片道切符!家族旅行

「鍛えが足りねえな。これは駄目だ」

 スキンヘッドにギラリと光る眼から出た視線と厳しい声が鍛刀場に木霊する。そうだろうなとすんなり受け入れた勇誠は、出来上がった刀を躊躇なくつぶした。

 まだまだだ、と言われ続けて早四年目、ようやく一連の流れが手に馴染んできたところだが、一人前にはまだ遠かった。親方は厳しいが、その分やりがいはあるというものだ。勇誠は気を取り直してすぐに次の仕事に取り掛かる。

 就職先に悩んでいた当時、付き合っていた彼女と一緒に出掛けた美術館でとある真剣に魅入られてからというもの、あんなものを作ってみたいという思いが止められず、気が付いたらここの親方へ土下座をし弟子にしてほしいと叫んでいた。

 呆れられはしたものの、彼女は今も毎日勇誠のことを応援し支えてくれている。なんともありがたいことである。

 だからこそいつかは……できれば死ぬ前には、自分の納得のいく刀というのを打ってみたいものだった。そしてあわよくばそのお金で一軒家が立てられると尚良い。

 自分の仕事で幸せが買えたなら、なんと素敵だろう。その上大切な人まで幸せにできたならもう言うことなしだ。


「ありゃ、ダメだったかー、なかなか良かったのにな」

「いや、あれは無理だ。研いだらすぐにぼろが出る」

 片づけを終え帰り支度を整えているところで、兄弟弟子の残念そうな声が勇誠を慰めた。実際あの仕上がりは勇誠から見ても、もっと打てたと思えて仕方がなかったのだ。

「まあでも、畑中さんあれでお前のこと気に入ってるから、余計厳しいんだろうなー」

「そういうもんかね」

「そりゃそうだろ、見込みがないのに厳しくする職人なんかそれこそ三流だ」

 あの人に限ってそれはない、と何故か胸を張って言う兄弟弟子は一体親方の何なのだと思わなくもなかったが、言われていることに関しては非常にうれしい内容だったのでありがたく受け取っておいた。

 親方は姿を思い出すだけで背筋が伸びるタイプの人だが、確かにむやみやたらに厳しくするような人ではない。……と思う。思いたい。思っておこう。勇誠は一人頭の中でそう結論付け、兄弟弟子と別れた。

 それにしても、だ。勇誠は春先の夜風に吹かれながらバイト先へと向かう。刀鍛冶見習いなんてものは、ほぼ収入はないに等しい。バイトをしなければその日の飯代もまともに稼げない。正直そこだけは本当に何故もう少し考えなかったのかと、過去の自分を責めたい気持ちもある。

 まあ、結果としてやりたいことを続けながら、幸せな日々も送ることができている。幸い何とか食っていけるように、いやもうガンガン稼げるようにならねばというモチベーションも高い。それもこれも、愛する家族のおかげだ。

「……ふふ」

 思わず顔が緩んでいたらしい。店長に叱られつつ、勇誠は今日も理不尽な客相手にニヤニヤと笑いながらレジ打ちをし、逆に気味悪がられて早々に追い払うという快挙をなした。

 よくやった、とこっそり渡された廃棄の肉まんは水分でべちゃべちゃではあったが、すきっ腹にはよく染みたのだった。



 マイホーム。それはなんと甘美な響きだろう。カツンカツンと音を立てて六畳一間のアパートの階段を上る度に、勇誠の心にはそんな言葉が浮かび上がる。

「憧れの一軒家は……遠いな……」

 疲れ切った体で登った先、少し薄汚れてはいるが、比較的新しい築年数。駅からもそこまで遠くはない。これだけ聞けば決して悪い物件ではないのだ。

 その上両隣は物静かな学生と若い社会人、下の階はなんと空き部屋。恵まれているといっていい。そう、環境だけであれば、恵まれていると言えるのだ。

「……ただいまー」

「勇くんおかえり、お疲れ様です」

 玄関の扉を開けた瞬間、優しい声が聞こえて思わず顔が緩む。ああ、疲れて帰っても明るい部屋。愛する奥さんが出迎えてくれる幸せ。恵まれすぎているといっても過言ではない。

 時間が時間であるが故に小声になるのだけが残念ではあったが、勇誠には妻の声を聞けるだけでその日の報酬は有り余る。


 ただ、欲を言えば、だ。


「亜須美ーパパでちゅよー」

 手洗いうがいを徹底的に済ませてから、勇誠は愛する娘の眠る布団へそっと寄り添う。二歳と十か月を迎えたばかりの娘は健やかに、そしてまるで天使のごとく愛らしく布団の中で丸くなっていた。

 ここのところ帰るのが遅くなっているせいで、なかなか娘の声を聞けていないのだけは残念だ。だが、少しめくりあげた布団の中で、まるで猫のような姿勢になっている娘を見るだけでも癒されるというもの。

「……本当に、亜須美は全然起きないな」

「一回寝るとびっくりするぐらい起きないから本当楽よ。この間ミコちゃんママにすごいうらやましがられちゃった」

「普通ならそんなことしたら起きるからやめて! とか言われそうだもんなあ」

 生まれて間もない妹に同じことをして叱られていた父の姿が、勇誠の頭に思い浮かぶ。自分はもう物心がついていたので、父はなんと愚かなことをしているのだろうなどと思っていたが、今となってはどちらの気持ちもわかってしまう。大人になるとはこういうことだったのだろう。

「ごはん食べる?」

「少しだけ食べるかなあ、帰りに肉まん食っちゃってさ」

「だよねえ、今日角煮にしたからそれだけ食べなよ。そしたら朝の分ご飯炊かなくて済むから」

 そういいながらレンジにかけられる豚肉たちを見送り、勇誠は妻の後姿をぼんやりと眺める。たまにうっかりしていることもあるが、基本的にはてきぱきと動くことのできる二つ上の姉さん女房というやつだ。この時間まで起きている場合、彼女はいつもパソコンに向かっていることが多い。

「また何か書いてたのか?」

「ま、ちょっとねー」

 勇誠は彼女が何をしているのかはよくわかってはいないが、どうやら何かを書いているらしいということは一度だけ教えてもらったことがある。読みたいと申し出た言葉はやんわりと断られてしまったが。

 パソコンは煌々と照っているのでおそらくは今日もそうだったようだ。一人にしてしまうのは申し訳なかったが、彼女としては一人の時間もありがたいとのことだったので、それはそれで複雑な気持ちになるなどしていた。

