1.シニツィナ美術館の学芸員


 明かり取り用の窓から差し込む太陽光が、壁や床を淡く照らす。けれど、展示されている絵に直接当たる事はない。来場客の邪魔にもならぬよう計算された上で、このシニツィナ美術館は建設された。


 歴史は左程古くない。建物の規模も、決して大きくない。だが、所蔵している美術品は、非常に厳選されていた。お蔭で平日の昼間でも、客の姿が途切れる事はなかった。

 美術館特有の静かな空間に、ゆったりとした足音や囁きが、小さく響く。



「いらっしゃいませ。どうぞごゆっくりお楽しみ下さい」


 絵を眺める客の後ろを、二人の学芸員が通り過ぎる。

 一人は、三十歳前後の男。端整な顔に笑みを湛え、颯爽と足を進めた。

 もう一人は、二十歳そこそこの若い娘。肩口で揃えた髪をふわふわと揺らしながら、手帖片手に男の後ろを付いていく。



「では、ソフィヤさん」


 学芸員の男――アダム・レヴィタンは、新人であるソフィヤ・プリマコヴァを振り返った。


「午後からは、展示室での業務を行って貰います。内容としましては、お客様のご質問にお答えする事が一番多いかと思います。絵画に関するものは勿論、お手洗いの場所や、近場にあるカフェ・レストランの行き方など、聞かれた事は、セキュリティや職員のプライベートに関する内容以外は、基本的に答えて頂きます。

 時にはとんでもない質問もされるでしょう。それでも取り乱す事なく、丁寧に対応して下さい。

 もしソフィヤさん一人ではお答えしかねる内容でしたら、私や他の学芸員に確認を取るか、一度バックヤードへ戻り、資料などを確認後、お客様へお答えして下さい。決して曖昧な返答はしないように。当館の信用問題にも関わりますので」

「は、はい」


 ソフィヤは、アダムの言葉を手帖へ書き込んでいく。


「それから、もしお客様の中に、体調の悪そうな方や、体の不自由な方がいらっしゃいましたら、様子を窺いつつ、必要に応じてお声掛けして下さい。危険な行為や、周りのお客様のご迷惑になる行為などをされている方がいらっしゃった場合も、速やかにお声掛けをお願いします。

 特に小さなお子様は、走り出したり、展示されている作品に触れようとする場合もあります。監視とまではいかなくとも、意識的に気にするよう心掛けて下さい」

「はい、分かりました」

「また――」


 と、不意に、アダムは言葉を切った。

 展示室の一角へ視線を向け、徐に微笑む。


「ソフィヤさん。早速出番ですよ」



 視線の先には、カップルがいた。絵の前でポーズを決める女へ向け、男が最新式のフィルムカメラを構える。

 カメラの上には、バケツ型のフラッシュガンが装着されていた。カメラ以上に大きな銀色の装置は、シャッターを押したと同時に激しく閃光するよう、設定されている。



 ソフィヤは、気合を入れるように鼻から息を吐き、客へと近付いていった。


「あの、お客様」


 ぎこちなくならないよう、笑みを浮かべる。


「大変申し訳ございません。当館は、カメラでの撮影はご遠慮頂いております」

「あ、そうなんすか? すんません。超いい絵だったから、つい記念に残したくなっちまって」

「お気持ちはとてもよく分かります。ですが、カメラのフラッシュは、絵画の劣化に繋がりますので、申し訳ありませんが」


 了解っす、と、男はカメラを下げた。ポーズを決めていた女も、すぐに絵から離れる。


 ソフィヤはほっと胸を撫で下ろした。感謝の言葉と共に会釈をし、この場から立ち去ろうと踵を返す。



「あ、お姉さん」



 つと、男に呼び止められる。



「一つ質問というか、お願いがあるんすけど」


 と、目の前の絵を指差した。


「俺達、この人の絵が見たくてここにきたんす。パーヴェル・ラストルグエフって、めちゃめちゃ有名な画家じゃないすか。だから超楽しみにしてて、で、実物見たら、やっぱ凄いっていうか、迫力あるっていうか。な、ヴェラ?」

「そうそう。私、芸術の事は全然分からないんだけど、そんな素人でも分かる位素敵ねって、さっき二人で話してたの」

「で、記念にってわけじゃないすけど、もし良かったら、この絵に纏わる話とか、この画家に関するエピソードみたいなのを、教えて貰えたらなーって」


 ソフィヤは、アダムを窺う。

 アダムは口角を持ち上げ、小さく頷いた。


「畏まりました。では、僭越ながら」


 ソフィヤは絵の隣へ佇むと、一つ咳払いをした。



「こちらの絵を描いたのは、お客様のおっしゃる通り、パーヴェル・ラストルグエフという人物です。今から二百年程前に活躍した画家で、風景画を多く発表しています。こちらの絵も、とある教会がモデルになったとされています。

