妖精の末裔みたいだった

@kita_loca

妖精の末裔みたいだった


 1週間近く続いた夏風邪が終わるまで、2年ホ組に韮崎名臣という名前の転校生が来たことを知らなかった。風邪が治った日、「ありがとう」とだけ書かれた便箋がポストに入っていて気味悪がった母親がそれを捨てた日、ある晴れた、誰かの誕生日かもしれない日、誰かの出会いや別れの日でもある6月4日、教室の後ろの方に1つだけ列からはみ出した席ができていて、彼はそこに座っていた。髪は細くて波打っていて、日光に当たるとかすかに緑色に光り、それはまるで褐藻類に似ていた。頬はお豆腐みたいに白くて、手首は細くて、腰の位置が高くて、ちょっと胸板が厚かった。正直この時、彼はクラスの男子のだれよりも綺麗に見えた。ちょうど、初めて作った料理がいつもの味噌汁より美味しいようなものだった。わかめが味噌に向かって、お前は俺に染み込んでいればいいんだと1時間目の冒頭30分のうちに言い聞かせ、次の10分でとなりの豆腐が俺はごめんだぜとぼやきながら煙草をふかした。先生である漆塗りのお椀は、未成年の喫煙を注意することに疲れ切っていて、ストレスからチョークを3本ほど折った。それでもスエズ運河が開通したことでヨーロッパからアジアへの航路が飛躍的に短縮され、そのことには階差数列B[n]=2n-1も大喜びだった。漸化式の解法の習得は塾に通っていない一部の具材たちにとって難解をきわめるものであり、それはインドにおける現地人の反乱の原因になった。いくつかの交戦があり、この学校も灰になっては再築されを繰り返した。やっとのことで2時間目の数Bの授業が終わるころ、韮崎くんは急に私の机に近付いてきて、ポーカーでもやろうよと言って机にトランプを出した。私ポーカーのルールなんて知らないよと言うと、そういえばそうだったねと言いつつ、一つ一つの役を見せながら教えてくれた。私は学生鞄からクロッキー帳を取り出して、教わった役を書き込んだ。韮崎くんは私のクロッキー帳を覗き込んで、まだ結構ページ残ってるのね、と嬉しそうに笑っていた。そうこうしているうちに3時間目が迫っていて、結局初めての対戦は昼休みに回すことにした。英語の授業が苦手だと言って、彼は3時間目の間ずっと寝ていた。授業終わりの挨拶で「起立、」の声が聞こえたころ、突き動かされるように起き上がって、浅くお辞儀をしてまた午睡につき、次に目を覚ますまでに80分もかかった。韮崎くん、物理得意そうなのにどうして?と聞いてみたら、いや得意なんだけど勉強し尽くしちゃったから寝てる、だと。

 そして、ポーカーは楽しかった。昼休みに第1戦をし、放課後に第2戦をし、日本でいう幕末のころにはそこらへんの外国人を交えて第3戦をし、マシュー・ペリーの兄弟は思ったよりイケメンじゃないかも、なんて思った。ベテルギウスが爆発すると予想されている頃には第5戦が終わっていた。第8戦目でストレートを初めて出した。私の掴んだわずかな幸運のせいで天帝は怒りを見せ、天気はみるみる悪化し、大雨が日本中を覆い尽くし、虹もその後を追った。第13戦にもなると、捨てた札から作りたい役を見通そうとする欲が沸いてきて、期末テスト2週間前、第21戦目が終わってついに、私は彼のことをより碎けた名前で呼ぶようになり、なおみくんに化学と数2と世界史のノートを見せてもらった。私は何もできることが無くてごめん、似顔絵とかなら描けるかもしれないと言うと、なおみくんはすごく興味を示してくれて、是非とも書いてくれと懺悔者のように乞うのだった。ナポリの街で罪を犯したルカという男は、町外れの静かな教会に眠るイエス・キリストの壁画を修復する命を受け、一筆一筆を恐る恐る描いた。1週間、いやもう少しかかっただろうか、しっかりと絵は出来上がり、教会に住み込んでいる修道士からは絶賛され、写本の手伝いまで頼まれるほどであった。ただ、ルカには少しだけ心残りがあって、それは髪の毛から盛れ出る燐光をシャープペンで描くことはできなかったということだった。なおみくん、ごめんね。私絵がそんなに上手くないかも。そんな風に言う私のことを、彼は怪訝そうな顔で見つめていた。