「……香澄。来月の県民の日さ、鍛刀場閉めるっていうから遊園地行こうか。亜須美初めてだろ」

「県民の日? 亜須美まだ乗れないの多いと思うけど、久々に出かけるのいいね。私カメラ持ってくわ」

「カメラって、一眼レフのでっかいやつ?」

「かわいいところ全部残しとくから任せて。はい、お待たせしました」

 親指を立てて見せる妻はどことなく勇ましい。結婚する前からカメラに凝っていたのか、以前見せてもらったものは全て素人目に見てもうまいものばかりだった。

 あれは一体どこで培った技術なのだろうか。不思議に思う勇誠の前に、しょうがのいい香りを漂わせた角煮がそっと差し出された。

「うん、まあ任せた。いただきます」

「はーいボナペティー」

 白米が欲しくなる絶妙な甘じょっぱさを口に含みつつ、休みのことを思い浮かべる。愛する妻と娘、三人で遊園地。考えただけでも力がみなぎってくる。最高だ。そのためにも、もう少しばかり稼がなければ。修行の後のアルバイト、というのはなかなかに骨が折れるが、妻にばかり負担をかけるわけにもいかない。

「よーし、パパ頑張っちゃうぞー」

「ふっ、それリアルで言ってる人初めて見たわ」

「頑張っちゃうぞー」

「なんで二回言うのよ」

 ニヤニヤとしている妻に、先ほどの彼女のように親指を立てて見せながら、よく味のしみたジャガイモを口いっぱいにほおばった。



 県民の日。それは県民が一斉に移動をする日。それを思い知ったのは、レンタカーで高速に乗ってすぐのことであった。右前を見ても左前を見ても、ついでに真ん前も同県ナンバー。後部座席からブルータスお前もか、とつぶやく妻の声がする。

「これ、向こうも結構混んでるかもねえ」

「かもなあ。まあ仕方ないか……」

「どこいくのー?」

「亜須美がいっぱい遊べるところよー」

 娘が何度目かになる同じ質問を妻にぶつけている。勇誠としては顔の緩みを抑えられないのだが、妻の方は少しばかりダメージが出始めているようだ。口調や声音は変わらないが、回を増すごとにミラー越しの目元が死んでいくのが見える。

 渋滞まではいかないが、子供にとっては長時間の移動はなかなかのストレスなのだ。だから、眠っているうちに乗せてしまったのだが。

「今日に限って起きるかねぇ」

「亜須美ーもうちょっと我慢ちてねー」

「や!」

 絶賛イヤイヤ期である、というのは知っていたが、こうも直接的に言われると少し傷つく。毎日攻撃を浴びている妻からしたら小傷のようなものかもしれないが、それだけあればガラスは簡単に割れるのだ。

「なんか今心外なこと考えてない?」

「か……んがえてないよ」

「考えてる人のセリフだねそれは?」

「いやぁー! あそばないおうちかえるー!」

 娘のじたばた! しかし何も起こらない。表面上は。もうすぐだからねー、と言い聞かせつつ、ようやく最寄りの料金所までやってきたのでスピードを徐々に落としながらゲートへ近づく。

 妻が後ろから差し出した紙幣を受け取り料金所の男性に渡そうとしていると、後方からクラクションをけたたましく鳴らされた。勇誠は料金所の男性と共に、思わず音の方へ振り返る。

「なんだ、どうし……」

 気づいたときには、スピードを落とし切らずに突っ込んできたトラックがすぐそこにいた。あ、と口に出せただろうか。凄まじい衝撃が走ったところで、勇誠の意識は途絶えてしまった。



 次に勇誠が意識を取り戻したのは、どこともわからない海岸であった。一体ここはどこだ。香澄は? 亜須美はどこだ?

「確か……トラックが突っ込んできた衝撃で」

 そうだレンタカー、あれ壊れたらいくら払うんだ。血の気が引いていく勇誠はあたりを見渡すが、一面見渡す限りの砂浜と海である。海辺の鳥取砂丘のようだ。いや、行ったことはないのでどんなものかはわからないのだが。

「あ、勇誠さん気が付きましたか?」

 どこからともなく聞こえた男の声に、勇誠は飛び上がりそうになりながら寸でのところで叫ぶのをとどまった。誰もいなかったはずだが、妙に近い場所から聞こえた。一体どこから。

「あ、上です。今見えるようにしますね」

 上、とは。勇誠が思わず空の方を見上げると、突き抜けるような青空に眼鏡をかけた見知らぬ男の顔が大きく浮かんでいた。誰だ。いや本当に誰なのだ。

「えーとですね、僕は一応神様的な奴です。本当はもう少し威厳のありそうな感じで行こうかなーと思ったんですけど、ちょっと時間がなくて間に合わなかったので今回は素のままでいきます」

「神……は?」

「まあ、その辺は何となく理解してもらえたら大丈夫です。それで、勇誠さんの今後についてなんですけど、一回死んでしまったので別の世界で生き返ってもらうことになりました」

 たった今、重要な言葉がさらりと言い放たれたような気がする。勇誠はいったん言葉をかみ砕いてから、すぐに目を見開いた。

 神、的な存在は今死んだ、と言った。間違いなく言った。つまり自分は、死んでしまったというのか。そうだ香澄と亜須美は? 無事なのか? 問いかける前に、自称神の顔だけ男は言葉を続けた。

「勇誠さんにはこの後別の世界に行ってもらいます。そこで勇者として世界を守るために戦うことになるので、頑張って戦ってもらう感じですね。あ、大丈夫です。ちゃんとお金は出ます」

 お金は出る。その言葉にくらりと揺れる。戦って金がもらえるのであれば、それで生活はいくらか楽になるかもしれない。勇誠はごくりと唾をのんでから、裏返りそうになった声で返した。

「お金が出るならまあ頑張りますけど、もちろん妻と娘は一緒ですよね?」

「……あー……」

 どことなく生返事の顔だけ男は軽く視線を逸らす。なんだその反応は。まさかダメだとでもいうのか。その反応に、勇誠は思わず詰め寄った。

「一緒ですよね? それともまだ彼女たちは生きているから連れてこられないとかですか?」

「いや、一応死んではいるんですけど……」

「じゃあいっしょに行けますよね? ダメなんですか? 俺の一部だから欠けるとか無理です。こないなら戦いません」

「それはまあ、普通に困りますね」

 だったら、と勇誠はさらに詰め寄る。心なしか、顔だけ男の顔が少し小さくなったような気がする。どうやら詰問には小顔効果があるらしい。そんな妻の言いそうな言葉が頭に浮かんで、勇誠は後押しされるように一歩前へ出た。

