やみ地蔵さま

『人が死ぬ病院の近くにあるお地蔵さまはね、やみ地蔵さまって言ってね、決して手を触れちゃいけないんだよ』


 ばあちゃんが生前、よく言っていた言葉だ。

 僕が小学二年生まで住んでいた家の近くに、そういう病院とお地蔵さまとが在った。その病院は当時の地元では一番大きな病院で、うちの前の坂を登り切った所にそびえ立っていた。

 僕の通っていた小学校は病院とは反対側、坂を下ってしばらく行った場所にあるのだけれど、帰り道に坂を登る時、否が応でもその病院が視界に入る。

 ばあちゃんに何度も何度もおどされていたせいで、その病院の威圧的な灰色の塀が見えるだけで、やみ地蔵さまの存在をすぐそばに感じてしまう。だから病院が見えないように、いつも俯きながら坂を登っていた。


 そんな僕を見て、声をかけてくれた子が居た。


「なにか、いやなこと、あったの?」


 二年生に上がった春、僕んちよりももう少しだけ坂を登った所に引っ越してきたさやちゃんだ。

 彼女は運動が得意で、男女問わず誰とでもすぐに仲良くなる子。あっという間に人気者になった彼女に対し、もともと地元に住んでいる僕はというと、能動的に行動するのが苦手だったせいで友達はほとんど居ない。彼女が次々と友達を増やしてゆくのを他人事みたいにぼんやりと眺めていた。家はとても近いけれど、遠い世界の住人のように感じていたのだ。そんなさやちゃんが話しかけてきたのだから、僕は少なからず緊張した。

 でも僕は、彼女の心遣いを素直に受け取らなかった。集団下校のグループで、坂を登って帰るのは僕ら二人しかいない。他にお友達が居なかったから僕なんかに声をかけてきたんだろうな、などと考えた。それに、彼女が気にしてくれた「いやなこと」を話すにしても、あの病院ややみ地蔵さまに対して僕が勝手に感じている不安や脅威をうまく言葉にすることは出来なかったから、僕は言葉を濁して返事した。


「……うん、ちょっとね」


 するとさやちゃんは、笑顔でこう言った。


「だいじょうぶ、だよ」


 何が大丈夫なのか、わからない。僕のこのうまく説明できない気持ちだってよく知らないくせに。そんな歪んだ心の壁を作りかけた僕の手を、さやちゃんは、ぎゅっと握ってくれた。チョロい僕はまんまと恋に落ちた。初恋だった。


 不思議なものでそれ以来、ただ苦痛でしかなかった学校帰りの登り坂も、さやちゃんと一緒だとやみ地蔵さまのことを考えずに済んだ。

 僕の人生がそのまま「めでたし、めでたし」に向かって進めば良かったんだけれど……忘れもしないあの日、僕がさやちゃんと人生初の相合傘をした日、まさかあんなことになるなんて。




 その日の空は、朝から重苦しい灰色だった。その灰色が、あの病院の城壁みたいに高いコンクリート塀の色と同じ色だなって気づいちゃった僕は、外に出ること自体が怖くなってしまった。外に出ただけでもう、病院の塀に取り囲まれてしまう、そんな不安でいっぱいになって。

 学校へ行く服に着替えるときも、腕がなかなか袖を通らない。ズボンを履くときだって、うまく着替えられない。わざとじゃない。本当にうまくいかないんだ。


「ちょっと! まだ着替え終わってないの? 母さんもう出るからね」


「……ちゃんとじゅんび……してるよ」


「急ぐのよ。遅刻しないようにね。あと、傘、忘れないようにね!」


 バタバタと階段を下りて行く音の後、玄関が勢いよく開く音、閉まる音とが続く。僕はなんとか着替え終わり、ランドセルを持ったまま一階へ降りて行く。リビングでは、ばあちゃんが母さんの朝ごはんの皿を片付けていた。


