旅立ち

 頭が痛む。

 手足が痛む。

 身体のありとあらゆるところが痛む。


 もはやどこが痛むか分からない程の痛みに苛まれながら、イノセは目覚めた。だが、視界がぼやけて、ここがどこなのかすらも分からない。

 まだ頭がまともに働かないが、まずは何が起こったのか一つずつ思い出してみる。


 父と母から試練を与えられたこと。

 試練の最中にカオステラーが現れたこと。

 姉と共にカオステラーに応戦したこと。


 そして…。




 …を…ませ…。




 何かがイノセの鼓膜を振るわせた。まだおぼろ気な意識でも、誰かの声であることはぼんやりと理解できた。


(誰…?)


「…か…へ…じを…しろ!」

「…きて…!起…て…!」


 また声が聞こえてくる。先ほどの声に加えて、もう一つ、別の声が聞こえてくる。聞こえてくる声は両方とも、余裕のない様子だった。

 その必死な呼び声が届いたのか、だんだん意識がはっきりとなってくる。

 ようやく意識が覚醒し、視界に入ってきたのは、姉のルゼともう一人、ルゼとは別の女性がイノセに寄り添っていた。

 肩、手足、胸に装着した傷だらけのくすんだ白の鎧。胸元に飾られた血のように赤い薔薇のブローチが、鎧の武骨さを和らげてくれる。その鎧の下に着た、森のように深い緑色の、裾の短い上下一体型のワンピース、さらに鎧の上から羽織った、これもまた胸元の薔薇と同じく真っ赤な色のマント。

 腰まで届く桃色の髪は一部分だけが三つ編みに結っており、大部分は束ねず、そのさらさらとした髪質を惜しげもなく主張している。頭の右側面には、六枚の花びらを持つ黄色の可憐な花の髪飾りが添えられており、長い前髪から見え隠れする、力強さを感じさせる緑色の瞳。その騎士然とした佇まいは、見るものに頼もしさと安心感を覚えさせるようだ。


「…目が覚めたか。華奢な体なのに、まったくしぶといことだ。」


 女性が安堵した表情でイノセを見下ろす。

 イノセはその姿をよく知っていた。かつて両親と共に旅をした一人。父と母、サード、タオ、シェイン、クロヴィスに次ぐ、「調律の巫女一行」の仲間の一人。


「エイダさん…。あなたも来てくれて…」

「よかった!!もう目を覚まさないかと思ったじゃない!!!」

「ぶっ!?」


 言い切る前に、抱きついてきたルゼによって言葉を阻まれる。急に飛び付いてきて、締め付けるように抱きしめられたことで、イノセの肺の空気がまたしても追い出される。そんなイノセを他所に、ルゼはイノセの頭をわしゃわしゃとかき乱す。


「おいおい、その辺にしておいてやれ。せっかく助かったのに、今度は窒息してしまうぞ?」

「えっ?」


 きょとんとした顔をエイダに向けるルゼ。そして何かに気づいたのか、自分の腕の中に抱えている弟の顔を覗く。


 少しずつ青ざめてきてる。

 確実に酸素が足りてないようだった。


「ごっ…ごめんイノセ!!やだあたしったら!!」

「はっ…がっ、あ…ぉ…。」


 急いでイノセから手を離すルゼ。万力のような力からやっと解放されたイノセだが、抱きついた衝撃が肺にまだ残っているらしく、十分に酸素を吸い込めない。今は、肺の調子を整えることで精一杯のイノセであった。


「ハーッ…ハーッ。」


 少しずつ落ち着いてきて、なんとか普段通りの呼吸ができるようになったイノセ。

 無事に回復した弟の様子に、胸を撫で下ろすルゼ。


「よかったぁ~。このまま死んじゃわないかと思っちゃった…。」

「トドメを刺そうとしたのは姉様なんだけど…。」

「お前達、昔から全く成長してないな。」


 兄弟の漫才のようなやり取りを見て、呆れたような笑いを見せるエイダ。だがその笑みからは、微笑ましい光景を見たような穏やかさも感じられた。彼女もまた、イノセとルゼが幼い頃から二人を見守ってきている。それ故の反応であろう。