「戦ってほしいならそれくらいの対価は用意してください。そもそも守るべきものがない世界なんて守っても意味がないでしょう。割に合わない働きを求める神様の世界のために戦う理由は俺にはないです。越えられない試練は与えないとかなんとか聞きますけどそれって報酬があるからとか頑張る理由があるから越えられるってだけで何もないのに頑張る人間なんかほぼいないんですよわかりますか? 神だか何だか知りませんけどそんな簡単なこともできないならそんな神のためには働かないですこのまま死にますさあ殺してください」

 言い過ぎたような気もするが、考えを変えてもらわないと困るのは自分だ。このまま二人を死なせてたまるか、その気持ちごと睨みつける。顔は五面相程度に表情を変えてから、ようやく重々しく口を開いた。

「さすがにそこまで言われるとしんどいのでわかりました、ちょうど一家揃って死んじゃったご家庭があるからそこの枠で何とかします」

 勇誠の勝利である。勝ち取ったものは大きい。思わず安堵の笑みを零しそうになった勇誠に、神は半泣きのような顔でこれだけつづけた。


「奥さんと娘さんも一緒に旅に連れていく感じになるので、頑張って守ってください」


 それは一体どういうことなのだ。それを問いかける前に、再度勇誠の意識は途絶えてしまった。



◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆


 鍛冶職人の朝は早い。男は目覚めてすぐに体をバキバキと鳴らしながら起き上がる。かたいベッドでもあるだけマシだ。そろそろ既に起きて水を汲みに行った妻が戻る頃合いだろう。男は体を捻りつつ家の外を見遣った。

 職人街、中でもこの町では花形ともいえる鍛冶職。とはいえ見習いの身分では大したこともできるはずがなく、男は複数人の職人たちで寄り集まった家屋の一室に、妻と娘の三人で暮らしていた。

 稼ぎは少なくほとんどその日暮らしではあるが、何とか食うものには困らない。十分に幸せなことだろう。

「おはようあなた、今朝のパンをいただいてきたわ」

 予想通り、水の入った甕とパンをもって、妻が帰ってきた。ベッドでまだ眠っている娘を起こし、三人でそのパンを分け合って食べる。

「今アンネから聞いたけど、どうやらこの辺りにも勇者様がいらっしゃったそうよ」

「へえ、最近は魔物の動きも活発になってきたからな。現れるべくして現れたんだろう」

「きっとみんな倒してくれるわよ。なんでも勇者様の体には、勇者の証である痣が浮かびあがるそうよ。神々の祝福をお受けになったのだわ」

 祝福か。男は何か神々しいものを浴びたように、教会に祀られている火の神の像を思い浮かべる。雄々しい姿、彼の祝福があれば確かに、魔物など簡単に倒すことができるのだろう。娘の口にパンを運んでやりながら、男は一度だけため息をついた。

「痣か……。確かにそんなものが浮かび上がったら、神のために戦って……」

 男はそう言いながら、娘の口元に運んだ手の甲を見る。なんと、見覚えのない痣がある。そして父の手をつかんだ子の手の甲にも。慌てて妻の方を見ると、なんと妻も自らの手の甲をまじまじと見つめて大きな口を開けていた。

「……ねえ」

「……ああ」

「これ」

「これだな」

 自覚した途端に、次第に記憶が蘇る。ここは、どこだ。いや、これはもしかすると、本当に。

「今にわかに記憶がわいてきたんだけど、ここどこ」

 妻が、聞き覚えのある口調でそう尋ねてきた。ああ、間違えようがない、彼女は自分の愛する人だ。ということは、ここは、本当に。

「……説明が難しい。とりあえず、日本ではない」

 やっとのことでそう言うと、見知らぬ姿の見慣れた表情で、妻は大げさに頭を抱えて天を仰いだ。



 勇誠はとにかく、自らの経験したことをなるべく細かに妻へと伝えた。すると驚くほどすんなりと彼女は現状を受け止め、あまつさえ勇誠の知らない事情まで推測して語り始めて見せた。

「これは、あれだわ。十中八九異世界転生だ」

「異世界転生……?」

「そう、それまで暮らしていた世界から、何かをきっかけにして別の世界へ転生するっていうやつ。もともとの世界で死んだのを、こっちの世界に魂だけ持ってきて生き返らせたんだ」

 あの眼鏡の顔だけ男を思い出す。確かに、彼が言っていたこととおおよそあっている気がする。

「そっかー異世界転生かーメインじゃないけどアリだなー」

 そもそも何故妻の方が詳しいのかは疑問だが、不機嫌になるどころか非常に生き生きと早口でまくし立てているので、多分彼女は今の状況が楽しくてしょうがないのだろう。

 うーん、かわいい。この人と結婚してよかった。勇誠は悠長にそんなことを頭で考えていた。

「それで、手に紋章が浮かんでるってことは俺たちが勇者として戦うってことなのか」

「そこが問題。多分その神様的な人の話を聞くに、戦うのは勇くんだけで、私たちは付属物扱いなんだと思う。外付けハードみたいな」

「……えーとつまり?」

「主役の桃太郎が勇くん、私たちは戦えないサルと雉、的な」

「大変わかりやすいです」

 思わず敬語になった勇誠は、彼女と出会った当初を思い出す。先輩後輩の関係だったあの頃は、よくこんな風に話をしたものだ。

「一番気になるのは亜須美がこの状況わかってるかどうかなんだけど……」

「さっきから一言もしゃべらないな」

「記憶が戻ってないって可能性もあるけど、戻ってたとしてもこの子人見知りだから私たちのこと知らない人だと思っておとなしくしてるんだと思うんだよね、ほら見た目違うから」

 考えてみれば、自分や香澄は感覚ではわかるものの、見た目は全くの別人だ。中世ヨーロッパ、のような服装に、顔もまたいかにも西洋人のそれだ。自分はどんな顔をしているのかまでは見えないので、後で川に自分の姿でも映してみることとして。

「亜須美わかるかなー? パパでちゅよー」

「いやあ!」

 部屋中に響き渡る声での拒絶。それはまるで、死の宣告のように勇誠の心臓へ深々と突き刺さる。

 ぐらついた世界。すべてに見放されたかのような感覚。勇誠は、静かに床へと崩れ落ちた。

「毎日これ言われる私の身にもなってみな、そして大いに傷つくといいわ」

「なんでそんなひどいこというの」

「死ぬ前になんかそういう心外なこと思ってそうな顔してたから」

 彼女は千里眼でも持っているのだろうか。素直に謝った勇誠の肩をポンと叩き、香澄は娘を抱き上げた。激しい絶叫と共に暴れる娘。これは、本当に覚えていないのではないだろうか。そうだとしたら素直に悲しい。勇誠はしょんぼりと肩を落とした。