「なち君、今日はずいぶんゆっくりさんだねぇ。慌てるのはよくないけれど、のんびりし過ぎもよくないよ」


「わかってる」


「さ、よく噛んでお食べ」


 チーズが乗ったトーストを一口かじる。いつもと違ってなかなか飲み込めない。気持ちが重たいと、体も動きも重くなるみたい。


「なーちーくーんっ!」


 表からさやちゃんの声が聞こえた。もうそんな時間なのか……さやちゃんと一緒なら、こんな気持ちのままでも学校まで行けるかな。


「なーちーくーん? さーきーいーくーよー!」


 僕は慌てて椅子から降りた。さやちゃんが居なかったら、学校までなんて到底行けやしない。


「つづき、かえったらたべるから」


 僕は慌てて靴を履き、玄関を飛び出した。


「あっ、きたきた! なちくん、おはよー!」


「さやちゃん、おはよ」


「ぎりぎりだよっ。はしろ!」


「うん」


 僕はさやちゃんを追いかけて坂を駆け下りる。いつもの駆けっこよりもスピードが出ている。でもきっと、それは遅刻しかけていたからじゃない。必死に逃げないと、空まで広がった病院の塀の色に押し潰されてしまうんじゃないかって不安でいっぱいだったから。


 集団登校のグループに追いついても、合流せずに僕は走り続けた。立ち止まるのが怖かったんだ。すぐにさやちゃんが僕の横に追いついて来た。さやちゃん、なんだか少し笑ってる。そんなさやちゃんの笑顔が、僕に力をくれて、僕は校門まで走り続けることが出来た。


 教室に入って僕らはそれぞれ自分の席に着く。さやちゃんの周りにはすぐにクラスメイト達があつまりはじめる。僕らは席も離れているし、さやちゃんをとても遠くに感じる……ああ、気持ちがまた、空の重さに圧迫され始めた。だってさ、空は、僕が居る地上近くと空気でつながっているんだ。僕の見えていない後ろの空気が、灰色に染まっていたらどうしよう。その色に囲まれて、やみ地蔵さまが立っていたらどうしよう。そんな風にびくついていたら、いつの間にか給食の時間だった。


 朝ごはんをちゃんと食べていないのに、今日はあんまりお腹が空かない。僕の胃袋がこんなにも重たいのは、空の重たい色が僕の内側にまで入り込んできて、ぎゅうぎゅう押しているからなのかな。だとしたら、もう僕の体の中も半分くらいは灰色になっているかも。そんなことを考えていたら、余計に食も進まない。給食は、お昼休みいっぱいをかけてなんとか食べきることが出来たけれど、そのせいで、さやちゃんとお話しできる時間が全然なかった。


 五時間目の授業を受けているとき、誰かが「雨が降ってきた」と叫んだ。そこでようやく僕は、傘を忘れたことに気付いた。大事な傘をなんで僕は忘れてしまったのだろう。傘をさしている間は、坂を登るときも病院を見ないで済むのに。いつもだったら忘れることなんてないのに。自分の中にイヤな想いが溜まってゆくのを感じる。これって、もしかして、やみ地蔵さまのやみが……それ以上は、考えるのも怖くって、教科書を必死に何度も何度も読み返した。


 下校時刻が来て、雨はバカみたいに強くなっていた。どうして雨は透明なのに、雨の向こうの景色が見えなくなるくらい霞ませてしまうのだろう。下駄箱で靴を履き替えたものの、雨の圧倒的な暴力を呆然と見送っていた僕の肩を、誰かが叩いた。


「うわっ」


 僕の情けない声を笑顔で受け止めてくれたのは、さやちゃんだった。


「なちくん、かさ、わすれたの? だいじょうぶだよ。いっしょにかえろ!」


 そう言って差し出された傘の、さやちゃんの左隣に、僕は身を細くしながら収まった。歩き始めるとすぐに肩が触れる。ドキドキする。ちらりと横を見ると、さやちゃんの横顔がとても近い。またドキドキする。さやちゃんが何かを喋ると、傘の内側に反響してさやちゃんの声を独り占めしているような気持ちにもなる。またまたドキドキする。


