鼻のきく男
ミチコは俺の目の前に倒れている。倒れているのに、半開きの目が、俺を見下ろしているようだった。
俺の手は震えている。今、何が起きたんだ?
いつものように、ミチコは俺にうるさく言ってきた。いつもだったら、俺は黙って聞いておくところだけど、今日という今日はガツンと言い返してやるんだと、意気込んでいたところまでは覚えている。
そこで何を言い返したかまでは覚えていない。
言い返した俺に対してミチコは、更に三十倍くらい言い返してきたんだ。俺はそれでもガツンと言い返す、そう決めていたから……なのに気づいたら、ガツンとミチコの肩を押していたんだ。
そこからのことはしっかりと覚えている。ミチコはスローモーションで倒れ、そして動かなくなった。目を開いたままってこれ、死んでるのか。死んじまったのか。俺はミチコを殺してしまったのか。
いったん落ち着こう。水だ。水を飲むんだ。
俺はミチコが倒れている玄関から目を反らし、すぐ横の台所で水道水をコップに注いで三杯飲んだ。
四杯目を飲もうとしたとき、視界を人影が横切って俺は慌ててコップをシンクへ落としてしまった。落ち着け、俺。まだどこにも通報していない。警察なんか来るわけないじゃないか。
うちの台所は玄関と同じ側の壁にひっついている。小さな曇りガラスがはめられていて、玄関前の通路を誰かが通るとそれがわかるのだ。
ピンポーン。
心臓が飛び出そうになる。チャイムの音が近い。けど、うちじゃない。隣の部屋か。
このアパートは安いだけあって壁が薄いからな。音だけじゃないぜ。ニオイも壁を突き抜けてきやがる。穴でも空いてんじゃないだろうか。それも美味そうなニオイなんだ。隣のヤツ、見た感じうちと同じくらい貧乏そうなのに、毎日美味いもん食ってやがるんだ。きっとあいつは昔有名料理店で働いていた元名コックとかだな。
俺は鼻がきくからな、そういうのがわかるんだ。
ピンポーン。
どうやら隣は留守のようだな。目の前の曇りガラスを人影がまた横切る。さっきとは逆方向へ。ぼんやり見えた色からすると、宅配業者っぽい。きっとあれだ。豪華食材とかを訳ありとかで格安に仕入れてるんだろう。
俺はため息をついた。そしてコップを拾い、四杯目の水を飲んだ。
俺は少し冷静になった。これからのことを考えないといけない。
ミチコには申し訳ないけれど、死んじまった女房より生きている俺だ。死体をどうにかして処分しないといけない。なんでそうスムーズに考えることが出来るかというと、俺はちょうどそういう仕事を始めたばかりだからだ。
始末屋。
死体を運んで埋めるだけの簡単な仕事だが、まさか最初に始末する死体が女房になるなんて……。
俺はもともと、れっきとした会社勤めをしていた。便利グッズを扱うセールスマンってやつだ。売れば売っただけ儲けが出る。俺は鼻がきくからな、売れそうな商品がすぐにわかる。すぐに大金持ちになれると思っていた。
だけど、現実ってのはそう甘かねぇ。
全く売れない場合は給料がマイナスになる。売るための商品を事前買取しなきゃならないからだ。しかも世間が俺のセンスについてこれないってことに気付くまで、ちょっと時間がかかっちまった。売れたり売れなかったりで給料はトータルでマイナスだった。だから転職したんだ。
次の仕事はトラックのドライバーだ。キツい仕事だが、キツいってことは給料がいいんだ。俺は鼻がきくからな、そういうことがちゃんとわかる。初期投資で中古トラックを借金して買って、馬車馬のように働いた。いや、どちらかというと馬車の馬じゃなく御者の方なんだけど。
とにかく頑張った。それなのにあれだ。あの事件だ。過積載の荷物が落ちて高速道路に散らばっちまったんだ。積めと言ったのは会社だったのに、会社は責任を全部俺に押し付けやがった。被害の補償金とかで俺の借金は膨らんだ。
この借金は、普通に働いてたらとても返せない。そう思うようになった。だからギャンブルに手を出した。俺は鼻がきくからな。はじめのうちは勝ってたんだぜ。なのに大金を賭けるようになったら負けが続いた。負けがこむと一度に大きな勝ちを狙うようになる。冷静になれば乗らない勝負にだって乗っちまった。
