勇者はメンヘラ、獲物は妖刀、村の飢饉を救っちゃれ!~奇跡のおかゆ編

 薫風香るアーデイン教国はカスメーのはずれ。崖の上に立つ俺たちの形をなぞるように、風が語りかけ、雲ひとつない青空へと駆けぬけていく。

 俺はありったけの大声で、彼女の背中に呼びかけた。

「やめろ! はやまるなサラ!」

 黒髪の少女・サラは、崖のふちに立ち、俺の呼びかけに応えようともしない。眼下には、新緑が目立ち始めた雑木林が広がっている。落ちればひとたまりもないだろう。咄嗟に想像してしまって寒気がした。

髪色と同じ一枚仕立ての膝丈まである服を着た彼女は、怯えのない表情の外側で、長い黒髪を下から吹き付ける風のほしいままに遊ばせている。

「もういや――。今度こそ、死んじゃお」

「頼む、やめてくれーっ!」

 そしてサラはなんの躊躇もなく決定的な一歩を踏み出した。

彼女の体が宙に放りだされる。

「今日はいい天気ね。いえい」

 やっと今頃気づいたとでもいうように、彼女は突き抜けるほどに青い空を見上げ、にっこりと笑いながら落ちていった。

 

「お前はもう死ねないんだ! 痛みを肩代わりする俺の身にもなれえええええええええ」

 俺の叫びも虚しく、サラの体が木々の枝をぶち破って地面に衝突する。

その瞬間、すぐさま俺の体に巨大な痛みが湧き上がった。

衝撃で林の鳥や獣たちが驚き、騒々しく一斉に四方へ散っていった。そのなかに俺の叫びが混ざり、汚ねえハーモニーが響きわたる。

「ぐげ」

俺はあまりの痛みに格好つけた悲鳴をあげることも叶わず、必死に食いしばり堪えた。


「ねえ、ササメケ。ぬけない」

「……つくづく、俺をなんだと、思って……クソメンヘラが……」

「しゃべるへんてこな日本刀」

「……死ね……」

「だから死ねないんだってば」

「……クソが……」

息も絶え絶えな俺を下敷きにして、のんきにサラは折れた木の枝に貧相な尻を挟まれ、じたばたと無様に足を動かしている。その貧弱な青白い足も薄っぺらい胴体も、すべて、驚くべきことに傷ひとつない。

 彼女は、クソ神に祝福されしクソ神の御業。

「あー……私なんて要らない人間なのに……」

俺が育てるべきクソ勇者見習いで、そして、

「あー……しにたーい」

クソ女が来た世界の言葉を借りるなら、メンヘラだ。


「おーい」

 騒動を聞きつけてか、気付けば痩せぎすの少年が、俺たちに近づいてきた。毛並みの悪い羊や山羊を何頭か連れている。

「大丈夫? 崖から落ちたようにみえたけど……」

 サラは眼前に現れた久しぶりの人型男性に目を丸くし、頬を紅潮させ何度か口をぱくぱくさせたあと、あられもない体勢で見えてしまっている下着に気付き、慌てて腰紐でくくられた俺や布なんかをがちゃがちゃと手繰り寄せて、なんとか一度、頷いた。

「ねんのため、僕の村においでよ。近いんだ。起きれる? 手を貸すよ……」

 本当に心の底からクソどうでもいいやり取りを見せつけられた辺りで、少年の言葉の余韻を残しながら、俺の痛みの限界許容量は超えた。


薄れゆく意識のなかで、俺は、数奇な運命を結び付けた神に中指を立てずにはいられない。



勇者はメンヘラ、獲物は妖刀、村の飢饉を救っちゃれ!~奇跡のおかゆ編



 暗闇に一筋のスポットライトが射し込み、粗末な木椅子のうえに、さらにお粗末なサラのパンツが置かれている。天にまします我らが友愛の神は、その者がより親しみをもてるように直前に見たものの姿を借りて体現する。そんな制約、暇なあいつらがいかにも考えそうなことだ。

「愛し合ってるう?」

傍からみれば、黒塗りの鞘に収まった日本刀と、くたびれた下着がライトに照らされているという異様な空間。そこで俺の目の前に置かれた三角形のちいせえ布が、しわがれた妙に明るい老人の声で、愛の有無を語りかけてくるというクソ由々しき非常事態が巻き起こっている。

「帰れクソオカマ」

「のんのん。両性具有だってば。相変わらず威勢だけはいいわねえ。あんたをサラのお目付け役にしたのはせ・い・か・い」

「どうみたらそうなるんだよ。騙しやがって」

「まー人聞きの悪い。あんたが勘違いしたんでしょう。こっちは不死の少女のお目付け役として、元魔王の妖刀の手腕を存分にふるってくれと言っただ、け」

「クソ神の加護のせいでガキを乗っ取って人を斬ることもできねえ」

「できるわよう。サラがあんたを認めて受け入れれば、だけど」

「ガキの痛みを俺が肩代わりするなんて後から聞いたぞ」

 鞘の金具に反射した鈍い光を受けて、一瞬、下着にあしらわれた小花がきらりと光ったように見えた。完全無機物の空間のなかでお前の感情を巧みに表現しようとするな。

「説明したでしょ。サラは前世で自殺して18歳で死んだの。そしてあんたはこの国で人斬りをしすぎた。この世界で生きることを尊ぶようになるために、あたしは彼女に不死の力を与え、あんたに痛みを与えた。それだけのことよ」

「……本当に、あいつを勇者にしたら開放してくれるんだな?」

「もちろん。この友愛の神ミトーラ、アーデイン様のチャーミングな唇に誓って約束はお守りします。さあ、とっとと戻りな。悪さしたらタダじゃおかないから。それと、星祭りまでには、ちゃあんと王都にたどり着くこと。今頃サラは村についた頃だろう。あの子極度の人見知りだから、ちゃんとフォローしてあげるのよ、いい? ――ササメケ、最後になにか言いたいことは?」

