3.真夜中の侵入者
針のように細い月が浮かぶ、深夜。
シニツィナ美術館の玄関前で、警備員が二人、警棒片手に佇んでいた。
そんな二人の背後に、忍び寄る影。
素早く警備員の口を塞ぐと、晒された喉を掻き切った。呻き声も上げられずに、警備員達は崩れ落ちる。
「やったか?」
「あぁ。間違いない」
覆面を付けた男は、倒れた警備員の脈を確認している。
もう片方の覆面は、隠れていた仲間を呼び寄せた。警備員の腰に付いた鍵を奪い、美術館の中へと入る。
静かな館内を、覆面の三人は素早く進んでいく。その足取りに迷いはない。差し込む月明かりを浴びながら、展示室に飾られた絵をいくつも素通りしていった。
不意に、足音が止まる。
三人の目の前に、この美術館で最も有名で、最も価値のある絵が、姿を現す。
パーヴェル・ラストルグエフ作、『聖ノルノアール教会』だ。
覆面から覗く目を弓なりにし、三人は顔を見合わせた。
「俺はこっちから順に絵を回収する。お前は反対側を頼んだ。おい、袋を出してくれ」
そう指示を受け、真ん中にいた覆面が、向かいの壁を振り返る。一番後ろにいた覆面は、持っていた麻袋を一枚渡した。先頭の覆面は、麻袋を受け取ると、壁に飾られているパーヴェルの絵へと近付いていく。
「――おや。こんな時間にお客様ですか?」
突如聞こえた声に、三人は一斉に振り返る。
この美術館の学芸員が、音もなく佇んでいた。
いつの間に、と一瞬焦るも、すぐさま動き出す。体格のいい二人がナイフを握り、学芸員の男へ襲い掛かった。
「お客様。館内では走り回らないで下さい」
学芸員は、軽い身のこなしでナイフを避ける。
何度攻撃しても崩れぬ涼しい顔に、覆面から覗く目が歪んだ。
「っ、ヴェラッ!」
ナイフを振り被りながら覆面が叫ぶと、残っていた仲間の一人が、麻袋片手に『聖ノルノアール教会』の元へ急ぐ。
途端、学芸員の男は、迫るナイフを潜り、身を翻した。
「お客様。作品にはお手を触れないよう、お願い申し上げます」
やってくる学芸員に、麻袋を持った覆面は肩を跳ねさせる。
「させるかぁっ!」
放置された覆面が、床を蹴った。学芸員の背中へ体当たりをかます。うつ伏せに倒れた相手へ跨り、ナイフごと腕を、高々と掲げた。
切っ先が学芸員目掛けて落とされる寸前。麻袋を持った覆面は、素早く顔を逸らした。真後ろで起こるであろう惨劇から、意識を無理やりパーヴェルの絵へ向ける。
「があぁぁぁぁぁぁっ!」
美術館に、男の悲鳴が響いた。
苦しさと痛みの籠った声に、覆面は身を竦ませる。それでも、強張った体を動かした。震える指先を、絵画へと伸ばす。
「お客様」
つと、耳に飛び込んできた声。
覆面ははっと息を飲む。
弾かれたように振り返り、そして、引き攣った声を絞り出した。
学芸員の男が、立っていた。
刺された筈なのに、平然と笑っている。
学芸員の足元では、仲間の一人が蹲っていた。
可笑しな方向に曲がった手首を掴み、苦悶の声を上げている。
「作品にはお手を触れないよう、お願い申し上げます」
苦しむ仲間の傍らに落ちたナイフは、何故か直角に折れ曲がっていた。
まるで、途轍もなく固い何かと、正面衝突したかのようだ。
「っ、に、逃げるぞっ」
その声に、麻袋を持っていた覆面は、慌てて走り出す。倒れた仲間を助けるなど、これっぽっちも思いつかなかった。
兎に角逃げなければ。この得体の知れない学芸員から、一刻も早く離れなければ。そんな本能の叫びに従い、無事だった仲間と一緒に、只管足を玄関へ進める。
「ぎゃ……っ!」
しかし、すぐ傍から、共に逃げ出した仲間の呻き声が上がった。
何かが倒れる音と、何かが折れる音、身の毛のよだつような粘着質な音も、聞こえる。
覆面は思わず足を止め、仲間へ視線を向けた。
瞬間、全身の毛が、一気に逆立つ。
「い、いやぁぁぁっ! レナートォォォーッ!」
仲間がまた一人、倒された。
それだけではない。
得体の知れぬ黒い物体に、頭を噛まれているのだ。
豹のような姿形で、ライオン程の大きさである。
だが、決して動物とは言い難かった。
毛が生えていないどころか、皮膚自体ないのだ。
例えるなら真っ黒な煙。ゆらりゆらりと絶えず揺らめき、その中で瞳らしき金色の炎が二つ、爛々と輝いている。
豹のような形の物体は、大きく首を左右へ振った。
噛み付かれていた仲間の頭が、体から引き千切られる。
衝撃的な光景と血の臭いに、また覆面の悲鳴が上がった。しかし、黒い物体は全く反応しない。千切った頭を転がし、頻りに追い掛けている。
「こら、クリスチーナ。いけませんよ、遊んでは。今はお仕事をする時間です」
そんな中、学芸員の男の声が、穏やかに響いた。
「それにいつも言っているでしょう? 泥棒を捕まえるのは大変結構ですが、そこいらに制服を脱ぎ散らかしてはいけませんと。抜け殻のように制服が放置されていたら、不審に思われるではありませんか。せめてどこかへ隠してから、こちらまできて下さい」
