第10話
よしのが出ていき、二人きりになった。
服を着たままベッドに並んで寝転び、天井を眺めている。
私の腹が、ぐぎゅるる、と鳴った。
「お腹空いたね」
「あー、そういや夕飯まだだな」
「どこか食べにいく?」
「いや、うん」
どっちかわからない返事をして、夫がごろりと転がってきた。まるで抱き枕のように私を横から抱きしめて、「ごめん」と何度目かの謝罪を口にする。
「うん」
もういいから、謝らないで、とは言ってやらない。
一生、謝り続ければいい。
「離婚……、しないんだよな?」
「しないよ」
「……ありがとう」
安堵が伝わってくる。夫がこんなふうに、心からの「ありがとう」を私に向かって言ったことが、過去にあっただろうか。笑ってしまう。
「俺って、結構駄目な奴だったんだな」
「うん。え? どうしたの?」
夫が自虐するのは珍しい。顔を確認しようと思ったが、顎しか見えない。
「さっき美津が俺の欠点めちゃくちゃ羅列しただろ」
「うん」
「客観的に見ると最悪だなって。美津は、なんで俺が好きなんだ?」
「知らないよ。駄目なとこが可愛いんだから」
たとえば列挙した欠点をすべて兼ね備えた男がいたとして、好きにはなれない。この人だから、受け入れられる。欠点を愛しいと感じる現象を説明するのは難儀だった。
「あの女の幻想、全否定しちゃったけど、仕事ができるってのはその通りだよね。健ちゃん、いつもお仕事お疲れ様」
「いえいえ……、まあうん、仕事は生きがいみたいなもんだし」
夫の、私を抱きしめる手に力が入る。
「やっぱ、俺には美津しかいない。すげえ楽だ」
「あの子の前だとずっと変顔してなきゃいけないもんね」
「変顔って」
「変だったよ、悪いけど」
「なんだと」
夫が私の脇腹をくすぐってくる。
「ちょっとやめてよ、この」
三十五歳の男女が、お互いをくすぐりあっている。
漠然と、五年先、十年先も、この人と、こうやって子供のように戯れているだろうなという気がした。
くすぐりあって、気が済むと、夫が私の上に陣取った。目が合っている。夫の顔を、まじまじと眺めて、触れる。両手で挟み込んで、親指で、頬を撫でる。
「健ちゃんが私のこと見てるの、変な感じ。付き合ってた頃に戻ったみたい。それになんか、今日だけで一年分くらい会話したね」
夫の表情が、大げさな、という形に変化したが、身に覚えがあるらしく、気まずそう逸らされた。
「いやでもなんつうか、夫婦ってみんな、そんなベタベタしないもんだろ?」
「みんな、ね。他の人がどうであろうと、関係ないよ」
そもそも「みんな」なんて、存在しない。
「まあ、そうか……、みんなって誰なんだろうな」
夫が「みんな」の存在を疑いだしたところで再び私の腹が鳴る。夫が笑って、私に覆いかぶさった。密着した下半身に硬いものを発見し、「なんで?」と尋ねる。
「なんでこの状況で?」
修羅場のあとなのに、よくそんな気になれる。
性機能の低下を嘆いていたくせに、なぜこうなるのか、私には、男の人のことがまったくわからない。
「俺は、美津をすごいと思うよ」
「え? なんで? 何が? どこが?」
「さっきめちゃくちゃ論理的に説き伏せただろ。なんか、カッコよかったなって。お前にあんな一面があったの、知らなかった」
「それで、興奮して、こうなったの?」
夫が「ちげぇよ」と私の腹の肉を揉みながら笑う。
「肉を揉まないでよ」
夫は痩せていて、仕返しに揉める肉などない。代わりに屹立する男根の下の、柔らかいふくらみを揉んだ。
「さっき一回イッたから、長持ちすると思う」
夫が私の内股に手を差し込んで言った。
もしかすると、夫は私をセックスが大好きで、常にしたがっている女だと思っているかもしれない。大いなる誤解だ。
「健ちゃん、私、セックスに関してはそんなにこだわりないっていうか」
「うん?」
首に唇をつけて夫が訊き返す。
「繋がれるだけでいいし、早くてもいいよ。そこは気にしない。特別セックスが好きってわけじゃないから。必ずしも、イク必要なんてない。触れ合うだけでも、抱き合うだけでもいいの」
「でも他の男としたかったってことは、俺に満足してないからだろ?」
