干渉~イノセside~

「ほら!新入り!さっさとしな!」

「そこの掃除が終わったら次は庭の手入れをして頂戴!」

「さぼったら承知しないよ!」


 離島にある屋敷のあちこちから矢継ぎ早に飛んでくる怒号。それらの怒号の向けられた先には、イノセがいた。


「はい。ただいま。」


 イノセは屋敷の一室を箒で掃きながらあちこちの怒号に返事をしていく。


「本っ当に気味の悪いこと!ロードピスと同じ他所の国の人間ってだけで願い下げなのに、『運命の書』にあんたのことなんかどこにも書かれていないなんて!」


 部屋の出入り口に立ち、むえんりょにイノセに嫌みを浴びせる、壮年女性の奴隷───周りの奴隷達は奴隷長と呼んでいた───。しかし、イノセは奴隷長の言葉を余所に掃除を終わらせ、奴隷長に顔を向ける。


「中庭の手入れをしてきます。」

「…フンッ!!愛想のないこと!」


 真顔でただ告げるイノセに、捨て台詞を吐きながら早歩きでその場を去る奴隷長。わざとらしく立てられた靴音が屋敷の廊下に響く。イノセの態度が気にくわなかったのか、あからさまに不機嫌なのが顔に出ている。

 そのまま奴隷長は、廊下の曲がり角へと消えていった。


(僕…ホントなにやってるんだろ…。)


 部屋の入り口の枠に背中を預け、自分に悪態をつきながら大きなため息をつくイノセ。その顔には、悔しさ、情けなさ、歯がゆさ、苦々しい思いが複雑に絡み合っていた。


(だけど今は機会を待つ以外にない。それまで我慢しなくちゃ…。)


 そう。彼はただ全てを諦めて奴隷に身を落としたわけではない。奴隷として振る舞いながらずっと機会をうかがっているのだ。


 この屋敷から出る機会を。

 彼女と出会ったあの日から──―


 ~~~~~


 ―—―それはイノセがこの屋敷に連れてこられ、彼女と顔を合わせたあの夜のこと。


「ロードピス。私の名前は、ロードピスよ。」


 煤けた部屋に差し込む月明かりに照らされながら自らの名を告げる女性。

 その名前を聞いたイノセは、脳裏に何か引っ掛かりを感じていた。


(あれ…?どこかで聞いた覚えが…。)


 その名前に聞き覚えがあったイノセ。すぐに頭の中の記憶を一つずつ辿って紐解いていく。


「…急に難しい顔をして黙らないでよ。人がせっかく名乗ったのに。」


 思考を廻らせているイノセの顔を覗き込み、少し不機嫌そうに声をかける。

 彼女の顔が視界に入り、イノセは我に返る。自分が名乗ったのに急にだんまりを決め込まれては、機嫌を損ねるのも当然であろう。


「あ…すみません。どこかで聞いたような気がして…。」


 黙したことを彼女に咎められ、咄嗟に謝るイノセ。

 だが彼の謝罪を聞いた彼女は、なぜか少し吹き出していた。

 何かおかしなことを言ってしまっただろうか?不思議に思ったイノセが訪ねる前にロードピスが笑いを堪えながら口を開く。


「初対面なのに名前を知ってるかもだなんて、もしかして口説いてるのかしら?」

「…あ!いや!違うんです!!そうじゃなくて、えっと、なんて言ったらいいのか…。」


 そこでようやく吹き出した理由に気付き、慌てて弁解しようとするイノセ。その姿がまた可笑しかったのか、目の前の彼女はさらに込み上げた笑いを必死に押さえようと顔を俯かせて口元を手で覆うが、それでも忍び笑いが漏れだしている。

 次第にようやく落ち着いたのか、目に笑い涙を溜めながらもイノセの方へ向き直る。


「でも残念でした。私はいずれ結婚するの。この前失くしたサンダルの片割れを持ってやって来る、この国の王様とね。」


 イノセから目を離さずに自らの『運命』を告げた彼女。だが、よほどイノセの発言が可笑しかったのか、まだ若干笑いを堪えているのが分かった。


(…あ!)


 だが、その言葉を聞いた瞬間、かかった靄が晴れていくように、頭の中の引っ掛かりの正体が分かった。

 以前フォルテム学院にいた頃、その特徴が一致する伝承を見たことがあったのだ。


 世界各地から集められ、フォルテム学院に収められた数多の伝承。その中にあった、ロードピスという名の物語。

 世界で語り継がれた伝承の中でもかなり古い時代のものであったらしく、学院の様々な資料を調べてもその全貌の把握が難しい程に、情報が限られていた。

 だがそれでも、その物語の展開は大まかにではあるが判明している。


 ──エジプトのとある屋敷で奴隷として働くロードピス。ある日、彼女は己の主人からサンダルをプレゼントされた。ロードピスは大層喜んだが、ある日その片割れを隼に奪われてしまう。


 隼は奪ったサンダルをエジプトの王『ファラオ』の元へと運んだ。『ファラオ』は国中の娘を集めて持ち主を探し、やがてロードピスを見つけ出し、二人はめでたく結婚する。───


 おおよその流れはこんな感じだ。


 砂漠の国、奴隷となった異国の女性、サンダル、王との結婚。

 学院の僅かな情報と、この想区の特徴、なによりも彼女が語った内容が、悉く一致した。


 そしてそれは同時に、イノセにとって地獄に仏ともいえる一筋の光だった。


 イノセはこの想区に入ったばかりのことを思い出した。

 大きな門の前に立ち、片方だけのサンダルを掲げて高らかに婚約宣言をするあの男の姿。

 自分の記憶が正しければ、王はそう遠くない内にこの島を訪れるはず。


 未来の妃であるロードピスを迎えるために。

 当然、王族が乗るに相応しい、大きな船に乗って。


(その船にこっそり忍び込めば、この島から脱出できる…!)


 イノセの決意は、固まった。


