第9話

 二十三歳は、やはり若い。

 若いというだけで、敵わないとどこか引け目を感じる。

 特にずば抜けて可愛いとか美人とかではないし、スタイルもよくも悪くもないが、容姿の問題じゃない。若さはそれだけでステータスになる。

 でも私は、負けるわけにはいかなかった。

 もう二度と、夫にちょっかいを出さないよう、今、ここで、息の根を止める。

 そんな意気込みだったから、多分、私は全身から殺気を放っていたのだろう。 

 ラブホテルにやってきたよしのが、絨毯にへたり込み、泣いている。

 言っておくが、私は何もしてない。叩いたとか、怒鳴ったとか、何もない。

 本当に、まだ何もしてないのに泣きだした。

 部屋に入ると、彼女はまず、夫に向かって猫撫で声でこう言った。

「またラブホ? うちに来てもいいのに」

 抱きつこうとする彼女を慌てて止めて、夫が目配せをする。

 そこでようやくよしのが私に気づいた。入り口からは見えない場所に潜伏していた私を見つけると、軽く悲鳴を上げ、「やだ、何っ、誰? 3Pなんて聞いてない」と取り乱したが、生気を欠いた白い顔の夫を見て、事態を悟った。

 弾かれたように泣き始め、ずっと、こうだ。

 じめじめと、被害者ぶって、泣いている。

 イラついた。

 泣けば被害者になれる。「可哀想な私」を演出しているのだ。

「なんで泣いてるの? その涙はなんですか?」

 部屋の隅に追い込んで、逃げないように退路に立ち塞がると、私は口を開いた。

「泣く権利があるのは、夫に裏切られた私だと思いますけど」

 しゃくりあげる彼女は体を丸めて震えている。何も知らない人がここだけ見たら、完全に私が悪役。彼女は若くて小さくて、男なら守りたくなる。

 でも、狡猾だ。正直、泣いているのも演技だと思っている。嘘泣きに決まっている。

「悪いことをした自覚がある?」

 彼女はチラチラと夫を見た。援護がないことを確認すると、うつむいて、さめざめと泣く。

 埒が明かない。

 私は溜め息を吐いた。二人が、びくっと同時に反応する。

「なんで、夫を誘ったの? 指輪もしてるし、既婚者だって知らなかったわけじゃないですよね」

 私の顔色を、よしのが窺っている。泣いても許してくれないと気付いたのか、ハンドバッグからハンカチを出し、目元を拭うと途切れ途切れに語りだした。

「初めて健一さんがうちの会社に来たとき、部下の人のほうがおじさんで、なんか、それが、キュンってなっちゃって……。あ、この人仕事できるんだって思って、すごくカッコイイなって、すぐ、好きになっちゃうんです、私……」

 焦りのせいか、元々そうなのか、やけにたどたどしい口調でよしのは夫との出会いを振り返る。

「お茶出しのとき、ありがとうって優しい顔で笑ってくれて、それからなんか、気になっちゃって。好きって思ったら、止まらなくなって……、健一さん、いつも私に笑いかけてくれたから、気に入ってくれてるのかな、押せばいけるかなって、それで」

「確認だけど、不倫は悪いことって認識してる?」

 口を挟むとよしのが目を上げて私を見た。

「でも、結構みんな、してますよ?」

「は? みんなって誰? ていうかみんながしてるから許されるなんて、思ってる?」

「欲しくなっちゃったら、仕方なくないですか? だって、好きだもん」

 この人とは相容れることができない。

 怒りを通り越して呆れの域に達してきた。会話するだけ無駄だと思ったが、ここで挫けるわけにはいかない。

「仕方なくない。この人は、私の夫」

「でも結局、恋愛って自由じゃないですか」

「ちょっと何言ってるかわからない」

 思わずポカンとなる。よしのが立ち上がった。ベッドの端に腰掛けると、ふてぶてしく脚を組み、肩を竦めてみせた。

「奥さんは、浮気が許せないんですよね? 私、健一さんが浮気しても許しちゃうな。他に女がいたって、許しますよ。それが愛じゃないですか? 私の愛は大きいんです。きっと、奥さんより、健一さんのことが好き」

