2.閉館後のバックヤード
「――で、館長が声掛けるまで、仕事ほっぽり出してずーっと語り合ってたと、そういう事?」
「う、ま、まぁ、そうです……」
身を小さくするソフィヤに、先輩学芸員のキーラ・ユーギナは苦笑を零した。ロッカールームの端に置かれた鏡を二人で覗き込みながら、化粧や髪型を直していく。
「ま、指導係がアダム先輩だもんねぇ。絵画オタクと美術馬鹿が遭遇したら、そうなっちゃうのも仕方ないっちゃー仕方ないか」
「キ、キーラさん。私のオタクは否定しませんが、アダムさんに美術馬鹿は、流石に失礼なのでは?」
「じゃあ芸術の変態。奴隷を自称するとか、頭可笑しいでしょ。顔は良いだけに残念だよねぇ」
「聞こえていますよ、キーラさん」
ロッカールームの隣にある休憩室から、アダムの声が聞こえてくる。
「あ、すいませーん。つい本音が出ましたー」
「そうですか。では次からは、心に留めておいて下さい」
「善処しまーす。というかアダム先輩、乙女の談笑を盗み聞きしないで下さーい」
「失礼しました。あまりにキーラさんの声が大きく、聞きたくもないのに入ってきてしまいまして」
「だったら聞こえないふりしてて下さーい。会話に割り込んでくるなんて、紳士のする事じゃありませーん」
「では淑女の皆様も、話の内容には注意して頂きたいですね。聞かれたくない話は、是非とも聞こえない場所でお願いします」
「はーい、善処しまーす」
キーラは、唇へリップを塗りながら、おざなりに答える。
「全く。アダム先輩ったら、ほーんと地獄耳なんだから」
「あ、あの、大丈夫なんですか? 後で謝っておいた方が」
「大丈夫大丈夫。あの人、芸術の事以外じゃ滅多に怒らないから。
大学時代もね。美術サークルで飲み会があったんだけど、その時私酔っ払って、これでもかとアダム先輩に絡んだの。周りはひやひやしたらしいし、私も後で考えたら本当に肝が冷えたんだけど、でもアダム先輩はずっと笑っててさ。『キーラさんは面白い方ですね』って、まるで孫を見るお爺ちゃんのような顔してるの。
あれ? この人、私と二つしか違わないよな? って本気で思ったし、酔いに任せてツッコんだよね。『お爺ちゃんかっ!』って。それでもぜーんぜん怒らないの。どんだけ懐深いのよって話じゃない? 深すぎて逆に頭可笑しいわ」
あっはっはと大声で語るキーラに、ソフィヤは目を泳がせた。
「ま、そういうわけだから、全然大丈夫よ。寧ろ、それ位ガツンと歩み寄っちゃった方がいいと思うわ。特にソフィヤちゃんは、アダム先輩から指導を受けなくちゃいけないんだから。ぐいぐい行って、盗めるものは全部掻っ攫う位の気持ちでいきな。あの人、芸術の変態だけど、仕事はうちの美術館で一番出来るから。芸術の変態だけど」
「キーラさん。後輩に変な事を吹き込まないで下さい」
「あ、ちょっと先輩、話に入ってこないで下さいってばー」
「私も入りたくて入っているわけではありませんよ。ただ、あなたの話を聞いていると、どうにも窘めたくて仕方がなくなるのです」
「もー、これだからお爺ちゃんは嫌なのよー。口煩いったらありゃしないわー」
「元気の良すぎる孫を持つと、どうにも口数が多くなってしまうのですよ。それよりあなた達、帰り支度は進んでいるのですか? ここ最近泥棒騒ぎが相次いでいる事ですし、巻き込まれない為にも早く帰った方がよろしいかと思いますよ」
「はいはい。分かりましたー」
キーラはさっさと荷物を纏め、ロッカールームの出入口へ向かう。ソフィヤも鞄を掴み、慌てて後を追った。
「あれ? アダム先輩、何してるんですか?」