「くたばれクソオカマ」

 脈絡なく捲し立てる神の言葉を悪態で遮ると、それを合図にライトも落とされ、爺か婆かもわからねえ老人との退屈なチークタイムは終わった。

 俺がついた長いため息を聞く者は誰もいない。

 本意ではない。

本意ではない。

がしかし、だ。



目が覚めると、俺たちは村に到着していた。

サラが顔を真っ赤にし、言葉に詰まりながら一度だけ呼んだ少年の名前は、トマというらしい。

「ようこそ、僕らの村に」

国内有数の平野として、農耕と酪農が盛んなカスメーには、農地と放牧地を挟んで小さな集落が点在している。道すがらで見かけた教会の規模から、ここは比較的大きい村だということが見て取れた。

日はやや傾きかけ、灯りがともりはじめた石造りの家の窓からは、湯を炊くように薄い夕餉の匂いがこぼれてくる。道中作業を終えた村人たちとすれ違っては、トマが手を振り挨拶を交わし、声をかけられたサラは首が絶好調の鶏のように挙動不審な会釈をする。俺は村人に紛れて怪しいやつがいないか、もちろんサラを除いたうえで注意深く観察していたが、どこかやつれた笑顔の老いも若きも皆、トマの姿と同様にひどく痩せているだけだった。

「君が腰にさげてる、剣? かっこいいね。見たことないかたちだ」

 慣れているのか、トマはサラの人見知り由来の不審なふるまいを気にせず、朗らかに俺を指差す。

「あ、これ。日本刀っていうの」

 お。いっぱしの羊飼いがわかってるじゃねえか。

俺は妖刀だ。持ち主に応じて姿を変えることができる。サラが東の国の出にちなみ、今の俺は薄く研ぎ澄まされた長い剣身、機能性と意匠が共存する柄と鍔をもつ日本刀の姿だ。黒髪と黒い服のサラは全身黒でじみったいが、日本刀である俺が黒を鞘にまとえば、つややかで威厳があるってもんだろう。

「ニホントーっていうんだ」

「そう。ササメケが」

「ささめけ?」

おっとやばい。口を滑らせたサラを柄の先で軽く小突く。

サラが俺の真意をとりかねて慌てていると、トマはとりあえず笑って角の家を指差した。

「ここが僕たちの家。ちょっと待っててね」

「……おい、俺たちの話はするなっていったろ。ややこしくなる」

 トマが家に入っていくのを見計らって俺はサラに囁きかけた。余計なことは言わないにこしたことない。余所者のサラも俺も、素生を知られていい身の上ではない。俺にいたっては、人を斬りたくて魔王軍を抜けた過去がある。魔族にも人間にも居場所はない。

「……だけど、でも、トマは違うと思う」

「――は? いまなんて?」

 予想の遥か斜め上を貫いた発言に驚き面を上げると、サラはトマの家の方向を仰いだまま、目尻を下げて瞳を輝かせている。この光景を俺は知っている、魔王軍時代、魔王直属の女幹部候補なんかが、魔王へ密かに恍惚とした表情を向けていたそれに似ている。これは、心酔だ。

「初めて会った私に、こんなに親切に村を案内してくれて、優しくしてくれた……」

「おいおいおいおい待て。サラ。お前はそんなに生き急ぐ人間だったか?」

「トマは絶対悪いひとじゃない! ……きっと私たちのことも理解してくれる」

「たかだかこれまでの会話のなかにその要素あったか? あとさりげなく俺を巻き込むのやめろ」

「これまで私の体目当てだった男たちとは絶対違う。絶対にそう」

 もはや俺の言葉は届いていないのか、俺を置いてメンヘラ思考船は光の速さで錨を上げ、遥か彼方地平線へと漕ぎ出していた。視点をまったく微動だにせず、一世一代の魔法を詠唱する魔導士のごとく、あの男がいかに素晴らしいかを宙に並べ異様に執着する姿。無気力なサラを見慣れていたこともあって、この変貌ぶりに若干の恐怖すら感じる。これが、メンヘラ――。

「おまたせ。家族に聞いてたんだ」

 押し問答が途切れ、トマが玄関を開けて現れた。開かれたままのそこから、小柄でひどく痩せた少女がおたまを携えた姿をみせ、はにかみながら会釈してきた。

「父母も妻もいいって。大した振る舞いもできないけど、よかったらどうぞ、泊まっていって」

 妻。つま。TUMA。サラは思いもよらない登場人物に驚き、氷魔法か、もしくは瞬時に死後5日ほどが経過したのかと錯覚する程度には硬直していた。

「はっはーん。この辺りは早くから結婚して家を継ぐ習慣があるんだったか。へへ、残念だったなサラ。……俺たちのことは話すなよ、いいな」

 矢継ぎ早に業務連絡を済ませ口をつぐむと、じんわりと右側に鈍い痛みが浮かびあがってくる。

「いたたたたたたやめやめやめ」

「うるひゃい」

 むくれた涙目のサラが右の頬を思い切りつねっていた。

そして自分を待つトマの無邪気な眼差しに負け、失意の足取りでゆっくりと、柔らかな灯りのともる家の門をくぐる。


 メンヘラという存在はあのオカマ神を通じて知った。サラが前の世界でどんなふるまいをしていたかも。まあ、ほとんどは聞き流していたから覚えていない。

ひとたび飢饉が起これば飢えで死ぬものが無数にいるこの世界では、心が満たされず己の命を己で絶つこと自体、存在もしない概念だろう。自分で満たせぬ心を満たしてくれるはずの誰かを待つサラの手首には、前世での自傷の跡、そしてそれを上書きするように勇者の紋章が文字通り刻まれている。