結局、借金はまた膨らむことになった。
そしたらさ、借金先の闇業者が仕事を紹介してくれたんだ。何もない部屋で宅配便が届くのを待ち、夜になったら届いている荷物をまとめて別の事務所へ運ぶだけっていう楽チンな仕事だった。ミチコに言われるまで気づかなかったんだ。それが宅配便詐欺の片棒担がされているんだって。
ミチコは犯罪はやめてと俺に何度も言った。でも俺は借金持ちだ。多少危ない仕事をしてでも、さっさと借金を返したかった。一度きっちり返して、キレイな身で再スタートできるのはその後からなんだ。
宅配便運びの仕事は、楽な割には給料が良かった。ただ、借金の利息は払えるんだけど、元本はほとんど減らなくて。それで俺は宅配便運びの先輩に相談して、教えてもらったのが始末屋だった。
日本では狼がいなくなったせいで鹿が増え続けて、今はもうどこにでも鹿が出るらしいんだけど、その鹿が夜中、山道で車にはねられることも増えているんだとか。その死体をそのままにしておくと、後から通った車が事故を起こすかもしれない。だからさっさと片付けてやる。昼間はお役所がやるんだけど、夜間は役所が閉まっている。小さな動物だったらドライバーが自分でどかすことも出来るけど、鹿は大きいから大変。
ということで始末屋の出番だ。
夜中に電話がかかってきたらトラックですぐに駆けつけて、適当な山の中に運んでいって穴を掘って埋める。鹿は山で生まれたから、山にかえしてあげるのが一番なんだって。深夜手当とかでいい金ももらえるし、俺だったら昼間の宅配便待ちの間に仮眠も取れるし、人助けにもなるし、とにかく最高の副業なんだ。
これならミチコも文句ないだろうと思ったら、俺が騙されてるとかわけのわからないことを言い出したんだ。そんなことあるわけないって。でもさ、先輩は宅配便詐欺の片棒担いでいるけど、根はいい人なんだ。俺に時々メシをおごってくれるし、それに必要になるからってニオイプリンターまでくれたんだから。鹿の死体はすごいニオイするらしくって、そのニオイを打ち消すのに使うからって。
ニオイプリンターって話題のやつだぜ。
何種類かのニオインクと調合レシピをセットしてプリントすると、どんなニオイも出せるって優れものだ。中古だってそんなに安かねぇんだよ。それをポンとくれるとか、悪い人のわけねぇだろ。俺は鼻がきくからな、ちゃんとわかるんだよ。
俺はさっそくニオイプリンターのスイッチをオンにした。
先輩が言うには、ニオイプリンターで死臭の補臭ってのを出せば、死臭が消えるってことなんだ。補臭ってのは、あるニオイのちょうど逆のニオイのことで、そのあるニオイってのを打ち消す効果があるらしい。色でも補色ってのがあって、ある色の光と、その補色の光とを混ぜると真っ白になるらしい。そのニオイ版だ。ニオイが真っ白、つまりキレイさっぱりなくなるのさ。技術の進歩ってのはすげぇよ。
で、死臭の補臭は、ここに調合レシピが書いてあるのさ……俺はニオイプリンターの下に隠しておいたメモ用紙を取り出した。
あれ、こんなにたくさん書いてあったっけ。俺、まだ落ち着いてないのかな。
台所へと戻り、五杯目の水を飲む。ようし、やるぞ。俺はやるぞ。
あらためてニオイプリンターの前に座り、メモを見た。
ニオイ調合レシピが三種類書いてある。1、2、3と番号がふってある。順番にプリントするのかな。もしかしたら俺は最初の一つしか見てなかったのかもしれない。
大丈夫。ここに隠してあったメモなんだから、これが死臭の補臭で間違いないはずなんだ。死臭ってやつは強烈だから、きっと三段階にわけてプリントするんだろう。俺は機械のことはよくわからないし、メモの通りにやるしかないんだ。
まずは一番目。調合レシピの通りニオイプリンターに入力する。これで……おおっ、何かニオッてきたぞ。
お、これ、好きだったタバコのニオイじゃねぇか。久しぶりだな。タバコなんて値上がりに値上がりを続けて、いまや高級品だよ。貧乏な俺にはとてもじゃないが手が出ない。どんだけぶりかわからない芳香を胸いっぱいに吸い込み、それからちょっとむせてから、俺は次のニオイの調合を始めた。
きたきた! 二番目のニオイ!