 全然わからない。目の前の女はもしかして異星人だろうか。

 頭の中が真っ白になり、何も言えなくなった。女は勝ったとでも思ったのか、謎の微笑みを浮かべている。

 夫を見た。夫はなぜか、ニヤニヤしていた。

「健ちゃん、何が面白いの」

「は、いや、な、何も……」

「二人の女が自分を取り合ってるの見て、喜んでるんじゃないでしょうね」

「すみません……」

 夫が認めて頭を掻く。本当に、こいつは。思いきり冷めた目で見てやった。

「そうだ、健一さんに選んでもらおうよ。私か奥さんか、どっちがいいか」

「何言ってるの?」

「私、こんな、浮気相手を騙してラブホに呼び出すなんて陰湿な真似絶対しない。何しても許しちゃう。そうだよ、若い奥さんのほうが、自慢じゃない? ね、いいと思わない? 離婚して、私と結婚しようよ」

 何か、罵倒してやろうと息を吸ったところで夫が言った。

「離婚はしない」

 屹然とした声だった。それに、気のせいか、ちょっと怒った感じに見える。もしかして私を貶されて怒ってくれたのだろうか。すべての元凶であるはずの夫に、多少のときめきを覚えてしまった。

「ごめん、よしのちゃんのことは、ただの出来心で、本当に……、ごめん。俺は、嫁になんの不満もないんだよ。別れるなんて、考えたこともない」

 カッコつけた、キリッと気取った顔で、夫が言った。

 私は噴きそうになったが、よしのは夫にうっとりと見惚れているようだ。それを見て堪え切れず、噴き出した。ケタケタ笑う私を、二人が怪訝そうに見る。

「ごめん、失礼しました、顔がおかしくて」

「顔がおかしいって、俺の顔がか? なんでだよ」

「うん、だって、素じゃない健ちゃんって別人みたいだもん。ほんっと、外面がいいんだから」

 笑いを収めて、ふう、と息をつく。

「よしのさんは、この人のどんなところが好きになったの?」

 唐突な質問に、よしのは夢見るような表情で夫を見ながら指を折る。

「えー、うーんと、カッコよくて、大人で、気配りができて、上品で、面倒見がよくて、仕事ができて、カッコよくて、あっ、カッコイイ二回言っちゃった」

 夫が「フッ」とかすかに笑いを漏らして、さりげなく髪を掻き上げた。誇らしそうなのがおかしくて、腹を抱えて笑いながら、夫の真の姿をさらけ出す。

「この人、めちゃくちゃ子どもだよ? 気に入らないことがあったらずっと文句言ってるし、しつこいし、毒舌だし、ハゲとかデブとか人の外見に対して容赦ないし、そのくせ自分には甘くて俺イケメンって言い張ってるし、女子のフィギュアスケートとかも露骨にエロい目で見てるし、ちょっとおっぱい大きい子がいたら、振り返って見るし、自分のおならキャッチして、匂い嗅いで臭いの確かめて喜んでるし、何もカッコよくないよ?」

 私が喋っている間、「おい」とか「待て」とか「こら」とか必死に止めようとしていた夫が、無言になり、壁に向かって張り付いた。擬態しているつもりらしい。よしのは頬を引きつらせ、黙ってしまった。

「この人に何を期待してるのか知らないけど、あなたが見てるのは、表面だけ」

 よしのは何か反論しようと私をめ上げているが、確実に、戦意を喪失している。

 キラキラした少女漫画みたいな憧憬は、多分、ほとんど残っていない。

 本当に、薄っぺらだ。

 所詮、この程度だ。勝手に理想を抱いていただけにすぎない。

「今言ったこと、私は別に欠点だとは思ってないから。私は、カッコ悪いところも駄目なところも含めて、可愛くて、好きなの。この人の、内側を、愛してるから」

 壁と一体化して動かない夫の後ろ姿を見た。よしのも同様に夫を見ていた。その目は冷ややかだった。もう夫に対しての幻想は、捨ててしまったようだ。

 死んだ魚の目で投げやりに私を見て、「そうなんですねー」と感情のこもらない声で言うと、ベッドから腰を上げた。

「お幸せに。じゃあ、私帰りますね」

「待って。ここからが本題」

「え……、本題って?」

「慰謝料を請求される側だって、自覚はありますか?」

「慰謝料……?」

 彼女の顔色が変わった。

「わ、私、その、健一さんに、誘われて、断り切れなくて……」

「嘘は意味がないから。LINEのやり取り、全部見ました。あなたが、夫を、誘った。それと、あとで言い逃れできないように、ここでの会話はすべて録音させていただいてます。陰湿でごめんなさいね」