 ~~~~~


 その日から奴隷として働き初めて数日、現在に至る。


 正直なところ、自分の事情でロードピスを利用している形になるのは良心が痛む。

 だが、手段は選んでいられなかった。

 なんとしてもこの島を出て、『導きの栞』を取り返し、姉と合流しなければ…。


「ロードピス!!ロードピスはいるかい!!!」


 不機嫌な奴隷長が急に甲高い叫び声をあげて、ロードピスを呼び出す。姿が見えないというのに誰のものかすぐに分かるその声は、屋敷の廊下中に反響した。


 今、彼女はこことは距離のある持ち場にいるはずなのだが、なぜわざわざこんなところで呼び出すのか。しばらくすると、急いで走ってきたのか、額に汗の玉を浮かべたロードピスが現れた。


「はい!お呼びで…。」


 バチン!!


 ロードピスが言いきる前に、なんの前触れもなく乾いた破裂音が響く。奴隷長がロードピスの頬を叩いた音だ。


「このグズ!!このあたしが呼び出してからどれだけ時間が掛かっているんだい!!呼び掛けもまともに聞こえないのかい!?」

「…申し訳ありません。」

「申し訳ありませんじゃないんだよ!!謝って済むなら兵士なんて要らないんだよ!!しかもその顔!!なんなんだいその顔は!!あたしのことがそんなに気に入らないのかい!?あたしが何か間違ったことを言ったっていうのかい!?ここの使用人達の長であるこのあたしが!!!」


 耳を塞ぎたくなる程甲高く、聞くに耐えない罵倒をさも当たり前のようにロードピスに浴びせ続ける奴隷長。


 曰く、普段の態度が気に入らないだの。

 曰く、昨日の荷物の整理が遅かっただの。

 曰く、この前の踊りを誉められて以来、調子にのっているだの。


 顔を真っ赤にしながらロードピスにつかみ掛かる勢いで捲し立てるようにその姿は、イノセの目には最早珍獣のように見えた。

 イノセは周囲の奴隷達の反応を見渡してみる。耳を塞ぐ者、うんざりした顔をしている者、見て見ぬふりをしている者。反応は様々だが、誰一人として、ロードピスに助け船を出そうとするものはいなかった。

 まだまだ奴隷長の説教は収まる気配がない。


「罰として今日の洗濯は全部あんたにやらせるからね!!明日、お客様との会食の際に旦那様が着る服もあるから!!明日までに乾かなかったら承知しないよ!!」


 奴隷長が告げたところで、ずっとうつむいて黙っていたロードピスがハッとしたかのように急に顔をあげる。


「え!?しかし、あの量の洗濯物、とても一人では片付けません!!明日、旦那様のお客様が来るまでに終わらせるなんてとても…。」


 バチン!!


