ある夜に出遭った大きなマスクの女との一晩の想い出

 残業が深夜にまで及んだせいで帰り道はすっかり暗くなってしまっていた。

 この寒さの中、自宅近くの商店街はシャッターをしっかり着込み、それが余計に空きっ腹を寂しくさせる。

 いつもは比較的遅くまでやってる近所の定食屋も今日は臨時休業。

 切ねぇな。

 こんなことなら駅前で牛丼でもかっこんでくればよかった。

 いまさら駅まで戻るのはシャクだし、自宅の冷蔵庫には入っていたとしても缶ビールのみだろう。


 そういえば、と自宅手前で細い路地へ入りこんだ。

 この先の小学校の近くにコンビニがあったはず。

 足音に時々混ざる腹の虫の泣き声をなだめつつ、俺はそのコンビニを目指した。

 路地はやがて小学校の裏側につながる。

 学校側の壁の向こうはすぐ大きな体育館、逆側には古いマンションがいくつも連なり、この道はさながら深い谷底のよう。

 俺は最近建て替えたばかりというその立派な体育館を見上げながら歩いていた。そう、ぼんやりと。

 だからその人には勢いよくぶつかってしまったんだ。


「きゃっ」


 女性だった。


「わ、わわわ、すいません」


 よろけている女性の手を俺は慌ててつかんだ。


「あ……あの……大丈夫です」


 女性は恥ずかしそうに俺の手をはらう。

 花粉症なのか大きめのマスクをしているが、よく見れば美人だ。

 少し潤んだ大きな瞳が俺をじっと見つめている……睨んでいる?

 痴漢と間違えられた?


「い、いえ、わざとじゃないんです」


 事故とはいえ、助けようと思ってさしのべた手を払われるのってちょっと傷つく。

 彼女を安心させようと二、三歩あとずさってみた。

 それなのにその女は、ずいっと近づいてくる。

 おおっ! 赤いコートの裾から伸びる脚も綺麗じゃないか。

 俺の視線を感じたのか女は立ち止まる。

 街灯が照らす小さなスポットライトの下で、女の立ち姿はモデルのように浮かび上がっていた。


「わたし、キレイ?」


「う、うん……はい」


 エロ心に背中を押されて思わず即答してしまった――後で、その背中をびっしりと悪寒が駆けまわる。

 大きなマスク、赤い服、ワタシキレイって……。

 女は笑った。

 人間の口では物理的に作れないような大きなシワがマスクを歪ませる。

 咄嗟に逃げようとしたが足に力が入らない。

 というか口裂け女って足早くなかったっけ。


「そう……じゃあ」


 女は嬉しそうな声で、マスクを外す。ヤバいヤバいヤバい。


「……これでも?」


 やっぱり口が、裂けていた。

 耳まで裂けた傷口は皮膚が失われ歯茎や頬の筋肉まで赤く露出している状態。

 俺は何かを言おうとしたが、背中からはじまった震えが全身にまわり、口がガチガチするだけでうまく喋れない。

 これなんて答えたら助かるんだっけ……?

 とにかくこのままではマズイと思った俺はその裂けた口から目をそらす――どこへ――動かした視線が――口裂け女と目があった。

 口裂け女の瞳は潤んでいた。

 哀しい瞳。

 口裂け女ってどうして口が裂けたんだっけ。

 事故だっけ?

 マスクをしていた時、俺は彼女をすごく美人だと感じた。

 そう、美人なんだよ、この人は。

 俺は彼女の目を見つめながら答えた。


「貴女は、綺麗です」


 震えはどこかへ行ってしまっていた。


「綺麗です。本当に」


 彼女とはしばらく見つめ合っていた。


「あなた、嘘はついていないみたい」


 先に口を開いたのは彼女だった。


「ねぇ、ちょっとだけ、付き合ってくれる?」


 彼女はもうマスクをつけた。

 自分が生きているという事実が俺に勇気をくれた。

 話せば分かる相手という安心感、そしてもしかしたらこれはドッキリか何かでなんていう馬鹿な期待、あとはマスクをしてしまえば本当に綺麗な彼女にちょっと油断していて。

 ぐーぎゅるるる……と、腹の虫で返事してしまった。


「お腹空いてるの?」


 彼女は笑う。

 さっきみたいな歪んだ笑みではない。

 やっぱマジで可愛い。

 彼女の後をついて行きながら、俺はのんきに『本当は特殊メイクなんじゃねーの?』などと考えていた。


 どのくらい歩いただろうか。

 気がついたら彼女の部屋の前に居た。

 どこにでもあるような普通の二階建てアパートの一階の角部屋。

 彼女はドアを開き、どうぞとうながす。

 なんで俺はここに居るんだろう――ってか入って平気なのか?