 落ち着きを取り戻したイノセは、ようやく今の状況を理解し始める。


 自分達は父と母から試練を与えられたこと、

 神殿から混沌の気配を察し、駆けつけたこと。

 そこにいたカオステラーとの戦いの最中、突然足元が崩れ、その下に落ちたこと。


 そして…、


 ここまでしかイノセの記憶はない。あの後、カオステラーはどうなったのか。父と母、その仲間の人達はどうなったのか。そしてここはどこなのか。


「エイダさん。他の皆さんはどうなったんですか?それにここは…。」

「他の皆のことはまだ分からない。私もさっきここにたどり着いたばかりだからな。そしてここは神殿の地下だ。上に空が見えるだろう?お前達はあそこから落ちたんだ。」


 そう言いながら上を見上げるエイダ。それに倣ってイノセも目を上に向ける。そこには確かにエイダの言ったとおり、大きく崩れた天井から、橙色に染まった美しい空が目映い光と共に目を刺激してきた。

 神殿の地下の話は聞いたことがある。この神殿の住人達の生活を支えるありとあらゆるライフラインが、神殿の地下に張り巡らされていると。それも何があったか、母がこの総区の管理を始めた頃を皮切りに、地下室を設置する等、その規模が拡大したのだとか。イノセ達はここに来る機会はあまりないため、それ以上の知識はないのだが。


「しかし、本当に肝を冷やしたぞ。騒ぎを聞いて駆けつけたら、いきなり地面に穴が空いてお前達が落ちていったのだからな。一瞬でも駆けつけるのが遅かったら、どうなっていたことか!」

「エイダさんが僕達を助けてくれたんですね。ありがとうございます。」

「ホント、私がイノセを助けたかったのに、エイダさん全部持ってっちゃうんだから!でもすっごくかっこよかった!」

「よしてくれ。お前達。礼を受けとる筋合いなどない。」


 感謝と賞賛の声を騎士に送るイノセとルゼに、僅かにうつ向いて二人から目線を反らすエイダ。その光景は、さっきまで決死の戦いを繰り広げられた場所とは思えない程、穏やかな雰囲気に包まれていた。

 だがその空気を打ち破るように、突然イノセは顔つきを変え、エイダに詰め寄る。


「そうだ!エイダさん!あのカオステラーは!?彼は一体どこに…!」

「落ち着け。奴ならもういない。」

「…いない?」


 そういえば、戦ってる最中に肌を刺すように感じられたカオステラーの気配が、全くと言っていいほど感じられない。意識を集中させて、なんとか察知できる程度に弱まっているのだ。そして、その気配は目の前の人物の体の何処かからか感じられる。

 イノセは、恐る恐る聞いてみた。


「あの、エイダさん…。もしかして…。」

「あぁ。これのことだろう?」


 エイダが取り出したのは、親指と人差し指でつまめる程のとても小さな巾着袋。

 その中からエイダが取り出して見せたのは、二つに割れたコイン。

 イノセ達が探し求めていた、混沌のコインだった。


「ルゼから事のあらましは聞いている。おそらくは例のカオステラーが敗けを認めて置いていったのだろう。」

「そのカオステラーは…?」

「もう去ったようだ。お前も、もう気配を感じないのではないか?」

「…はい。」


 確かに目の前のコイン以外、もう混沌の気配は感じない。自分達の勝利ということだろう。

 だが、いまいち釈然としない。

 調律を施してないにも関わらず、混沌の気配が消えたこと。

 最初に神殿を荒らし回っていた、遠くからでも見分けがつくほどの大きさの巨人。

 カオステラーと化したジャック。

 彼らは何処へ消えたのか。

 なぜこうもあっさりと身を引いたのか。

 彼らの目的は、一体なんだったのか。

 枚挙に暇がないほどの疑問が沸き上がり、そのどれもが現状では分かりそうにもない。


「…すまなかった。」

「…?なぜあなたが謝るんですか?」


 答えの分かりようもない疑問に頭を痛めているイノセと、心配そうに見ているルゼに向けて、エイダが頭を下げる。謝られる心当たりのない二人は、ただ頭にクエスチョンを浮かべるしかなかった。