僕はこんなにかわいい顔じゃないけど、十分上手だと思うよ、特徴捉えてるし。そう言われてもう一度出来上がった似顔絵を見直してみると、彼はとびきり綺麗な眼をしていて、なんだか妖精の末裔みたいだった。絵の中の妖精は、都市伝説本に書かれている通りの、ゆっくりと時間を遡行するような視線をこちらに向けていた。不動帯の中心部に都市をつくり、家を構え、緋緋色金でこさえた琴を弾き、100年をひとときのように生きていた。最近ニュースで見たけれど、日本から不動帯が減っていて、保全をしなければいけないらしい。私の住んでいる一宮区貝取町なんかも、江戸時代のころは時間進行速度が4/5ほどになる緩動帯だったというが、都市開発や地下鉄工事の影響でしっかりと土地の面積が測れるようになってしまったし、時計も毎日直す必要が無くなったという。私は不動帯なんかどんどん消していまえばいいのにと思っている。生態系を守らなければいけないという気持ちも分かるけれど、あそこに生えているのは平行植物なんだから人間の役に立たないでしょうに。環境保全というのは我々に結果が返ってくるからこそ行われるものって生物の先生も言っていたじゃんか。ガチガチの不動帯はまだある。首都圏であれば、埼玉県の嵐山に千葉県の成田山に東京都の浜田山、そういった場所がれっきとして残っている。そういうところだけ守れば良いのに、どうして人が住めそうな緩動帯までサンクチュアリにしようとするのだろうか。まさか本当に妖精がいて、彼らが人権を主張しているのかなあ。ああそういえばなおみくんはどこから転校してきたんだっけ、という私の問いにしばらく口を開かなかったなおみくんは、浜田山、とだけ言ってまたしばらく口を開かなかった。なおみくんが振り返って冗談だよと笑うまで、私は刮目して震えていることしかできなかったし、下着姿の将軍が恐れおののいて戦線を後退させたことにより梅雨が一気に明けてしまった。でも彼が言うには、前浜田山のふもとに住んでいたのは本当らしかった。

 テストは散々だった。やっぱりちゃんと数Bを寝ないで勉強しておくべきだったなあと思った。なおみくんは理系科目全部で満点を取っていたけれど、その点数は私と彼との秘密になった。秘密はそれだけに留まらず、月刊モーに特集されていた2012年12月21日以降の平行人類の行く末、実家の近所にあるカルト宗教の寺院に飼い猫が侵入してしまったこと、9月の末にまたなおみくんが転校してしまうことを含んでいた。ちょうどこの高校には120日だけ滞在することになってるんだよね、と彼は続けて言った。飼い猫の名前はガウスといって、白い雑種の保護猫で、しょっちゅう迷子になってはその日のうちに戻ってくるという。例外が1例だけあって、平行人類が遥か未来に飛ばされたりしたあの12月21日に姿を見たのを最後に、ガウスも同様に1週間以上いなくなってしまった。猛烈な太陽風によって表皮をボロボロにされたのではないかと心配していたところ、日頃は遥か宇宙を漂っているトルテカの人々が丁寧に持ち運んでくれて、年明けに無傷でひょっこり帰ってきたらしい。人1人で人1人を運ぶのは難しいけれど、猫1匹を運ぶのはたやすい。平行人類が助け出されず散らばったのはそういう理由があってらしい。まあこれも風の噂だけどねえ、となおみくんは言った。風は私に向かって、続けて言った。君は初夏から初秋までの120日をそんな青春レスに過ごして、本当にいいのか。8月2日に小山田庭園の花火大会があるだろう。名臣を誘うんだ。人を何かに誘ったことが無いわ、どうしたらいいのと質問しようとしたら、風は吹き去ってしまった。しょせん一陣の風なので、何を語っても噂扱いされるのだろう。情趣のある言葉で語りかけるのを諦めて、私はなおみくんに、花火を見に行こうと言った。なおみくんは、人と一緒に花火大会に行くのは初めてだと言って、たいそう喜んでくれた。その日はお互いに手を振って別れ、そしてふたたび彼の姿を見たのは8月2日の午後5時の東京メトロ小平線の車内で、彼は英語の単語帳をぼんやり見つめていた。見ている単語があまりに1学期の範囲ばっかりだったので、復習熱心なんだねえと声をかけると、なおみは首を横に振った。