なぜ己を切るのか、なんて疑問を俺は持たない。斬るために生まれた俺の前では、人が刃を握る理由なんてものは、なんの価値ももたないのだ。


 サラはトマ一家と温かな食事をともにしたのち、疲れていたのかすぐ床についた。アホのように無防備に眠る正真正銘のアホの側に控えながら、今晩の食卓が頭をよぎった。まさにこの村の人間どもも、今まさにその苦しい状況下におかれているようだ。

トマとその父母、そしてトマの妻に囲まれたサラに振舞われたのは、ごくごく薄く煮られた雑穀の粥だった。この辺りで採れる野草と、客人が来たから奮発したのであろう干し肉を細かく刻んだものが、埃のように表面に浮かべられて。

風に恵まれた土地ゆえに、麦を使った食事が本来主流のはず、おかしいとは思っていた。サラは疑問にも思わず「ヘルシーですね」と、人に囲まれた食事を素直に喜び、のんきに口に運ぶだけだった。

 飢饉。2年前に発生した飢饉で、このアーデイン教国も多くの人間が死んだと聞く。この国の食を支える台所・カスメーも、完全には凶作から立ち直っていないということか。道中で目にした痩せた村人と家畜が、痩せた大地を物語る。

土地を見捨てることは死ぬも同然の営みのなかで、逃げ出すこともできず、笑いあい励ましあうことでなんとか社会性を保ち、飢えを凌いでいる。その彼らが、――なぜサラを家に招き入れたのか。

 俺は神のクソ同然の粋な計らいで、見えない紐のようなものでサラにつながれている。あらかた結界の類だろうが、ほかの人間に憑りついて逃げることもできない。サラは露にも思っていないだろうが、万が一、この一家が俺たちに悪意をもって何かを謀り非常事態が起こった場合、すみやかにサラをたたき起こして、華麗に逃亡する必要がある。

薄く開いた客間の扉から、居間の灯りが漏れている。俺は静かに感覚を研ぎ澄ませ、扉向こうの様子を探った。気配はふたつ。


「もう母さんとマリーは寝たみたい。明日も農作業で早いから」

「そうか……。急に客人を泊めるというから驚いたよ、トマ」

「父さん、食べ物もあまりないのに、無理を言ってごめんなさい」

「いいんだ。お前が何をしたかったのか、彼女を連れてきた瞬間によくわかったから」

 父の声色は淡々として表情が読み取れない。

俺の疑問に応えてくれる言葉が続くかどうか、張り詰めた緊張感のなかで次の句を待つ。

「サラさんは……似ているな、リタに」

「僕らは金髪だから姿は違うけど、話し方や、雰囲気も。すごくかわいいのに自信がなくて人見知りで、小さいときから大人になっても村の人に話しかけられると僕の後ろに隠れるところもそっくりだった。リタがこの前の飢饉を乗り越えて生きていられたら、きっとこうだったんじゃないかって思っちゃうくらいに……」

「お前たち兄妹はいつまでも私の誇りだよトマ。彼女が望む限り、家族が戻ってきたと思って精一杯もてなそう。母さんとマリーには私から話しておくから」

 まもなくトマのすすり泣く声が居間に響き、結局心温まる一家の絆を見せつけられた辺りで、俺の緊張感は一気に霧散していった。2年前の飢饉で死んだ妹にたまたまサラが似ていたから、いてもたってもいられず助けたと。大した家族愛じゃねえか。

利害関係を超え、窮地に置かれていても、自らの食い扶持を減らして誰かを助けようとする。人間の考えることは、妖刀になって久しい今でもわからない。

サラが前の世界ではなく、この家族のもとに生まれたのならば、彼女は、ああなりはしなかったのだろうか、とも。


 居間の灯りが消され、夜も更ける。寄せては引くサラの呼吸と、どこかで鳴く虫の声が微かに交じるようになってどれくらい経ったか。

俺の意識もややぼんやりとまどろんできた辺りで、静まり返った池に小さな石が投じられるような感覚。急速に引き戻される。

気配。

しかも、物音を立てようとせず、こちらに向かってきている。気配を消しきれていないから、どちらにせよプロではない。が、客間に窓はなく、出口まではこの居間に通じる扉を抜けていくしかない。つまり。

「おい、サラ。起きろ。おい。敵かもしれない。迎え撃つぞ」

 柄の頭で夢見心地女の頬をぐいぐいと押す。ゆるく開いたまま押し上げられた唇から、事態に不釣り合いな間抜けた声が飛び出す。

「にゃにようしゃしゃめけえ……!」

サラは加護を受けていることを除けば極めて人並みの、なんなら身体能力は並み以下の、訓練すら受けていないただの人間だ。

く。こいつ、完全にクソ寝ぼけていやがる――。

「ぐえ、ばびを」

やりたくはなかったが、咄嗟に頭を口に突っ込み、これ以上の大声が出ないように制すると、蛙のように低くくぐもった声を上げて、目を白黒させ無様に手足をばたつかせ、サラはようやくやっと覚醒した。この間5秒。いまので世話が300回焼けた。折角の柄をこういうかたちで使わなくてはいけないなんて、悲鳴を上げたいのはこっちのほうだ。速やかによだれを服の裾になすり付ける。

「早く目をひらいて暗闇に慣れろ、来るぞ」


 意を決したように、扉が少しずつ開いていく。

「いいか。足音を聞け。相手の姿を想像するんだ」

「……どうして、なんで」

「――お得意のそれはすべてが終わってから考えろ」

何が起きているのか半分呑み込めず、息を殺すのに必死なサラの耳元でささやく。

「まずは俺の言う通りに動け」

ひたりと湿った足音の数はひとり、履物はなく素足、歩幅からして小柄だ。

「暗闇にいるのは相手も同じ。奇襲の慢心、そこを逆手にとる」

影が毛布のほうへと一歩、また一歩と距離を詰めてくる。

「棒みたいなものを、持ってる」

影にぶら下がった両腕、そのうちの右手の位置から棒状のそれが伸びている。どこかで俺の勘違いだろうと疑いを捨てきれなかったサラの唇から、言葉とともに驚きと落胆の息が漏れた。