 ちょっと前まで空の灰色に塗り込められかけていた僕の心は、いつの間にかカラフルな色の中に浮わついていた。さやちゃんの傘は無敵のバリアのよう。歩いている途中にいつの間にか始まったしりとりが終わらなかったこともあって、僕らは気付いたら、坂を登り切っていた。


「しりとりおわるまでまた、おりたりのぼったりする?」


 さやちゃんが僕ともう少し一緒に居たいと言ってくれている。そのこと自体はすごく嬉しかったけれど、現実に足が着いてしまった僕は、別のことにドキドキしはじめていた。

 坂の道は、登り切ったここで病院の塀に沿って左右に伸びるこの道とぶつかって止まる。T字路だ。病院の入り口は、右の方へちょっと行ったところにある。そして……ちらりと僕はそれを盗み見る……T字に道がぶつかるここには、お地蔵さまがある。ばあちゃんが触るなと何度も念押しする「やみ地蔵さま」が。


「なちくん、くるまっ!」


 さやちゃんが塀際に避難しながら僕の手を引っ張った。とっさに後退った僕の左足が、ばしゃんと、音を立てた。水たまりに踏み出してしまったのだ。弾かれた水が、僕の右足とさやちゃんの両足とを濡らす。


「さやちゃん、ごめんね」


「だいじょうぶだよ……でも、おじぞうさまにもかかっちゃったね」


 さやちゃんに引っ張られたせいで、お地蔵さまが……やみ地蔵さまが、すぐ近くにある。触っちゃいけないのに、近づいちゃった。触っちゃいけないのに、水をかけちゃった。どうしよう、触っちゃいけないのに……僕はパニック状態になりかけていた。


『お地蔵さまはね、救いを求める人をね、助けてくださる、ありがたーい仏様なんだよ』


 ばあちゃんの言葉を思い出す。いつも言われているアレを。


『でもね、そんなお地蔵さまの中にはね、すごく気を付けなきゃいけないお地蔵さまがあるんだよ。それがやみ地蔵さまだ。人が死ぬ病院の近くにあるお地蔵さまはね、やみ地蔵さまって言ってね、決して手を触れちゃいけないんだよ。病院にはね、助かりたい人がいーっぱいいてね、その人たちは、助けてとか、苦しいとか、痛いとか、死にたくないとか、そういう思いを抱えていてね、お地蔵さまはそういう思いを救ってあげようって毎日がんばってくださっているんだよ。でも大きな病院はね、患者さんの数が多い。たーくさんなの。いくらお地蔵さまでも全員の思いを救いきるのは難しいんだ。するとね、お地蔵さまはね、救いきれなかった思いを呑み込んじゃうの。自分の中にね、溜めるんだよ。病気のことを、やみ、とも言うんだけどね、そのやみをお地蔵さまはどんどん呑み込んでゆくんだ。そうやってやみを呑み込み続けたお地蔵さまはね、やみ地蔵さまになってしまうんだよ。見た目は変わらないよ。でも、やみ地蔵さまの内側には、患者さんたちの、痛みや苦しみや不安や恐怖や、それからやみそのものが、ぎっしりと詰まっている。お地蔵さまが救える思いに限界があるように、お地蔵さまが呑み込める思いにも限界があるんだよ。限界をこえて、やみ地蔵さまになってしまったお地蔵さまからはね、やみが溢れてきてしまうんだ。コップに水を注いで、入りきらなかった水がこぼれてきてしまうようにね。お地蔵さまがやみ地蔵さまになってしまうとね、その病院では人がたくさん死ぬようになってしまう。入院している人たちがね、痛みや苦しみにね、負けないように頑張る力が出せなくなってしまうんだ。だからね、人が死ぬ病院の近くにあるお地蔵さまには、手を触れちゃいけないよ。やみ地蔵さまになってしまったお地蔵さまはね、拝むだけにするんだ。拝めば、やみ地蔵さまの中のやみがちょっとだけ空に昇って浄化されるから。だけど触れちゃあいけない。毒の壺に手をつっこむようなものだからね、やみが移ってしまう』