 今頃になって恐怖が振り返す。


「早く入って」


「は、はいっ」


 彼女の声が少しだけ冷たくなったのを感じた俺は慌てて中に入る。

 というか今、コートの内側に大きなハサミみたいなものが見えたような……今更ながら、助けて!


「お腹空いてたんだよね?」


 靴を脱ぐのに手間取る振りをしていた俺にかけられた声は、また優しい声に戻っていた。

 そうだよな。

 彼女を怒らせたり悲しませたりしなければ平和的に生きて帰れるかもだよな。

 実際、彼女の姿を皆が知っているってのは、出会ったけど生きて帰ってきた人が居るってことだよな。


「うん……」


 俺は観念して靴を脱ぎ部屋へと上がった。

 口裂け女の部屋はアパートの外観から多分2DK。

 玄関とキッチンがあるこちら側には小さな赤いテーブルと赤い食器棚、冷蔵庫まで赤いの。

 向こう側の部屋は赤いアコーディオンカーテンで仕切られている。

 あの扉はトイレ――ドア一つだからユニットバスかな。

 生活感があるとホッとする。


「料理くらいできるのよ」


 そう言った彼女の瞳は可愛く笑っている。

 マスクをずっとつけたままだから恐怖も和らぐ。

 花粉症の美女なんだって必死に脳内変換をかける。

 頑張れ俺。乗り越えるんだ俺。


「向こうの部屋で待ってて♪」


 そのご機嫌な声にうながされるままに、俺はアコーディオンカーテンを開けた。


 ……第一印象は……真っ暗。


「あ、ごめんごめん」


 横から彼女がすっと部屋に入り、部屋の電気をつける。

 多分てへっと笑ってキッチンへと戻る彼女。

 改めて部屋を見回すと、壁際にはテレビとベッド。その上にはクマのぬいぐるみ、反対側には戸棚が並び、部屋の真ん中にはコタツ。

 恐らく窓がある場所にはカーテンと……あれ、カーテンレールにかかっている洗濯物……ブラと……。


「ダメぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!!」


 後ろから勢いよく突き飛ばされベッドへとつんのめる。


「見た? 見てないよね?」


 顔まで真っ赤にした彼女にちょっと萌えつつ俺は首を横に振った。


「ちょっとだけ目を閉じてて!」


 俺は慌てて目を閉じる。ベッドに横たわったままで……ベッドに……女子のベッドに……ほんのりと薔薇の香りがする。

 ヤバいなこれ。他のこと考えよう――そう。口裂け女の部屋は思っていたより普通だった。

 カラーリングが真っ赤であることを除けば。

 そういや下着もやっぱり真っ赤なのか……カップけっこう大きめだよな。


「そこ! ニヤニヤしない!」


 扉を開ける音とか閉める音とかしたあと、すぐ近くに薔薇の香りが近づいてきた。

 ベッドと同じ匂い。


「目、もう開けていいよ」


 目を開けた俺の目の前に彼女の顔があった。

 マスクをしたままだったけど――したまんまのほうがありがたいか――いや、実はさほど気にならなくなっていた。

 彼女はいつの間にかコートを脱いでいて、肩が露わなタンクトップにショートパンツ――部屋着も真っ赤なのか。

 というか、俺まで顔が赤くなっちまうなこれ。


「あとでたくさん見せてあげるのに」


 その一言になんかヤラレた。

 ズキューンと来た。

 思わず彼女の肩に手をのばし――た手が空を切る。

 彼女はすっと立ち上がったから。


「すぐ作るね」


 美脚が目の前を歩きはじめて……。


「逃がすかっ」


「きゃっ」


 俺は彼女の脚を両手で抱きしめた。


「ちょ、ちょっと、ごはんは……」


「うん、ペコペコ。だから今すぐ君を食べる!」


 指で触れている彼女の太ももは冷たく、俺の指にこもる熱はすっと吸い込まれてゆく。

 そこへそっと口づける。

 彼女の肌が描くラインを指と唇でなぞりながら、立ったままの彼女を次第に登ってゆく。

 ショートパンツのジッパーを手繰りで下ろしつつ、その上のフロントボタンを外そうとしたとき、俺のその手に彼女の指が重なった。