 また屋敷に響く破裂音。またしても奴隷長のビンタだった。


「口答えをするんじゃないよ!!!あたしの命令に逆らうっていうのかい!?あんたは明日旦那様の着る服がなくてもいいって言うんだね!!あーあ!大事なお客様の前で旦那様に大恥をかかせる気なんだね!!本当にろくでもない娘ったらありゃしないよ!!!」

「そんな…!!」


 彼女への手酷い仕打ちは、留まることを知らない。きっと明日も、押し付けた仕事をネタにまた怒鳴り散らすことは目に見えていた。それも含めてあんな無茶振りをしているのだろう。





「奴隷長。その洗濯物、僕も手伝います。」





「「…え?」」


 その話の間に入ったのは、他ならないイノセだった。

 思わぬ人物からの申し出に、あの甲高い声が一瞬にして止む。ロードピスも、突如訪れた静寂にただ流されるしかなかった。

 余計なことをしたかもしれない。その自覚はある。だが、それでもこれ以上は聞くに耐えなかったし見るに耐えなかった。


「な…何なのよあんた!!突然割り込んで!!あたしはその娘に言ってんのよ!!」

「明日の会食に必要な服があるんですよね?ならば急いで取りかかる必要があります。二人で一緒に作業をすれば、明日までにはなんとか間に合うかと。」

「あんたには関係ないでしょ!大体、あんた庭の掃除があるはずでしょ!!」

「同じ主人のもとで働く以上、無関係というわけではないと思います。僕たちの誰かが至らないばかりに、旦那様に迷惑を掛けるわけにはいきませんので。庭の手入れなら洗濯の後でちゃんと終わらせますのでご安心を。」


 調子を思い出したかのようにまた声を荒げる奴隷長。だがイノセは顔色一つ変えずに毅然とした態度で対応する。しかし、それでも納得がいかなかったのか、奴隷長のヒステリーは治まる様子を見せない。


「一丁前にその女を助けようっての!?新入り風情が生意気なのよ!!!」

「あくまでも作業の効率を考えた結果です。あなたもここの長であるならば、時間内に全ての作業を終わらせるように仕事を管理する責任があるはず。ただ激を飛ばすだけでなく、どうすれば早く終わらせられるかを考えた方がいいのでは?」


 下の者に反論されるとは思わなかったのか、怒鳴りながらも戸惑いを隠しきれない奴隷長に、ただ真顔で淡々と告げるイノセ。やり取りを続けていく内に、イノセを見る奴隷長の顔色が、だんだんと変わっていく。