 いつもは優しいばあちゃんだけど、この話をするときだけは、厳しい怖い顔をする。その表情を、声を、言葉を、僕が思い出していた間に、さやちゃんはお地蔵さまをハンカチで拭いていた。

 人がよく死ぬという噂のこの病院の、すぐ近くにあるこのお地蔵さまを……やみ地蔵さまを。


 僕は反射的にさやちゃんの腕を引っ張った。傘を持っている方の手だ。

 さやちゃんは驚いた顔で僕を見つめる。すぐ目の前に近づいたさやちゃんの顔は、少し困ったような眉になっていた。


「なちくん、どうしたの?」


 僕は慌てた。やみ地蔵さまの話は、さやちゃんに説明できるくらいには何度も何度も聞いて覚えている。だけどそんな話を、さやちゃんは信じてくれるだろうか。笑われてしまうんじゃないか、嫌われてしまうんじゃないか、せっかくここまで仲良くなれたのに、もう口をきいてくれなくなったらどうしよう。


「またくるまがきた、と、おもったら、こなかった」


 僕は嘘をついた。だって、さやちゃんがやみ地蔵さまに触ることになったきっかけは、そもそも僕が水たまりを踏んでしまったから。僕が、さやちゃんに触らせてしまった。その事実に向き合うだけの勇気を、僕は持っていなかったんだ。


 都合がよいことに雨がまた強くなる。僕の言い訳は大粒の雨に流され、なんとなく家に帰ろうかという事になった。しりとりを再開することもなく、微妙な空気のまま僕らは坂を下る。坂を登った時と同じ相合傘なのに、僕の気持ちはこの坂のようにどんどんと下降していった。


「ついたね」


 先に口を開いたのはさやちゃんだ。僕はそれに答えようとした。でも「ありがとう」とか、「だいじょうぶ?」とか、「ばあちゃんのはなしをきいてく?」とか、いろんな言葉がのどで渋滞を起こしてうまく出て来ない。声の代わりに涙が出てきそうになった。でもなんで僕が泣くんだ。大変なのはさやちゃんなのに。幼心に自分の浅ましさに気付いてしまい、余計に泣きたくなった。


 さやちゃんは、雨が激しかったからか両手で持った傘を体にぎゅっと引き寄せている。そして右手を……やみ地蔵さまを拭いていた方の手を、傘の柄から離してこちらに向けた。白い手のひらが微かに揺れる。いつもの、さやちゃんの手のひら。やみが移っているようには思えない。僕はその手のひらを、涙をこらえながら、じっと見つめていた。


「なちくん、バイバイ!」


 その挨拶が、永遠のお別れの言葉のように感じられて、急に不安になった。焦った僕は必死に声を出そうとする。さやちゃんが向こう側へくるりと回れ右した瞬間、ようやくのどが通った。


「さやちゃんっ!」


 なんとか出せた一言。精いっぱいの一声。だけどさやちゃんは振り返ってはくれず、かわりに傘をくるくると回した。くるくる、くるくる、くるくる、と、そのまま傘は遠ざかって行った。

 僕はしょんぼりとしたまま、家へ入る。そうだ、ばあちゃんに聞くしかない。怒られたっていい。わざとじゃなかったんだ。事故だったんだ。さやちゃんだって、知らなかったんだから悪くなんかない。


「ばあちゃん!」


 返事はない。いつもだったら「おかえり」って声が聞こえてくるのに。まず台所に向かう。テーブルも台所も片づいている。リビングは……テレビはついているけれど、ばあちゃんは居ない。仏間にも居ないし、トイレかな。


 ぴちゃ。


「わっ」


 水の音がすぐ近くから聞こえて、僕は慌てて振り返ろうとして、その瞬間、やみ地蔵さまのことを思い出した。僕の家まで追いかけてきていたら、どうしよう。慌てて目を閉じて、振り返りかけた体を無理やりひねって元の向きに戻ろうとする……その勢いで転びそうになる。


