最終話

「旦那、浮気してるみたいなんだよね」

 友人の里子が、暗い表情で呟いた。

 三十六歳でやっと人の親になった私とは違い、里子は結婚も出産も早かった。高校時代の同級生ではあるが、二人の子供はもう中学生と高校生で、私にとって頼れる先輩ママだ。

「確証はあるの?」

「ある……、スマホ、盗み見しちゃった」

 ファミレスは空いていて、周囲に他の客はいないが、意気消沈した里子の声はか細かった。

「一年前からずっと、ダブル不倫だよ」

「ダブルって、相手も既婚者ってこと?」

「娘の友達のお母さん」

「それは……、えぐいね」

「ほんと最悪、もう、気持ち悪くて無理。なんなんだろう、なんでそんなこと、できるんだろう。子供の気持ち、考えて欲しい」

 里子は目の前のショートケーキをフォークで突き刺しながら、「いっそ死んでくれたらいいのに」と暗い目で言った。

 私はスリングの中の、この世に生まれて間もない生命体を見下ろした。息子は健やかに、眠っている。おでこの形が夫にそっくりで、大好きだった。指先でつるりと撫でると癒される。

 里子が「ごめんね」と謝った。

「赤ちゃんいるのに、こんな話で呼び出して」

「いいよ、なんでも吐き出して」

「ごめん……、ごめんね」

 里子は疲弊しきっている。浮気をされる側の経験者としては、切なかった。

 私の場合、浮気の判明から解決までが素早かった。誰かに愚痴る暇もなかったのだが、状況が違えば私もこうなっていただろう。

 もし、あのときLINEに気が付かなかったら。水面下で浮気を続け、そのうち情が湧き、夫はよしのに本気になっていたかもしれない。そうすると、この子は、産まれていなかった。

 ゾッとする。

「美津はいいよね、旦那さんとラブラブで」

 ショートケーキをつつくのをやめずに里子が言った。スポンジが崩壊し、穴だらけになったケーキを見ながら「うーん」と曖昧に返事をした。

「今はね、お互い素直になれてラブラブだけど、危機もあったよ」

「何、浮気?」

「一回だけね。でも結果的に、浮気されてよかったと思う」

「そんなことある?」

 そんなこともあったのだ。オレンジジュースで喉を潤してから、「聞きたい?」と訊いた。

 何度も頷く里子に、私は語る。

 思い込みと決め付けで、凝り固まっていた自分。

 身内の恥と自分の恥を、包み隠さず話した。引かれるかと思ったが、話し終えると里子はなぜか泣いていた。どういう涙かわからないが、しばらくして里子は「よかったね」とハンカチで目元を拭った。

「もう、なんで泣くの」

「だって、目の前に二人の赤ちゃんがいるんだよ? よかったなって思って」

「里子は優しいね」

「やだ、なんか照れる」

 里子がバラバラになったケーキを勢いよく貪りだした。

 結果的に浮気されてよかった、だなんて言ってしまったが、里子は今まさに、あのときの私と同じように、苦しんでいる。

 やっぱり男なんて、みんな脳みそが下半身でできているのだ、という絶望を感じながら、里子の口に吸い込まれていく無残な残骸を見つめていると、唐突に声を掛けられた。

「みっつん?」

「え?」

 見上げると、見覚えのある男だった。

「やっぱり、みっつんだ。すごい、久しぶり。あ、わかる? 俺のこと、覚えてる?」

 みっつん、と連呼されて記憶の蓋が開く。

 この人は、あの人だ。

 名前が思い出せないが、些末なことだ。

 耳のピアスの数が増えている以外は、変わりがない。香水も、あのときと同じ。

「はい、わかります、お久しぶりです。その節はお世話になりました」

「こちらこそお世話になりました」

 頭を下げ合うと、男がマイルドに微笑んだ。そういえば、こんな顔をしていた。やっぱり、いい男だ。

「誰? この人」

 若い茶髪の女が腕にすがりついて、私を不審げに見ているが、男は答えずに「赤ちゃん」と、眠る息子を指差して覗き込んだ。

「可愛いね」

「はい、すごく」

「……生まれたばっかりだね」

 男が何か言いたそうに「いつ生まれたの?」と付け足した。

 あのとき、避妊に失敗していて、自分が父親じゃないのかとよぎったのだろう。

「違いますよ?」

 笑って、でも強い口調で、否定する。噛み合わない会話に、里子が怪訝な顔をしているのが視界の端に映る。

「ちょっとー、つまんない、もう行こうよ」

 茶髪の女が男を急かす。腕を引かれ、「はいはい」と困った顔をしながら、里子に会釈をした。

「お邪魔しました、じゃあ、……バイバイ」

 彼はぎこちない笑顔で手を振って、逃げるように去っていった。逃げるように、というか、逃げていく。腕にぶら下がった女を引きずって、慌ただしく、早足で店を出ていった。

 逃げたくなる気持ちはわかるが、少し意外だった。彼はあのとき、とても親身で、私の苦しみに寄り添ってくれた。本当に、いい男の称号がふさわしいと感じたのだ。

 もし自分がこの子の父親だとしても、「責任を取るよ」と優しく、頼もしく、胸を叩きそうな雰囲気すらあったのに。

 所詮、中身のない男だったということだ。

 あの男の危惧の通り、妊娠が判明したタイミング的には、どちらの子でもあり得た。

 ただ彼は、コンドームを使っていたし、使わなかった夫の子であると考えるのが普通だ。

 夫には、彼が避妊していたことを言っていない。あえて、言わなかった。

 不安そうに、「俺の子だよな?」と訊いた。それは一般的には最低なクズのセリフだったが、この場合、正しい疑問ではある。私は怒りもせずに、むしろたくらみ笑いをしながら、ドラマチックな展開に乗っかるふりをした。

 さあ、どうだろうね?

 私は意地悪く首を傾げた。

 そのことで、夫はかなり苦しんだ。悲劇の主人公みたいに、頭を抱え、打ちひしがれて、どっちの子かわからない、これは俺が一生背負っていく罪なのか、と勝手に悦に入っていたが、間違いなく夫の子だ。

 いつか言おうとは思うが、おのずと答えに気づくだろう。息子は、日に日に夫に似てきている。おでこだけじゃなくて、顔の具材や髪質が、すでに夫のそれだ。

 義父母も、赤ん坊のころの息子にそっくりだと大層喜んで、孫を溺愛している。

「何今の。親しげにみっつんなんて呼んじゃって」

 里子が興奮した口調で言った。

「親しくないよ、全然」

 みっつんと呼んだのは、単に彼が私の本名を知らないからだ。

「なんか変な空気だったけど、何? ねえ、もしかして」

「何も。なんにもないよ」

 窓の外。夫よりいい男は、脱兎のごとく逃げていく。

 背中は、すでに、遠い。


─了─

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