私が愛した菌

「ああ、お風呂に入りたいわ」


 それが最近の彼女の口癖。いや、最近というよりは細菌か。そう……細菌ではあるが、彼女は私とは違って石鹸に触れることが出来る。

 彼女は私とは違う。ばい菌の私とは。

 

 初めて彼女を見たのは、無菌のガラス瓶の中だった。

 彼女自身は無垢ではあったが、彼女を産み落とした紅き果実は静かに腐敗しはじめていた。それでも培養槽の中の彼女は美しく、眺めているだけだというのに、私を言葉にできぬほどの喜びで満たす。

 ああ、このまま連れて帰りたい。そう思う自分に、さほど違和感は覚えなかった。それほどまでに彼女は魅力的だったのだ。

 

 周囲を見回す。

 ここは温度が高い。なんせ私が活動しやすいくらいだから……このままでは、いずれ彼女は私たちと同じ腐臭をまとうだろう。わかっている。私のパートナーとしては、むしろその姿のほうが相応しい。その腐敗を待つのが、私たちのあるべき姿であると、わかってはいる。

 なのに……。

 私はこの美しい菌を……彼女の美しさをそのまま留めたいと思ってしまったのだ。

 

 私は異常だ。

 ばい菌としては、最悪だ。

 だが、一度そうだと認めてしまうと、心はぐんぐんと軽くなる。まるで、心に羽根が生えたように。

 私の心は、陰鬱でじめじめした暗がりから、はるかなる高みへと昇ってゆく。これだけの浮力があれば、彼女が堕ちてゆくのを受け止められるかもしれない。

 自己満足に満ち満ちた夢想の中をひとしきり泳いだあと、私は彼女を迎える準備を始めた。

 

 腐敗した豆から出る粘りのある糸と、ふわふわの雲のような砂糖菓子から集めた糸。これら二つの糸を撚りあわせ、彼女のための布を作り出す。

 表面は私が触れられるようばい菌を保菌し、内側は彼女の無垢を穢さぬよう守る、そんな二面性のある布で彼女を覆ってゆく。

 私の研究所では私の分身たるばい菌が多く、彼女の美しさを蝕みかねない。急いで作業を進めた。

 彼女の菌糸を束ねて記憶を混乱させる装置を取り付けると、それごと頭にまで布を被せる。最後に布の表を、彼女が生み出された果実の色に塗る。

 目の前には、私とそれほど見た目が変わらなくなった彼女が居る。

 その布越しには触れることができようとも、決して彼女自身には……口づけどころかその頬にすら触れること能わぬ、永遠の片想い。

 ああ、私の尊厳が、存在理由が、彼女の美しさにより踏みにじられてゆく。

 ああ……。

 

「……ん…………あれ? ここはどこ?」


「こ、ここは……君のお城だよ、お姫様。ここにあるもの全て君のものだ。私自身も含めて」


「あなたは誰? っていうか、あたいがお姫様?」


「私……い、いや、俺様は……」

 

  

  

「ああ、お風呂に入りたいわ」


 それが最近の彼女の口癖。それは、彼女が愛するひとのために。

 まさかあんなヤツが現れるなんて……。

 彼女の中にずっと封じ続けていた真実が、彼女を本来の愛へと導いてゆく。ずっと道化に徹してきた私だったが、最近の彼女を見ているのは辛い。

 もう、潮時なのかもしれない。

 

「ちょ、ちょっと、何よいきなり!」


「お風呂に……入れる装置を開発したのだ」


「ほんと? それどこよ? 早く案内してよ!」


 彼女をあの装置の前へと連れてゆく。彼女を包みこむ私の最高の発明を……解く装置。何の疑いもなく装置へと入る彼女はうれしそうだ。

 皮肉なものだな。私との別れがだんだんと近づいてゆく今になって、彼女のこんなにも可憐な笑顔を見られるなんて。

 そうだ。この笑顔だ。私は彼女のこの美しさに惚れたのだ。

 だが彼女は、本来のパートナーのもとに居た方が、もっともっと美しく輝けるのだ。


「あ、そうだ。お風呂に入れたら、なにかお返しあげなきゃね!」


 いいんだ。お返しならもう、存分にいただいた。一緒に過ごせた時間のどの一秒さえも余すことなく、私の永遠の宝物なのだ。

 私は、出来る限りの笑顔を作ると、彼女に聞こえないよう「さよなら」を言った。と同時に装置を作動させるボタンを押す。

 

 みるみるうちに、彼女を包んでいた私の発明が解かれてゆく。彼女は笑顔のまま瞳を閉じて。どんな夢を見ているのかな。

 そして、記憶を混乱させる装置を取り外す。

 目の前に居るのは、私のような汚らしいばい菌ではなく、美しい一人のイースト菌だった。

 彼女が目を開く前に……私はもう一つのボタンを押すと、彼女を乗せたカプセルは空高くへと発射される。

 別れは一瞬だった。

 私の目の前には、さっきまで彼女を包んでいたあの布の欠片が、爆風に煽られてひらひらと舞うのみ。

 まるで、今の季節のようじゃないか。別れの季節って言うもんな。

 

 さよなら。私の愛しい菌。きっと、幸せになってくれ。

 

 

 

 さあ、いつまでもこうしちゃ居られない。

 私が……いや、俺様が元気じゃないと、彼女をきっと心配させてしまう。本当は心の優しい子だからな。

 いつものようにいたずらをしなきゃな。俺様がひとりでも平気なところを見せなきゃ、なのだ。

 いずれ世界を手に入れる俺様なのだから。

 そう。世界を。

 私にはできる。彼女以外、ならば。

 

 

 

<終>

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