「本来なら、私とクロヴィスでお前達の相手をするつもりで、このコインをあずかっていたんだ。だが、突然あの巨人とジャックが襲ってきて、コインを奪って行ったんだ。もちろん私たちも応戦したが、相手のほうが一枚上手でな…。まんまと盗まれてしまった…。」

「そうだったんですか…。」


 大事な試練を預かる身として、あるまじき失態。今回の事件が起こったのも、コインが奪われたことが発端である。責任感が強い彼女としては、悔やむに悔やみきれないだろう。彼女達のミスが原因で、仲間達を命の危機に晒してしまったのだから。彼女が強く拳を握ってることからも、その無念さが伺える。


「あれ?、でも変じゃない?」

「…え?何が?」


 先程より少し重くなってしまったその空気。その重さに構わず口を挟むルゼ。


「それなら始めからあの二人はそのコインを目当てにエイダさんと師匠を襲ったってことよね?わざわざ奪いにきたってことは、そのコインがどんなものなのかも知ってたってこと?」

「あ…。」

「…そういうことになるね。」


 それはただのふとした疑問。だが、この事件の根底に関わる重大な疑問だった。

 奪われたコインは、イノセやルゼのように混沌の気配を察することができない人間には、ただのコインにしか見えない。そんなものをわざわざ奪おうなど、普通の人は思わないだろう。

 金銭目当てで奪うにしても、たった一枚のコインのために正面から殴り込みにいくメリットも無いに等しい。それならもっと気づかれないように盗むはずだし、そんなコイン一枚を奪うぐらいなら、財布や装飾品など、他に価値のあるものを狙うはず。


「…ますますもって分からんな…。奴らがカオステラーになったのも、十中八九このコインが関係しているのだろうが、奴ら、まさか自分からカオステラーになるためにこれを欲したというのか?一体なんのために…?」

「それも気になりますが、普通はカオステラーの存在自体が、ごく限られた人にしか認知されていません。どうやってカオステラーのことを知り、カオステラーになる手段を見いだせたのか…。」


 いくら考えても、答えが得られる兆しはない。それどころか、考えれば考えるほど違和感は増すばかり。戦いには勝ったというのに、得体の知れない不安を覚えるしかなかった。

 それだけではない。イノセにはもう一つ、心に引っ掛かることがある。


 ーーー危険を侵してまで、君が旅に出るのはなぜ?


 ーーー他ならない君自身はどう思っている?


(あのカオステラーは何故、あんなことを聞いたのだろう。僕達のこれからの旅のことまで、知っている様子だったし…。ならばなおさら自分の障害になる僕達のことは生かすはずがないだろうに、なぜ何故さっさと殺さないで、あんなことを…。)


 戦いの最中に、あのカオステラーが自分に投げ掛けた問答のことである。先の戦いは、間違いなく本気の殺し合いだった。さらに「調律」の存在や、イノセがそれを行使できる可能性がある人物ということまで知っていたようだ。であれば間違いなく、カオステラーにとっては邪魔な存在であることは分かっているであろう。ならば尚更さっさと殺せばいいものを、彼はそうしようとせず、イノセを試すように問いかけたのだ。

 勝利を確信した慢心から悠長になっていたとも考えられなくもないが…。


 ーーーだけどそれだけじゃ、君はいつか壊れる。


 あの時見せた真剣な表情と共に送られた憂いの言葉には、そういった侮りや慢心は一切感じなかった。

 だからこそ、こちらの身を案じるような物言いをなぜしたのか、尚更疑問である。


(あのジャックは一体、何を伝えたかったのだろう。)