ねえ、どこ大に行きたいの?と私はたずねた。電車がちょうど小山田駅に着いて、そこで降りると、電車と一緒に10数陣ぐらいの風が猛烈に過ぎていった。そんな無粋なことを聞くな、そんな無粋なことを聞くなよ、そんな無粋なことを聞くんじゃない。風は一陣一陣吹き抜けるたびに同じことを言うので、聖徳太子でなくてもみんなの意見を個別に聞き取れるほどであった。改札へ向かうエスカレーターで、風はとにかく上へ上へと吹いていた。行き交う人の中には、えびす顔の蘇我入鹿や子連れの小野妹子も交じっていたし、浴衣姿の複数の小野小町がポケット扇風機を片手に通路の右側を駆け上がっていた。地上に出ると、あの時戦争を起こしていたインド人のおじちゃんが路店でたこ焼きを売っていた。今年は鶴見川花火大会と日程が被ったおかげで人混みが少ないんだよネ、とおじちゃんは言う。上に吹き上げ続けていた風は広い地上に出て、嬉しそうに中空を舞い、凪の夕暮れの中に溶けていった。庭園は人でごった返していたから、駅から少し歩いて高台の浅間神社というところまでやって来た。花火の良いところは、わざわざ決められた会場に行かなくても見られるというところだ。それは星空だってそうで、ただ外に出れば見ることができる。石垣に座って双眼鏡を構えていると、またたく間に菊座が空に上った。かむろ座、ダリヤ座などが登ってきて、すぐに沈んでしまった。ギリシャ神話では50人の勇士が目指したとされる花畑スーターマイーンを臨んで、煙の匂いがこちらまで漂ってきたころ、なおみはこと座を指差して、花火と星の共演だよと言った。それを聞いたオルフェウスは空に置きっぱなしになっていた竪琴を見て、落とし物をしたと騒ぎ、飲み友達と数人で駅近くの本部へと駆けていった。私たちの後ろに座っていたケフェウスは、おもむろに立ち上がって「玉屋!」と叫び、夜空に飛んでいって、それが大輪の錦冠菊の花になった。続いて私となおみも「鍵屋!」と叫び、天帝はそれを聞きつけて空に二人を打ち上げた。なおみは土星に、私はその輪になって、無重力を漂い、小惑星帯のさらに遠くでひときわ明滅する青い光を見ていた。青い光はどんどんこちらに近づいてきて、初めて星であることが分かった。そしてもう一つ分かったこととしては、星がこちらにやってきているのではなくて、私たちが星に吸われているということであった。まずい、僕たち落ちる!となおみが叫んだが、空から落ちていくという状態は、大抵夢の中で経験するものであり、現実のことではない。私はこのことを思い出し、これは悪い夢、これは悪い夢と言いながら落下していった。そうして、私は私の布団の中へしっかりと落ち切った。青春らしいことはもうこれで十分したかなあと思って、それから8月一杯、誰にも会わなかった。その間、前にルカから頼まれた通りに、いっぱいなおみの絵を描いた。雑誌に乗るような美形でもないのだけれど、厚い二重の目蓋に柔らかい睫毛が乗っていて、笑う度にそれがふにゃりと曲がるので、ひとえに言えば妖精の末裔みたいだった。

 夏休み明け、なおみが前よりもよそよそしくなっているような気がした。やっぱり私が張り切って関わりすぎたのが悪かったのかもしれない。前は特に話題が無くてもなおみの方からどんどん話しかけてきてくれたのに、最近は用事が無い時はとことん交流が無い。今日の昼休みもなおみは教室の端っこで、隣のヘ組にいるカストルやポルックスと弁当を食べていた。私がその様子を見ていると、デメテルさんに、もしかして韮崎くんのこと好き?と声をかけられた。いやまだ好きかどうかは分からないけど、今日も一緒に帰りたいんだ。え、どうしてかって?理由はいろいろあるんだよ。私たち、帰る道のりが途中まで一緒だから。私がメトロ五日市線の貝取町駅で、あの子は3駅先の百草駅なんだよね。それに最近ね、彼の顔を描いているの、色々な角度から。そうするともっと他のアングルも欲しくなるの。だからアングルを集めるために、会いに行くの。それにそれに、2ヶ月前に転校してきたばっかりで、まだ互いのことをよく知らない感じがするしさ。