「わぁ!」


 びしゃっ。


 踏ん張ったはずの足が滑って、僕は尻もちをついた。僕の肘の下敷きになったものからじゅわっと水が染み出る。それはランドセルにぶら下げていた給食袋。持ち上げてみると、ぴちゃ、と水が滴った。よく見たら僕の靴下もびしょびしょだ。これはとりあえず着替えた方がよさそうだ。

 ホッとして洗面所に向かった僕は、目の前に足の裏が二つあるのを見つけ、また転びそうになった。


 洗面所に、ばあちゃんがうつぶせに倒れていた。


 その時最初に思ったことは、僕はさっき、やみ地蔵さまを拝んでこなかったということ。水たまりの水をはねたのは僕なのに、触っちゃいけないとか、さやちゃんが触っちゃったとか、そんなことばかりで頭がいっぱいになって、やみ地蔵さまに謝るという基本的なことがまるでできていなかった。ばあちゃんが倒れているのは、やみ地蔵さまのたたりなのかな。僕のせいなのかな。悪いのは僕なのに、ばあちゃんじゃないのに。さやちゃんでもなくて、僕なのに。


 気が付いたら、走り出していた。土砂降りの中を、傘をさすのも忘れて、川のように流れる坂の表面を駆け上がる。顔や体にぶつかるうるさい雨粒も、足元に絡みつくバシャバシャとした水の茂みも、あんなに怖かった病院からの威圧感も、全て振り払うようにして、僕は坂を登り切った。


「やみ地蔵さま、さっきはごめんなさい。水たまりをはねてしまってごめんなさい。悪いのは僕です。ばあちゃんじゃないんです。さやちゃんも悪くありません。ばあちゃんも、さやちゃんも、助けてください。お願いします!」


 心の底から祈った。それから深くお辞儀をして、今度は病院の入り口へ、受付へと走った。


「ばあちゃんが倒れているんです! 助けてください!」


 運よく戻ってきた救急車がいて、僕はそれに行きも帰りも乗せてもらい、ばあちゃんは病院へ入院した。すぐに手術が始まり、手術が終わる前に母さんも到着した。僕はそれで終わったつもりでいた。やみ地蔵さまにちゃんと謝ったから、これで何もかもだいじょうぶになると、安易に考えていた。

 僕は忘れていたんだ。

 お地蔵さまがやみ地蔵さまになってしまった病院は、患者さんが助かる力が弱くなるってことを。


 あとで母さんが教えてくれた。ばあちゃんの病気は、もう手術ではどうにもならない状態だったんだ、と。


 僕は毎朝、やみ地蔵さまを拝みに行った。学校に行く前に拝んで、学校帰りは拝んだあと入院しているばあちゃんのお見舞いにも行った。休みの日も、学校に行く日と同じように、やみ地蔵さまとばあちゃんとに会いに行った。


 ばあちゃんの病室は四人部屋で、ばあちゃんの他にあと二人、ばあちゃんと同じくらいのおばあさんが居た。僕が図書室で借りて来た本を読んであげると、三人とも喜んでくれた。僕に出来ることがあるのはとても嬉しい。嬉しいけれど、きっと僕はうまく笑顔を作れていなかったんだと思う。心の中には、さやちゃんのこともずっとあったから。

 さやちゃんは、ばあちゃんの手術が終わった日の深夜、僕と母さんが帰宅したのとちょうど入れ替わりくらいで、この病院に運ばれた。そしてここの病院では手に負えない病気だということが分かり、遠くの病院へすぐに運ばれていったらしい。

 やがて、さやちゃんのご両親も、さやちゃんの入院する病院の近くへと、引っ越していってしまった。あの雨の中でのバイバイが、さやちゃんに会った最後になってしまったんだ。