 夫のスマホを水戸黄門の印籠のように翳すと、女の体がぐらりと揺れた。

「ひどい」

「何が?」

「なんで、私、そんなに悪いこと、した? 不倫なんて、みんなしてるのに」

「またそれ? みんなが代わりに慰謝料払ってくれる? 知らなかったら今日覚えていって。不倫は悪いことです」

「私、お金なんて、ない……」

 よしのが蒼白になって、頭を抱えた。

 別に、慰謝料なんて、いらない。

 ただ、もう二度と、夫に近づけないための脅しだ。

 それにしてもあっけない。

 愛の大きさがどうだとか、いけしゃあしゃあと語っていたが、思った以上に空っぽだった。

「でも、健一さんだって悪いじゃないですか。健一さんが我慢したらこうなってないのに。なんで私だけ責められてるんですか? 健一さんのこともちゃんと怒りました?」

 部屋の中が、シンと静まりかえる。

 なるほど、この子は著しく倫理観が乏しく、年齢の割に、幼稚だ。

 自分の欲求が最優先で、人のものを盗むことを、家庭を壊すことを、悪と捉えていないのだ。

「夫のことは、当然叱りました。ね」

 夫に同意を求めると、壁に寄りかかった彼が目を閉じて、無念の表情で懺悔を口にする。

「……はい、ごめんなさい。本当、後悔してる」

 よしのが不服そうに「え?」と顔を歪めた。

「それで許したの? 許されるの? なんか、ひどい、私だけ悪者になるの、おかしい、絶対、不公平。じゃあ私のことも許してください。だって、お金ないんですよ?」

 夫が口元を隠し、はあ、と小さく怒りを吐いた。

 こんな女に手を出したことを、心底から、後悔しているだろう。

「自業自得。それが不倫の代償でしょ」

 女に向けた言葉だが、夫にも刺さったらしい。私を見る目が、申し訳なさからか、潤んでいた。

 うつむいて、だって、でも、とブツブツ言うよしのの顔を、下から覗き込む。

「あのね、あなたは不倫なんて大したことないって、遊び程度に思ってるかもしれないけど、私は大切にしてきた家庭を、人生を、壊された。あなたの軽率な行為で、台無しにされた。どうして被害者づらできるのか、意味不明」

 肩を掴んで揺さぶりたいのを我慢して、精一杯抑えた声で言ったが、よしのは子どもみたいに唇を尖らせた。

「だから、それは健一さんが私に手を出さなかったらよかったんじゃないですか」

「あなたが夫を誘わなかったらよかったんじゃないですか」

 尖った唇をさらに尖らせて、よしのが黙る。黙って、反撃をやめた。

 観念したらしい。

 全員が黙って、三分は経過した。

 誰も何も言わなくなったラブホテルの一室。

 今になって急に、これは夢じゃなかろうか、とぼんやりと考えた。

 夫が、若い女と浮気をした。

 よく聞く話だが、自分にとってそれは異世界に転生するレベルの、ありえない、現実味のない出来事だった。

「この人に限ってって思ってた」

 私は呟いた。

「でも、男なんて若い子から誘われたら、好きでもないのに抱ける生き物なの。脳みそが男根なんだわ、きっと」

 居たたまれない様子の夫が静かに顔を両手で覆う。

「下半身に支配された悲しい生き物。本当に、悲しい。虚しい。情けない」

 独り言を続ける私によしのが同意した。

「なんか、それは、わかる」

「でしょ」

 私とよしのが顔を見合わせ頷き合う。

「一人だけじゃ不倫は成立しない。あなただけが悪いわけじゃないよ。夫も当然悪い。でも、今後どうするかは私たちの問題だから。とにかく、あなたは反省して、仕事以外で夫に話しかけないで。金輪際、関わらないでください」

「は、はい……、あの、慰謝料って、いくら? 私、訴えられるんですか? 裁判とか、弁護士とか? 全然わからないけど、どうしたら、あっ、会社に連絡とかっていくんですか?」

 今更そういう心配をしても遅い、と思ったが、ことの重大さがようやくわかったらしい。

「え、困るよぉ……」

 しおらしくなったよしのの手から、ハンドバッグが落下した。拾う元気もなく、困惑した表情で自分の体を抱いている。

 私はバッグを拾い上げ、よしのの前に突きつけた。

「お金は、いりません」

「え」

「もう二度と、既婚者に言い寄るのはやめなさい。人のものを、盗らない。人として、当たり前のことだから」

 唇をわななかせ、よしのが私の手からバッグを受け取った。

「ごめ、……ごめん、なさい、ごめんなさい」

 彼女の口から、ようやく謝罪の言葉が出てきた。

 零れ落ちる本物の涙を見て、重く圧し掛かっていた肩の荷が、下りる。

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