ついでに言っておくとあの子はものすごく頭がいいんだよね。ここだけの話、期末で3教科で満点取るレベルなんだよ。勉強教えてもらうためにも、仲良くしとかなきゃなーって思った。あとね、なんでか知らないんだけど、初めて会ったその日からずっと私にハキハキ接してくれてるんだよね。その恩を返すためにもね、うん。デメ子は最近仲良い異性とかいる?なんて聞いた時には、もうその言葉は私だけのモノローグになっていて、教室はすっかり誰もいない暖かい放課後になっていて、後からなおみが何冊か本を抱えて入ってきた。本、結構好きなの?と聞くと、そりゃあもう虫だよ、と彼は言った。私は夏が来る前のように、一緒に帰ろう、と言った。なおみはいぶかしいような顔をして、女友達いないの?と聞くのだった。違う、違うの。クラスの女の子の8割とはもう仲良くなり尽くしてるんだよ。けどなおみとはそうじゃないわけで、それに今月にはもう転校しちゃうんだよね?だから、今のうちに色々なこと話してみたいの。なおみの将来の夢とか、得意なこととか、エアコンの好きな機種とかね。彼は、いつもありがとう、と言って、柔らかくお辞儀をした。それから何回も何回も、失われた武士の世を取り戻すように、私は彼と登下校を繰り返した。天気の良い日には、互いの家へ鯨油目当てで手土産もなく上がり込み、日米和親条約を締結したりした。第89戦目、なおみはエースのフォーカードを出した。夕には夕顔を、朝には朝顔を見つけて歩いた。霧ヶ峰という山が本当にあったら、こういう花が咲いているんだろうなあとなおみは言った。「峰」なんて名前がつくレベルの山というのは、ふもとから頂上までで一様に同じ植物が咲いているわけがなく、丘陵帯・山地帯・亜高山帯・高山帯と各気候帯ごとに違った植物が生えている。これがバイオームの垂直分布である、と生物の先生が黒板を前に説明したのは1年前のことだった。デメテルさんはあの時、おやつに持ってきたザザ虫をつまみながら内職をしたことにより先生を350回ほど自殺に追いやって、その全てを未遂に終わらせていたなあ。亜高山帯と高山帯の間に森林限界があり、ここを過ぎると木本がろくに生えなくなっていく。ただ、忘れないでほしい。森林限界というのは明確な線の形をとって現れはしない。いつでも山の見た目というのは、ゆるやかに変わっていく。都庁のツインタワーを上に登っていくとだんだんと職員が減っていき、一番上の展望室には観光客しかいないようなものだ。調布区を南に行くと神奈川からのお上りサンが増えていくようなものでもある。今日の宿題は、森林限界のようにゆるやかな境界を3つ探してくることだ。でもその宿題は簡単で、男と女の境界、うたた寝としっかり寝の境界、友情と恋の境界、鎌倉時代と室町時代の境界と書いて提出すればいいだけのものだった。今はそんなぬるま湯みたいな宿題をおちおちやっている場合じゃない。9月29日、その日は間違いなくやってくる。打倒新政・幕府再興のため、北条時行は大急ぎで刃を研いでいた。これまでも鎌倉街道を驀進し、あちこちで落ち込んでいる武士を励ましていた。軍が新入りの武士たちの助けを借りてどんどん大きくなる頃、旅立つなおみに何を贈るかの話し合いが為された。亜熱帯多雨林の武人はタワーレコード立川店に別れの歌を漁りに行き、所沢の武士は花束を買ってくることを思い付き、国分寺の武士はかわいらしいメッセージカードを書くことを提案した。時行は全てを受け入れ、万全の体制で戦うようにと宣った。ついに戦いは井出の沢、激闘の末に宿敵・足利直義を打ち倒し、いざ鎌倉と駆け込んだは文字通り、かつての幕府・鎌倉であった。だがその占領も長くは続かず、新学期の開始からわずか半ヶ月で私の勉強に対するやる気は失われていった。夜予習をするにも1時間と集中力がもたなくなってしまい、本棚から次々に去年使った資料集を取り出していた。私、1年前はこんなこと学んでいたんだよなあ。ずっと図録を見ていたけれど、やっぱり見飽きてしまって、元あったところに戻すわけでもなく机の脇に積んだ。やっぱり私に勉強は向いていないかもしれない。できることならバイオリンとデッサンだけやって生きていたい。