 さて、こちらのパーヴェルですが、その名が知られるようになったのは、実は彼が亡くなる十年程前、およそ四十三歳頃からだったと言われています。それまでは鳴かず飛ばずで、絵を描く傍らに農業をこなし、また奥様の稼ぎも合わせて、どうにか生計を立てていたと言われています。

 では、パーヴェルは何故、突然注目されるようになったのでしょう? 勿論、絵が素晴らしかったからなのですが、何故彼の絵は、注目される程急激に上達したのでしょうか?」


 ソフィヤは、カップルに問い掛ける。


「んー、えーっとぉ……自分に足りない何かに、気付いたんじゃないすか?」

「足りないものって何よ?」

「それは、分かんないけど。あれかな。絵の表現力? リアルさが増したとか、そんな感じっすかね?」

「ふふ、当たらずとも遠からずですよ」


 男は、「お」と嬉しそうに眉を持ち上げた。


「正解は、それです」


 ソフィヤは、男の持っているフィルムカメラを指す。


「パーヴェルは、絵を描く際、写真を使うようになりました。それが彼の転機だったと言われています」

「写真っすか?」

「えぇ。と申しましても、今のようにフィルムで撮ったものではなく、暗箱カメラやピンホールカメラと言われている、カメラの原型となったものを使って撮影された写真ですが」

「やだ、レナートったら。全然当たってないし近くもないじゃない」

「所が、そうでもないんですよ」



 ソフィヤの瞳が、きらりと輝いた。



「パーヴェルは、写真にモチーフを収める事で、ものの精巧さや鮮明さを客観視出来るようになりました。また、パーヴェルの中期以前の絵を見ると分かるのですが、彼は、遠近感やものの大きさの比率など、奥行きを持たせる技術が圧倒的に拙かったのです。恐らく、当時使われていた遠近法表現の比率を割り出す計算式が、彼にとっては難しかったのでしょう。所が、写真を使う事により、実際に目で確認しながら遠近感を表現出来るようになりました。

 ここからパーヴェルの絵は、飛躍的に向上します。元々筆致の美しさや色使いのセンスの良さを持ち合わせていたパーヴェルですから、そこに表現力が加わり、才能が一気に開花したのです。

 パーヴェルは、没前十年の間に、数多くの絵を生み出しました。その中には、あの有名な『バラ園の午後』や『ハープを奏でる女の室内』、『麦畑』、『未亡人の肖像画』などがありますが、私としてましては、こちらに飾られた絵も是非世間の皆様に知って頂きたいですね。

 こちらの『聖ノルノアール教会』は、実はパーヴェルが写真を用いて描いた作品の第一号と言われているんです。つまり、こちらの作品を契機に、パーヴェルの活躍が目覚ましくなったと言っても過言ではありません。

 そのような歴史の分岐点とも言えるこちらの絵。残念ながら、知名度の方は左程高くありません。先程お二人もおっしゃっていた通り、一見しただけで素晴らしいと本能的に理解するにも関わらず、です。非常に勿体ないと思いませんか?

 まぁ、美術的な観点から言ってしまえば、確かに前述しました『バラ園の午後』などの方が遥かに上だという事は、認めざるを得ません。しかしっ、パーヴェルの生涯や、画家としての歴史という観点から見れば、これ程価値のある作品はありません。なんたって、パーヴェルの才能が開花した瞬間に、この作品は立ち会っているんですよっ?

 あの小さなお子様でも知っている、あの美術の教科書にも載っている、あの、あのっ、近代美術における革命児と謳われた天才画家っ! パーヴェル・ラストルグエフが、輝かしい第一歩を踏み出した、正にその瞬間っ! この絵はっ! 彼の目の前にっ! いたんですっ! そう思うと、何と言うか、凄くドキドキするというか、そんな素晴らしい体験をした作品のすぐ傍にいられるだなんて、私達は今、とてつもなく貴重な経験をしているとは思いませんかっ?」



 頬を赤らめ、ソフィヤは満面の笑みをカップルへ向ける。




 カップルは、引いていた。




「……あ、し、失礼しました。一番好きな画家なもので、つい力が入ってしまって」


 誤魔化すように笑みを浮かべ、ソフィヤは喉を唸らせた。


「ま、まぁ、つまりは、パーヴェルは写真を使う事で飛躍的に絵の表現力を高め、その切っ掛けとなった作品が、こちらの絵、という事ですね」

「お、おー、成程。そうなんすか。それは、凄いっすね。なぁ、ヴェラ?」

「え、えぇ、そうね、レナート。とっても素敵。そんな凄い作品と出会えたなんて、お姉さんの言う通り、貴重な体験をしてるなって思うわ」


 ソフィヤは、嬉しそうに頬を緩め、すぐさま引き締める。


「当館には、パーヴェルの作品が他にも展示されています。もし興味がありましたら、是非そちらもご覧になってみて下さい。特に、遠近法表現の違いに注目して頂けると、面白いかと思います。年代によって、写実性や表現力の差が分かりやすく表れていますので」