 彼なりに何か思うところがあって問うたのか、それともただこちらを惑わすために言ったのか、今となっては知るよしもない。

 今のイノセにできるのは、靄のかかった心を抱えたまま、ルゼ、エイダと共に夕日の下へ出ることだけだった。



 *****



 ーーーここは神殿から離れた場所。町からも遠い、想区内のどこか。


 人の気配など探しても見つからない様なところに佇む一人の影。そしてその影のそばで力なく横たわる二人の戦士の姿があった。


 一人は、全身の皮膚が痛々しく焼かれた豆の木の巨人。

 そしてもう一人は、武器や鎧が見る影もなく壊れ果てていたジャックであった。


 人影は満身創痍な二人を見るや否や、ため息をつきながら呆れたように言葉を漏らす。


「…んで、尻尾を巻いて逃げてきたと。」

「そんな言い方はないでしょ『お兄さん』。こっちはこんな姿になってまで戦ったんだからさ。労いの言葉の一つくらいくれてもいいじゃないか。」

「我は全く良いとこ無しだったわけだがな…。」

「巨人さんだって頑張ったじゃないか。あなたがいなかったら、そもそもあの二人からコインを奪えたかどうか…。」

「あ~ハイハイ分かった分かった。二人ともおつかれさんっと。」


「お兄さん」と呼ばれた男の嫌みに、うんざりした様子で文句を言うジャックと、厳つい体に反して子供っぽくふて腐れる巨人。

 ぞんざいな返事を適当に返す「お兄さん」。頭を掻きながらまた深くため息をつくと、どうしたものかと言わんばかりに頭を傾ける。


「しかしお前さんも大概お人好しだねぇ。わざわざあの少年にあんな忠告まで残すなんて。」

「別にいいでしょ…。お節介なのはわかってるよ。」

「…まあ、それが悪いとは言わんさ。少なくとも俺はな。」


 恐らくはジャックがイノセへ投げ掛けた問いのことを言っているのだろう。男の言葉に、そっぽを向きながらふて腐れぎみに返事を返すジャック。男は若干困ったように笑い返すが、その笑みもすぐに失せて、真面目な顔つきで二人に問いかける。


「…『導きの栞』は少年が持っていたやつの他に、この想区にもう一つあったと思うが、そっちはまだ見つかっていないんだな?」

「うん。しかも彼ら、足りない数を偽物を使って補っているみたいでさ。パッと見じゃあ、ちょっと判別できないよ。」

「我らはこの体たらくだが、どうする?他の者を向かわせるのか?」


 巨人からの問いに、再び深くため息を吐く男。疲れた顔を見せながら二人に告げる。


「いや、今回は諦めるわ。この騒ぎで残りの『調律の巫女一行』も集まっちまうだろうし、またそいつらを相手取りながら本物をちまちま探すのも骨だしな。」


 男はジャックと巨人に近づくと、自分の手を二人に差し出す。


「まあまた何かあったら、よろしく頼むわ。」

「ハイハイ。」

「…承知した。」


 差し出された手に自分達の手を重ねると、一瞬にして二人の姿が一瞬にして跡形もなく消え去った。

 否、吸い込まれるように男の体に取り込まれた。


 二人の痕跡が無くなり、一人になった男。森の中は元の静寂な姿を取り戻す。


「結局、収穫はなにも無し、か…。」


 男は背後を一瞥する。

 視線の先には、横たわる人間が複数人。


 正確には、「人間だった」血まみれの肉塊が無造作に倒れていた。


「だが、来る意味はあったようだな。」


 男は再び前を向き、何処と無く現れた霧の中へと消えていった。



 *****



 あの騒動から数日後。

 神殿内では、怒涛の勢いで日にちが過ぎていった。

 奇跡的に一般人に被害は及ばなかった。だがそれでも、先の騒動の被害は大きすぎた。パニックに陥った町の沈静、破壊された神殿の修復、周囲に発生した植物の撤去、更に神殿の中庭にそびえ立つ巨大な豆の木の伐採。特に豆の木はその大きさ故に、完全に撤去するには相当な時間を要するだろう。

「調律の巫女一行」も、騒動の後始末に駆けずり回ることになった。その中には、全線で戦い、重症を負ったレイナの姿もあった。仲間達からは止められたが、皆が動いているのに自分だけ何もしないなど、人一倍責任感の強い彼女は望まなかった。

 それに加えて、


「今エクスが怪我で動けないんだし、旦那の分まで尚更私が動くべきでしょ?」


 と言って聞かなかったのだ。


 結論から言えば、エクスは助かった。

 イノセ達が地下室を辿って地上へ上ったあと、「剪定」の力を持つエイダによって足の周りに絡んだ蔦を伐採したのだ。


 エイダは元々「いばら姫」の想区の出身である。運命を持たないエイダは、当時仕えていたいばら姫が百年の眠りにつく際に、城に発生し続ける特殊ないばらを切り落とす「剪定」の力と、永きを生きるための寿命を妖精から授かり、姫の眠る城を護っていた。