「ま、待って……あの……シャワー……」


 だが俺は構わずにボタンを外す。

 そして立ち上がりながらタンクトップをまくりあげた。


「ね、ねぇ。恥ずかしい。電気消して」


 俺は彼女をぎゅっと抱きしめる。


「俺を信じて」


 彼女はわずかばかりの戸惑いの後、照れくさそうにうなずいた。

 一枚づつ彼女を覆うものを優しく剥がしてゆく。

 さっきまで冷たかった彼女の身体は、まるで封印が解かれたかのように少しづつ熱を帯びてゆく。

 そして俺は最後の一枚に手をかけた。


「だ、だめ……怖い」


 彼女のはじめての抵抗だった。

 俺はマスクにかけた指を外し、彼女の頭を撫でた。


「全部、見せて」


 俺の中に恐怖はもうなかった。

 俺は口裂け女を本気で好きになっていたのだ。

 さっきはマスクしたままなら全然オッケーとか、失礼なことを考えていた。

 でもそれでは彼女はきっと救われない。

 彼女の額に優しくキスをしたまま、マスクを外す――彼女の肩がびくっと震える。

 俺はそのまま、彼女の裂け目にキスをした。


「……あ」


「痛い?」


「……わからない。胸がいっぱい……」


 痛々しい傷口をいたわるように、耳元から優しいキスを何度も繰り返す。

 そして最後に彼女の口に唇を重ねた。

 俺にしがみつく彼女の腕に力がこもる。

 そのまま口づけている俺の唇に温かいものが触れた。

 彼女の涙だった。次から次へと溢れてくる。

 キスをやめてもう一度彼女の瞳を見つめた。

 愛おしい瞳。


「ありがとう」


 今度は彼女の方からキスをした。


「ようやく、自分と向き合うことができたわ……本当にありがとう」


 え、ちょ……。

 俺はかけるべき言葉を探す。

 彼女自身のことも探す。

 たった今、俺の眼の前で、彼女は光に包まれて、消えた。

 

 俺はただ呆然と勃ち尽くしていた。


「ノオオオォォォォォォォォォォォォォォォ!!!」

 

 

 

 足の裏に湿った感触を覚えて我に返る。

 かび臭い部屋に残る窓枠からは月明かりが差し込んでいる。

 じくじくと湿度を含む床のあちこちからは雑草が生えている。

 ここはどこだ?

 とりあえず靴を履きたい。

 俺は周囲に落ちている荷物を慌ててかき集めると、情けない格好のままだったがとにかく部屋を出た。

 蜘蛛の巣を避けながら道路まで戻る。

 築40年、いや50年かと思うほどのボロアパート。

 彼女の部屋はがらんとしていたし、他に住人も居ないようだった。


 どうして……自然に涙が溢れてくる。


「ねぇ」


 反射的に振り返った俺の前に、赤いコートの女が立っていた。


「馬鹿野郎!」


 走りよって彼女を抱きしめる。

 そして勢いでマスクを外す。


「な、何よ!」


 キスをしようとして傷口の形が違うことに気づく……っつーか声もちょっと違う……三姉妹という単語が頭の片隅に浮かぶ。

 でも、遅かった。


「なんて男!」


 その口裂け女はコートの内側から大きな鎌を取り出すと、それを横に振りきった。

 まず飛び散る血飛沫が見え、そのあと鋭い痛みが喉を満たす。

 俺は死ぬのか?

 でも、それでもよかった。

 彼女にまた会える気がしていたから。まだ「好き」って伝えていない彼女に。

 

 

 

 一年後。

 メキシカン男という都市伝説が広まっていた。パンツ一枚の他は首から上は赤く染まった包帯でぐるぐる巻き。ただ、目だけが包帯の隙間から覗いているというマスクマン。

 夜道、マスクをしている女性の前に突如現れるとそのマスクを剥ぐのだ。

 マスクの下の顔を悲しそうな目で眺めると、奪ったマスクを棄てて走り去る妖怪。

 100mを5秒で走るとか電線の上をバク転するとかいろんな噂があったけれど、いつからか口裂け女の彼氏という噂が広まるようになった後、不思議なことにメキシカン男の目撃者は居なくなった。

 

 

 

<終>

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