「したかったなんて言ってない。満足とか関係ないから。あれはただの仕返し、嫌がらせだよ。浮気される気持ち、わかったでしょ?」
快楽を得たいから、誰でもいいからセックスがしたいというのではない。そういう次元の話じゃない。結果的に、とても相性のいい相手を引き当て、驚くほど気持ちがよかったのは確かだが、衝撃的な快感と引き換えに、心の一部が死んだ気がする。
「健ちゃんとくっついていられるなら、なんでもいいよ」
「挿入してもしなくてもってことか?」
「うん、そういうこと」
夫が黙って私を抱きしめてくる。
キスをして、服を脱がせ、中に入ってくる。
この行為自体に意義を見出していたら。私は夫ではなく、あの男を選んでいただろう。
誰でもよくない。
この人じゃないと。
セックスが最高じゃなくても、この人じゃないと、駄目なのだ。
夫が私を見下ろしてくる。顔を掴んで、視線を合わせた。
夫はセックスのときに目を合わせたがらない。理由は、照れ臭いから。それを知っているから、私はいつも、したいようにさせた。目を見合わせて、できたらいいのにという願望はあった。
でも私は夫を尊重してきた。顔を背け、目を閉じてきた。
もう、遠慮はしない。
逃げられないように、脚で腰を固定する。顔も離してやらない。
爪を立てる勢いで、わしづかみにする。
目を、見てやる。
私が何をしたいのか、夫が悟る。
諦めたように笑って、私の好きにさせてくれた。
心が通い合うセックスだと感じた。幸せだった。
夫の浮気がなければ、この瞬間はなかったのだ。
とても、皮肉だ。
翌朝目が覚めて、家に連絡を入れ忘れていたことを思い出したが、そんなことはどうだってよかった。裸で眠る夫の肩に頭をのせる。
「……おはよう」
「おはよう。ねえ、めちゃくちゃお腹空いた」
「俺も」
ラブラブ夫婦みたいに、チュッチュとやってから、ふと気になって、訊いてみた。
「よしのとは、一回だけ?」
LINEのやり取りを見る限りでは、まさに不倫のスタート地点を目撃したと思っていたが、もし違っていたとしたら。何度も寝ていたのなら、話は少し違ってくる。
「何回寝たの?」
「いや、一回、酒も入ってて、いろいろ、理性が、その、誓って、一回だけだから」
この期に及んで嘘はつかないだろうと思いたい。
「わかりました」
夫の薄い脇腹をつねってから、「それと」と続けた。
「この浮気が初めて? 他にもあるんじゃない?」
「ない、だって俺、なんでかそんなにモテないし」
「なんでかって」
そういうところじゃないの? と思ったが黙っておいた。
「どっちかっていうと部下とか、男に頼りにされて人気あるっていうか」
「言っとくけど男と寝ても浮気だからね?」
「絶対、ない」
「結婚前にもそう言ったよね。俺は絶対浮気しないって。絶対なんて言葉、私はもう信じない」
言葉ではなんとでも言える。人間というのは、特に男は、性欲に逆らえない。
夫の腹に乗り、見下ろした。
「今後、あなたが浮気するたびに、私も別の男と寝ようかな。うん、そうしよう。同じ回数、男と寝る」
「……それは、やめて、わかった……、ごめん」
夫は泣きそうだった。笑って頬を撫でてあげた。
「でも、他に好きな女が出来たら、教えて。遊びじゃなくて、本気なら、そのときは別れるから。健ちゃんが好きだから、身を引くね」
夫は、「絶対ない」とは言わなかった。私にその言葉が響かないとわかったからだ。
硬い声色で「うん」と頷いた。
「美津」
私を呼ぶ夫の頬がわずかに赤らんで、目を逸らしたが、数秒後、まっすぐ視線を合わせると、掠れた声で言った。
「好きだし、あ、愛して、ます」
「……ふふ、可愛い」
夫の頭を撫で回し、抱きしめて、頬をすり寄せる。
夫が、ちゃんと私を好きだった。
それを知れてよかった。
浮気なんて、ないに越したことはない。
でもなんだか、私たちの関係は、不倫騒動のおかげで、むしろ改善した気がした。
恥やプライドを捨てて、素直に向き合えた。
妙な話だが、きずなが深まったような感覚に囚われる。
プラスに働く不倫も、ごくまれに、あるらしい。
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