「いやぁああああああ!」

「んー、ま、わかってるにしろわかってないにしろ、まずはこの状況からどうするかだな。勇くんこの後どこ向かうかとかわかる?」

 いやに冷静な妻は、娘が暴れるのをなんとかいさめながらそんなことを訪ねてきた。そういえば、詳しい話は何も聞いていなかった。あの神、適当にもほどがあるのではないか。

「……さっぱりわからん。ただ一応鍛冶職人っていうのは変わってないらしい」

 文句を言いたくなる気持ちを抑えつつ、窓の外を見遣る。まったく見知らぬ光景、おそらくは仕事に向かうのであろう男たちが数人見える以外は、何の情報も得られない。

 正直、先ほどまで何かしらの記憶があったような気もしたのだが、ほとんど思い出せなかった。

「神、説明ガバいな。しょうがない、とりあえず外出てみて。何かわかるかもしれないから。私も色々調べてみる」

 勇誠は途方に暮れつつ妻の言葉に従って、部屋の外へと出る。どうやら他にもいくつか部屋があるようだ。それぞれから生活音が聞こえてくることから、誰かしら中にいるのだろう。

 とはいえいきなり入ったらさすがにまずいだろうし、さて、どうしたものか。できれば誰かに会って、話を聞きたいところなのだが。

「一旦外の様子でも見てみるか……」

 誰も出てくる気配がないので、ひとまず勇誠は家屋の外へ出た。ううん、さわやかな風。暢気に春だなあ、と思ったところで、勇誠は背後から何者かに思い切り背中をたたかれ、同じくらい思い切りむせることとなった。

「よーうユージーン! 今朝はずいぶん遅いじゃねえか!」

 隣に並んだのは、若い男だった。筋骨隆々とまではいかないが、必要な筋肉は一通りかねそろえた健康そうな体つきをした、青い目の男だ。

「えー、と……」

 肩ほどの茶髪を背中で無造作にくくっている男は、勇誠が全く反応できないでいるのを不審に思ったのか、首をかしげながらどうした、と続けてくる。入れ替わりで辞めていった兄弟子にノリが似ていた。

「なんだ寝坊かぁ? 珍しいな、まあいい急ごうぜ。まだ十分間に合うしな」

 どうやら同じ職場の人間、といったところだろう。これは好都合だ。ひとまずはついて行ってみることにしよう。勇誠は歩調を合わせつつ彼に続いた。

「そういやあ聞いたか、この辺にも勇者が現れたらしいぞ。なんでも伝説の武器を求めて立ち寄ったとか。ま、この街がいくら鍛冶で有名だからって、そう簡単には伝説の武器なんか作れるやつはいないけどな! 大昔に作られたっていうが、俺たちみたいな下っ端じゃ見せてもらえないしな。本当にあるのかわかったもんじゃねえ。街の外は魔物の数も増えてきてるし、倒してもらえるならありがたいけどな。」

 勝手に事情をしゃべってくれる、なんと都合のいい男だろう。知りたい情報がまるで源泉かけ流しだ。勇誠は適当に相槌を打ちながら、その言葉に耳を傾ける。

「カーロルじゃあ教皇様が倒れて、新しく娘の皇女様が立ったって話だが、どうなっちまうんだろうなあ。まだ14歳だって言うじゃねえか。勇者様を探してるってお触れも出てるけどよ……そんな小せえ嬢ちゃんに何ができるんだか」

 本当に、欲しい情報があらかた揃ってしまった。勇誠は名前も知らない相手に心の中で謝辞を述べる。どうやらまずは、その皇女様とやらのところへ向かえばよいようだ。だが、カーロルとは一体どこにあるのだろうか。

「しっかし伝説の武器かぁ、そういう大それたもん、作ってみたいもんだな。さーて仕事だ」

 残念ながらそこまでは情報がもらえなかった。奥に見える炉の熱が全身を熱くさせる。どうやら職場に到着したらしい。いや、聞けばいいのだろうが、まだこの人物との距離感がつかめないのだ。

 一家そろって死んだ枠、と確か神は言っていたが、この元の体の持ち主は無口だったのだろうか。黙っていても全く怪しがられる様子がない。いや、むしろ彼のこの会話のスピードに、口がはさめなかったのかもしれないが。

「……おいおい何ぼーっとしてるんだ、まだ寝ぼけてるのか? お前の道具はこっちだろ」

 見慣れぬ職場環境にきょろきょろとしていたのが気になったのか、男は勇誠の背を押して道具の前まで導いてくれた。ほかにも多くの職人らしき姿が作業の準備に取り掛かっている。どうも大所帯のようだ。すると、親方は誰なのだろうか。

「ユージーン。ずいぶん遅かったな。何かあったのか」

 一人一人に渡されているらしい大きめのハンマーを握って感触を確かめていると、背後から先に呼ばれたのと同じ呼び名が聞こえた。勇誠は振り返り、そして大きく目を見開いた。そこにいたのは。

「畑中さん、どうしてこんなところに」

「ハタナカサ……? なんだそれは」

「ユージーン、本当どうしちまったんだ? 俺たちの親方フンモスさんだろ?」

 またも助けられてしまった。ありがとう、名も知らない男。勇誠は、つい昨日まで師事していた親方にあまりにも瓜二つな人物に再度目を向ける。

 初老の鋭い目をした、いかにも職人気質な風貌の男だ。スキンヘッドのため髪色が違っていたとしても特に違和感がないのが余計に似ている印象を与えるのだろう。

 いや、正直どこからどう見ても畑中さんなのだが、違う人物ということらしい。フンモスさん、と口なれない響きを一度脳内で咀嚼する。

「エドガール、こいつは一体どうしたんだ」

「なんか寝ぼけてるっぽいんですよね、どうもらしくないっていうか」

 エドガール! 君はエドガールというのか! 本当にありがとうエドガール。フォローを入れてくれている彼の横で、親方はわずかに眉を上げて見せた。ああ、これはあれだ。何か思うことがあった時の畑中さんの癖と同じだ。勇誠は思わず身構えた。

「……なるほど、ちょうど良い。ユージーン、少し打ってみなさい」

 あ、終わった。と、勇誠は思った。これは一番腹が立った時の彼の言葉と寸分も違わない。不可抗力とはいえ、結果として仕事に対して不真面目な態度をとってしまったことは、勇誠からしてもよろしくはないことだった。

「……はぃ」

 蚊の鳴くような声で返事をし、勇誠はすごすごと炉の前へ向かった。が、いざそこまで来たところで、勇誠はそこでようやく様子の違いに気が付いた。

 普段日本刀を鍛えるのに必要な藁灰も泥もないのだ。おそらくふいごもない。そういえばそもそも、西洋の鍛冶は玉鋼もなければ折り返し鍛刀もしなかったはずだ。ということはこの世界もそうなのだろうか。

