第6話
夕飯の買い物を済ませ、帰宅すると、ちょうど義父母が帰ってきた。
「今日はお夕飯の買い物、しなくてもよかったのに。はいこれ、美津さんの好きなバターサンド」
北海道フェアで購入したお土産を机の上に並べながら、姑が言った。明確に、夕飯を作らなくてもいいとは言われていなかったが、ここは想像力を働かせなければならなかったのだ。
普段なら笑って「そうでしたね」とやり過ごせるのだが、何かとても重大なミスを犯した気持ちになって、肩を落とした。
二人は私の様子には気にも留めず、舅なんかはさっさと駅弁を開いている。
「美津さん? どうしたの? 大丈夫?」
何か喋ると泣いてしまいそうだ。今ここで泣くと、いろいろと面倒なことになる。歯を食いしばって、堪えた。
「美津」
玄関が開く音と、夫の声が同時に聞こえた。バタバタと廊下を駆ける足音。
「美津、いるのか?」
「あら、なぁに? 今日は早いのね」
のんびりと驚く姑の体を押しのけて、夫が私の腕をつかんだ。背後で姑が騒いでいたが、夫は無言で私を引っ張って、外に出た。
「どこ行くの?」
夫の背中に訊いた。
「わからん」
「何それ」
「話したい。邪魔が入らないところで、二人で」
「仕事は?」
「早退した」
「なんで?」
夫が足を止めて振り返った。
「お前が電話に出ないからだよ」
「ごめん。でも、出られなかった」
「LINE見ただろ? 既読スルーすんなよ」
「既読スルーで責められるんだ、私。それくらい許されてもいいと思うけど。ていうか、返事したから」
わかっているはずだ。夫の長文に対して八文字の返信をした。
離婚してください、と。
夫の反撃が止まった。犬の散歩をしている老人が、じろじろとこっちを見ている。家の近くの道端で、言い争いをするのは賢くない。
「移動しよう」
私の体を再び引きずっていく。
「どこに?」
「だから、邪魔が入らないところで……、ほら、あそこの車屋の裏にあっただろ」
「ちょっと、やめてよね」
夫が言っている「あそこの車屋の裏」にあるのは、ラブホだ。ここから歩いて十分程度の近場で、夜になるとネオンの看板がきらめき、車屋が後光を差しているように見えるのが面白い。ネタで、「入ろうよ」とお互いを誘い合うのが定番だった。
今まで夫とは、一緒に入ったことがない。夫とは。夫以外の男とは、入ったことがある。ついさっき、見知らぬ男に抱かれたのが、その車屋の裏のホテルなのだ。
私の「やめてよね」を嫌悪と受け取ったのか、夫がムキになって鼻息を荒くした。
「あそこにしよう」
「やめてって言ってるのに」
「旦那とラブホ入るのがそんなに嫌なのかよ」
「声が大きいってば」
「別に、何もしない。話したいだけだ。それも嫌だってのか? もう駄目か? やり直せない? 俺は、本当に、ちゃんとお前のことが」
「健ちゃん」
夫を止めた。続く言葉をとても聞きたい。聞きたいが、罪悪感に圧し潰されそうで、無理だった。
「私、ちょっと前までそこにいた」
「……え?」
言っている意味がわからなかったようだ。夫がポカンとしている。
「三十五歳の既婚女でも、需要あるみたい」
「美津」
はあ、と大きくため息をついて、夫が私の両肩に手を置いた。顔を伏せて、私の肩を、弱々しい力で揺さぶってくる。
「美津、美津……」
何度も私を呼ぶ声は震えていた。
仕返しは、成功したらしい。
おかしい。もっとスッとするかと思っていた。
意外にも気は晴れず、喉に魚の小骨が引っかかったみたいな痛みがあった。
気持ちが悪い。
喉を押さえ、「あ」と声を漏らす。それ以外、何も言えなかった。
涙が頬を伝い、私はその場にうずくまった。
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