 ちゃんとしたお見送りもできなかった僕は、寂しかったし、同時にとても悔しかった。自分が無力であることに。そして何よりも、さやちゃんをそんな目に合わせることになってしまった自分自身の情けなさに。


 さやちゃんのことは、ばあちゃんには何も伝えてなかったけれど、僕が落ち込んでいたことをばあちゃんは見抜いていた。他の二人が面会室へ行き、病室に僕とばあちゃんだけになった時、僕を枕元に近づくよう呼んだ。


「なちくんは、何か悩み事があるね?」


 あの事を聞けるのは、このタイミングしかないかもしれない、そう考えた僕は、素直に肯いた。


「……うん……ききたいことが、ある」


「言ってごらん」


 口を開いて、閉じる。聞きたいことは決まっているのに、なかなか言えないでいる僕の頭へ、ばあちゃんは手を伸ばしてきて、優しく撫でた。


「もしかして、やみ地蔵さまかい?」


 なんでわかったんだろう。僕がばあちゃんの目をじっと見つめると、ばあちゃんは両手を広げて「おいで」のポーズをする。僕は求められるがままに応じ、ばあちゃんに抱きしめられた。


「……やみじぞうさまに……まちがってさわってしまったら……どうなるの?」


 目を見てじゃなかったからか、なんとか言うことが出来た。途端にばあちゃんの腕に力が入る。少し痛いくらいに。


「低いところに流れてしまった水はね、もう二度と高いところには戻らないんだよ。だから触っちゃいけないんだ。でもね、もしも……もしも間違って触ってしまったのならば……すぐに言いなさい。ばあちゃんが身代わりになるからね。ばあちゃんの方が低くなれば、ばあちゃんに流れるから」


 流れるという表現はなんとなく伝わったけれど、具体的な方法はまるでわからないままだった。もう少し細かく聞きたくはあったが、ばあちゃんの雰囲気に気圧されて、それ以上何も言えなかった。ばあちゃんのハグは、他の人が戻って来るまで続いた。


 ばあちゃんが家に帰ってきたのはそれから二日後のことだった。真っ白い着物を着て、眠っているようにしか見えなかった。


 お葬式の時、母さんがいま付き合っている人というのを紹介された。僕はまだ、ばあちゃんのことも、さやちゃんのことも、やみ地蔵さまのことも、全然整理がついてなくて、上の空で相槌を打っていたら、僕と母さんはその人の所に一緒に住むことになっていた。

 ばあちゃんが入院してからずっと、母さんはとても辛そうにしていたから、その人と一緒に居ることで母さんが少しでも楽になるのなら、それでもいいかなと、僕らの引っ越しの日までには思えるようになっていた。




 新しい家の近くには、病院も、やみ地蔵さまもなかった。だから僕は毎朝、あのやみ地蔵さまの方角を向いて、遠くのやみ地蔵さまへお祈りした。さやちゃんを助けてくださいって、毎朝起きてすぐと、毎晩眠る前とに。


 あれからどのくらい経つだろうか……二十年までは経ってない、くらい。朝晩のおまじないのようなお祈りは今でもなんとなく続いているが、そのきっかけになった日のことを、こんなにもまざまざと思い出すことは、随分長いことなかった。どうしてはっきりと思い出したのかというと、それは僕の目の前に今、あるもののせいだ。


 思い起こせば、今日は朝から曇っていた。昔住んでいたあの町の、坂の上のあの病院の、高くそびえる塀の灰色によく似た色の空。窓を開けて空の様子を見た時の、何とも言えない重々しさが、朝から僕を憂鬱にさせた。


 気が付いたら雨のニオイが部屋の中に広がっていた。まだ降り出してはいなかったけれど、こういう日は自転車に乗ると帰りが面倒くさい。僕は窓を閉め、ビニール傘をつかむと、いつもより早めに徒歩で職場へと向かった。


 職場からは車で客先へ向かう。幼い頃、やみ地蔵さまに願ったことを、自分自身の力でも出来たら……なんて、医学部を目指してみたこともあったけれど、僕の頭はそこまで良くはなかったみたいで断念した。それでも医療に携わって生きていきたいと選んだのがこの仕事、医薬品の配送ドライバー。