「……すみません、必要なものが足りないので集めてきます」

「何?」

 再び眉を上げた親方に一瞬心が折れそうになりつつ、勇誠はもう一度言葉を続けた。

「中途半端な仕事はできません」

 そういって、返事も聞かずに勇誠は飛び出した。この際こっぴどく叱られたとしても構わない。やるならば一番いい仕事をしなければ。

 あたりを駆け回ると、必要なものはすんなりと揃った。これほど恵まれた土地であるなら良い仕事ができる。何より先ほどちらりと見た鉄。あの素材は一体何だったのだろうか。

 ここの設備でよいものを作るのは難しいかもしれないが、あの今までに見たこともない素材を使ったら、一体どのようなものが仕上がるだろう。

「……ふふ」

 勇誠は思わずにやけた口元を隠しつつ大荷物となってしまった素材を担ぎ上げて鍛冶場へと戻ることにした。先ほどからすれ違う人の視線が少しばかり痛いが、事情を知らない人間から見れば、確かに泥と藁、その他諸々をかき集めて歩く人間など不審以外の何物でもないだろう。

 流石に居心地が悪いのでそそくさと歩き始めた勇誠は、ふと目の前から妻が歩いて来るのを見て即足を止めた。

「勇くん? どうしたのそれ」

 娘はどうやら泣きつかれて眠ったのか、彼女の背におとなしく負ぶわれている。妻こそ何をしているのかと問いかけようとして、そこが住処のすぐ近くであると気が付いた。

 どうやら素材を探し回っているうちに、家まで帰ってきていたらしい。

「一仕事することになってな。必要なもの集めてたんだよ。必要なことは結構わかったから、後で話す」

「なるほどね、わかった。じゃ、後でね。仕事頑張って」

 にこりと笑って、妻は手を振った。物分かりが良すぎて少し不安になる。が、応援は百人力だ。心なしか体がやたらと軽い。自分でも気が付かぬほど緩み切った顔で、勇誠は再び鍛冶場へと向かった。



 大荷物と共に戻ると、そこは戦場だった。腕を組み静かな視線を向けてくる親方、一瞬だけあきれたような視線を向けすぐに手元へ意識を戻す同僚と思しき職人たち、背中に伝う冷や汗にはなるべく気づかないようにしつつ、勇誠は持ち場へ素早く素材をセットしていく。

 流石にこの辺は散々鍛えられたおかげもあって早かった。炉の状態は悪くない。不思議と火の状態はぶれていないようだ。

「……よし」

 気合を入れて、取り掛かる。塊の鉄を熱し、打って、余分な鉄を削ってはまた打って、と繰り返すうちに、勇誠はあることに気が付いた。

 加工にかかる時間が尋常じゃなく早い。本来ならば二人一組で一週間も二週間もかけてようやく仕上がるような仕事すらたった一人で、しかも見る間に仕上がっていく。体の内から何か、底知れない力がみなぎってくる。これは、一体。

「おいユージーン、何やってるんだ。何度も折って固めて何がしたいんだお前は」

 見かねた誰かが声をかけてくるが、勇誠は手元だけに注意を注いだ。今が一番重要なのだ。

 均一に、余分なものを出し尽くし、その刃が曇らないように何度も何度も鍛え上げる。感じたことのない手応えだった。やはり勇誠の元居た世界にはない素材なのだろう。

 だが、だからと言ってやることは変わらなかった。

「新築で! 戸建てで! 床暖房! 庭付き! でかいリビング! 書斎!」

 もうひと踏ん張り、というところで、欲しいものをあげつらう。本来雑念が入るのはよくないのだが、勇誠の場合はこれをやることで格段に仕事の質が上がるのだ。心なしか、なんだか鋼が輝いているようにすら見えた。

「できれば! 交通の! 便が良くて! 買い物も! 近場で! できる! 公園も! あると! なおよし!」

 ぜいぜいと息を切らしながら、仕上がったものを見る。

 設備の整わない状況、足りないものの中でも、悪くはない出来に仕上がった。柄の部分は作れる人間がいないだろうと判断し、握りやすい形に整えてある。通常よりは劣るだろうが、見目はそこまで悪くはない、はずだ。

 あとは砥ぐだけだが、ここに砥ぎ機はない。研師はいるかもしれないが、見たこともないだろう刀を砥ぐというのは難しいかもしれない。

「……これでやってみるか」

 先ほど拾ってきた砥石に使えそうないくつかの石を使い、勇誠はできる限り丁寧に砥いだ。相変わらず、体の奥から力が湧き出てくる。

 本来の刀身があらわになるにつれ、やはり先ほどの光は見間違いではなかったのだと気が付いた。なんと、刀が薄緑に光り輝いているのである。

「……親方、お願いします」

 日は既に落ち、おそらく外はもう真っ暗であろう。周りの職人たちは勇誠と親方を囲むようにして、その出来上がったものを食い入るように見つめていた。

 勇誠は正直なところ、こんなにもすぐに刀というものが出来上がるとは思わなかった。何より、途中で止められると思っていたのだ。だが、親方は一言も発さず彼の仕事を見守り、今はその仕上がった一振りを見て小さく唸り声をあげていた。

「……ユージーンよ、お前」

「研師に頼めば、もっと切れ味は良くなると思います。俺にはそれが限界でした」

 できる限りのことはやった。親方はしばらく様々な角度から刀身を眺めていたが、やがて勇誠の方を見て大きく息を吐いた。

「……そうだな、悪くはない。ユージーン、手を見せてみろ」

 悪くはない、は親方の最大の誉め言葉だ。いや、この親方がそうかはわからないのだが。

 舞い上がりそうになる半面、真剣な表情のままの親方に再び汗がナイアガラのように背中を流れ落ちた。親方は勇誠の手をつかんで睨む。何事かと思ったが、どうやらその視線が刺さっているのはあの痣だ。

「……お前、勇者か」

 途端、しんと静まり返っていた鍛冶場内が一気にどよめく。なんとなくそうだ、と言い切るのもはばかられて、ええ、まあ、と曖昧な返事をすると、親方は良いように察したようで、炉と刀に照らされながら難しい顔のまま何度かうなずいた。

「そうか……なら、教皇様の元へ行かねえとな」

 その声がどこか残念そうに聞こえるのは気のせいだろうか。勇誠にはわからない。だが、隣のエドガールがものすごく残念そうな顔をしていたから、おそらくそれなりには気に入られていたのだろう。

