二階への足音
トントントントントンッと軽快なリズムの足音が扉の向こうから聞こえた。
階段を上ってゆく音。
「
「あー、姉ちゃんの……」
友博が、マンガから顔をバッと上げて僕の顔を見た。
瞼と唇がわずかに震えている。
「……うち、二階なんてないよ。マンションだし」
声も震えていた。
「あれ? そうだよな。なんで二階だなんて思ったんだろ。足」
「ちょっ!」
友博が手のひらを大きく開いてこちらへ向ける。足音が、と最後まで言い切る前に。
「な、なあ、ちょっとコンビニ行かねぇ?」
努めて平静を保とうとしているが、明らかに様子がおかしい。大きく上下しかけた肩を自身でぐっと押さえ、呼吸を落ち着けようとしている。
僕は空気を読んでゲーム機の電源をすぐに切り、スマホを手にして立ち上がる……しかし友博はドアの前まで行ったもののドアノブに触れる直前で動きを止め、立ち尽くしている。
友博と目が合うと、静かに
視線を再びドアの方へと移したとき、その音が聞こえた。
呼吸音。
静まり返った室内に、僕と友博の押し殺し気味な呼吸音――ともう一つ。別の呼吸音が――正確にはドアの向こう。そこに、まるで誰かがいるかのように、聞こえる。
気のせい。これは気のせい。だって友博の家には今、僕たち二人しか居ないはずだから。
友博の家は共働き。お父さんは夜遅いし、お母さんもこの時間はまだパート中。「二人とも居ないから
違和感を覚える。
さっきまでは何も気にせずに信じきっていたこと。どうして僕は、一人っ子の友博にお姉さんがいる、なんて勘違いしていたんだ?
音が増えた。
ドアの向こう側で、ドアの表面をゆっくりと撫でているような音。
全身がざわついて腕には鳥肌。
思わずつばを呑み込もうとしたが、乾いた喉を通り過ぎたのは、つばではなく音だけ。それでもその音がやけに大きく感じられて、ドアの向こうの誰かに聞こえてしまっている気がして、不安から鼓動が早くなってゆく。
友博も固まったまま。その表情を引きつらせている。
いったいいつまでこうして待っていればいいのだろうか。
早くこの場の空気が変わって欲しい、とは思うのだが、そのきっかけになるだけの勇気が湧いてこない。
それは友博も同じなようで、下唇が震えながらかすかに上下している。何かを言いたいけれど言い出せなさげに。
ふいに友博のスマホが鳴った。
「わっ」
僕と友博は同時に叫び、ドアから数歩、
二人して顔を見合わせて苦笑いする。
「ささやんからだ。明日の数学、小テストあるらしいって。マジかよ」
ささやんの入っている剣道部顧問の
僕と友博は同じタイミングで深呼吸していることにも気付き、今度は声を出して笑った。
空気が、戻っていた。
「コンビニ、行こっか」
「うん」
友博が今度はちゃんとドアノブに手をかける。
ドアの外の気配はいつの間にかなくなっている――ように感じる。
友博はもう一度深呼吸をすると、一気にドアを開けた。僕は反射的に目を閉じてしまった。
「何だよ。ビビリだなぁ」
友博は笑いながらそう言ったけれど、ドアを開けてから友博が声を出すまでに何秒か間があったから、きっと友博も目を閉じてたはず。
「目にゴミが入ったんだってば」
僕は目をこするフリをしながら友博に続いて廊下へ。
見慣れた廊下。もちろん階段なんてない。トイレの前を通り抜け、すぐに玄関。
僕らは何に邪魔されることもなく靴を履き、無事に外へと出た。
コンビニへ着いた僕らはアイスを買い、駐車場で早速食べ始める。終始無言で。
冷たさを呑み込むたびに、背中に貼り付いていた寒気が誤魔化されてゆくように感じた。
食べ終えたアイスの棒に当たりがないことを確認してゴミ箱へと放り投げたとき、友博がようやく
「俺さ、もうずっと長いこと信じ込んでいたっていうか、受け入れてたっていうか、騙されていたっていうか……うちに二階があるって。あと、俺に姉ちゃんがいるって」
僕もそうだ。友博の家に二階はないしお姉さんもいないし、そんなの分かっていたはずの僕だって、いやしない不自然な存在を認めかけてしまっていた。
でもそれを友博に伝えてしまうと、友博にとってのこの気持ち悪い体験がリアリティを増し過ぎちゃいそうで、それが何だかとても悪い方向に転がっていく理由になりそうで、僕は「気のせいだってば」と言うに留めた。
友博のために友博の言葉を否定していたつもりだった。だけど何度目かの「気のせい」を返した直後、友博は「もういい」と明らかに不機嫌になり、「じゃぁな」と帰ってしまった。
友博の背中の向こうに、いつの間にか暮れ始めている空。
僕も、自分の家へと向かって歩き始めた。
濃い夕焼けがまだ空の端っこに残っているうちに家へと着いた。
しかし、そこには見慣れた日常の光景はなかった。
