Section7『強酸の雨』~時系列『現在』~

 雨は上がり、雲の隙間からは陽が射していた。

 今までの天候が嘘のように島全体が晴れている。木々はゆっくりと水滴を落とし始め、その水滴は泥の巣窟である地面に落ち、はじけた。

 どこからか出てきたアオガエルが朽ち木の表面をペタペタと歩いている。せせらぎの中で小鳥が気持ちよく鳴いていた。


 凶悪な自然の猛威から一転、あまりの変わりように、アンディ・リッチー一同は困惑を隠せないでいた。


「極端すぎない? この天気」ミラ・クラークははっきりと疑問を口に出した。


「極端すぎて安心できないよ」デズモンド・リースが防雨着の水滴を払いつつ言う。


 リッチーも二人に同意した。いくら極端な大自然を有する島だからといって、これでは「極端」のベクトルが違う。

 大荒れの天気だった時はそれはもう酷いものだったが、あまりの変わりように愕然とせざるを得ない。


「ここにいる神様、気まぐれなのかな?」ミラが言う。


「わからん……。無線機能が回復してるかもしれん、ヒビキ現場司令と通信しよう」


 リッチーは無線機を取り出し、周波数をジョンに合わせた。


「こちらアンディ・リッチー……応答願う!」


 無線はずっと砂嵐ノイズだけが流れていた。


 ダメか……と諦めかけた刹那、ノイズの中から「リ……チ……」と微かな声をキャッチする。


 リッチーは急いで、「応答しろ!」と無線にどなった。


〈……リッ……チーさん! 僕です! ヒビキ少尉ですよ! よかった、ご無事で……!〉


 リッチーはほっと安心した。ジョンが生きていた。


 ミラとデズがわっと歓声をあげる。


 その様子に歓喜したリッチーは無線に問うた。


「心配させてくれる……! いまあんたはどこにいるんだ? 現場司令」


〈島の南東付近です! 馬鹿でかいワニに食われそうになったり、大変でしたよ〉


 リッチーは南東の方を見た。それとジョンが今しがたした発言で気になることがある。


「『馬鹿でかいワニ』だって?」


〈えぇ、嘘のようですけど都市伝説をそのまま表したような大きなやつですよ。……リッチーさんは今どなたかといらっしゃるんですかね?〉


「ミラとデズモンドと一緒だ。カーティス准尉とハーヴは見ていない」


 相手が求めそうな情報を伝える。


〈そうですか、僕はひとりです。カイルさんとハーヴさんにも連絡はしているんですけど、向こうも取り込み中みたいで〉


「つながらないの?」とミラが割り込み通信でジョンに問うた。


〈ああ……もしかして交戦中かもしれない。とにかく研究施設を目指しましょう! あなた方はいまどの辺りに?〉


「北東付近だ。おたくさんと合流していくよりそのまま研究所に潜りに行ったほうがはやい」


〈わかりました、行けそうなコンディションですか? こっちは雨が上がってますが〉


「こっちも晴れている。先刻の天気が嘘のようだ」


 リッチーは青色と細長い雲の混じった空を見ながら言った。


〈ではお互い研究所を目指しましょう。一時間おきに通信可能な状態なら定期連絡をください〉


「わかった。では幸運を祈る、現場司令」


〈あなた方もねリッチーさん〉


 通信を切ると、先刻より表情の明るいミラとデズを見た。


「ということだ、行くぞ」


 リッチーはそう告げ、研究所を目指した。




 ぽつ、と水滴のような何かがリッチーの防雨着の肩に打った。

 リッチーは天を仰ぎ見る。いつの間にか陽は厚みのある雲の向こうに姿を消していた。


「また雨か」そう独りごちる。


「本降りする前に行こうか」ミラは相変わらず能天気な口調で言った。少なくとも彼女の脳内には太陽の下にお花畑があるのだろう。ミラはそういう女だ。


「リッチー……それ…………」


 震えた声を出したのは神経質な少年と名高いデズだった。


 ん? とリッチーはデズの視線の指すほう……自分の肩の先刻一滴の雨が落ちたところを見た。


 防雨着にちいさな穴が空いていた。焦げる煙とともにその穴は中に来ているバトルスーツを覗かせている。


「いったい、なんだ」


 思わず声が漏れてしまった。


「あぅっ」とミラが手についたなにかをふるい落とすような動作をする。


「ミラまで、どうしたの?」とデズが聞いた。


「いや、あの、なんかが手に落ちて、焼けるように熱かったから……」とミラは手のひらを見た。


 自分の手を見たミラはみるみるうちに蒼白していった。


 リッチーとデズはミラの手をのぞき見た。


 何かが泡立っていた。その泡は毒々しい血の色をしていて、ぼこぼこと沸騰している。


「なんだこれは……」


 そう言ってリッチーはふと頭に考えがよぎる。先刻の自分の肩についた雨の水滴あの部分はたしかに穴が空いていた。そして今のミラも水のようなものが手に落ちたと言っている。ということは――。





 三人の頭上の空が静かな唸り声をあげた。


「ねぇ、この島って、酸の雨が降ることってあるのかな?」デズが聞く。


「さぁね、でも逃げることしかできないんじゃない? あたしたち」ミラが空を睨みながらデズに返した。


 空から雨が。強酸の雨が。


「行くぞ!」


 三人は一目散に駆け出した。


 強酸の雨はみるみるうちに三人の防雨着を焦がしていく。


「ぐぅっ」とデズは躓き、転んだ。


「デズ!」リッチーが叫び、立ち止まって振り向く。


 たとえ自分が死の危機に際していても、仲間を見捨てることはできない。

 リッチーはそういう男だ。


「デズ! リッチー!!」ミラも立ち止まって振り向いた。


「ミラは行け!」リッチーが反射的に叫ぶ。


「で、でも……!」


「行け!! おまえのような娘だけが生き残ってたまるか! かならず、追いつく……!」


 リッチーは憎まれ口を交えつつ怒鳴る。


 ミラはほとんど泣きそうな顔で踵を返し、行った。


「デズ、大丈夫か」リッチーは彼の肩を抱き支えつつ言う。


「足をくじいたよ……」デズは体から酸の煙を撒き散らしながら答えた。




 強酸の雨は、しだいに勢いを増していく。


「置いていっても、よかったのに」とデズは呟いた。


「「死ぬ時は仲間も平等である」……。私の師匠が言っていた言葉だ……」リッチーはそう言って微笑んだ。


「素敵すぎる言葉だね。なんて名前だったの」そういうデズの声音は雨音に混じっていた。


「彼の名は、ヴィクター・バーンズ……」


 リッチーは雨が自分の体を焼き尽くすのを実感しながら答えた。




 ミラは研究所らしき建物に入り込み、防雨着を脱ぎ捨てた。

 格納庫と思しきその建物には見たこともない兵器が鎮座している。


 振り返り、無傷のデズとリッチーが追いかけてくるのを待ったが、二人はいつまで立っても来ない。

 格納庫のシャッターの外はザザッという雨音だけがむなしく響いていた。


 リッチーとデズが死んだ。ミラはそう実感する。


 ミラは泣きたかった。命を救われた二人に恩返しをしたいと思っていたが、それは叶わなかった。

 自分も酸の雨に打たれる痛みを感じながら死ねたら、どんなに楽だったか。


 しかし泣くことはできない。死ぬことも。


 ミラはそう誓う。自分が死ぬ時は、母親のアンジェリカ・クラークの「あなた、似てきたわね」に関する答えと、この作戦での功績をあげてからだ。



 まだ戦いは終わってないのだから。




 生存者――6/8人。

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