「動揺するな。あとにしろ、すぐ合図する――」

 屈んだ影の左手が、大きく丸まった毛布に手をかけた。

次の瞬間影は驚く。毛布の下には誰もいないからだ。この瞬間に生まれた好機を、俺が逃すわけがなかった。

相手の隙をつき、「走れ」の掛け声で、扉の死角にしゃがんでいたサラが弾丸のように慌てて飛び出す。鞘に入れたままの俺を横一文字に胸の高さに持ち、対角にいる影に向かって突進した。小柄な影の腕の自由を一時的に封じながら、壁際まで追いやりそのまま打ち付ける。相手の獲物が滑り落ち、乾いた木音が響く。

重たく取っ手のついたそれは小麦粉を練って伸ばすための麺棒で、急な衝撃で顔をゆがませているのは、トマの妻、マリーだった。

「あ、え、ごめんなさい、マリーさん?」

「何するの! おなかに赤ちゃんがいるかもしれないのよ!」

 マリーは一家団欒のときとはうってかわった鬼のような形相で、咄嗟に謝ってしまったサラを憚ることなく大声で怒鳴り睨めつけている。

正義の所在を見失い、年下の少女からなぜか急に責められ今にも泣きだしそうなへっぽこの口からは、相手をやり込める言葉は愚か、情けないことになにひとつ出てきやしない。

……少しばかり俺が挨拶をしてやらんことにはお話にならない。口上のひとつくらい言えるようにならないことには、勇者も務まらんというものだ。そうだろう?

「そっちこそ、寝込みを襲うとはいい趣味してんじゃねえかよ」

「誰……?」

「あ、この刀妖刀なんです喋るんですごめんなさい」

「サラ、お前は向こう3日間くらい喋るな。いまクソ大事なところだから」

 間抜けなやり取りを見事に無視し、マリーはふてぶてしく嘲笑とともに嘯く。

「……大体、あんたたちが悪いのよ? 食べるものもないときにのこのこやってきて。私たち夫婦はこれからが大事なのに、私は赤ちゃんができたときのために少しでも食べなきゃいけないのに。どうしてあなたに私たちが食べる分のご飯を分け与えなきゃいけないの! 納得できないわ!」

「マリー! サラさん! いったい、何が」

 争いあう物音と、マリーの絶叫に近い怒声を聞きつけ、さすがに家族も起きだしてきた。慌ててランタンを掲げるトマを筆頭に、扉の前で父母がこの光景の目にしては、経緯を図りかね、絶句している。語ってもらおうじゃねえか、マリーの口から。

「サラを泊めることを決めたのはお前の家族だろうが。俺たちには関係ないだろ」

「そうね、そう。だから自主的に出てってもらおうと思ったの」

「自主的、ねえ」

「そう。気弱そうだし。どこの出身かもわからないっていうし。ちょっとこれで脅して、ついでに金目のものも忘れていってもらえればいいかなって!」

「マリー! なんてことを!」

 状況と言動が結び付き、やっと妻が客人を襲ったということを理解したトマが、悲鳴のような戒めとともに、床にへたり込んだままの昏い笑いを浮かべるマリーの腕をつかみ無理やり立たせようとする。が、か細い腕はそれを尽く拒んだ。

「だって私は赤ちゃんを生まないとこの家にいられないもの。いる意味がないの!」

 そこまで言ったところで、無表情の父が出張ってきて彼女の頬を平手で叩いた。

その瞬間、弾かれたように家から逃げ出したのはマリー、ではなく、サラだった。

俺を携えることも忘れ火が付いたように疾走する彼女が、足を止める村の外れまで、俺は見えない紐の恩恵にあずかり、ものすごい速度で様々な地表と刹那の濃厚なキスを断続的に繰り返しながら劇的に移動した。

時折地面から突き出た小石にぶつかり、海を往く飛魚よろしく宙をきらりと跳ねながら、サラはこんなに早く駆けることができるのか少し見直したな、と速度を肌で感じ非常に感心することしかできなかった。

光景がめまぐるしく変わり、どちらが天地かわからない。唯一視界に残るサラの背中も、遠くなったかと思えば近づき、間合いを掴むことができない。次第に俺が動いているのか、俺以外の神羅万象が動いているのか混乱してきた。真夜中に浮かぶ半月が、ふたつ、いや数え切れない数に増殖して大地との間を飛魚よろしく飛び跳ねる。

この妖刀ササメケ、こんな経験は打たれて初めてだ。まずい。気分が悪くなってきた。

道中すり下ろされて短刀になっているのではという不安が己のなかで確信に変わりつつある頃、やっとサラが立ち止まり、静まり返った夜空を仰ぎ、いきなり声を上げて泣き始めた。

そこで俺はなんとかやっと自分の五体満足を確認し、無い胸を撫でおろした。

物理的に止まってもなお視界の揺れは収まらず、もやがかかり、徐々に白く塗りこめられていく。朦朧としながらも俺は彼女の背中に問いを投げる。

「なんでお前が泣くんだ、サラ」

 答えは返ってこなかった。

「これだから、メンヘラは――」


「ちょっとーメンヘラだって人間なんですけどー。サラちょー心外っていうかー」

 暗闇を照らす一筋のスポットライト。木椅子のうえにちょこんと、一段と癪に障るダミ声のサラが、不敵な笑みを浮かべながら座っている。

「死ねクソオカマ。若い女の姿を借りて調子に乗りやがって」

「あ、いうの忘れてた。愛し合ってるう?」

「クソ一刻も早く天に召されろ」

「だから死ねないってばあ。あ、おっぱい揉む?」

「似てないし揉まない」

 神は無機物に体現しなかったのがよほど嬉しかったのか、軽やかに椅子を降り、わざとらしく体をくねらせ、儀式の舞踊のようにくるくると回りながら詰め寄ってくる。俺はこれから生贄かなにかに捧げられるのでしょうか。

