4.悪魔の瞳に映るもの


 静かになった美術館内を、学芸員のアダムは見回した。散乱している血と肉に、溜め息を落とす。肩も落とし、首を横へと振った。



「全く。勘弁して下さいよ、クリスチーナ。一体誰が片付けると思っているのですか」


 しかし、顔は言う程怒っていない。彼女の性格はよく分かっている。言った所で聞くわけがないという事も、よくよく分かっていた。


「まぁ、そんな所も魅力なのですが」


 つと口角を緩め、アダムは指を鳴らした。

 足元から影が伸びていく。床を這い、壁を上り、汚れを一つ残らず拭っていった。


 ついでに、作品に傷がついていないかも確認していく。

 いくらクリスチーナと言えど、流石にそこまでの愚行は冒すまい。万が一やったとしても、大惨事になる前にイワンが介入している筈だ。そうとは思いつつ、念の為、と言い訳をして、念入りに調べた。



 特に問題もなく、アダムはほっと胸を撫で下ろす。

 その視界の端で、つと何かが光った。



 直角に折れ曲がったナイフが、転がっている。



 アダムは拾い上げ、様々な角度から眺めていく。それから一つ頷くと、己の足元に広がる影を、つま先で突いた。


「トリーフォン」

「お呼びでしょうか、主様」



 アダムの影の中から、小人が姿を現す。

 五歳児程の大きさだが、声は老人のようにしゃがれている。加えて長い前髪で顔を覆っている為、性別の判断も付かない。


 トリーフォンと呼ばれた小人は、背筋を伸ばし、アダムへ頭を垂れる。



「このナイフ、どう思いますか?」

「これと言った価値はございません。よくある量産品で、質もいたって普通。主様のコレクションに加える程ではないでしょう。けれど、普段使いにはよろしいかと。主様がお望みならば、私の方で修繕しておきますが」

「では、直しておいて下さい。イワンとクリスチーナの玩具にでも」


 トリーフォンの髪が、小さく揺れる。


「そうですね。このナイフを適当な大きさに刻んで、ボールの中に入れてはどうでしょう。転がる度にカラコロと音がして、楽しんで貰えるかと思うのですが」

「……左様でございますね。あの二匹は、ボール遊びが特に好きですので」

「ではそうして下さい。よろしくお願いします」

「主様。私の仕事は、主様がいらっしゃらない間のペットの世話と、主様のコレクションの管理、及び修繕、なのですが」

「修繕が出来るのならば、一から作る事も出来るでしょう。そうでなければ、物を直すなど出来ませんからねぇ」



 トリーフォンは溜め息を零し、胸元へ手を当てた。



「畏まりました。すぐに作業に取り掛かりますので、しばしお待ちを」

「頼みましたよ」

「それから、帰宅後で結構ですので、今着ていらっしゃる上着とシャツもお渡し下さい。そちらも修繕しておきます」

「上着とシャツを、ですか?」

「えぇ。背中の部分に、ナイフで切られた跡がございます」


 後ろ手に触れてみると、先程押し倒されて刺された箇所が、見事に裂かれている。皮膚の表面も、薄っすらと切れていた。



 人間の男如きに傷を付けられるなど、と、また姉に軟弱呼ばわりされそうだ。アダムは、端整な顔を顰める。

 しかも、新月から二日目の夜の出来事だと知られたら、それこそ面倒な事になるのは目に見えていた。下手すれば、鍛え直してやるなどと言われかねない。



「分かりました。家に帰ったら渡します」

「お願い致します」


 では、と折れ曲がったナイフを受け取り、トリーフォンは、その小さな体をアダムの影の中へ滑り込ませる。


 すると、入れ代わりに黒い狼が出てきた。アダムの前へ腰を下ろし、咥えていたものを差し出す。



 アダムの掌の上に、二センチ大の玉を三つ、落とした。



「ありがとうございます、イワン。お疲れ様でした」


 頭や喉を撫でられ、イワンは青い炎を心地良さそうに揺らめかせた。尻尾も頻りに振っている。

 アダムも頬を綻ばせ、イワンの背中を軽く叩いた。


「さぁ、イワン。もう少し遊んでいらっしゃい。ここは私が見ていますので」


 イワンの耳が、瞬時に立った。嬉しそうに腰も上げるが、いいのだろうか、と迷うようにアダムと影を見比べる。

 しかし、青い二つの炎は、明らかに影を長く見ていた。



「ほら、行きなさい。早くしないと、またクリスチーナが美味しい部分を独り占めしてしまいますよ? 骨しか残っていなくともいいのですか?」


 イワンは、煙のような真っ黒い全身を、大きく波打たせた。焦り混じりに唸ると、慌てて影の中へ飛び込んでいく。



 アダムは口元を押さえ、笑った。それから、目を掌へ落とす。



 三つの玉は、それぞれ青、緑、ピンクと薄っすら色が付いている。色は時折点滅し、濃さを変えながら、玉の中を忙しなく回っていた。



 まるで、出口を求めてもがき彷徨っているかのようだ。




「では、頂きます」


 アダムは、三つの玉を、徐に口へと含む。目を瞑り、味わうように舌の上で転がした。


 しばしカラコロと音を奏でると、ゆっくりと、顎へ力を入れる。

 二度、三度と咀嚼し、息を吸い込んだ。音もなく喉を上下させ、そして、熱っぽい息を、吐き出す。

 上を向いたまま、その場に立ち尽くした。




プリクラースナ実に素晴らしい……」




 艶やかな音を奏でつつ、瞼を持ち上げる。



 アダムの瞳は、血のように赤く染まっていた。



 その眼差しは、パーヴェル・ラストルグエフが描いた作品、『聖ノルノアール教会』へと向いている。



 昼間。アダムに魂が宿っていると称されたその絵画は、薄闇の中、静かに存在している。



 だが、アダムの瞳を介すれば、表面を黄色い靄のようなものが覆っていた。


 時折点滅し、色の濃さを変えながら、キャンバスの中を忙しなく回っている。




 まるで、画家の魂が、作品の中に閉じ込められているかのようだ。



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