第5話
私たちに子どもがいたら、何か違っていただろうか。
子どもの顔が見たくて、毎日早く帰ってきていた?
子どもさえいれば、若い女に誘惑されていなかった?
そんなわけがない。いなくてよかったのだ。離婚するなら、子どもがいないほうが何かとスムーズだろう。
私たちはもう、別れたほうがいい。
お互いに別の相手と寝る夫婦。
終わっている。
「大丈夫?」
男は裸の私を抱きしめて、頭を撫でた。泣き止むまでそうしていて、やがて顔を覗き込むと、手のひらで丁寧に涙を拭ってくれた。気味が悪いほどに、優しい人だった。
優しいけど、それだけ。体の相性がよくて、セックスが上手い。
でも、それだけ。
優しいから、セックスがいいから好き、という思考には繋がらない。
顔も体も何もかも、夫より上だと思う。おそらく街中で「どっちがイケメンか。どっちと付き合いたいか」というアンケートを実施すれば、この男に軍配が上がるだろう。
間違いなく、夫よりいい男だ。
どうだ、若くていい男とセックスをした。してやった。三十五歳の既婚女を抱きたがる男なんていないと言い放った夫の、鼻を明かすことができる。
少し笑って、はあ、と溜め息をつく。
虚しい。
虚しさで、目の前が暗くなった。
「帰ります。買い物に行って、ご飯、作らないと」
男の体を押して、言った。
「シャワーは? 一緒にしよ?」
汗ばんだ体を押しつけてくる。香水の香りに混じって、汗の匂いが鼻につき、ぐっと喉を詰まらせた。
見知らぬ男の体臭が、不快だった。
なぜだか妙に、夫の匂いが恋しい。
でも、多分私はもう二度と、あの人とセックスをしない。できない。
だって私たちは、お互いに不貞を犯した。
他の女を抱いた夫に、抱かれるのは抵抗がある。それと同じで、他の男が抱いた私を、夫は抱きたがらないだろう。
私たちは終わりだ。
再びせり上がってくる涙。
「みっつん」
馴れ馴れしく肩に触れる手を、さりげなく振りほどき、ベッドを下りた。脱ぎ散らかした下着を拾い上げ、男の視線を感じながら、服を着る。
「また会おうよ」
男が言った。私は答えずに、バッグから財布を出した。
「え、ホテル代? いらないよ?」
「私の気が済まないので」
「みっつん、真面目で面白いなあ。ねえ、また会おうよ」
なかなかにしつこい。シーツの上に千円札を二枚重ね、深々と頭を下げた。
「今日はありがとうございました」
「どうするの?」
「……何がですか?」
「旦那さんと離婚するの?」
あなたに関係ありますか? というセリフを飲み込んだ。男はベッドの上で片肘を立てて頭を支え、私を見上げてニヤリとした。
「旦那さんは、したくないだろうね」
「どうして」
「みっつん、可愛いもん。なんか面白いし、それに、体、すごいじゃん」
「なんですか……、体、すごいって……」
「名器ってこと」
一瞬なんのことかわからなかったが、意味に思い至って顔をしかめた。
「すごく気持ち良かったよ。ゴム着けててもすぐイッちゃいそうだったもん。感じやすくて、声も可愛くて、俺が旦那なら浮気しないで毎晩抱くのに」
うるさい。
耳を塞ぎたかった。
私はおかしいのだろうか。多分、褒められているのに、嬉しくない。
「俺たち、相性いいと思わない?」
確かに相性はいいのかもしれない。
でも、この人のことを、何か、好きになれない。
「帰ります」
「いつでも連絡してね」
手を振る男をドアで遮断し、足早にラブホテルを出た。
外は明るい。切っておいたスマホの電源を入れて、時間を確認した。三時半を回ったところ。早く買い物を済ませて、家に帰らなければと考えて、苦笑する。
たった今、私は見知らぬ男と寝たというのに、もう日常に戻っている。主婦が、身についている。
もし離婚したら。生活も一変する。
一人で生きていかねばならない。
一人で目覚め、一人分の食事をこさえ、仕事に出て、一人の家に帰り、そして、一人で眠る。
以前の私ならできていた。一人の時間は苦痛じゃないし、むしろ好きだった。
でも今更、それができるのか、わからない。
ぎゅう、と胸が苦しくなり、足を止めた。
寂しい。悲しい。
義両親とは上手くいっていたし、自分の役割に不満がなく、毎日それなりに充実していた。
それに、私は、夫のことが大好きで、彼のご飯を作って、彼の服を洗濯するのが楽しくて仕方がなかった。
心から、夫を、愛していた。
スマホが鳴った。夫からの着信だった。着信を拒否して、LINEを開く。
長い反省文が目に入る。
美津を愛しています。
その一文を大切に、何度も胸の内で繰り返し、微笑んだ。
そして、返信を入力する。
──離婚してください。
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