「土壇場であのサラがよく闘えたもんだと感心していたの。さすがね」

「あいつの体に憑依できればもっとうまくできたがな」

「それに、サラがマリーに言い返せなくて困ってたときに助けてあげたのね」

 床に置かれた俺を手に取り、サラの顔をした神が柔らかく微笑みかける。長いまつ毛に縁取られた人形のように大きな目と小さな鼻、春の花を摘んで薄く色を付けたような細い唇。

「助けてくれて、ありがとう。ササメケ」

中にオカマが入っているとはいえ、はじめてサラが俺に笑いかけている。案外悪い顔立ちではないかもしれないことにいまさら気付くのは、それだけ興味が薄かったからでもあり、なにより彼女が俺の前で屈託なく笑ったことがこれまでにないからだ。

「悪い冗談だ。勇者になったら口喧嘩のひとつもできないと様にならないだろ。訓練だ」

「ふーん」

「お人形遊びはもう済んだか?」

 オカマは俺の言葉を無視して、少しの間ののちにゆっくりと、赤子に諭すように言葉をつないでいく。どいつもこいつも無視しやがって。すねるぞ。

「ササメケ、サラが立派な勇者になる一番の近道を教えてあげるわ。――それはあなたが彼女の痛みに寄り添うこと」

その口調が神様らしいと勘違いしているようだが、俺はその天界から目線の物言いにいささか腹が立った。

「お言葉ですが、友愛の神ミトーラ様はいち民草の生活なぞクソ忙しいご公務がございますゆえに? その御心をこちらに一寸も向けること叶わずご存じないかもしれませんが? 俺は毎日クソ驚くほど強制的に付き合わされておりるわ馬鹿め」

「なるほど語尾に怒りを爆発させる感じね」

 したり顔の神に噛みつくと、同情の交じった微笑みが返ってきて、余計に苛立ちが募る。なんだその面は。お前がセッティングしたんだろうが。

「痛覚はほんのひとつの要素にすぎないのよ。彼女がいま抱える痛みを理解してあげて、あなたに心を開いてもらう。そうすれば次第に、サラは他人のために自分ができることを探すようになる。そうね、よりよい信頼関係が築けたら、サラがあなたに体を貸すこともありうるかもしれないわ。サラが一歩勇者に近づき、あなたも早く自由になれるし。悪い話じゃないと思わない?」

「もう騙されんぞ」

 俺の脳裏にこのお目付け役となった経緯が蘇る。俺を騙してお目付け役に仕立て上げた張本人である神は、諦めたように両手を広げ肩をすくめる。どうしてこいつの一挙一動は、俺の神経を逆撫でするのだろうか。天から授かった才能か?

「私は神だもの、人理には直接手を下せない。すべては選ばれし勇者、サラ次第よ」

「……俺は刃物だ。人の心はいまいちわからん」

「そう? 何百年と生きた妖刀が、女の子ひとりどうにもならないわけないじゃない。それにあなた、私は面倒見がいいほうだと思うけど。そうね、自分の身の上話なんかからはじめてもいいんじゃない? ちゃんと相手の話を聞くことも大切になさいね。それと、言葉遣いも。私だからいいけど、サラは女の子で繊細な年ごろなんだから――」

 この空間が犬も食わないオカマの説教部屋へと変貌を遂げつつあるとき、うんざりしていた俺の体内を引き裂くような痛みが現れ、あっという間に占拠する。

「うぉぃ、いってええああああああああ」

「あら。サラがお呼びのようね。じゃあ行ってらっしゃい。応援してるわ」

 サラの姿をした神は急に聞き分けよく翻ると手を振って、それから指を鳴らした。

スポットライトが落とされ、虚空に響く俺の絶叫を聞く者は誰もいない。


「……ぃぃぃいいいてえよ!」

 目覚めた俺の隣に座りこんで何やらやっているサラが、突如聞こえた渾身のツッコミに驚き、びくりと背中を震わせた。座り込んだ膝の上には、手頃な大きさの石。いや、自傷のレベル! 原始的かつ重量級すぎるだろ! 夢も吹き飛ぶ痛みに納得だ。もっとも、俺は俺以外の抜刀を許していないから、身一つのサラはそうするしかなかったかもしれない。が、やるなよ。

「やるなよ! 痛いだろうが!」

 言いたいことはフタルモス火山群ほどあるが、咄嗟に等身大の思いのたけを伝える結果となってしまった。

「……全然反応がないから、いなくなっちゃったかもって」

「気絶してたんだ。お前が手荒に扱うから」

 泣き腫らした目を見開き、表情を崩さずサラは口元だけを動かしぽつりとこぼした。

「――また、ひとりぼっちになっちゃったのかと思った」

「俺は滅多なことじゃ死なない。残念だったな」

 月と星の姿が薄れ、東の空が明るくなってきた。太陽が顔を出す前に一段と冷えて結んだ夜露が草々に降り、俺とサラの膝を濡らす。

「ううん。ちょっと安心した」

気の早い鶏の鳴き声にかき消されうまく聞き取れなかったが、おそらくサラはそう言った。俺はどう返したらいいかわからず面倒だったので、聞こえないふりをした。

辺りが明るくなってやっと把握したが、ここは、村へ行く途中サラが劇的なショートカットを果たした崖と反対方向にある小高い丘だ。家々を離れ、耕された畑や牧草地が遮られることなく見晴らせる。釈然としない、実に釈然としないが、朝日が出るまで、そのほんの少しの時間だけ、クソオカマのアドバイスを実行に移してみることにした。