光景とは、読んで字のごとく光の下で見慣れた景色のこと。玄関が暗いとそれだけで違和感を覚えてしまう。まだ真っ暗というわけではないが、玄関を照らす光が夕闇の毒々しい赤だけというのは心細い。
母さんは出かけているのかなと玄関ドアに手をかけると、やはり鍵がかかっている。
仕方ないなとカバンの底から家の鍵を漁る。暗いから視覚よりも指先の感覚だけが頼り――と、まさぐりながらふと見上げた我が家。
こういうときってなぜか思い出したくない記憶ばかり湧いてくる――うちは友博の家と違って、もともと二階がある。僕の部屋も二階。
二階――いやいや。考えない方がいい。こういうときは考えちゃダメだ――と、ちょうど見つけた鍵でようやくドアを開けて中へ。
わかってはいたが、家の中は真っ暗だった。
かかとで片足だけ靴を脱ぎ、脱いだ方の足で廊下へ一段登って手探りでスイッチを押し、明滅する玄関へ靴の方で飛び降り、鍵を閉める。
それからようやく靴を両方脱いで廊下へ――マジか。
廊下は明るくなっているのに、階段は暗いまま。スイッチは確かに二つとも押したのに。
思わずため息がこぼれる。こんなときに蛍光灯が切れているなんて――ああそうか、もしかしたら母さんは蛍光灯を買いに行ったのかもしれない。
本当はすぐにでも自分の部屋へ戻りたかったけど、なんとなく今は階段を上りたくなくてリビングへと向かう。
水泳の飛び込みで指先から水へ入るように、指先を照明のスイッチへ一直線に向けてリビングへ。足を踏み入れると同時にスイッチを押す。明るくなるリビングにホッとしつつも、台所の明かりまで余分に点けた。
それでもまだ気分は暗いまま。テレビのリモコンを探して、テーブルの上に千円札を見つけた。重し代わりに僕用の箸置き。
千円?
どういうこと?
念のためとスマホを確認すると、母さんからの連絡がだいぶ前にあったことにいまさらながら気付いた。
『おばあちゃんギックリ』
『ちょっと様子見てくる』
『遅くなったらごめん』
『もしもの夕飯代はリビング』
なるほど。だけど千円札が一枚って少なくないか。両手で千円札を広げ、リビングの照明に透かして見る。いまどき一人五百円じゃコンビニ弁当だって――背筋に寒気が走った。
どうして、なんで一人五百円って――僕しかいないのに?
トン。
何かが聞こえた。
トン。
どうにも階段を降りる音に聞こえる。
トン。
ゆっくりと、降りてくる音。
トン。
ちょ、ちょっと待て、誰が?
トン。
これはじっくり考えている場合じゃない。早く玄関から逃げ――いや、階段をこれだけもう降りてきていたら、玄関から丸見えだよな。
トン。
時間がない。降りてきちゃう。リビングから庭へつながるサッシの鍵を開ける。
トン、トン、トン。
「わーっ!」
足音が急に早くなったから反射的にサッシを開け庭へ出た。足音を聞きたくなくて出した声が、暗い夜空に呑み込まれる。
近所迷惑でごめんなさい。単なる勘違いとかならいいんだけど、あの足音は本当にリアルだった――と、立ち止まって思考しているいまこの瞬間が不安。オカルトでも本物の人間でもどっちでも怖いしヤバい。そのまま庭から玄関の方へと走って回り込み、靴下のままだけど門を開けて通りへと出た。
靴もスマホも財布も家の鍵も全部置いてきてしまった。手元には千円札が一枚のみ。いやないよりはマシだし、とか立ち止まっている間にも背後がゾワゾワする。とにかく――そうだな。駅に行こう。
千円札をポケットにつっこんで駅に向かって歩き始める。父さんも残業がなければそろそろ帰ってくる頃だろうし。
なだらかな坂を急ぎ足で降りてゆく。
車は時折通り過ぎるけど、人とは全然すれ違わない。靴を履いていない恥ずかしさよりも、人の居ない不安の方が強い。それにこの道は街灯が少ない。おまけにまだ電気の点いていない家も多く、街そのものが闇に溶け込んでいるようにすら感じる。
その流れで道の右側に急に開けた視界、遠くの方に駅近辺の明るい光が見えて、そちらが駅への近道だということもあり、僕は一歩踏み出してしまった――古い、長い、石階段に。
階段。
降り初めてしまってからその単語が頭の中をぐるぐると回る。
階段。
さっきの帰り道ではこの階段を避けてわざわざ遠回りの坂道から帰ったっていうのに、どうしてこんな状況で――理由は言葉にするまでもない。焚き火に近づく蛾のように、この暗い石段の向こうに開けた駅前の明るさに惹かれたんだ。
ただひとたび暗闇に踏み入ってからは、夜の海に入ってしまったような不安がざわざわと押し寄せる。
いや、ここは家のあの真っ暗な階段とは違う。階段の途中にも街灯はあるし、それに第一この階段を降りなければ駅まで五分は余計にかかる。その間に父さんとすれ違ってしまったら、僕はずっと駅で待ちぼうけることになる。
どうして千円じゃなくスマホを持ってこなかったのか。いまさら悔やんでも仕方のないことなのだけど。