 いばら姫が目覚めたことでエイダはお役御免となったが、その力はまだ彼女に残っていた。

 この戦いに使われた植物は、彼女の故郷のいばらとは違うものの、通常の植物とは明らかに異質なものである。この異質さにエイダの力がうまく作用して、「剪定」をすることができたのだった。クロヴィスが「エクスはもうすぐで助けられる」と言ったのは、エイダが駆けつけることを言っていたのだろう。

 だがそれでも重症であることは変わらず、今エクスは神殿内に新たに設けられたという病室のベッドで寝たきりになっている。太股まで厳重に巻き付けられたギプスが、その痛々しさを物語っている。回復までには、相当な時間を要するであろう。

 また、イノセとルゼの二人も同じ病室で療養している。エクスの両隣に置かれたベッドに、一人一つずつあてがわれ、その上で二人とも横たわっている。カオステラーの死闘で受けた傷もさることながら、カオステラーが起こした燃え盛る炎の中で戦ったことで体のあちこちに負った火傷もあり、本来ならまともに動ける状態ではなかったのだ。二人ともエクス程重篤な怪我をしていないことが不幸中の幸いか。

 ただルゼはベッドの上でじっとしてるのが落ち着かないのか、療養中も毎日ベッドの上でストレッチをしようとしてエクスに怒られているが。


「今回は本当にお疲れ様。二人のお陰で助かったよ。」

「いえ…、ですが、父様の傷は…。」

「ああ、骨も筋肉もズタズタだって。万力みたいな力でずっと締め付けられたからね。また歩けるようになるかどうかは、今はまだなんとも言えないって。」

「そう…ですか…。」


 父の容態の重さをみて、口が思うように開かず、俯くしかなかったイノセ。

 もしも自分達がもっと早く事に気がつけたら、もっと早く駆けつけられたら、被害を押さえられたのではないのか。こんな犠牲を出さずに済んだのではないか。そんなありきたりな後悔が頭の中で反すうする。


「…そんな顔をする必要は無い。君のお陰で、僕も母さんも、命拾いをした。君が来なかったら、僕達はここにいなかったかもしれないんだ。」

「ですが…!」


 父はそう言ってくれる。責めないでくれる。だけど、それでも己の不甲斐なさを割りきることはできなかった。

 自分は、よほど酷く思い詰めた顔をしていたのだろう。父は怪我に響かないように慎重に上体を起こし、ベッドに手をついて体を支え、イノセに真剣な顔を向け、言い聞かせるように話しかけた。


「昔、君にも話したことがあったよね。僕達を導いてくれた、魔女の女の子の話だ。」


 俯いてたイノセは顔を上げ、話を始めた父の顔を見る。


「彼女は元々、とある想区の主役の「代役」として生まれた。だけど、彼女の故郷で事件が起こって、彼女は運命を失くした。運命を失くしたその子はその日以来、主役ではなく、困っている人に手を差しのべる『善き魔女』になることを決めた。彼女は、掛け替えの無い仲間だった。」


 穏やかな表情で語るエクス。だが、次第にその顔色は曇りを見せる。


「だがある日、その魔女は命を落とした。当時の僕達の敵だった『災厄の魔女』の手から僕達を逃がすために、彼女は一人で戦った。僕は彼女を助けるために、彼女のもとへ急いで駆けつけた。だけど、見つけたときには彼女はもう虫の息だった。なんとか背負って、仲間達のもとへ戻ろうとしたんだけど、間に合わなかった。助けることができなかったんだ。」