「俺はな、サラ。とにかく色んなものを斬りたくて、魔王軍に入り、最強として君臨する魔王の剣となった。しかし、当時の俺は、野望を目の前にして冷静さを欠き、ある致命的な点を見落としていた。なんだと思う?」

 聞く耳を持たないかと思っていたが、サラは意外と大人しく俺の話に耳を傾けている。

「……魔王の愛用するカッターの仕事ばっかりとか」

「メンヘラ大喜利じゃないんだぞ。クソつまらん」

 割と真面目に考えて出した解答があまりにも変化球すぎる。サラの謎のマイペースに悲しいかな慣れてきている己がいて、動じず続ける免疫ができてきた。

「……魔王は魔族最強、ゆえに戦闘の機会は非常に少なかった。軍の指揮をとることのほうが多く、あったとしても勇者との頂上決戦が500年に1度あるかどうか。これが俺の盲点だった」

 まさに盲点。斬るために入った組織で、努力して手に入れた役回りに就いて、肝心の目的を達成できないことを知ったのである。むしろ魔王は1人しかいないため、人間の勢力とのパワーバランスを考慮しつつ、幹部たちから上がってくる報告をもとに魔王軍の方向性を確認しながら内部分裂が起こらないよう飴と鞭の施策を打って心を砕いたりと、その謎に包まれた魔王の日常は衝撃的なほど事務的で、付随する俺のそれは退屈そのものだった。

 致命的なミスをした部下に制裁を加えるときも、消し炭にしてしまってはいけないと咄嗟に加減の効く自らの魔法を用いるため、俺の出る幕はまったくといっていいほどなかった。

『疾く去れ、勇者よ。さもなくば、我が剣の餌食にしてやろう――』

 魔王が密かに、来るべく決戦に備えて準備していたその台詞を聞くことは二度となかったが、まさに言葉の通りお願いしたいところだった。そして俺は来るはずだった勇者よりも先に、魔王軍を去った。

「……」

「どうした」

 サラはじとっとした眼でこちらに何かを訴えかけてくる。

「人のことクソとかバカとかいうくせに、案外」

「うるせえ。しかも安月給で、月に決まったショボい量の魔力しか配給されない」

「月給制なんだ」

「安月給でやりたいこともできず、若いやつらはどんどん辞めていって人材層の二極化が進むんだぞ。そんななかで、10年後の姿が描けないというか、今後のビジョンに不安があったというか」

「カフェでランチしてるOLみたいな悩みはどの世界にも存在するのね」

「なんだそれ」

「なんでも。異世界じょーく」

「とにかく、俺は自分の未来のために魔王軍を抜け、フリーになることにした」

 魔王に侍ることで良かったと感じることもある。魔王はじめ魔族が対峙する人間どもの生活様式、文化、暮らし、風土を魔族のなかにいながら学ぶことができた。

「おかげで俺は次々と人から人に憑依して、時代と地域を渡り歩きながら、正体不明の辻斬りを巻き起こす最高な日々を送っていたというわけ」

「ふうん」

「ま、クソ神に目をつけられていまはこの様だけどな。お前を早く一人前の勇者にして、とっととおさらばしたいところだ」

 身の上話に区切りがつき、サラへ会話のボールを投げようとして、気付く。俺の内部に小さな痛みが断続的に起きている。喋っているだけで見落としてしまうような、雨粒のような小さな痛みが、ひとつ、またひとつ。

「どう、私の痛み。どんな感じがする?」

 みればサラが子供のような顔で黒髪を一本、また一本と細い指先に巻き付け、いたずらに引き抜いていた。

「おいやめろ」

「教えてくれたらやめる」

「……どんなって。こう、ぐあーって覆いかぶさってくる感じとか、じんわりくるとか、どかんとくるのとか、ってことか? ひとまず痛いことはやめてくれ本当に」

「生きてるって感じしない?」

しねーよ。

どでかい台詞を苦心してぐっと飲みくだしていたら、沈黙を肯定と受け取ったのか、サラは口を開いた。抜いた髪の毛を手元で器用にいじりながら、まだ辺りは薄暗いというのに、その一本一本を結んでつなげていく。

「ササメケが気を失っている間、私、マリーさんの気持ちわかるかもって考えてたの。求められる役割を果たせないのは、居場所がないのと一緒だもん。そうなるくらいなら、ね」

 ――そうなるくらいなら、どうなるんだ。少なくとも寝ている無防備な少女を麺棒でぶち叩いていい理由にはならなそうだが。

先程までメンヘラは時代が生んだものだと思っていたが、前言を撤回する。正真正銘のメンヘラの口から、どの時代にも奇しくもメンヘラは存在することがいま、つまびらかになった。なってしまった。

しかし、のんきにメンヘラによるメンヘラ分析論を垂れ流しているだけかと思いきや、彼女の気配にピアノ線のような神経質な緊張が加わった。次の句を発する前のサラの顔つきが険しい。夕刻トマの家に招かれたときにみせた、「メンヘラの顔」だ。つないだ長い長い一本の髪を、冷たい形相で見つめ、先程の細やかな手つきと打って変わって、眉一つ動かさず力任せに真横に引っ張りはじめた。

「……でも、私にとってマリーさんはトマのお嫁さんでしかないの。トマに選ばれた以上は、なにがなんでも彼女に幸せになってもらわなきゃ困る。彼女の人生が幸せであってはじめて、トマの幸せな人生は完成するから」

