青ざめて立ち竦んでいただろう。もしくは、姉妹から漂う相手を拒絶する絶対零度のオーラに慄いて気絶していたかもしれない。


 姉が憤怒の形相で睨みつけているにも関わらず、ルイーズは平然とそれを見上げて、すでにぬるくなっていた紅茶を飲む。肝が据わっていて、元々の素質もあるのか相手を見定めるような目をしながら表情を変えず、淡々と物事を進める。

 ヘレナの怒りを買うと知りながらさっきの言葉を言った。そうしてルイーズへのコンプレックスが更に強くなり、顔も見たくないと思わせることまでも折り込み済みなのだ。

 そうして、ヘレナが絶対にこの誓約を交わすことも。


 そこまで考えてヘレナは大きく深呼吸をして己を落ち着かせた。

 妹のこういうところが嫌いだった。否、それは今もだ。唯一の救いはこんなにも扱いやすいヘレナを嘲笑うことがないことだろうか。


 学園という箱庭で、ヘレナはたくさんのことを学んだ。感情的な本質が直ったわけではないけれどそれを抑制させることはできるようになったし、友達もできて、貴族としての世界をもっと広く知って、勉強を重ねてきた。

 気に食わないという理由だけで、却下することはできない。自分はもう子供ではなく大人になったのだから、それがルイーズの思惑通りに進んだとしても侯爵家のことを一番に考えなければいけない。


「一つだけ聞かせてちょうだい」


 もう一度大きく深呼吸をして落ち着かせたヘレナは、冷静にルイーズを見据えた。


「会ったことも無い獣人のために、貴方はこれまでの全てを捨てるの?」


 貴族という身分は、たったそれだけで大きな責任と権力を持つ。責任があるからこそ権力を持っている。今まで貴族だから許されてきたこと、与えられるもの、権利や常識があって、その中でしかヘレナもルイーズも生きていない。

 それをルイーズは不要だと言う。貴族の身分を捨てるということは、庇護を捨てて平民として生きるということ。もしあの屋敷で何か粗相があった時、紹介者としてドゥルイット侯爵家に連絡は来るがそんな娘は侯爵家にはいませんと答えてしまえば、ルイーズの身分を証明するものはなく、身一つで生きていかなければいけない。


「――ええ、捨てます」


 聞かなくても強い覚悟を決めていたルイーズを、ヘレナはただ純粋に羨ましいと思った。

 そしてヘレナは誓約書の内容をルイーズと詳しく詰めたあと、共に署名と拇印を押した。


 夢見る少女の夢が壊された時、ヘレナは父が持ってきた縁談相手と結婚した。




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