 ……できればそう思いたい。勇誠もまた良いように解釈して、小さくうなずいた。

「……あの」

「なんだ」

「もし魔王を倒したら一戸建ての家、手に入りますかね」

 真剣に、自分は一体何を言っているのだろう。そう冷静にならないでもなかったが、聞かずにはいられなかった。何しろ勇誠からしてみれば念願の夢、文字通り命がけになる戦いでもし手に入らないなどと言われたら発狂しかねない。

 親方は勇誠があまりにも神妙な顔をしていたからか、一瞬目を丸くしてから大きく笑った。

「間違いない。そりゃあもうでかい家が与えられるだろうよ。それどころか贅の限りを尽くせるだろうな」

 行ってこい、と背中を強くたたかれる。今朝にも味わったような痛みだ。堰を切ったように四方八方からたたかれまくり、不思議とそこまでは痛くなかったのだが、できればもうそろそろお暇したいです、なんて弱気な単語が浮かびそうなころにようやく勇誠は解放された。

「片づけるのはやっとくからよ! 今度それ、やり方教えろよな!」

 そう言われて、一人で鍛冶場の外へと追い出されてしまう。打った刀は持っていけ、と渡されたことから、餞別のような扱いになってしまったようだ。

 さて、いよいよ困った。カーロルとは一体どこにあるのだろう。

 むき身のままの刀をどう持ち歩くかというのにも悩みながら、勇誠は夜道を刀の明かりで歩く。懐中電灯代わりになって少し便利だ。

 ……うーん、これはこれでいいかもしれない。ただ、夜の部屋にあると明かりで眠れなくなりそうだ。

「……ただいま」

「おかえりなさい、遅くまでお疲れ様でした」

 なんとか帰ったところで、眠らずに待っていたらしい妻が顔を上げて目を丸くした。だらしなく緩んだ顔はそのままに、くぎ付けになっている手元のものをどう説明するか勇誠はほんの少し口ごもる。

「あー……その、できちゃった」

「だからどうしてそのチョイスなのよ」

 選んだ言葉に絶妙なツッコミ。ああ、いつもの香澄だ。気が緩んだのか一気に疲れが出て、勇誠は笑いながらその場へ綺麗に崩れ落ちた。



「なるほど把握。カーロルで若い教皇様に会って、それから魔王を倒しに行くのね」

 どうしてそんなに順応力が高いのだ。喉のあたりまで出かかったが勇誠は咄嗟に飲み込んだ。どうせこの手の質問ははぐらかされてしまうのだ。

「しっかし、ペンラ持って帰ってきたのかと思った。何その光る刀。ライトセ」

「やめてくれあんなのは刀じゃない別のものだ」

「あっははは、ごめんごめん。でも不思議。今まで打ってたのだって、別に普通の刀だったのにね」

 香澄はそう言って布をぐるぐると巻いた刀をまじまじと見つめる。保管方法がわからず、いったん布で包んではみたのだが、それでも明かりもない部屋の中でぼんやりと光っていた。

「……フォースと共にあらんことを」

「似てない」

「ちぇー」

 娘の手が届かない場所、というのが棚の上しかないため、香澄は布越しの光を満足するまで眺めた後に再度そこへと戻した。

 高い場所で光っているおかげで、何となく部屋が明るい。蓄光ライトよりも先に豆電球、というちょっと懐かしい言葉が頭をよぎる。

「でも、亜須美連れてかないといけないのは結構困るね……どれくらいかかるのかわからないけど、ずっと歩かせるのは無理だし抱っこもおんぶも結構な重労働だから、長距離進むのは至難の業よ」

 何より、と香澄は少し困ったような顔をする。彼女がこんな顔をするのは珍しい。いつもは大抵のうっかりにも笑って対処するような彼女が、一体何があったのだろうか。

「亜須美ね、やっぱり私たちのこと覚えてないのかも。隣部屋の人には普通になついてたから」

「あの人見知りの亜須美が?」

 勇誠は愕然とした。やはり、覚えていないのか。それが本当なら、様子のおかしい父母に、あのように激しく拒絶をしてみせるのは必然ともいえた。思わず崖の上から突き落とされたような気持ちになる。

「……いきていけない」

「だめ、生きて。気持ちはわかるけどなんとか思い出させなきゃ。あーもう勇くんそんなんだからちょっと冷静になってきたわありがとう」

 一気に調子を取り戻す妻に少しばかり思うところはあったが、言っていることは確かにそうだ。なんとか、彼女には自分たちのことを思い出してもらわねば。

「でもなあ、記憶を取り戻させるなら連れて行った方がよさそうだけど、外は魔物がいるって話だったからできれば連れて行きたくはないし……まいったな」

 眼鏡の神様が言っていた言葉を思い返す。確か奥さんと娘さんも連れていくことになる、と言っていた。それがどういう意味なのか、勇誠にはまだわからなかった。

 できることならば、妻も子供も危険な場所には連れて行きたくはないのだ。だがもし、娘の記憶を取り戻すためには娘を連れて行かなければならないのだとしたら?

「……んー、今は考えても答え出ないね。ほら今日はもう寝ちゃお。詰まった時はリフレッシュが大事。人間いざとなればやればできる。締め切り当日の原稿だって書けば終わるんだから何とかなる。何とかなるんだから」

 少々よくわからない言葉が混じったが、それは時折彼女が唱えている言葉だ。多分為せば成る、という感じの言葉を言いたいんだろう。何となくだが。勇誠は素直にうなずいて、非常に硬いベッドの上へと横たわった。

「……亜須美」

 亜須美はやはり勇誠が声をかけながら横へ寝そべってもまったく起きる気配はない。ぐっと胸が詰まるような心地がする。

 本当ならもう少し妻と話をして気持ちを落ち着かせたいところだが、色々とありすぎたせいか体がすっかり休みを求めていた。

 おそらくその疲れが顔に出ていたのだろう。言い聞かせるようなおやすみ、の一言に、きちんと返せたかどうかは覚えていない。


 どれくらい眠っただろうか。ふと勇誠が目を開けたとき、部屋はまだ薄暗かった。

 蛍光刀のおかげで室内の様子はわかるが、窓の外はまだ日も登らない時間のようだ。だが遠目に見える山々はぼんやりと姿を現しているから、まもなく夜明けといった頃合いなのだろう。