「トマは、お前のこと昔死んだ妹みたいだって思ってるらしい」

「そうなんだ」

 ついさっき初めて会った人間の幸せを、こうも斜め上から祈ることができる人間がこの世にいるのか。

「私は聞き分けがいいから、求められない限りは奪わない。でも」

力を加えられた毛が耐え切れず真ん中からちぎれると、その半分、さらにその半分の要領でちぎり倒していく。

「トマが一番望むかたちで、トマに幸せになってほしい――」

 しまいには細切れになった毛の小さな山が手のひらに生まれた。気が済んだのか、手遊びが急に煩わしくなったのか、手のひらを傾け、それらを足元に捨てると、一気にこちらへ向き直る。笑っていた。瞳孔が開いて真っ黒だった。

「私にできることはあるかな? ササメケ」

 その瞬間、こちらを見遣るサラの頬に、溶けた金のような朝日が射し込む。

夜が明けた。

こんな勇者がいていいのかよ。神様。

「――ある」

 刹那、サラの足元、正確にはさきほど毛の束を捨てた辺り、そこ一帯に生えていた雑草が、驚異的な速度で伸びていく。まだ陽が昇ってすらいない真上に向かって、瞬きをするのも惜しいほど、踊るように草花が茂り、彼女の右足を緑で覆ってしまった。

「お前の体は神の加護を受けている。受けた加護を覚えているか。尽きない生命力だ。それは切り離された体の一部も、一定時間効力を持つ。つまり、切ったばかりの髪を撒けば今のように草が生い茂るし……」

「どうしたの?」

「いや」

「いま何かを言いかけたよね?」

「いや――うっぐ」

「言いかけたよね?」

「いだだだだだだだだだだだだ」

「言いかけたよね?」

 こちらから一寸も瞳を逸らさず、サラは真剣かつ冷酷に石を絶えず上下運動させ猛打している。これだから、これだからメンヘラは――! この長い剣生のなかで聞きはしても口にすることはまずないだろうと思っていた「言う、言うから、もうやめてくれぇ」が情けなく絞り出た。不覚。それを聞いて満足したのか、痛みは波のように引いていく。俺は諦めの溜息に乗せて、しぶしぶ彼女の能力の続きを明らかにした。

「お前の血肉は、人々を健康にし鋭気を満たす」

 なんのためらいもなくサラの表情が再び輝いた。

「じゃあ」

「ただし。普通の剣ではお前の驚異的な再生速度に阻まれる。それはお前が一番よくわかっているはずだ」

「まどろっこしいのは苦手なの」

「まて、わかった。たのむから、おろせ……――それができるのは、この世界でこの妖刀ササメケ、俺だけだ」

 神からそれを告げられたとき、絶対にサラに言わないと心に決めていた。なぜって、それこそ言わなくてもわかるだろう。

「あなた、私を切ることができるのね――?」

 メンヘラが自分を切ることができる刃物を手にしていると知ったらどうなるか。

しかしサラは俺の想像を遥かに超え、跳ねる獣の要領で俺の身に素早く飛びつき、膝を折り両手を突き出し、祈るように俺を両手で包んで空に抱き上げると全身を上から下まで汲まなく何度もうっとりと見つめ、俺の鞘にキスをした。

もう一度鉄の塊に戻されてしまいそうなほどに熱い視線と、愉悦と興奮でどろどろに溶けた歪んだ笑顔の後ろで、新しい朝が来る。

誰か助けてくれ。俺たちがかたちづくる影が示す通り、まさに首を絞められているような心持ちで、苦しいながらも言葉を続ける。落ち着け。こんな小娘、俺にかかればどうってことはないのだ。しかし、そこらへんの魔物も、こんな表情できねえよ――。怖すぎる――。

「当然、俺の痛みが伴うことだ。俺も魔族の端くれ、そのつど双方の同意、契約が必要だ。俺の出す条件に納得してもらわないことには、俺は使えない」

「契約……」

「それは俺が自分の意志でどうにかなるものじゃない。脅そうとしても無駄だ。まずはサラ。お前の望みを言ってみろ」

「――トマとその家族を元気にしてあげたい。ササメケは?」

「――お前から受ける理不尽な痛みを減らしたい。自分を傷つける理由なんて知る由もないが、お前の欠けたものは、痛み以外のものでも埋めることができるはずだ」

「私そんなもの知らない。それはなに? どうやるの?」

「俺だって知らん。だが、探すのを手伝ってやれる」

「……ふうん」

「どうする」

 先程まで人を痛めつけていた悪魔が、何もわからない小鳥のごとく目を丸くし、小首をかしげる。そして紅茶に角砂糖を入れるかと問われたときのように、こっくりと頷いた。

「いいよ」

「契約成立だな……」

 なにをするかわかったもんじゃない怪物を前に、俺は安堵を隠しながら暗然たる溜息を静かに吐いた。

「まったく、メンヘラのことはわからねえ」

「今のササメケにもわかることがあるじゃない」

「なんだよ」

 サラは華奢な手のひらを平たくすぼめると、己の首の脇に置いて、いたずらっぽく赤い舌を出した。

「ササメケが斬ってきた人たちの痛み」

 突如背後から後頭部を殴られたような衝撃と驚きだった。

急に他人から押し付けられた生まれて初めての痛覚という感覚を、ただ煩わしく苛立つばかりで、根幹的なことを理解していなかった。そうか、俺が人を斬るとき、人は痛むのか。