学生鞄からクロッキー帳を取り出して開いた。ここのところ、なおみの無表情に近い顔や、アルカイックスマイルばかりを描いている。それもそのはず、なおみがずっと借りてきた将軍のようにおとなしい。初めてなおみに会った私もきっと、なおみからはこんな風に見えていたんだろう。目線の向け方も息のし方もいじらしくて、それはそれで妖精の末裔みたいだった。妖精には花飾りがつきものだけれど、なおみに似合う花は何だろう。カーネーションかな。百合かな。薔薇はちょっと違うかもしれない。これまでも、花屋の店先に並んだ色々な花を見てきた。どれもみんな、なおみに釣り合わない。きっとそれは店先に並んでいて、量産品として扱われていて、一様に同じ観点で価値を付けられているからなんだ。一度でいいから不動帯に行って、ツキノヒカリバナを手に入れられたらなあと思った。それが適わないので、「ありがとう」と書いた白の折り紙でツキノヒカリバナを折った。こんな美しい花のことを知ることができたのは、幼少期に祖父母から平行植物の図鑑を贈られたからだった。図鑑をくれた時、本当のことは月の光に照らされないと見えてこないということも、丁寧に教えてもらった。だから私はドビュッシーの〈月の光〉や、それの元になったヴェルレーヌの月の光という詩に憧れていた。私が詩を読み上げるとき、窓の外ににいるのは華奢で愁いに満ちた一人の少年だった。少年が私に向かって、しきりに何かを訴えていた。──前、僕は浜田山の「近く」に住んでいたことがあると言ったけれど、あれは嘘だよ。僕は山の中枢で生まれて、それからずっと山中で暮らしてきたの。平行人類の話は本当。都市伝説じゃない。僕は普通の父親と平行人の母親の間にできた子なのよ。まあそれで、動帯と不動帯、どちらでの人生を選ぶか考えるために、この高校まで転校してきた。けど僕、育ちが不動帯のとくにへんぴな所だからさ、放っておくと時間の数直線を反対に戻るように過ごしちゃうんだよね。このままだとまともに生活できないから、持ち物に特殊な細工をして、時を遡るのを24時間ごとにしてあるのよ。でも動帯で暮らすのは他にも色々な壁があってね、この学校にも短い間しかいられない、長くてたぶん3ヶ月が精一杯なの。僕は「きのう」、この学校に「越してきた」。6月前ぐらいに転校すると思う。僕が言いたかったことはとりあえずそれぐらいかな。いやー楽しかったよ、ありがとう──読唇は思ったよりも簡単だった。聞いたことを整理しようと思って体を起こすと、いつの間にか9月29日のつややかな朝になっていて、あんなに月の光を浴びてはっきり見えていたはずの言葉は、思い出そうとした矢先からどんどん透明になっていった。

 昼休み、なおみには色々なものが贈られていた。男子からは知恵と技術を出し合って作ったトライフォースの彫刻が、女子からはスパンコールまみれの寄せ書きが、なおみの四角くて馬鹿でかいリュックにねじ込まれた。拝嶋や新町田というのはきっとこのリュックの中と同じぐらい雑多で魅力的で治安が悪いのだろうと思った。私の中でこの二つの街は、七色のピアスをした小野小町たちがレモンティー目当てでたもとおる場所という印象だった。教室で繰り広げられる餞別の熱狂をよそに、小町Aは裏路地に刺さっている剣を見つけて、なにあのエクスカリバーマジヤバリバーなんだけど、と黄色い声を上げた。やや丸っこい体の小町Bは、あれぐらいの剣なら私にも抜けるみがあるわと言って近付き、ハッと一息丹田に力を入れ、難なく抜いた。小町CとDは絶叫し、Bが神剣を振り回す様をインスタグラムやTikTokに手分けして上げた。新町田警察署がそんな蛮行を許すはずもなく、これらのおぞましいギャルどもは補導され、死んだオウムのように固まって5・6時間目の授業を私たちと一緒に受け、教室の清掃をも代行してくれた。その恩恵を受けたクラスメイトは一人また一人と部活をしに行き、本を読むなおみと美術部サボりの私以外誰もいなくなった2年ホ組に、静かに黄昏がにじり寄ってきた。ねえ、いつもみたいになおみの絵、描いてもいいかな。なおみが少し驚いて、僕の絵を描いているの、と問うてきた。