 毎回、納品リストの確認はするが、だいたいほぼ固定ルートだ。ところが今日はいつもの道が工事中で、迂回せざるを得なかった。この辺りは一方通行が多いから、ほんの少しのルート変更でも大きく回り込まなきゃいけなかったりする。そういうタイミングで、フロントガラスにぽつ、ぽつ、と水滴が跳ねては集まり、流れ始める。もう降り出したのか……僕は信号待ちのタイミングでワイパーを動かそうとして、固まった。


 流れ落ちない水滴の塊が目にとまったから。そしてその塊の形が、人の手のひらの形にしか見えなかったから。大きくはない。僕の手に比べたら半分くらいしかない、子どもの手のひら。その手のひらが微かに揺れた。その瞬間、幼き日の思い出が鮮明に、僕の中に蘇ったのだ。


 ああ、この手のひらは、あれだ。あの日の、さやちゃんのバイバイの手のひら。僕が、やみ地蔵さまに触れさせてしまった、さやちゃんの……。僕があの時、さやちゃんを追いかけて行って、この手に触れていたら、やみ地蔵さまからさやちゃんの中へ流れたやみの幾らかでも僕に流れてきて、さやちゃんはあんなに大変な病気にかかったりはしなかったんじゃないだろうか。取り返しのきかない過去に、胸が締め付けられる。本当に今更だけど……僕はその手のひらへ、自分の手のひらをそっと重ねようとした。


 けたたましいクラクションの音に背中を蹴とばされて、僕は慌てて車を発車させた。信号はもう青になっていたのだ。

 横目でフロントガラスを見ると、手のひらはまだ無事だ。心持ち控えめの速度で車を走らせ、一番最初に目についたパーキングへ、僕は迷わずハンドルを切った。さやちゃんの手のひらは、まだ残っている。そのことが僕から、手を重ねる以外の全ての選択肢を捨てさせた。


 エンジンを切り、フロントガラスの向こう側の手のひらをじっと見つめる。それだけでさやちゃんのことを、さやちゃんとの日々を、あの日の想いも色も匂いも、水たまりの冷たさや土砂降りの中を走った時の痛みまで、細かく全て思い出す。


「……さやちゃん」


 震える手のひらを、ゆっくりとフロントガラスに向かって伸ばす。やがて、冷たい、硬い感触が、僕の手の震えを受け止めた。

 手のひらの真ん中が、冷たい。ガラスに触れた瞬間の冷たさなんて比じゃないくらいの、芯に響く冷たさ。さやちゃんの手のひらが、どうしてこんなに冷たいのか。理由は考えたくない。考えたくないけれど、自然と溢れて出る涙の温かさが対照的過ぎて、その冷たさが、余計に心に凍みた。


 滲む視界の中に、ぼんやりと優しい笑顔が浮かぶ。フロントガラスの向こうに……なぜかはっきりと見えた笑顔……お地蔵さまだ。


 僕は思わず車を降りる。時間貸しパーキングの片隅に、小さなお地蔵さまが祀られていたのだ。さっきは気付かなかった。こんなところにお地蔵さまが……そのお地蔵さまの背にしているフェンスの向こうに白い建物があったことにも。僕はその建物が何か知っている。病院だ。僕のルートではないけれど、あまり良い噂を聞かない……ということは、このお地蔵さまは……やみ地蔵さま、なのか。


 僕は雨の中、走り出していた。病院の入り口へ、受付へ。別に今は、誰かが倒れていてその助けを求めているわけじゃない。それなのになぜ走るのか……自分でも説明がつかない。ただ、何かに突き動かされるようにして、走り続けている。顔にあたる雨粒は、あの日の土砂降りに比べたらほとんど気にならない程度だな……とか考えていたからだろうか、病院玄関付近のロータリーで、傘をさしている人にぶつかりそうになった。