「ね。生きてるって感じがするでしょ」

完全に彼女は冗談を言っているつもりだ。

 しねーよ。怖えよ。

別の意味で生きた心地がしなかった。


 丘の向こうでは朝の農作業をするためか村人の姿が増えてきた。男だけでない。女も子どもも村総出で畑に出て、せわしなく働いている。いまなら家に戻れるだろう。

「これ、昨日お粥に入ってた草と同じだ」

「はやくいくぞ。人が出払っているうちに出ないとまた面倒なことになる。気は進まねえが、終わらせるなら早いに越したことはない。さっさとやるぞ」


「うぐぐぐぐちょっとまてちょっとだけまってくれえええ」

「ちょっと、震えないでよ手元が狂うから」

「むちゃなクソガキだぜぐぐぐぐぐぐぎぎぎ」

 忍び込んだトマ宅の台所で、必死で痛みに耐えながら、切り出しを終える。この数分間は悠久の時に閉じ込められたも同然、生きた心地がしなかった。

 かまどには、帰ってきてすぐ食事をとれるように、火は落としてあるが、具なしのお粥がほぼ出来上がった状態で作りおきされている。まだ温かく、余熱で十分に火が通りそうだ。

「たいへーん。包丁が見当たらないわあ」

「だからって俺を包丁代わりにするな……日本刀だぞ……」

「ここに入れちゃえばいっか」

 料理はほとんどしたことがないというサラは適当に例のぶつを鍋にぶち込み蓋をすると、ポケットから先程茂らせた野草を取り出す。

慣れない手つきで長い剣身の根本で刻む。春を凝縮したような瑞々しい青い匂いをゼロ距離で吸い込みながら、痛みが引いてきたことで生まれた思考の隙間で、余計なことを考えてしまう。

せっせと下ごしらえをするこの少女が、もうここに戻ってくることは叶わない。

ひとたびこれを家族が口にすれば、ここはサラの居場所ではなくなってしまうのだと。

「サラ。奇跡を施した場所には二度と戻ってこれない」

「そうだよね。私も、家畜にはなりたくない」

 少女のかたちをした奇跡は、その土地の営みを根こそぎひっくり返してしまうほどの力と価値を秘めている。この村に限っていえば、飢えた人々が、サラの能力を知ったらどうなるのか、それくらいの想像力はあるようだ。あっけらかんとした表情と、子どものように指先を青く染めている姿がなんともちぐはぐだ。

 幸せを願うほどの人間をサラが救おうとするとき、彼女は居場所を去ることを余儀なくされるとは、哀しい勇者だ。

「お前のことを守ってくれる仲間たちができれば、話は別かもしれないが。またいつか帰ってこられたらいいな」

「ま、いまはササメケで我慢するよ」

「減らず口はいいから早くしろ。戻ってくるぞ」

 邪魔も入らずすべての工程をつつがなく終え、俺はそこら辺の藁で刃の汚れを拭って鞘に戻される。俺は周辺の気配をうかがいながら退散を促すが、サラは家のなかからくず紙と羽ペンを探し出し、食卓のうえでなにやら絵のようなものを描きはじめた。

「まって、手紙だけ。ね、サラって、どうやって書くの?」

 こいつの名前が短くてよかった。手短に形を教えてやる。なんとか読めなくはない不格好な署名が踊る置手紙を残し、俺たちは村を後にした。



 サラは風薫る丘の大地にまっすぐ立ち、腰にぶら下げた俺の鞘に左手をかけた。

「なにを描いてたんだ」

「皆と夕飯を食べた絵。ごちそうさまでしたってこと」

「そうか」

風が背中を吹き抜け、踊る毛先が頬をくすぐる。とても心が静かだ。サラは右手で柄を握り、細く息を吐いて、瞳を閉じた。

「すこし借りるぞ」

抜刀。すでに朝日でなくなりかけている陽を、現れた黒鉄が反射し、切っ先から続くさざ波のような刃紋がきらめきを奔らせる。この間、一瞬。サラの体は特別動かしやすいわけではないが、驚くほど素直に言うことを聞いた。久しぶりのこの感覚。最高だ。

 構えた刀の切っ先からサラの頭の先までの感覚がつながれ、すべてが洗練されてひとつとなる。風を読み、右足を踏み出す。一閃。

 解き放たれた漆黒の毛束たちは、またひと束と主を離れそのまま風に乗り、丘向こうに広がる畑が続く大地へと散っていった。

宙で大きく手首を返して刃を払い、鞘に収め、刀に意識を戻す。胸の下まであったサラの髪は、リクエスト通り肩にかかるくらいの長さにした。両頬の横の部分には段をつけ、真横に切ってある。前髪も眉下で同じく真横に。異世界では「姫カット」というらしい。

「これでいいか」

「うん。やっぱり精算の仕方はこうでなくちゃね」

「なんだ?」

「なんでも。異世界じょーく」


 短くなった髪の毛を度々手指に絡め、新しい髪型を確かめながら、サラはご機嫌な様子で歩みを進めている。

丘を越えてすぐ、太い川が姿を現した。

「川だ」

「さあ、この川沿いを下って、すぐの大きな橋を渡れば首都カーロルへ続く街道が――」 

「わかった。川沿いに行けばいいのね」

「……あん?」

 瞬間、引き寄せられる猛烈な勢いとともに、俺は宙に浮いていた。

「いえい」

隣でサラは丘から川に続く坂を軽やかに駆け跳ぶと、両手を高く合わせ、入水の体制をとった。あ。そういうこと?

理解が及んだ瞬間、冷たい水で頬をうち、俺たちは川の中にいた。水中でサラと目が合う。「流されていったほうが早いよ」と、親指を立てて憎たらしいほどに、にっこりと笑った。言葉にならない言葉を発することも許されず、俺は心のなかで心の限り絶叫した。

 これだから、クソメンヘラは――。


 後日、カスメーでは、特定の地域で作物の成長が異様なほどに良く豊作となった。その時期に村を訪れた出身不明の少女を泊めた、とある家には奇妙な絵画がもたらされ、のちにその絵画に予言されるように五つ子が誕生する。のちの「濡れ羽烏の聖女の奇跡」のもととなる噂が徐々に広まり始めることとなる。そしてその奇跡の翌日、カーロルへ続く街道付近の橋げたに、黒髪黒服の少女と面妖なかたちの刀がひっかかっているのが発見された。

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