 笑顔を取り繕っているものの、語り続けるうちに声のトーンが少しずつ低く、暗くなっていく。

 後学のために「調律の巫女」及び「再編の魔女」の旅の話を父から聞いたことは幾度かあった。

 もちろん、エクスの言う『善き魔女』の話も、その中にはあった。

 そして『魔女』が絡む話をする度に、今みたいに憂いた顔をするのがお決まりであった。

 すると顔を落としていたエクスが今度はイノセが横たわるベッドに顔を向けて、精一杯の笑顔を向ける。


「今の君たちはどうだい?君達は僕と母さんの命を救えたじゃないか。僕と違って、大切な人を助けることができたじゃないか。それだけでも、十分誇っていいんだよ。」


 そう語る父の顔は、とても優しい、嬉しさに溢れた笑顔が浮かんでいた。子供達のことを誇らしく思う、そんな気持ちが読み取れた。


「旅をしていると、自分達ではどうしようもないことなんて、いくらでも出てくる。誰も助けてあげられないときもあるし、時には差しのべた手を払われることだってある。そんな時、間違っても「自分は無力だ」とか「自分は役立たずだ」とは思わないでほしい。打ちひしがれるのも分かるし、簡単に割りきれることじゃない。でも、そんな絶望の中でも、前を向き続けるんだ。ゆっくりでも、腐らずに前へ進んでいけば、必ず何かを得られるから。」


 強い眼差しと飾りの無い真っ直ぐな言葉。口調自体は決して強くはない。だが、彼の一言一言には、聞くものの気を惹き付けて離さない魔法のような強い力を感じさせた。

 イノセは父の顔から目を反らさず、受け答えすることも忘れ、ただただ耳を傾けるだけだった。その声、その言葉、そこに込められた思い、自身の脳に一つ一つ刻み込むように。


「えっと…ところでお父様?」


 突然父の向こう側から聞こえた声に、イノセの脳の活動が止まる。

 ルゼの声だ。

 さっきまで諦めたようにベッドの上で大の字になって脱力している彼女だったが、上半身を起こして恐る恐る口を開く。彼女も二人の話に口を挟むのは憚られた様子だったが、彼女には、どうしても聞きたいことがあった。


「お父様とお母様の試練はぶち壊しになっちゃったけど、あたしが旅についていく話はどうなるの?」


 それは、イノセの旅の同行の許可である。

 今までそれどころではなかったが、元々この試練は、ルゼの技量を計る目的もあったのだ。せっかく弟を旅の危険から守るために試練を受けたのに、このまま有耶無耶にされたら、彼女としてもたまったものではない


「ああ、ごめんごめん。そういえばまだ話してなかったね。」


 エクスが謝りながらルゼの方へ向き直す。

 これから判定が下される。

 そう思うと、何かと騒がしいルゼも思わず唇を固く結ぶ。


「あれだけ戦えるなら、なんとかなると思う。イノセの旅の同行を許可しよう。」


 ルゼに告げられたのは、合格の二文字。

 旅の同行が、認められた。


 それを聞いたルゼは、万歳をしながら再びベッドに身を放り出す。


「やったーーーーーーー!!!」


 ベッドに倒れた瞬間に彼女の喉から沸き上がる歓声。そのあまりの声の大きさに、エクスとイノセは咄嗟に耳を塞ぐ。嬉しいのは分かるが、病室故に静かにするようにエクスが言おうとまた口を開こうとする。


「あなたがそう言うなら俺は従うが、俺からすれば合格などとはほど遠いぞ。」

「うわっ師匠いたの!?」


 エクスより先に口を挟んだのは、いつの間にかルゼの枕元横に立っていたクロヴィスであった。腕を組み、仁王立ちをする彼は、ベッドに横たわるルゼを見下ろし。拳を彼女の額におろす。


「ッ~~~~~~~!?」

「警戒無しにただ単に突っ込むなどどこまでバカなんだ?挙げ句同じ手を二度も受けるなどはっきり言って猿以下だ。あの時に俺が手を貸さなかったらどうするつもりだった?少しは学習しろバカ。」

「バカバカ言い過ぎでしょ!女の子にそんなに拳骨おろさないで師匠!!」

「神はこう説いておられる。『可愛い子には拳骨を浴びせよ』と。」

「いつも思うけどどんな神信仰してるの!?」

「ほう?お前でも『信仰』という言葉は知っていたか。少しは成長したか。」

「師匠の中のあたしどんだけレベル低いの!?」


 クロヴィスが顔を出したことで、静まるどころかますますもって騒がしくなった病室。いや、この声なら病室の外にも響いていることだろう。さすがに止めようとしたその時、


「二人とも。」


 ビクッ!!