 その顔色に、イノセは怪訝そうな目を向ける。


「フンッ!!勝手にしなさい!!間に合わなかったら承知しないわよ!!」


 終いに奴隷長はイノセに捨て台詞を吐いて、どこかへ行ってしまった。あとにはイノセとロードピス、そして事の端末を陰から覗き見てた奴隷たちが残される。


 奴隷長の靴音が遠ざかっていき、どんどん聞こえなくなっていく。やがて廊下が静まりかえったのを見計らって、傍らにいたロードピスがイノセに近寄る。


「なんで、私のことをかばったの…?」

「…え?」


 彼女から送られたのは、庇ったことへの感謝ではなく、疑問の言葉であった。

 ロードピスはイノセの体を力ずくで自分の方に向けさせる。


「何て馬鹿なことしているの!!あの人はこの奴隷達のリーダーよ!あなた、確実に奴隷長に目をつけられたわ!もう何事もなく過ごすことはできないわよ!!」


 無理やり向かい合わせたイノセの目を捉えた彼女が告げたのは、出会って間もない自分の盾となった、彼への叱責。そして、永遠に平穏は訪れないという、本来なら残酷な宣告。


「…もしかして、お節介でしたか?」

「そうじゃない!私のせいで、あなたまで巻き込んでしまったのよ!私のことなんて、放っておけばよかったのに…!」


 悲憤に震えつつ、イノセをきつく叱り続けるロードピス。

 いや、叱るというのは少し違うようだ。


 彼女は、心配をしているのだ。仲間になったばかりのイノセのことを。新たに奴隷に身を落としてしまった、哀れな同族の未来を。


 彼女の気持ちを察したイノセは、彼女の瞳を真っすぐ見据えて、言い聞かせるように告げる。


「気にしないでください。僕が勝手にやったことですから。」

「でも…!」

「それに。」


 慰めの言葉を述べたものの、彼女はそれでも尚不安な表情を変えなかった。

 イノセはそんな彼女の瞳を今一度見据える。そして今度は先ほどとは打って変わり、光の灯らない瞳を彼女に向けながら低いトーンで淡々と告げる。


「本気で怒った父様に比べればあの程度、むしろ生温いくらいです。」

「あなたのお父さん、どんな人なの…。」


 急に真顔になったイノセの語る『父』の存在に戦慄を覚えるロードピス。だがイノセは、父に関しては答えることなく後ろを向いて廊下を歩き始める。振り返る際に一瞬だけ彼の体が震えていたような気がしたが、ロードピスは気のせいということにしておいた。


「じゃあ、行きましょう。早く終わらせてしまわないと。」

「あ…あぁ!そうよね!さっさと済ませないと!あなたの仕事も手伝わなきゃだものね!」

「え?いいんですよ?僕が言い渡された仕事なんですから…。」

「いいのいいの!助けられたままじゃ、私の気が済まないの!」


 イノセの遠慮がちな断りに食い下がり、彼の背中を押しながら共に洗い場へと進むロードピス。

 彼女の押しの強さに気圧されながら歩くイノセだが、頭の中では、先程の奴隷長とのやり取りの違和感が気になっていた。


(下の立場の人間が歯向かってきたら、もっと何か言ってくると思っていたけれど…。それに、最後に見せた顔…。)


 奴隷長の表情を思い返してみる。頭に血が上っているのが一目で分かる真っ赤な顔。歯をきつく食い縛り、険しい表情を崩そうとしなかった。


 否、「崩れそうなのを必死に保っていた」という感じだった。

 下の者に噛みつかれたことが悔しいのかと思ったが、よく思い返してみると、少し違うかもしれない。というよりむしろ…。


 まるで得体の知れない何かに対して、怯えている気持ちを取り繕うかのようだった───


 ふと、歩きながら周囲を観察してみる。


 ──なんだあの新入り。あんなやつ入ってきたなんて、聞いてないぞ?──

 ──ここの奴隷達はみんな奴隷長の言いなりのはずなのに、言い負かしちまった…。──

 ──こんな出来事、俺たちの『運命の書』には書いてなかったよな?──

 ──やだ…なんなの彼…気持ち悪いわ…。──


 その視線に映ったのは、イノセを怪訝そうな目で見つめ、ヒソヒソ話をする他の奴隷達の姿だった。


 想区の住人達にとって『運命の書』の記述こそが当たり前であり、常識である。その記述から離れる出来事が起こるなど、予想だにしないだろう。

 だが、『空白の書』の持ち主である自分が干渉したことで、彼ら常識が覆されてしまった。自分達の「当たり前」が打ち破られた時、人間は途端に臆病になる。

 奴隷長のあの反応も、本能的にイノセという存在自体に警鐘を鳴らした故のものであろう。


(やっぱり、余計なことをしちゃったよな…。)


 イノセが仲裁に入ったことで、多少なりとも、ロードピスは救われただろう。イノセの行動は、人として至極善良な行いである。だが、その善良さとは裏腹に、イノセは一抹の不安を感じていた。


