Brinicle

イワサ コウ

Case:1 In the fridge

N地区人身売買取引対策室

 W地区に残っている伝承に、こんなものがある。




 とある村に奇妙な出で立ちの男が現れた。

 当時その村では鼠の増殖が深刻化しており、村人は頭を抱えていた。

 そんな村人に男は、報酬と引き換えに自分が鼠を駆除してみせよう、と申し出る。


 男が駆除に用いたのは、たった一本の笛だ。

 それを奏でてみせると、笛の音に操られた鼠達は自ら川へと飛び込んでいき、皆溺れ死んだという。

 男は報酬を要求したが、しかし村人達は後になって金を惜しみ、それに応じなかった。

 その後、男は一度村から姿を消す。


 再び男が現れたのは、プリペットが白い小振りな花を咲かせた頃だった。

 男は、例の笛をその手に持っていた。

 嘗てのようにその音を響かせると、今度は村の子供達が操られ、男の後をついて行く。

 長い列を成して道を進む彼らは、村の一角にある丘を越え、そして、ぷっつりと消息を絶った。



 行方不明となった子供は、総勢130人に登るという。

 この言い伝えの舞台となった村は、概ね現在のW地区第8エリア南部に位置し、その昔はハーメルンという名を有していた。


 その後何百年もの間に渡り、世界中で語り継がれることになったこの集団失踪事件は、しかし現代において、その特異性を徐々に失いつつあった。




 とりわけ、このN地区においては。





 ■■■■■■■





 転属希望届けを出してから3年、機会は案外早く巡って来るものだ、と彼は思った。

 ここでやっと、スタートラインに立てる。


 ルアン・キールズは、人を探していた。


 湧き上がる高揚感とも焦燥感ともつかない妙な感覚に呑まれぬように、彼は深く息を吐き出した。

 吐息は白い靄に変わり、ゆらゆらと外気に溶けてゆく。

 刺すような冷たさがコートの中にまで忍び込んできていたが、彼は眉ひとつ動かさなかった。


 彼の視線の先には、聳え立つ灰色のビルがある。

 限られた土地に建つ建造物のほとんどは、その狭さに喘いで天を目指すように細長い形状をしている。

 しかしこの灰色のビルは、他のものと比べると横の面積があり、高さは周囲のビルの3分の1程度しかない。どっしりとした、丈の短めな長方形だ。

 そのせいで、日中でもほとんどの時間、他のビルの陰に覆われていた。

 暗く、どこか陰鬱な雰囲気を纏うこの建物が、彼の新しい職場だった。


 受付で聞いた自分の配属場所へ向かう。

 外よりは和らぐものの、屋内もかなりの寒さだった。

 廊下はどこも最小限の照明しか点いていない。そのおかげで見え難くはなっているが、通路の壁は塗装が剥げかけており、其処彼処にヒビが入っている。

 それは、この組織の財源が逼迫しているということを如実に語っていた。


 目的の部屋の前にたどり着き、ドアを開けようと手を伸ばす。すると、ドアは内側から開かれた。

 中から出て来たのは、40歳前後に見える痩身の男だった。


「ルアン・キールズ。いいタイミングだな」


 男は、眼鏡の奥の灰色がかった瞳を細めながら、そう言った。


「すまないが、ゆっくりと自己紹介をしている時間がない。

 早速仕事だ、付いてきてくれ」


「分かりました」


 彼のことは、資料で既に確認していた。


 N地区人身売買取引対策室室長

 ブライアン・レイン。


 キールズの新しい上司だった。




 ■■■■■■■






 地下にある車庫から地上へ出ると、ずらりと並んだビルの群れがキールズたちを見下ろしていた。

 ビルの反射ガラスには、向かいにある別のビルと、空一面に広がる灰色の雲が映し出されている。


「対策室のメンバーは、僕と君の他に3人いる。最初のうちは僕と共に行動してもらうが、いずれは彼らのうちの1人とバディを交代で組みながらの仕事になる。必ず、2人で行動する規則だ。