「ん……勇くん?」

「ごめん、起こしたか」

 起き上がった気配で目を覚ましたらしい。謝ると、香澄も体を起こしてあくびを零した。

「んーん、ベッド硬くてあんまり眠れなかった」

「うちのせんべい布団より硬いもんなあ、これ」

 ひと眠りしたおかげかずいぶん気持ちは前向きになっているようだ。そうだ、魔王を倒せばあの神が何とかしてくれるかもしれない。

 いや何とかしてもらう。世界を救うならそれくらいの我儘は聞いてもらわねば。こうなったらなんとしてでも権利を勝ち取っていくしかない。

「亜須美の記憶とやわらかいベッド、勝ち取らなきゃな」

「え、そんな話になってたの?」

 すっかり目がさえてしまったので、勇誠は顔でも洗おうとベッドから起き上がった。生活用の水というのはどこで汲んできているのだろうか。

 昨日は帰ってすぐに濡らした布で軽く体をふいたのだが、やはり汗はしっかり流してしまいたい。川があったら入りたい。穴より川に入りたい。

「香澄、川ってどこにあるか分かるか?」

「あー、汗流したいもんね、わかる。用水路とかいっぱいあるから、それたどってくとあるみたい」

 話の分かる妻。ストレスフリー。そう言えば確かに、鍛冶場にも引かれていた用水路があった気がする。

「ちょっと行ってみる」

「いってらっしゃい。あ、ついでに薪とか拾ってもらえると助かるかも」

「うーす」

 街を囲む壁を越えて少し、授かった知識通り歩いたところ勇誠は見事に川へと至った。ありがたい。勇誠は銭湯の作法にのっとってまずは手ですくった水でなんとか体を軽く流してから、服ごと川へと飛び込んだ。

 正直なところ、もう服を脱ぐのも面倒だったのだ。絞ればなんとかなる……と思いたい。身も心も洗濯されているような感覚。機関銃をぶっ放すよりも多分気持ちがいい。

「あー……お湯に浸かりてえなあ」

 とはいえ川の水はそれはそれでアリだ。そのままいつまでも流れに身を任せていたいような心地になりつつ、よし、となんとか体を起こす。

 目覚めはばっちりだ。今日も一日頑張ろう。そんな月並みな言葉を並べ、薪によさそうな枝をいくつか見繕っていく。温暖な気候のおかげか服も早々に渇き、乾いた枝を濡らす心配もなさそうだ。

「カーロル……は、どっちだろうなあ」

 カーロルへ向かうとしたら、やはり徒歩だろうか。この様子では車のような移動手段はなさそうだ。馬がいればそれに乗りたいが、果たして貸してもらえるような馬はいるのだろうか。

「馬……乗ったことないけどな……」

 そんなことを考えながら人通りの多くなってきた街中を歩いていると、どこからともなく蹄のような音がする。

 まさか、ここでも都合よく馬が? そんな淡い期待を持って音の方へと目をやり、そして物理的に打ち砕かれた。

 ドゴン、だか、バコン、だか、とんでもない音を上げて街の壁が一部吹っ飛んだ。思わず勇誠はすぐに走り始める。無論音とは逆の方向に向けてである。

「な、な、なんだ、あれ!」

 音とともに飛び込んできたもの。一瞬見た限り、巨大なイノシシのようだった。というかイノシシだと思う。イノシシじゃないなら一体何なのだろうか。全力で走るも、おそらくあのスピードではすぐに追いつかれてしまう。

「はぁ、はぁ、ひっ」

 背後に迫る気配から逃れるため、勇誠は脇道へと飛び込んだ。一瞬前まで勇誠のいた場所を、巨体が猛スピードで駆け抜けていく。ゾッとしたのもつかの間、巨大生物は方向転換をして再び勇誠の方へと向かってきた。

 まさか、狙われている? 勇誠は慌てて別の道へと逃げる。もしやあれが、話に聞いた魔物なのだろうか。明確な敵意を感じる、ような気がする。

 あれと戦うのか、勝てるのか、本当に。いや、戦わなければ明日はない。妻と娘も守れない。だが今は丸腰だ。もう穴があったら入りたい。安全だと尚良し。って馬鹿野郎そんなこと言ってる場合か。

「なんとか、武器だけでも……!」

 パニックになる頭の中でなんとかそこまで思考を繋げ、だが自分の打った刀は家にあるのだと思い至って頭を抱えたくなった。流石にこの状態で家になど帰れない。

「いやぁー! 魔物! 魔物が出たわ!」

「馬鹿な、どうやって街の中に!」

 どこかで誰かの叫ぶ声。幸か不幸か魔物は勇誠一筋のようで、他には浮気せずに彼の後だけを追いかけてきている。

 周りの騒ぎだけが大きくなっていき、でたらめに走る勇誠の体力も限界を迎えそうになってきたところで、聞きなれてきた声が勇誠の名を呼んだ。


「勇くんこれ!」


 声の方へ顔を向けると、布にくるまれた何かが投げられるところだった。いや流石にそれは危ない、と勇誠は何とか地面へ落ちないようにそれをキャッチし、迫ってくる敵意の塊へ向けて構えた。

 布が滑り落ち、露になった刀身が輝く。それを見たイノシシ風の生き物は急にその場へ立ち止まると、驚くほどの勢いで鼻を鳴らした。

「そんなもので私を倒せるとでも思っているのか」

 おどろおどろしい声が響く。どうやらあのイノシシがしゃべっているようだ。昔何かのアニメで見たことがあるような気がする。勇誠は震える手で柄を握りなおした。額についているらしい石がギラリと輝き、勇誠の目をくらませる。

「やってみないと分からないだろ」

 声が裏返ったことは多少目をつむってほしい。何しろまったく勝てる気がしないのだ。イノシシはそんな勇誠の心境はお見通しのようで、再び鼻を鳴らして前足で地面を蹴った。

 ガリガリと石の削れる音がする。というか大根おろしレベルに削れている。ああ、足が太い。勇誠の体ほどもありそうだ。

「勇者が出たというから早めに殺しに来たが、なんとも興の覚める弱さだ。これでは何の足しにもなるまい」

 ぐ、と喉が鳴る。だが、戦わなければならない以上、ここから逃げるわけにはいかない。勇誠は意を決して切り込んだ。

 得体のしれぬ生き物の方はと言えば、悠然とした佇まいで勇誠を見下ろしている。くそ、と刀を思い切り振り下ろしたものの、ごわついた毛にあたってまったく刃は通らなかった。これは一体。

「ふん、魔力にも打ち勝てんような藁一本が何になる」

 黒々とした前足が、勇誠を軽く薙ぎ払う。建物の壁へしたたかに打ち付けられた勇誠は、そのまま地面へと無様に倒れてしまった。

 体中が痛い。左腕がしびれている。無理だ、あんなものに勝てるわけが。恐怖が絶望となって体を満たす、このままでは、何もできずに。

「勇くん!」

 香澄の叫び声が聞こえる。来るな、と口にしたものの、あまりに弱々しい声は誰にも届かず、ほどなくして香澄は勇誠の元へと駆け付けていた。助け起こされ、妻は背中に亜須美も負ぶっていることに気が付く。