『空白の書』の持ち主である自分が、彼女らの間に割って入ったことで起こりうる、最悪の可能性に───


 ~~~~~


 あの後、ロードピスと共に急いで屋敷の外に流れる川へと向かい、山のような洗濯物を大急ぎで終わらせた。始めた頃には日が丁度天辺にあったというのに、終わる頃にはすっかり日が沈んでしまった。

 昼間は焼けるほどの暑さだったというのに、夜になると、昼間の暑さからは想像出来ない程の冷気が肌を撫でる。この夜風の中、乾いてくれるか心配だったが…。


「大丈夫。お客様がお見えになるのは明日の夕方頃だもの。この地方は滅多に雨も降らないし、十分よ。」


 隣でそう強く宣言するロードピス。その後、二人揃って中庭へ急ぎ、最低限の道具を持って植木の手入れや清掃に勤しんでいた。

 夜の闇で暗くなった庭を、片手にもったランプで照らしながら、各々の作業に取りかかる。植木の簡単な剪定や水やり、落ちた葉っぱや花びらの掃除など、やることを挙げればキリがないうえに庭自体も広いために手際よく進めなければいけない。しかし、それぞれが持ったランプも手元を照らすのが精一杯で、思うように捗らない。歯がゆい思いをしながらも、黙々と進めていく。


「…ありがとう。」

「え…?何のことですか?」


 庭を支配していた沈黙を破ったのは、突如告げられたロードピスの感謝の言葉。イノセは言葉の意味を理解できずに、彼女に聞き返す。


「昼間のこと。私、一方的に怒ってばっかりで、お礼の一つも言えてなかったから…。今思うと、助けてくれた恩人に向かって、すごく恥ずかしいことをしてしまったけど…。」


 そこでようやく彼女の言葉の意味に気づいた。奴隷長との間に入って仲裁をしたことを言っていたのだ。言われてみれば、彼女の口からお礼らしい言葉はなかったような気がする。イノセは気に留めていなかったが、ロードピスはずっと気にしていたようだ。その声は、今までの声よりも若干暗く感じた。


「いいんですよ。あなただって、僕のことを心配して言ってくれたんでしょう?それに、さっきも言いましたけど、僕が勝手にやったことなんですから。」

「…。」


 穏やかにそう告げたイノセに対して、彼女は何も答えなかった。これ以上は何も言うことがないと判断し、再び作業に戻る。


「話したくないならいいのだけれど…。」


 その時、またロードピスから話しかけられた。作業する手を止めることなく、ロードピスは続ける。


「あなたは、どんな運命を持っているの?」


 彼女が問うたのは、イノセが持ち合わせる運命の内容。この世界の誰もが必ず持ち合わせているはずの、自分達の命と同じくらい大事なもののことだった。


「私の…いや、多分この屋敷の住人全員の『運命の書』に、あなたのことは記されていない。本当なら、あなたはここに来る運命じゃなかったんでしょ?」

「…。」


 彼女の言う通り、この屋敷の住人の『運命の書』に、自分のことは書かれているはずがない。

 本来の『運命の書』の持ち主であれば、自らに課せられた運命に背いて好き勝手に動くなど、思いつきもしないだろう。ましてやここは海のど真ん中の離島である。寄り道がてらに来れるような場所ではない。

 だからこそ、突然現れて共に過ごすことになったイノセという存在に疑問を抱いたのだ。

 彼女はああ言っているが、このまま黙ったままというのはいささか気まずい。

 かといって誤魔化そうにも、適当な言い訳が思いつかない。


 答えるべきだろうか。自分の、空白の運命のことを―—―






「おお、お前たち。こんな遅くまでご苦労。」






 突然どこからか低い男性の声が聞こえてきた。

 考え事に集中しているところで急に聞こえてきたためにイノセは驚いて、慌てて周辺をキョロキョロと見渡して声の元を探す。


「旦那様。ごきげんよう。」


 どこかから聞こえた声にロードピスはすぐさま反応し、仰々しく頭を垂れて挨拶を交わす。彼女の向いている方向を辿って顔を挙げてみると、その声の主のいる場所と、その正体が分かった。

 その声は、屋敷の外壁に埋め込まれた窓から聞こえてきていた。大きく開かれたその窓から顔を覗かせていたのは、イノセを奴隷として買ったあの男だった。

 屋敷の外壁の上部に位置する窓からこちらを見下ろしながら、ロードピスへ声を掛ける。


「その男はどうだい。気に入ったかね。同じ異国のもの同士、話があうと思って買ってみたのだがね。」

「はい。旦那様。とても助かっておりますわ。」