 ああ、次の信号を右折してくれ」


 キールズが言われた通りにハンドルを切る。車は右方向に向かってゆるやかな軌道を描いた。


「俺が入ると全員で奇数になりますね」


「そうだ。僕は今後、現場に出ずに安楽椅子から君達に指示を出すことになる。

 現場に必要なのは若者の足だからな」


 そう言うと、レインは口角を微かに上げた。


 レインは確か、今年38になったはずだ、とキールズは記憶を辿りながら考える。

 キールズよりも一回り以上歳が離れているものの、まだまだ身体的な衰えは見受けられない。しかし彼の立場を考えれば、現場から離れるという判断は妥当だろう。



 レインの指示を受けながら運転を続け、30分以上経過していた。

 出発地点から1つのエリアをまたぎ、もう1つのエリアに入っていた。

 N地区第15エリア。あまり治安が良いとは言えない場所だ。


「さて、この通りだ。

 右側に電話ボックスが一つあるだろう。その少し手前に車を止めてくれ」


「はい」


「しばらくここで待機だ」


 レインは自分の座席側の窓を開けると、コートのポケットから煙草を取り出した。口に咥えて火をつけると、窓の外を眺めながら煙を燻らす。


 その間キールズは、運転席で背筋を伸ばして静かに座っていた。

 周囲に視線を走らせるが、その眼に映るのは、飲食店や娯楽施設の看板をちらほらと掲げている、雑居ビルの群れだけだ。


 どんよりとした鈍色の空の下で、街はひっそりと息を詰めて夜を待っている。




 10分程すると、前方から硬質な音を立てながら、ヒールを履いた女が歩いて来た。

 丈の短い黒のドレスが彼女の身体にぴったりと添い、女性特有のラインを主張している。


 女は電話ボックスに入ると、ボタンを押して受話器を取った。

 その様子を、レインは3本目になる煙草を口に咥えながら眺めている。


 車の中へ、微かに女の声が届く。しかし、何を言っているのかまで聞き取ることはできない。

 キールズは、それと分からない程度にゆっくりと溜息をついた。これは、一体何のための時間なのか。


 女はやがて電話を終えると、足早にその場を後にした。

 自分のことをじっと見つめる男の存在を、気味悪がっていたのかもしれない。


 レインの行動が意味することについてひたすらに考えていると、彼はおもむろにキールズの方へ振り返った。

 キールズの思案顔を見て、一瞬満足げな表情を浮かべる。


「今から僕の言うところへ向かってくれ」




 ■■■■■■■





 空が深い瞑色に染まっていくにつれ、街はどんどん色付いていく。

 目に染みるようなネオンの光量の中、レインとキールズは一つの酒場を目指して歩いていた。


「見えるか?カエルムという店だ」


 半ブロックほど先に、確かにその名の看板が見えた。


「今から僕達はあそこに入るわけだが────武器は持ってきているか?」


「まだ支給はされていません」


「なら、これを君に預ける」


 レインは腰に付けていた警棒を差し出す。


「室長の武器は?」


「僕は使わない。そもそもこれも、無理やり持たされているだけでね」


「これから行く場所が危険なのであれば、室長こそ自衛手段を用意すべきです」


 受け取る様子のないキールズへ、レインは警棒を放り投げた。

 反射的に受け取り、キールズは眉を潜めた。


「そんな顔するなよ。荒事は得意だろう?

 とはいえ、僕が指示を出すまでは、決してそれを使うな」


「危険な状況になった場合もですか?」


 キールズの問いに、レインがにやりと笑った。

 眼鏡の奥に見える灰色の瞳が、鋭利な光を帯びている。


「そうだ。何せ奴らは鼻が効く。

 ギリギリまで気取られないように、僕らは細心の注意を払わなければいけない。ここぞというタイミングまで、ね」


 レインはポケットから手のひら程の大きさのケースを取り出した。

 中には入れ歯と、別の仕切りにつけ髭が入っていた。

 レインがそれらを手早く身につけると、顔の印象が大きく変わった。


「さて、今日の目玉だ。よく見て、学び取ってくれ」


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