子供を諫めるような優しい口調で、語り掛ける。だが豹らしき物体は、一向に反応しない。尻尾であろう部分を一つ揺らすだけ。
「クリスチーナ、聞いていますか? クリスチーナ? ……はぁ、仕方がありませんねぇ」
学芸員は、困ったように微笑む。それから、視線を美術館の玄関方向へ向けた。
新たな黒い物体が、姿を現す。こちらは狼のような形をしている。
大きさは馬程あり、やはり真っ黒な煙の如く全身を揺らめかせていた。
顔らしき部分では、青い炎が二つ、美しい光を放つ。
狼らしき物体は、頭に警備員の帽子を乗せていた。口には、もう一つ帽子と、警備員の制服二着を、咥えている。
「あぁ、ありがとうございます、イワン。クリスチーナの分も持ってきてくれたのですね」
そう言って学芸員が笑い掛けると、黒い物体は、尻尾らしき煙を左右へ振った。まるで、犬が喜んでいるかのようだ。
「あ……あ……」
現実離れした状況に、覆面はへたり込む。尻で後ろへ下がり、絵が展示されている壁際まで逃げた。背中を壁に押し付け、荒い呼吸を繰り返す。
そんな覆面へ近付いてくる、学芸員の男。
学芸員は、身を竦ませる侵入者から、覆面を剥ぎ取った。
「あぁ、やはりそうですか」
現れた泥棒の顔を、覗き込む。
「先程あなた達が呼んでいた、ヴェラとレナートという名前。どうにも聞き覚えがあったのですよ。あなた達だったのですね」
微笑み掛けられた覆面――を、被っていた女は、真っ青な顔でカチカチと歯を打ち鳴らした。
今日の昼過ぎ。『聖ノルノアール教会』の前で写真を撮ろうとしていたカップルの片割れだ。
「本日いらっしゃったのは、犯行の下見ですか? 写真も、間違いなく獲物を奪う為に撮影しようとした。あの時、私達に絵の解説を求めたのは、もう一人の仲間が他の獲物を物色するに当たって、私達の目を逸らす目的でもあったのでしょうか? それとも、注意された件を誤魔化す為、咄嗟に口を付いただけですか?」
返事はない。
ただ涙を浮かべ、震えているだけ。
――クゥン。
つと、学芸員の背後から、鳴き声が上がる。
狼の形をした煙が、手首の折れた覆面に伸し掛かりながら、学芸員を見つめていた。
「どうしましたか、イワン?」
学芸員の男が問えば、イワンと呼ばれた黒い物体は、視線を左へ向ける。
豹型の黒が、頭のない死体にじゃれ付いていた。前足で吹き飛ばしては、駆け込んで捕まえ、勢い良く噛み付く。
床や壁に、血が飛び散った。
一歩間違えれば、展示された作品にも付着しそうである。
「クリスチーナ……」
ひくりと、米神が揺れた。声は一段低くなり、笑みも深まる。
「いけません」
途端、豹は耳を立て、学芸員を振り返った。金色の炎でじっと見つめたかと思うと、その場に腰を下ろす。
尻尾と思われる部分が、不満げに床を叩いた。時折血塗れの死体を窺っては、喉をグルリと唸らせる。
狼も、心なしか落ち着きがなくなってきた。尻尾らしき箇所を揺らし、顔は学芸員と死体の間を何度も行き来する。
「……全く、仕方がありませんねぇ」
溜め息を吐き、学芸員の男は苦笑を零す。
「分かりました。では、本日も頑張ってくれたあなた達へ、ご褒美を差し上げます。ですから、この後もきちんとお勤めを果たして下さいよ? 勝手に制服を脱ぎ捨てない事は勿論、元の姿に戻ってもいけませんからね。分かりましたか?」
狼は、はっきりと鳴き声を上げた。豹も、金色の炎の輝きを増す。
学芸員はもう一つ苦笑を浮かべ、立ち上がった。部屋の真ん中へ移動すると、徐に、指をパチンと鳴らす。
直後。学芸員の足元から、影が広がっていく。
死体と、死体の傍にいる豹、狼、狼が前足で押さえる覆面、そして、泥棒の女の元まで伸びると。
「ひ……っ!」
音もなく、五つの体を飲み込み始めた。
まるで底なし沼へ踏み入ってしまったかのように、影の中へと沈んでいく。
体に纏わりつくおぞましい感覚に、まだ生きている泥棒二人の顔は、恐怖に歪んだ。慌ててもがくも抜け出せない。死に物狂いで暴れ、叫ぼうとも、ただただゆっくりと、確実に、吸い込まれていくだけ。
「た、助け……っ」
女の命乞いも、影の中へ消えていく。
それでも、縋るように学芸員を見つめた。
学芸員は、静かに女を見下ろしている。穏やかな笑みを浮かべ、胸に手を当てた。
「またのご来館を、お待ちしております」
そう言って、一礼する。
緩やかに細められた瞳が、つと、赤く光った。
人間ではまずあり得ない、まるで血のような濃い色合いに、女は涙を流す。
既に使い物にならない口を、無意識に動かした。
悪魔、と。
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