段畑

 深夜、胸元へ伸びてきた手に起こされた。

 この指付き……覚えがある動き。

 私はその手をペシンと叩き、手首をガッチリつかんでパジャマから引きずり出した。


「ちょっと、今夜はそんなことしないんじゃ?」


 小声で彼に抗議すると、彼はすまなさそうにてへぺろする。まったくもう……。

 そもそも我慢すると言い出したのは彼の方からだし、その理由も盛り上がって声が出たら彼の両親に聞こえてしまって恥ずかしいからだってのに。猿なの?

 ほら、こんなにしーんと静まりかえってたら、絶対聞こえちゃうって……なに耳すましてんの?

 今寝てても起こしちゃったら同じでしょ?


「どうしたのよ?」


「いや、こんなに静かなのはおかしい。虫の声すら聞こえないなんて……もしかしたら、天狗倒しが出るかも」


「天狗倒し?」


「ああ、裏の斜面の段畑の方から物凄い音がするんだ。でも見に行ってみると、何も倒れてないんだよ」


 そのとき、まるで彼の言葉をきっかけにしたかのように、ゴロゴロゴロッと大きな音が聞こえた。

 雷……ほどじゃないけど、確かに大きな音。


「行ってみよう。一度聞こえるとしばらくは聞こえ続けるから」


「え、怖い」


 怖い、と答えてしまったのが良くなかった。

 彼の何かのスイッチを押してしまったらしく、私は強引に外へ連れ出された。


 満点の星……と聞いていたけれど、生憎と曇り空。

 月にまで雲がかかっているから、ほぼ真っ暗……でも、生まれ育った彼はスイスイと先へ進む。

 手を引かれるまま歩いているうちに、次第に目が慣れてきた。


 その間も天狗倒しはずっと聞こえたまま……ん?

 音、近づいてない?


「近くない?」


「もうすぐ段畑だから」


「そうじゃなくて」


「大丈夫。誰も来ないから」


 都会育ちの私には異世界に感じられるくらい田舎な彼の実家は、隣の家との距離もちょっとある。

 ここでようやく彼の魂胆がわかった。

 家の中だと聞こえるとから、外で……ということか。

 もうどんだけ……えええっ。


 私は目の前に広がる段畑を見つめた。


 斜面に広がる段畑は、下から見上げると、巨大な石垣の隙間にわずかに緑の層が見えるだけだか、遠くからだと幅広い大階段のようにも見える。

 昼間のうちに別の丘の上から見せてもらったけど、本当に見事というか、美しい生活の知恵。

 そんな段畑の頂上付近に、人が見えるのだ。

 こんな時間、この暗闇、この距離でも見える人……ああ、あれは、と私は直感する。

 その直後、その人が段畑に飛び降りた。


 ゴロゴロゴロッ。


 凄まじい音を立てながら、段畑を転がり落ちてゆく。

 そして一番下の段まで落ちて来ると、納得いかないといった様子で首をかしげ、また段畑をよじ登ってゆく。

 彼はあの人が見えてないのか、立ち止まった私の襟元からまた手を差し入れてくる。


 ゴロゴロゴロッ。


 私が彼の手を再び止めさせたのは、一番下まで降りてきたその人が、じっとこちらを見つめたから。

 私はその人に気づいてないフリをしたが、その人はこちらへ向かってくる。

 ヤバい。ヤバいって!


「ごめん。お腹冷えたかも。トイレ行きたいから戻っていい?」


 彼は残念そうな顔をしたが、私の切羽詰まった顔を見て頷いてくれた。

 その間もあの人はどんどん近づいてきて、とうとう私たちの隣まで来た。


「ね、見えてるよな? 見えてんだろ?」


 私は努めて無視をする。

 お腹が痛そうにうつむき、彼の引く手に必死にしがみつく。


「な! お願いだから、聞いてくれ! お願いだから!」


 声の雰囲気が変わった。

 必死な感じが伝わってくる、その熱意が……怖さを上回り、私は立ち止まる。


「ありがとう、ありがとう……あのな、俺ぁ、本当は役者になりたかったんだ。生きてたときは戦争もあったし、毎日を乗り越えるのに必死で、夢をかなえるどころか口にするのもはばかられた。でもな、死んでわかったんだ。夢を残したままだと死んでも死にきれねぇんだって……それでさ、誰かにさ、一度でいいから拍手もらいたいんだ。後生だからさ、俺が階段落ち、うまくやれたら、拍手してくんねぇかな」


 その声が、私を熱心に口説いていた彼の声に似ていたから、私は静かに頷いた。


「ちょっと戻ろう」


「え、どうして?」


 と疑問系ながらも彼の声は少し嬉しげ。

 私たちが段畑の手前まで戻ると、あの人はすでに段畑の頂上で待ち構えていた。


 仰々しく両手を掲げたあと、チャンバラ風の寸劇を行い、そして斬られた……とこからの階段落ち!

 ダイナミックに転がりながら、途中で一度も止まることなく私たちの目の前まで落ちきった。


「あなたも、一緒に!」


 私が拍手しはじめると、彼もすぐ一緒になって拍手してくれる。

 こういうとこ大好き。


 深夜にしばらく拍手が響く。

 やがて、あの人は立ち上がり、深々とお辞儀をした。

 私が慌ててお辞儀をすると、彼も一緒になってお辞儀をしてくれる。

 二人で顔をあげたとき、あの人は消えていた。


「なに? また何か見えてたの?」


「あ、うん」


「仕方ないなぁ。今日はやっぱりちゃんと我慢するよ。生きていようがいまいが、他のヤツに見られたくはないわけさ」


 彼ははだけかけた私のパジャマの胸元をきっちりと直してくれる。


 手をつないでの帰り道。

 夜道は暗かったけど気分はとても明るかった。




<終>

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