 慌てて体を捩じり、その人にはぶつからずに済んだものの、水たまりの中へ無様に転んでしまう。何やってんだ僕は……この後、まだまだ納品が残っているってのに。


「あ、大変! 膝、すりむいちゃってますよ」


 傘をさしていた人の声だろうか。女性のようだ。でも僕はその人の顔ではなく、足を見ていた。黒い膝下丈のスカートに白いロングソックス。その白に点々と、僕がはねた水たまりの染みがついていた。あの日のさやちゃんの両足を思い出して、胸の奥がぐっと詰まる。


「これ、使ってください」


 目の前にハンカチを出され、僕はようやく、その女性の顔を見上げた。


「……もしかして……なちくん?」


 思考が絡まる。え、今、この人、なんて言った? 僕のことを?


「ねぇ、なちくんでしょ? わたしのこと覚え」


「さやちゃん?」


 頭の中が真っ白になる。さやちゃん? 本当にさやちゃん? あのさやちゃん? あの日、別れて、もう二度と会えないと思っていたさやちゃん? ……奇跡って、本当にあるんだな。


「あー、やっぱり! すごい偶然!」


「……さやちゃん」


 僕の目の周りだけ、局地的な大雨が降る。その僕の目に、いい匂いのふわりとしたものが優しく触れた。さやちゃんのハンカチ……僕はハッとする。やみ地蔵さまを拭いたあの日のことを思い出して、僕は慌てて立ち上がる。


「さやちゃんは、病院に……?」


 さやちゃんが生きていてくれたことは本当に嬉しい。でも、彼女がもしもいまだに通院していたとしたら、その原因は僕のせいだ。舞い上がってなんていられない。


「ああ、そうよね。なちくんは、引っ越していったあとのわたしのこと、知らないんだもんね」


「ごめんね、さやちゃん」


「いいの。なちくんのせいじゃないし」


 違うんだ。僕のせいなんだ。喉の奥にまた、言いたいけれど言えない言葉が溜まる。


「あの後ね、私ね、病気が良くなったの。お医者さんは奇跡だって……」


 奇跡って、本当に……と二回目の「あるんだな」を心の中で噛みしめようとした。


「でもね、代わりにわたしのパパとママが死んじゃった」


 背中がぞくりと戦慄いた。さやちゃんの、ご両親が……?


「なちくんは元気? どこか弱ったりしていない?」


 さやちゃんは僕の返事を待たず、颯爽と病院の門の方へ歩き出す。

 僕の記憶が間違ってなければ、さった今歩いてきたルートを遡っているような……いや、そんなことはどうでもいい。とにかく僕はさやちゃんの後を追う。


「丈夫、だよ!」


 心の中では、昔さやちゃんがよく言っていた「大丈夫だよ」が響いている。

 さやちゃんは「良かった」という声を残すと、驚くほどのスピードで病院の門を出て、すぐ横にあった時間貸しパーキングへと入って行く。僕は追いつくのがやっと。そして、さやちゃんはようやく立ち止まる。さっき見つけたお地蔵さまの前で。


「なちくんが丈夫なら、流れて行かないと思うから、安心していいよ……でも、念のため、補充しておかないと」


 さやちゃん? 何を言っているの? しかも今「流れて」って……ばあちゃんが抱きしめてくれた時のことを思い出……あっ!

 さやちゃんはやみ地蔵さまの額に手をあてた……さやちゃん、触れている? やみ地蔵さまに?

 混乱している僕を尻目に、さやちゃんは話を続けている。


「今ね、わたし、ボランティアで、入院している人たちのリハビリを手伝っているのよ。マッサージしてあげたりとか……パパやママの……お礼をね、ずっとしているの」


 そう言ったさやちゃんの横顔には、あの日の面影があった。あの雨の中、さやちゃんがやみ地蔵さまを拭いたときと同じ……一瞬だけだったし、僕が気のせいだと勝手に思って考えないようにしていた、白目のない闇色の目。




【終】

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