 突然部屋の真ん中のベッドから強い圧を感じた。いや、圧というより、殺気と言ったほうがいいか。

 イノセがその殺気を辿って目を動かすと、父がルゼ達のいる方に顔を向けており、その視線の先の二人は、蛇に睨まれたかのように顔面を青くして固まっていた。


「病室は静かにね?」

「「はい。すみません。」」


 あれだけ騒がしかった二人がエクスによって一瞬で真顔になり、おとなしくなる。ルゼはすぐに布団を被り、クロヴィスはそそくさと部屋を出ていった。

 どれほど恐ろしい形相をしているのか、イノセからはエクスの顔を窺うことはできない。だが二人の反応から、身の毛もよだつことになっているのは想像に難くない。

 というかむしろ見えない方がかえって良かったかもしれない。




 *****




 それから幾日が経過した。


 まだまだ神殿内が復興に勤しんでいる中、イノセとルゼは旅立ちの時を迎えようとしていた。登り始めた太陽が二人の旅立を激励するかのように輝く中、二人は神殿の門へと向かう。


「いよいよね!」

「うん。」


 旅立ちに伴い、イノセとルゼも装いを新たにした。


 イノセは試練の時に着ていた黒のズボンと白いYシャツの上から体の前が開いた大きな襟つきの紺色のジャケットを着て、さらにその上から体をすっぽり覆える大きさの飴色の外套を羽織っている。

 腰のベルトには大きなサイズの深緑色のポーチを身に付けており、足には膝下までの高さの茶色の革のブーツを履いている。


 一方のルゼは袖がなく、腰より少し上までの丈のベスト。イノセの上着と同じ紺色で、体に密着するデザインであり、上半身のラインのメリハリがはっきりとわかる。背中には、一本の紐を口と底に繋げたバッグを、肩から脇腹へと紐を通すことで背負っている。手首から二の腕の半分までをサポーターで覆い、指が露出した厚手のグローブ。下半身はクリーム色のショートパンツと、足の甲と足首を固定する帯を固い靴底に繋げたサンダル。