「そうかそうか。それは何よりだ。わざわざ高い金を払ったかいがあったというものだよ。」


 ロードピスの返事を聞いて大層機嫌をを良くしたのか、男は自身のあごひげをいじりながらニカッと笑っていた。

 ひとしきり笑った後に、今度はイノセの方を向いた。笑顔を浮かべたまま男は声を掛ける。


「どうだいキミ。私の自慢の屋敷は。かのファラオの居城にはさすがに敵わないが、これほどの屋敷はあの町の連中だってそうそう持てるものではない。こんな豪華な屋敷で働けるなんて、幸せだと思わないかね?ん?」


 自慢話を交えながら上機嫌この上なく喋る「旦那様」と呼ばれた男。その言い方から、イノセに対して自分がしたことになんの疑問を抱いていないようだむしろ、暗に「お前を買ってやった自分に感謝しろ」とでも言うかのような大きな態度だった。


 上機嫌に笑う男とは裏腹に、どんどん顔を曇らせていくイノセ。改めて聞かされると、本当に胸糞悪くなる話である。自分が今、どれだけみじめな思いでこの場所にいるのか知らずに、いい気なものである。

 今すぐにでもあの男の顔面に拳をぶち込みたい衝動に駆られるイノセ。だが、今この男を責めたところで、何が変わるわけではない。『導きの栞』が無い以上、(本当にやるかどうかはともかくとして)力任せな強硬手段も取れないため、どうすることもできない。今はこの状況に、唇を嚙みながら耐えるしかなかった。

 胸の内に静かに滾らせる憤怒を少しでも紛らわせるために、イノセは『旦那様』に問いかけてみる。


「僕の『運命の書』には、この屋敷を訪れることや、あなたたちのことは書かれていません。僕を招き入れたのは、何かの間違いでは?」


 ただただ感情を圧し殺し、平静を装うというのがこんなにも辛く、難しいものだったとは。今にもはち切れそうな怒りを押さえながら、でき得る限りの言葉を絞り出す。

 その問いに『旦那様』は一瞬目を見開く。どうやらかなり驚いたようで、一瞬沈黙したが、すぐに笑顔を取り戻す。


「なにをいうかとおもえばそんなことか!主人に意見する奴隷など初めてだ!まあ良い!私は寛容故、特別に答えてやろう!」


『旦那様』はまるで演説をするかのごとく両手を目一杯広げ、仰々しく大きな声をあげる。


「これは私なりの人助けだよ。身寄りのなく、帰る場所のない奴隷を買い、居場所と仕事を与えた。他の奴隷たちを見ただろう。この待遇に異を言う者がどこかにいたかい?いなかっただろう!それ即ち、私から与えられた役目を享受してることに他ならない!分かるかい?ストーリーテラーによる破滅の運命を待つばかりだった彼らを、私は救ったのだ!彼らは役割を与えた私に感謝しているだろうよ。私は彼らの救世主なのだ!」


『旦那様』が高らかに宣言した。そこには、自分の所業に、誇りを持っているようにも聞こえた。


 その言葉を聞いたイノセは、開いた口が塞がらなかった。


 今の言葉、本気で言っているのか。


 自分がしでかしたことが、どれだけ傲慢で身の程知らずなのか、この男はまるで分かっていないのか。


 たとえ相手が、人間扱いされない奴隷だとしても、その一人一人にも、必ずその人が歩むべき運命がある。

 それは必ずしも、幸せな運命が訪れる訳じゃない。中には慰めの言葉もないほどに凄惨な運命を辿るものだっている。

 それでも、自分の意志で受け入れて、精一杯役割を果たす者もいる。凄惨な運命の中に、生き甲斐を見いだす者もいる。


 その運命を、この男は変えてしまったのだ。

 それも、一人二人ではない。今の話から察するに、もっと多くの奴隷達に同じことをしているようだった。

 この男は万人が持つその可能性を、自分の勝手で、手前の価値観だけで潰してしまったのだ。


 とても許せる所業ではない。頭に血が昇りきり、最早我慢の限界だった。


「旦那様。申し訳ありませんが、我々はまだ仕事が残ってますので…。」


 その時、イノセの前に突然人影が現れる。

 先ほどまで『旦那様』に頭を垂れていたロードピスであった。

 彼女はイノセを『旦那様』の視線から隠すように彼の前に立ち、その顔をまっすぐ見据えて答える。

 彼女の言葉に一瞬ハッとした表情を見せ、また笑いながら答える。


「おお。すまんすまん。邪魔をしてしまったな。私は失礼するよ。引き続き、励むようにな。」


『旦那様』はそう言って窓から姿を消し、ロードピスはその姿が完全に消えてなくなるまで再び頭を下げ続ける。

『旦那様』の足音が聞こえなくなったのを見計らって頭を上げ、イノセの方を向き直す。


