第4話

 好きでもない相手とキスをしたって、きっと、ただ気持ちが悪いだけ。

 そう思っていた。

 男は慣れていて、やたら上手かった。映画みたいなキスをする、と驚いた。

 夫は強く舌を吸いたがったが、男は絶妙だった。思わず鼻から声が漏れるほど、上手だった。キスをする間、体に触れる指の強弱も完璧で、緊張が解けるのは早かった。

 こちらからアクションを起こさなくても、全部、してくれる。私は受け身でいるだけでよかった。

 異様な興奮とは裏腹に、全身が、弛緩する。

 脳がドロドロに溶けそうなほど気持ちがよく、下腹部が熱く疼く。

 たくし上げたスカートの下に、男の指が潜り込む。音が響いた。濡れているのだと気付き、羞恥で身じろぎをした。

「は、恥ずかしい」

「うん、濡れてるね」

 言いながら、男は私の秘部を優しく愛撫した。

「もっと気持ち良くしてあげる」

 耳元で囁く男の低い声に、私の「あっ」という高音が重なった。まるで、少女のような、甲高い声。

 これは自分の声なのか。

 唇から勝手に零れる声に戸惑ったが、止められなかった。

 無様に声を漏らすやかましい私を、男が見ている気配。

 目を固く閉じ、名前も知らない男から、顔を背けた。

 シャツのボタンを外す手も、慣れているのがわかる。ブラジャーの紐に指を引っかけて、肩を撫でながらずらすその動作も、やはり慣れが見てとれる。

 弧を描くように、胸をふわりと揉み、両方の先端をこねる指も、優しかった。

 どうしてこの男は、数分前に会ったばかりの他人に、こんなことをできるのか。

 どういう感情で?

 ただ性欲を晴らしたいだけなら、とっとと挿入して終わりでいいはずなのに。

 私を気持ち良くさせるメリットが、この男にあるのだろうか。

 目を開けた。

 視線が合うと、にこ、と微笑んで私の腹にキスをする男。

 長めの茶髪、シルバーのリングピアス、ブランドの腕時計、それに、ほのかに香る甘い香水の匂い。服を脱ぐと、焼けた肌に割れた腹筋。

 明らかに、モテそうだった。

 なんの仕事をしているのか、想像もつかない。まだ日の高いうちに、出会い系アプリで知り合った女とラブホテルにいる。ちゃんとしているとは言い難いが、彼は私の話を聞いてくれる。夫に仕返しをしたいからという理由でセックスを希望している主婦の望みを、叶えてくれる。

 だから、いい人に違いないのだ。

 いい人で、あって欲しいと思っている。

 夫以外で関係を持つ人が、私にとって後悔のない相手であって欲しい。

 誰でもいいと思っていたのに、いつの間にかよくわからない欲が出ていた。

「名前、なんて言うんですか?」

 訊くと、男は少し間を開けてから頭を掻いた。

「イチでいいよ」

「それはアプリ内での名前ですよね。本名は?」

「なんで知りたいの?」

「逆に、なんで何も知らない相手とセックスできるんですか? 男って、みんなそうなの? しようって言われたら、誰でもいいの? どうして、どうして好きでもない人と」

「好きでもない俺と、セックスしてみたらわかるんじゃない? 仕返し、しようよ」

 喋っている途中で言葉を被せてきた男が、私の脚を割り開いた。太ももを持ち上げて、きわどいところに唇を押し当て、強く、吸う。

「痕ついたよ。あとで旦那に見せたら?」

 言っていることはえげつないのに、顔は柔和だった。

「いっぱい、痕つけてあげる」

 私の体のあちこちを、吸ってくる。吸って、舐めて、吸って、舐めて、繰り返す。私の腰が、物欲しそうに、揺れる。

 溢れてくる。

 奥底から何かが噴き出て、男が私の中に入った瞬間、恍惚の声を上げて、絶頂に達した。

 痙攣する私の体を、男が出入りする。何か叫びながら、大きな背中にしがみつき、脚を絡ませた。

 自分から、腰を突き上げた。

 喘ぎが、止まらない。

 私は好きでもない男と、セックスをして、とんでもなく、感じている。

 私以外の女を抱いた夫。

 夫以外の男に抱かれる私。

 後悔するだろうか。こんな幼稚な仕返しで、私の心は満たされるのだろうか。

 わからなかったが、終わったあとで、私は声を上げて、泣いた。

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