「へぇー、そうなんすか。じゃあ、ちょっと見てみるか?」

「そうね。ありがとう、お姉さん」

「いえ。この後も、ごゆっくりお楽しみ下さい」


 手を振るカップルへ、ソフィヤは丁寧に会釈をした。



 去っていく背中を見送り、アダムはソフィヤへ微笑み掛ける。


「お疲れ様です、ソフィヤさん。素晴らしい解説でしたよ」

「あ、ありがとうございます、アダムさん。でも、私、また悪い癖を出してしまって……お客様、引いていましたよね?」

「まぁ、多少は」

「ですよねぇ……」

「しかし、最後は笑顔で去っていかれましたし、あなたの説明はとても分かりやすかったと思います。パーヴェル自身の事だけでなく、こちらの絵についても、簡単にですが解説されていました。確かに、少々情熱的だったとは思いますが、私が止めるまでもなく、ご自分で自制されていました。学芸員としての務めは、きちんと果たしていたと思いますよ」


 それに、とアダムは『聖ノルノアール教会』を振り返る。


「このような素晴らしい作品を前にしたら、饒舌になってしまうのも致し方ありません」


 アダムは、つと目を細めた。


「絵の表現力は勿論ですが、構成やリアルさ、そしてなにより、色彩感覚の爆発的な向上は、正に神掛かっているとしか言いようがありません。

 諸説ありますが、パーヴェルは写真を用いる事で、遠近法表現を絵に取り入れる事が出来ました。けれどモノクロ写真からでは、そのものの正確な色は分かりません。そこでパーヴェルは、己の想像力を駆使して、色を塗っていったのです。一歩間違えれば悲惨な作品が出来上がっていた事でしょう。しかしパーヴェルは、眠っていた才能を開花させ、見事やり遂げてみせたのです。

 こうしてパーヴェルは、写実的にも関わらず、写実的ではない、という不思議な作品を完成させました。これは当時の芸術界では革命的でした。あまりの奇抜さに、保守派からは『頭が狂っている』とまで言われたパーヴェルですが、革新派からは大層受け入れられました。『まるで匂い立つかのように存在している』『目を惹き付けられる何かが、この作品にはある』。更には、『彼の絵には、魂が宿っている』とまで称されます。

 魂。それは私も、常々感じている事です。

 パーヴェルだけではありません。名画と謳われる作品は、総じて魂が宿っています。いえ、正確には、情念とでも言うのでしょうか。己の全てを注ぎ、まるで命を削るようにして描かれた絵というのは、何かしらの強い力、激しい感情を孕んでいると、私は思うのです。

 いえ、これは思うなどというものではありません。言うならば、本能。私の体が、細胞の一つ一つが、目の前の作品から溢れ出す凄まじいエネルギーを浴びて、歓喜しているのです。いくら言葉を尽くしても言い表せない、震える程の感動が、私の体を走り抜け、そしてまた沸き上がる。その連鎖の中で身を翻弄されながら、それでも私は、この作品の前から離れられない」


 まるで吸い寄せられるかのように、一歩足を進める。


「魔性という言葉は、きっとこのように魂の宿った作品の事を言うのでしょう。魔性に魅入られた私は、唯一を妄信する狂信者と成り下がるのです。最早奴隷と言っても過言ではありません。けれど、私はその名を受け入れましょう。えぇ、私は奴隷なのです。魔性を崇め、魔性に付き従い、魔性を己の唯一であり絶対者であると信じて疑わない、憐れにして幸福な奴隷。

 そしてここは、奴隷にとっての天国です。魂の宿った作品に満ち溢れ、当時の画家達の熱量溢れる作品に取り囲まれ、更には手袋越しとはいえ、触れる事が出来る。

 あぁ、なんて素晴らしいのでしょう。己の幸運が信じられません。けれどこれは現実。どんなに頬を叩いた所で、夢のような空間から抜け出す事は出来ないのです。覚めぬ夢の中に、私は延々身を横たえているのです。なんて惨い、なんて甘美な拷問なのでしょう」



 あぁ、と艶っぽい吐息を零し、恍惚とした面持ちで、己を抱き締めた。



プリクラースナ実に素晴らしい……」



 頬を赤らめ、アダムはパーヴェルの絵を見つめる。ソフィヤも両手を胸の前で組み、うっとりと絵を見上げた。


 来場客が、不審そうに二人を眺めていると、気付く事もなく。


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