二番目のニオイは……昔ハマってた酒のニオイに似ている。若い頃はこればっかり飲んでたっけ。こうなると三番目が楽しみだ。続けて次の調合レシピを入力する。
三番目のは若い頃、毎日のように食べていたインスタントラーメンのニオイだった。一番目のニオイも、二番目のニオイも、まだ部屋の中に漂っている。この三つのニオイが混ざりあったニオイ……俺は急に、あるシーンを思い出した。
……ああ、あれだ。あの日のニオイだ。
あの日、大学生だった俺は、仲間と徹夜で麻雀を打っていた。賭け事ってよりは遊びだ。負けたヤツが勝ったヤツの指定したモノマネをする。似てなくともする。酒が入っていたこともあり、勝っても負けてもどんなに似てなくとも楽しかった。
夜食にあのインスタントラーメンを食べ、タバコをふかしまくり、俺たちは朝まで楽しく過ごしていた。そしていつの間にか雑魚寝しちまっていた。
明け方のこと。
俺はトイレに立った。他の三人はまだ寝ていた。
トイレから帰るとき、もう日が昇っちまっているのに気付いた俺は、カーテンを少しだけ開けたんだ。そこから射しこんだ光が部屋の中につーっと伸びてきて、この部屋唯一の布団を独占してたミチコの横顔を照らしたんだ。
ミチコの横顔はキラキラ輝いていた。こいつ、黙っていたらキレイなんだなって思って、俺はしばらく見つめていたんだ。
「ナニぼーっとしてんだい」
朝日のまぶしさに目を覚ましたのか、ミチコは俺に向かってそう言った。動揺した俺は、つい、うっかり、心に思っていたことをそのまま言っちまった。
「キレイだなってみとれてた」
そう、言っちまったんだ。すぐに我に返って、照れくさくなって、部屋を出た。
玄関は窓とは反対側で、そっち側はまだ暗くて、しかも寒かったな。部屋着のまま出ちゃったからさ、あまりの寒さにもう戻ろうと思って振り返ったら、そこにミチコが立っていた。
あれだけおしゃべりなミチコが、黙ってつっ立っていて、俺はもう一度ミチコをじっと見つめた。
「風邪、ひくよ」
ミチコは自分が羽織っていたタオルケットの半分で俺をくるんだ。
俺たちはタオルケットの中で、静かにキスをした。キスをしたあと、ミチコのヤツ、笑いやがるんだ。ふつうそこはしっとりとした空気になるもんだろ。ミチコはけらっけら笑いやがるんだよ。でもさ、いつの間にかつないでいた手はしっかりとつないだままだったし、俺がぎゅっとやったらミチコもぎゅっと返してきて、笑いまくってるけどキスは冗談とかじゃないんだなって俺は思ったんだ。
そのうち俺まで可笑しくなってきてさ。俺たちは笑いながら部屋へと戻った。その時の部屋のニオイが、こんなだった。
外の空気で鼻がリセットされたんだろうな。このニオイを、やけに濃く感じた……タバコと酒とインスタントラーメンの混ざったニオイを……あの日の、俺とミチコが付き合い出した思い出の朝のニオイなんだよ。
……俺は……とんでもないことをしちまった。どうして……俺は……ミチコを……。
「ナニぼーっとしてんだい」
ミチコの声が聞こえた。ミチコ……天国から俺に語りかけているのか?
「なんだよアンタ、泣いてるじゃないか」
俺とニオイプリンターの間に割り込んできたミチコは笑いながらそう言った。
「ミチコ……生きて……いるのか?」
「殺す気だったのかよ」
「違う……違うよ、ミチコ。事故だったんだ……俺……ミチコが死んじまったかと思って……」
ミチコは黙っていた。黙っているミチコが、なんだか妙にあの日のミチコとリンクして、俺はミチコを抱きしめた。
「ミチコ……約束する。俺、まっとうに働くよ。お天道様の下歩けないような仕事には金輪際手を出さねぇ。時間がかかっても地道に働くよ。お前と付き合うことになったあの朝のこと、思い出したんだよ」
ここでミチコも俺にぎゅっとしがみつく……と思ったら、バッと顔を放しやがった。ミチコは俺の顔をまじまじと覗き込む。
「アンタ……まさかアレ、試したのかい」
「試した? それってニオイプリンターのことか? メモの通りに調合したらこんなニオイになっちゃってさ」
「へぇ、こんなニオイなんだ。しかも本当に……すごい効き目」
「効き目って何のことだ? 俺にもわかるように言ってくれよ」
「アンタが嗅いでいるこのニオイ、あたしが取り換えておいたレシピなんだけどさ、うさん臭さの補臭ってんだよ」
<終>
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