 正直なところ、実の姉とは言え目のやり場に困る上に寒そうな服装であるが、前に本人に言及してみたところ、


「動けばあったまる!」


 とのこと。

 色々ツッコミたかったが、ルゼのこの勢い任せなところはいつものことなので、イノセもそれ以上問い詰めるのをやめたことがある。


 まだ朝日も登りきっていない早い時間帯。周りに迷惑にならないように静かに神殿の入り口の門へ向かう二人。

 そして出入口の門までたどり着いたところで、


「…ん?」

「あれは…。」


 門の前に複数人の人影を見つけた。

 薄暗いために、誰かまでは分からず、目を凝らしてみる二人。

 その時、登り始めた日の光が門前を目映く照らし始めた。

 突如襲った眩しさに二人は思わず目元を腕で覆う。だがひとしきり日の光にさらされると、だんだんとその明るさに慣れてくる。

 少しずつ目を開けると、そこには6人の人影が待ち構えていた。


 大きく、広いつば付きのシルクハットを被った赤いワンピースの女性。

 傷だらけの鎧に薔薇のブローチを身に付けた桃色の髪の騎士。

 メガネをかけ、白いスラックスとブーツを履き、青色のシャツを着た細身の男。

 紫の袴の上から黒い厚手の和服を羽織り、長い黒髪を後頭部で纏めた比較的小柄の女性。

 銀に輝く髪に、簡素甲冑を身に付けた大柄な男。

 そして、紅白のドレスに、頭にティアラを着けた、淡い金色の長髪を靡かせる女性


 それはかつてこの世界を旅した「調律の巫女一行」のメンバーの皆であった。


「みんな…来てくれたのね!」


 思わぬ出迎えに、イノセは面を喰らったように呆けて、ルゼは感激の声をあげる。


「そりゃあ当然だよ。」

「レイナ達のご子息達の門出だ。祝わないなんて選択はない。」

「本当は頼りないことこの上ないがな。師が出向かない訳にもいくまい。」

「もう!師匠はすぐそういうこと言う…。」


「皆さん、わざわざ見送りに来てくれてありがとうございます。」

「なに言ってやがる!水臭いぜ!」

「ま、二人ともせいぜい頑張ってください。」

「あなた達はこの『調律の巫女』の子供よ!必ずうまくやれるわ!」


 二人が出迎えに来た一行一人一人に応対していると、背後から少し低めの声が聞こえてきた。


「僕にも、見送らせてくれないかな。」


 二人が振り替えり、その視線の先にいたのは、女神キュベリエの肩を借りながら片足を引きずって歩いている、患者用の簡素な布の服を身に纏ったエクスであった。


「父様!」

「お父様!!」

「エクス!?ダメよ!安静にしていなきゃ!キュベリエも何で連れ出しているのよ!」

「ごめんなさい…。エクスさんがどうしてもと聞かなくて…。」

「ごめんね。みんな。父親として、子供の門出を祝ってあげたくて…。」

「だからって…。」


 エクスの体を心配するその場にいた全員に申し訳なさそうに控えめな笑みを浮かべるエクス。

 その若干歪んでいる笑顔と、少し吹き出してる脂汗から、万全な状態ではないことは明らかだった。それでも彼は不調を堪えながらイノセとルゼのために駆けつけたのだ。

 心配そうに自身の顔を覗く子供達の方を向くエクス。


「君たちに伝えたかったことは、病室で話した。だから、僕から言うことは、一つだけ。」










「絶対に、死ぬな。」


 紡がれた父の気持ち。


「必ず、生きて帰ってきて。」


 それをただ黙って聞く二人。

 そして二人の顔つきと心が一層引き締まる。


「「はい!!!」」


 その気持ちに、腹から声をだして誓う。

 最後に二人はその場の全員を一瞥する。

 笑顔を浮かべる者、心配そうな顔を見せる者、顔色を変えずにただ見つめる者、その反応はそれぞれ違う。

 昔、母の旅立ちの話を聞いたことがある。母は旅立つ時、出迎えどころか、故郷が滅びたのと同時に、なし崩しで旅を始めたそうだ。自分の故郷がなくなったその心境は、イノセ達には計り知れない。それに比べて…。


(本当に僕たちは、恵まれているんだな。)


 そんなことをしみじみと思うイノセ。きっとルゼも同じことを考えていることだろう。

 だが、その恵みにいつまでも甘えるつもりはない。目の前の彼らの自分達への期待に応え、不安を払拭したい。しなければならない。その思いを胸に込め、一行に告げる。


「「行ってきます!」」


 二人は振り返り、門を正面に捉えて歩き出す。

 両親から託された使命を果たすために。





「あっ。ちょっと待ってください。」


 今まさに神殿を出ようとしたとき、水を差すように口を挟むものがいた。


 シェインだ。


 心の準備も済んで、大きな一歩を踏み出そうとした矢先に、どうしたのだろうか。


「旅に出た後に、お二人に頼みたいことがあるんです。」



 *****



 神殿を出て、町を抜けてたどり着いたのは、想区の外へと通じる掛橋。その掛橋の先に、白い霧が立ち込めていた。


 ーーー沈黙の霧


 想区と想区をつなぐ霧であり、その霧を抜けた先には、ただただ真っ白な空間が広がっている。その空間には、温度、方角、果ては時間といった当たり前に存在する概念が一切無く、「空白の書」の持ち主でなければ入ることは叶わない。その中に長く留まりすぎると、霧に飲み込まれて存在が無くなってしまうという話もある。


 ここを越えた時点で、二人の旅は始まる。


 するとイノセは、腰のポーチの中から一冊の本と鉛筆を取り出し、そこに何かを書きはじめた。ルゼが横からその作業を覗き見る。


「日記?」

「うん。想区を出る区切りとして、ここの出来事を書きとどめたくてさ。」

「子供の頃から日記書くの好きだったもんねー。あたしなんか3日も持たなかったのに。」

「その日の出来事を振り返りながら書くのが楽しくてさ。…よし。書けた。」


 一通り書けたのか、イノセは本を閉じて鉛筆と共に再びしまう。

 そしてまた霧の方へ向き直す。


「準備はいいよね?姉様。」

「もちろん!早く行くわよ!!」


 お互いの意思を今一度確認すると、二人は手を繋いで共に霧に向かって歩き出す。沈黙の霧の中は一寸先も見えないほど視界が悪い。そのため、二人以上で行動する時は、はぐれないように手を繋ぎながら進むことが推奨されている。互いに手を握りしめながら二人の姿は霧の中へ溶け込んでいく。


 そして、二人の姿はこの想区から完全に消え去った。

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