休憩室に置かれたテーブルへ、資料らしき書類を広げるアダムに、キーラは首を傾げる。
「次の企画展について、詰めている所です」
「え、という事は、まだ帰らないんですか? 私達には早く帰れとか言ってた癖にー」
「私は男ですから、多少帰りが遅くなっても問題ありません」
「分かりませんよー? 先輩、見た目だけはいいですからねぇ。物好きが襲い掛かってくるかもしれないじゃないですか」
「そのような輩は、返り討ちにして差し上げますよ」
「あー、そうですね。先輩、見た目に反して結構強いですし」
「えっ、そうなんですか?」
「いえいえ。護身程度ですよ」
「いえいえー、そんな事ありませんよー。だってアダム先輩、大学時代に、彼女を取られたとか言って逆恨みしてきた相手を、さらっと投げ飛ばしたじゃないですか」
「たまたまですよ。もう一度やれと言われても、きっと押し潰されるのがオチです。姉にも昔から『アダムは軟弱ね』と馬鹿にされてきましたし」
「あれで軟弱なら、先輩のお姉さんはどんだけ強いんですか?」
「非常に見目麗しいゴリラを想像して頂ければよろしいかと思いますよ。人形集めと弟にドッキリを仕掛ける事を趣味とする、極々面倒臭いバツイチの雌ゴリラです」
はぁ、とソフィヤは、驚きやら困惑やらの籠った溜め息を零す。
「まぁ、私の姉の話はさておき。お二人共、お気を付けてお帰り下さい」
「はーい。アダム先輩も、仕事は程々にして早く帰って下さいねー。お家で待ってるペットちゃん達が、飼い主様のお帰りを待ち詫びてますよー?」
「そうですね。出来るだけ早く切り上げるようにします」
「じゃ、お疲れ様でーす。お先に失礼しまーす」
ソフィヤも「お先に失礼します」と会釈をし、キーラと共に休憩室を出た。
「アダムさんって、ペットを飼っていらっしゃるんですね。知らなかったです」
「そうそう、飼ってるのよ。クリスチーナちゃんっていう黒猫と、イワン君っていう、なんか、そこそこ大きな犬種の子だって言ってた。それから、二匹ともそりゃあもう頭が良くて、可愛くて、芸術的に美しいんだってさ」
「へぇー、そうなんですかぁ」
ソフィヤの顔が、俄かに華やぐ。
「あれ。ソフィヤちゃん、もしかして犬とか猫とか好き?」
「はい。親が苦手だったので飼った事はありませんが、子供の頃は、ご近所の動物という動物と友達でした。『ペットが脱走したら、まずはソフィヤの所に行け』、と言われる位、あの子達とは仲良しでして」
「えー、凄い。ソフィヤちゃんって美術オタクでもあるし、実は結構アダム先輩と気が合う感じ?」
「そう、でしょうか?」
「そうだよ、きっと。今度先輩にペットの話振ってみたら? 芸術の話ばりに語り合えるかもよ。お互い変態丸出しで」
「い、いやぁ。変態丸出しは、ちょっと遠慮したいですけど、でも、そうですね。折を見て、アダムさんにお話を窺ってみます」
「それがいいよ。その際は、ちゃんと時間を確認してね。今日みたいに、人目も憚らず楽しんじゃ駄目よぉ?」
からかい混じりの視線に、ソフィヤの顔は赤くなる。肩を竦ませながら、首を上下させた。
「お疲れ様でーす」
「あ、お、お疲れ様です」
シニツィナ美術館の玄関付近にいた二人の警備員に会釈をする。警備員達は帽子の鍔を摘まみ、「お疲れ様です」「お気を付けてお帰り下さい」と笑い返した。
美術館を後にしたソフィヤとキーラは、夕暮れ時の空の下、バス停方面へと歩いていった。
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