そのスケッチ帳見せて、と言うので、私はそっとクロッキー帳を差し出した。もう残り1ページしか白紙が無い。新しいのを買わなきゃいけないな、なんてことをぼんやり思った。私たちは15分ぐらいその場から動かなかった。なおみはじっとスケッチを見て、この僕はよく似てる、この僕は些か恰好が良すぎる、これはペリー提督の絵?シャツの襟がレトロだね、などと心からのレビューを漏らし、やがて帳をたたんで、卒業証書を渡すように優しく返してくれた。星いくつ?と聞いたら、4つかな、と笑ってくれた。私は質問したかったことを何も思い出せなくて、苦し紛れに、ガウスちゃん元気?と絞り出した。うん元気だよ、と返事が帰ってきた。私たち、また会えるかな?と聞いたら、僕はまたすぐみんなに会えるよと言うのだった。ふと、制服の胸ポケットの中に、せっかく折ったあの花が置き去りになっていることに気が付いた。取り出してみると、幸い変な折り目は付いていなくて、ほっとしてそのまま渡した。夢の女王だ、となおみが言った。一応確かめるけどそれツキノヒカリバナだよね。夢の女王っていうのは別名だよ。これさ、不動帯の中でも山の高いとこにしか咲かない花なんだよ。僕の実家の近所にはけっこうあったけどさ。なんていうと実家がバレちゃうかも、へへへ。それは昼休み、あらゆる人に取り囲まれていた時に見せた微笑みよりも、幾分か幸せな顔に見えた。黒板の上の時計を見ると、閉校時刻まで残り15分を切っていた。急いで私たちは学校を抜け出し、同じ電車に乗って、ラッシュの人波にどんどん押されて圧着した。貝取町駅で左のドアが開いて、縮められたバネが元に戻るように、二人は勢い良く外に押し出された。ドアはすぐ閉まって、なおみを置いて電車は逃げていった。なんとか言え、知恵を出せと叫ぶたくさんの騒がしい風を連れて。そして全てが暗い線路の向こうに行ってしまって、ホームは静かになった。いいの?電車逃して。いいよいいよ、どうせすぐ次が来るし。なおみの言葉が魔法のように次の電車を呼び寄せた。降客が忙しなく場をほっついて、地上を目指した。その時、私は最後にする質問を思いついた。声が発車メロディに呑まれないように、腹から呼びかけた。また会えたら、なおって呼んでもいい?その、いい?という言葉を言うか言わないかのうちに、ドアは閉まった。なおみは閉まったドアの向こうでうなずいた。強い風が全てを押し流していった。どの気流も、もう何も喋ったりはしなかった。さっきの私は、何を見送っていたんだろう。呆然となって、自販機横のベンチに座って、クロッキー帳の最後のページに、かげろうのような羽が生えた男の子の絵を書いてみた。

 それからは、授業中に居眠りしている時も、夜お布団で寝ている時も、変な夢を見なくなった。おかげで勉強にはしこたま集中できるようになり、成績もまあまあ伸びて、行っていなかった美術部にも足を伸ばすようになった。男の子の妖精の絵は部員にも顧問にも受けて、区民の展覧会に出さないかという話まで出た。美術部では、部室に置いてあったテレビで夕方のニュースをつけながら、それを無視して部員とポーカーと雑談をするのが楽しくてしょうがなかった。そしてある日、ニュースで不動帯保護に関する話題がが出た。首都東京での時空侵食はとくに顕著で、浜田山不動帯が小さくなっているという。南北に推定54km広がっていたはずの空間が、今は30kmほどになっていて、今後10年何もしなければたった2kmとかいう衛星地図通りの長さになってしまうらしい。私の目線が勝手に動いて、テレビの画面を向いた。部長の今川は私を見て、こんなんほっとけばいんじゃね、だって森っつっても燃やして二酸化炭素出ない変な木の森でしょ?と笑った。部員たちも続けて笑った。ウケる、ゆるキャラが住んでるから守んなきゃいけないんじゃね?はいフルハウス、と副部長の後藤が手札を叩きつけた。私はというと、勝手に手札を覗かれた挙句お前スリーカード出てるぞと今川にどやされるまで、一瞬たりともテレビから目を離すことができなかった。

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