「ただの石段だ」
階段ではなく石段。言葉の綾かもしれないが、表現と響きを変えただけでもずいぶんと心が軽くなる。それもわざわざ口に出すことで。
こういうとき周囲に人が居ないのはありがたいな、と何段か降りたとき、僕は気付いてしまった。すぐ後ろに足音がついてきているって。
足音は僕のと似ている。つまり靴じゃなく靴下みたいな足音。
「りょーくん」
僕は固まった。すぐ後ろから声がしたから。驚きの声すら出せなかった。
「りょーくん」
もう一度、同じ人の――女の人の声。それも聞いたことがある声。
僕の、ずっとずっと忘れていた記憶が呼び覚まされる。僕はこの声を知っている。間違いない。友博のお姉さんの声だ。忘れるはずがない。だって僕の初恋の人だから。
強張る首に力を入れて、僕は振り返ろうとした。
「ふりむかないで」
「はい」
僕は再び前を、石段の向こう、遠い駅前の光を見つめる。
「かいだんではふりむいたらダメ」
「はい」
はい、とは答えたけれど――思考が現実に追いついていかない。そもそもこれは現実? 友博の家で足音を聞いた。あのとき、僕は友博のお姉さんのことを一瞬だけだけど思い出した。それでも友博の家に二階がないのは間違いないし、なんであのとき、友博にお姉さんなんかいないって考えちゃったのかも謎だし。
そういやさっき僕の家でも――僕にも、忘れてしまっている人がいる?
「ともくんが、にかいにつれていかれそうになってるの。たすけて」
「友博が? それよりお姉さんは」
「ともくんは、まだまにあうから」
「まだ」という表現が引っかかりはしたけれど、間に合うというのであれば急いだ方がいいのは明白だ。
「どうすればいいの?」
「うちのげんかんから、にかいにいける」
「いける」という言葉の途中で声が遠ざかってしまう。足音と一緒にあった気配も今は何も感じない。振り向くなと言われたから、確かめられないけど。
深く息を吐きながら見下ろした石段は、さっきより若干暗さが薄まっている気もする。
僕は急いで石段を下まで降りきり、友博の家があるマンションへと走った。
マンションの入り口、管理人室はもう窓にカーテンが降りていた。オートロックではないのでエレベーターホールまで突っ切って、一階に降りていたエレベーターに乗り込み七階を押す。
エレベーターが上っている間、ここまで走ってきたとき同様に、友博のお姉さんの声を心の中で反芻する。今流行りの異世界に行ってたのかな。それで記憶からも消えていたのかな。友博を助けたら、友博のお姉さんも戻ってくるのかな。今度会えたら、好きですって言ってみようかな――なんて。浮かれていたわけじゃない。少しでも前向きになれそうなことを考えないと、足が震えて前へ進めなかっただけ。
それがわかったのは友博の家の前まで来たとき。
僕は扉の前で立ちすくんでしまった。扉が、わずかに開いているっていうのに。
お姉さんの声が、記憶の中で薄れつつあるように感じているからだろうか。お姉さんがいなくなったときも、こうして記憶から消えてしまったのだろうか――いや、消させない。
僕はお姉さんにお願いされたんだ。友博を助けてって。友博とあんな気まずいバイバイのままもう会えなくなるなんて絶対に嫌だし。
僕はドアの隙間に指を挿し込み、一気に扉を開いた。
階段があった。
さっき来た時には廊下だった場所に、ほぼ全て塞ぐ形で上階へと続く階段が。
階段の先は真っ暗で、どのくらいの長さがあるのかも見えない。さっき自宅で見たあの暗い階段を思い出し、足が震える。このためらいは、決して靴下が汚れているからじゃなく。
友博はここを上っていったのか? こんな足がすくむ場所に。
『りょーくん』
『たすけて』
お姉さんの言葉を思い出す。思い出したのか、それともまた聞こえたのか、いやどちらでもいい。動け、動いてくれ、僕の足!
トン。
足音?
トン。
またひとつ。遠ざかっている? 友博が上って行っている? そうだ。お姉さんはまだ間に合うって言っていた。
「友博っ!」
真っ暗で見えないけど、そこに居るんだったら。
僕は息を止めて階段を駆け上った。
友博を助けて、それからお姉さんも助けて、そして皆で無事に――あれ?
階段を上りきった?
「りょーくん」
すぐ後ろで声が聞こえた。お姉さんの声。上がりきったってことは振り返ってもいいんだよね?
「お姉さん! 友博は」
どこ、と言う前に、言葉を失った。
階段が見当たらない。僕がたった今、上ってきたはずの階段が。
「
真っ暗闇の中で、お姉さんの声が聞こえた。
ここが二階ではなく似界という場所であることが何故かわかる。そして何かが、幾つもの何かが、僕の足を撫で始めた。
<終>
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