「…あの人には、期待しない方がいいわよ。あの人は、自分のしてることが独りよがりなんて、これっぽっちも思っていない。周りがどう思ってるなんて欠片も考えてないんだから。」


 うんざりしたような、複雑な顔で言葉をこぼすロードピス。その言葉には自分のご主人に対する哀れみを含んでるようにも思えた。

 どうやら『旦那様』の言動は今に始まったことではないらしい。それに振り回される奴隷達に、同情の念が沸き上がる。

 だがそれでも、イノセは府に落ちないところがある。


「自分の運命を勝手に蔑ろにされて、奴隷達はなんとも思わないんですか?これだけ数がいるんだから、一人くらい不満を漏らす人もいそうな気がするんですが…。」


 ストーリーテラーから承った運命を全うするのは、想区の住人の本能のようなもの。それが果たせなくなるなど、住人達からすれば、これ程由々しき事態はない。奴隷といえど、声を挙げる者がいるのではないのか。イノセはそう思った。

 だが彼の意見に、ロードピスはただ首を横に振って答える。


「あなたには分からないかもしれないけど、奴隷達にとって、自分の『ご主人様』というのは絶対なの。奴隷達は、まずはそれを奴隷商や主人に徹底的に叩き込まれるの。暴力と恐怖をもって、理解するまで徹底的にね。だから奴隷は、自分達の主人に逆らうなんてできないのよ。単純に『怖い』し、何よりも『そういうものだ』って、刷り込まれているから。」


 ロードピスは、憂いを帯びた顔を浮かべながらイノセに語る。


 自分の主に逆らえず、声を挙げることすらままならない。自分達で考えることすら許されない。何をされてもただ黙って生きていくしかない奴隷達。

「何も出来ないのではなく、奴隷側がなにもしないだけだ」と言う者もいるだろうが、刷り込まれた恐怖、上下関係、奴隷としての常識は、多少気を奮っただけではとても拭えないのだろう。


 今の自分の発言は、軽率だったのだろうか。


 ロードピスの話す奴隷達の事情に、イノセ何も言えず、ただ俯くしかなかった。

 だが、ロードピスがそっと両手でイノセの両頬に触れ、そのまま優しく顔を上げさせる。


「貴方みたいなひとは初めてよ。自分のことでも大変なはずなのに、他の奴隷達を気遣う人なんて、今まで見たことがないわ。」


 上げさせられた自分の顔の目の前にある彼女の顔は、邪気のない笑顔が浮かんでいた。その無垢で可憐な微笑みに、イノセは心を奪われそうになる。


「でも、他の奴隷達に今の話は絶対しないこと!同情なんてかけられても彼らは喜ばないし、むしろ怒る人の方が多いんだから!」


 しかし、ロードピスはすぐに顔を引き締めてイノセに釘を刺す。その剣幕にイノセはようやく正気に戻ることができた。

 イノセがハッとした表情を見せたところで、ロードピスは再び道具を構えて、庭の垣根に向き直す。


「さあ、無駄話はここまで!さっさと済ませちゃいましょ!」

「…はい。そうですね。」


 ロードピスの叱咤を合図に、イノセも道具を構えて庭の掃除を再開する。彼女のいう通り、早く片付けてしまわないと遅くなってしまう。

 先の『旦那様』に対する不服は一旦頭の片隅に置いといて、黙々と作業を進めていくイノセ。

 しかし、あの会話から怒りと共に、新たな不安が彼の胸を襲う。


(一刻も早く想区をでなきゃと思ったけど、思ってた以上にこの想区、深刻な状況かもしれない…。)


 この想区に入ってから、カオステラーの気配は感じていない。


 しかしあの男、結構な人数の奴隷を勝手に自分の物としているようだ。

 他者の運命を自分のエゴで変えるなんて所業、ストーリーテラーが反応しない訳がない。


 今朝ロードピスを庇ったときも、運命の改ざんを危惧していたが、実はそれよりも前に、想区の住人によって引き起こされていたなんて、全くの予想外である。

 この状況を放置したら、いずれ大変なことになる。

 だが下手に動くと、それこそストーリーテラーを刺激しかねない。奴隷の数も相当だったし、誰が本来の運命とは違う奴隷かなんて、見当もつかない。かといって一人一人に聞いていたらキリがない。


(ここまで面倒事になるとは思わなかったよ。ホント…。)


 思えばこの想区に入ってから、ろくなことがない。一つずつ思い出しては頭を抱えたくなる。厄年、なんて言葉で片付けられないトラブルの連続に、ただ己の不運を呪うイノセであった。

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