 ああ、そんな。このままでは。

「しっかりして、大丈夫?」

「……ごめん、勝てそうに、ない」

 思わず弱音が落ちる。このままでは香澄も、亜須美のことも守れない。何もできないまま、無残に。


「番もろとも死ぬがよい」


 イノシシが再び勇誠へ向けて駆けてくるのが、やたらとゆっくりに見える。ああ、せめて二人だけでも守らなければ。地面へ転がっていた刀をなんとか拾い上げ、獣に向けて構える。

 なんとか、刃を通す方法だけでもないのだろうか。何か、何か。なんとか、刺し違えてでも。


 かすむ視線。ふらつく足。勇誠は震えあがりそうな体を何とか叱咤して膝を立てる。立て、立ち上がれ。動いてくれ、足。歯を食いしばって痛む足へ力を込めた、その時。


「ぱーぱ! がんばれー!」


 背後から、声がした。振り向かなくてもわかる。愛する娘の言葉を誰が聞き間違えたりするだろう。勇誠はぐっと口を引き結び、立ち上がる。

 不思議と恐怖は消えた。何なら体の痛みも消えた。炎が勇誠の内側でごうごうと炉のように燃えている。しびれていた左手も感覚が戻った。

 どういうことなのだろうか、と思うよりも先に、こんな状況だというのに、勇誠は思わず顔が緩んでしまった。


「よーし……パパ、頑張っちゃう、ぞっ!」


 もはや怖いものなんてない。全身にあふれるパワーは勇誠の中で委縮しきっていたアドレナリンまで前向きにさせた。こちらへ迫る巨大な魔物へ向けて、構えた刀を大きく振りかぶり、そのまま全力で振り下ろす。

 魔物の体に触れる刹那、ぱきり、と何かを割るような感触。それは刀ではなく、魔物の額についた石が砕ける音であった。


「おお、おおおおあああああああ!」


 魔物の断末魔が響く。魔物の体は勇誠の刀の先から半分に裂け、まるで黒い霧のようになって消えてしまった。しんと静まり返った街の中に、次第に歓喜の声が上がりだす。


「……やった……やったぞ! 勇者が魔物を倒した!」

「やったなユージーン! 見直したぜ!」

「ああ神様……!」


 勇誠はしばらく呆然としていたが、背中へ縋り付いた腕でようやく我に返った。


「う、ゆうく、よかったぁ……!」


 聞いたことのない、それは妻の泣き声だった。そうか、自分は守れたのだ。大切な人たちのことを。勇誠は改めて妻と子を抱きしめた。

 よかった、本当に。街中が歓声に包まれる中、三人は街中の人々が駆け寄ってくるまでの間、何も言うことさえできなかったのだった。



 次に勇誠が目覚めたのは、見覚えのない天井の下であった。全身が痛い。一体なんだ、これは。

 呻きを漏らした勇誠のもとに、香澄が駆け寄ってくる。よくよく見上げてみるとどうやらこれは、明るい状態では初めてまともに見上げた我が家的な部屋の天井だったようだ。

「勇くん平気? あの後急に倒れちゃって、ここまで運んでもらったの。力の反動とか、そういうやつかな」

 やはり事情に詳しい妻は、心配そうに見つめながらもどこか冷静だった。亜須美も何事かを察したらしく、ベッドの下からひょこりと顔をのぞかせている。その愛らしさに顔は緩むが、あまりの痛みに身動きの取れない勇誠であった。

「ぐ、う……大丈夫じゃ、ない……!」

「だろうね。んー、もうしばらく寝てた方がいいのかなあ」

 腕を動かそうものならぴしりと痛みが走る。その上なんだか重だるい。……重だるい? はて、と勇誠は頭の中で首をかしげる。その痛みの感覚には覚えがあった。これは、もしや。

「筋肉……痛……」

 そう、翌日に来れば若い証拠だといわれるあの筋肉痛だ。よかったまだ若かった、とはならずただただ愕然としていたのだが、心配そうに見つめていた香澄に原因の名を告げた途端、香澄は亜須美も驚くほどの大爆笑を響かせた後で急に冷静な口調となった。

「なるほど、つまり反動だね。多分だけど、勇くんは私たちの応援でバフがかかって一時的に身体能力がアップするんだけど、体の筋力がそれに追いついてないんだよ。昨日刀を鍛えた時もそうだったみたいだし、こりゃあ鍛えなきゃね」

「ばふ……?」

「あー、能力アップ。勇くんの場合は純粋に力が強くなったりとか刀振る動きが速くなってたから、体中の筋力アップって感じなんだと思う。正直刀振るとこほぼ目で見えなかったし」

 本当になぜそこまで詳しいのだ。勇誠は隣でまだニヤケ笑いの止まらない香澄が、少しだけ恐ろしくなった。

「ぱーぱ、へいき?」

「亜須美思い出してくれたのかぁ!」

「ぱぱ、あそびきたの?」

 その言葉運びに、再びイマジナリー首をかしげる。遊びに来た、とは一体何のことなのだろうか?

「そのー……ね、単純に勇くんのことパパとして認識してなかっただけみたい」

 今、なんと? 妻の口からとんでも発言。痛む体が思わずスッと起き上がる。勇誠から目をそらし、香澄は言いづらそうに言葉を続けた。

「亜須美が起きてる時間にはたまにしか帰ってきてなかったじゃない? その、前の子の記憶も残ってるみたいで、隣のおじさんの方が一緒にいる時間長かったみたいっていうか……勇くん? 勇くん大丈夫?」

 それで先日のあの反応であった、と。つまりは彼女の中で自分はたまに返ってくるおじさん、そんな扱いなのか。

 勇誠は文字通り静かに涙を流した。まさか、そもそも父として認識すらされていなかったとは。ぎょっとした香澄は慌てて勇誠の涙をぬぐいながら、フォローの言葉を並べる。

「でもほら、これから旅に出るんでしょ? 一緒にいる間にパパってどんなものなのか、ちゃんとわかるんじゃないかなーって。ね? ね?」

 それは確かにそうなのだが。なすがままの勇誠は何も言い返せない。その間にも亜須美はどうしたのか、痛いのかと問いかけてくる。喜べばいいのか悲しめばいいのか、もう何もわからない。


「亜須美、これからパパずっと一緒だからな。いっぱい遊ぼうな」

「や!」


 ダメ押しの拒絶で心がポッキリと折れた勇誠であったが、翌日家族旅行のノリで三人そろって皇都カーロルへ向け出発するころにはすっかり元気になり、絶対に大きなマイホームを手に入れるのだと張り切っていたのであった。

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