2
暮は部屋の中を覗き込んだ。切り刻まれた異形の中、動くものの気配はない。安全を確認し、暮は茅野に向き直った。
「何があるか分かんないから。俺らまではぐれたら困るし、一応ついてきて」
茅野は頷き、暮に続いて部屋に入った。腐臭が二人の鼻を突く。茅野は顔を顰めた。
「これ……別の異形が、やったんですか」
「……いや。異形の同士討ちとか、聞いたことない。それに」
暮は床一面に広がる異形の残骸のひとつを爪先で突く。転がった肉片は、断面を表にして動きを止めた。断面は、美しかった。
「これだけ綺麗に真っ二つとか、あいつらにはできないよ。引っ掻いたり、食いちぎったりしか、できない……はずだ」
暮の言葉を聞いた茅野の脳裏に、ある可能性が浮かぶ。
「俺達の他に、誰か、いる……?」
暮はゆっくりと、首を縦に振った。
「充分考えられる。武器なのか能力によるものだか……それは分からないけど。巣に入ってくることができて、これだけの異形を
茅野は、知らず握り締めた拳に汗が滲むのを感じた。調停に所属する以外の能力者を、茅野は未だ知らない。鵜ノ沢が話した他の結社の説明を、混乱した頭で必死に思い出す。
「誰、が……」
「これだけじゃ、まだ。俺らと同じで異形退治に来たやつならいいけど、最悪……」
暮は言葉を詰まらせる。深く息を吐き、続けた。
「
茅野は体を強張らせた。想定した、最悪の事態を突きつけられる。茅野が真っ先に思い浮かべたのは、仲間以外を全て殺す目的を持つという結社──暴力。
「……襲われたら」
暮は眉間に皺を寄せた。
「戦うしかない、かな」
茅野は異形の死骸に目を落とした。鋭利な刃物で両断されたような、平らな断面だった。暮は緊張の抜け切らない歪な笑顔を浮かべて、茅野に顔を向ける。
「美鶴は俺が守るよ。それに、美鶴の能力のことは、社長から軽く聞いてる。自分は守れる、よね」
茅野は、動けずにいた。美鶴は守る──巣に入る前、ビルの前でなされた鵜ノ沢と暮との会話が過ぎる。茅野は思考する。暮は茅野を守り、戦うのだろう。茅野は、自衛の手段を持っている。だとしたら、暮のことは、誰が。
居た堪れなくなり俯いた茅野に、暮は先のものと異なる穏やかな笑みを見せた。
「悪い想像ばっかりしてもいられないよね。とにかく、夏生を探そう。もしかしたら、その能力者だって話の通じるやつかもしれないし。ね?」
「……はい」
茅野は暮と視線を合わせた。暮が口を開こうとした、瞬間。
「ッ、美鶴!」
地響きと共に、遠く、微かに聞こえた爆発音。それらと同時に暮に強く引き寄せられ、自身のものより少し低い肩に、勢いのまま茅野の顔が埋められた。暮は茅野の頭に手を添え、廊下に繋がる扉を睨む。やがて、耳が痛くなる程の静寂が部屋を満たした。暮は軽く息を吐き、茅野を解放した。
「他にいるかもしれない能力者が、一人で来てるとは限らない。……行こう」
茅野は静かに頷いた。爆発音は鵜ノ沢のいる場所から聞こえたものかもしれないという可能性を、茅野も暮も、口に出すことができずにいた。
暮と茅野は部屋を出て、元の廊下を進む。同じ景色が続く中、床には点々と、輪切りにされた異形が転がっていた。
「……違う」
暮は異形の死骸に歩み寄り、屈み込んだ。異形は、裂かれているのは部屋にあったものと同じだが、暮の目の前にある死骸は完全に切断されてはいない。腹をY字状に切り開かれており、体内には人の手が入った形跡が残っている。内臓にあたるらしい部位が取り出され、総量からしてそのいくつかは持ち去られているようだ。
「とんだ悪趣味もいたもんだよ……」
暮は苦々しげに言って立ち上がる。再度歩き始めた暮に、茅野が続く。
「……もし」
茅野は足を止めず問う。
「他に誰かがいるとして。考えられるのは」
茅野の疑問を察し、暮もまた歩を止めずに答えた。
「夏生や社長から、他の結社のこと聞いてる?」
「警察、黒衣と……無力化したっていう、断罪。あと、……暴力、は聞いてます」
「そっか」
暮は周囲を警戒する。転がる死骸は、進むにつれて少しずつ増えていた。
「警察と黒衣は無いと思っていい。本当言うと異形退治とかパトロールとか警察にやって欲しいんだけど、人手が足りないんだってさ。黒衣は……さすがに襲われたら抵抗するんだろうけど、自分達から異形を倒しに行くことは無いんじゃないかな」
二人の視界に動く異形はいない。死骸を避けて歩く。
「断罪も無いかな。あいつらは非能力者を襲うやつらだし、何より弱ってるし。巣には来ないでしょ。あり得そうなのは……暴力、かな」
暮は表情を歪ませた。茅野には、暴力に所属する能力者も、他の結社の人間も、調停の人間ですら力が計り知れずにいる。暮の持つ能力も、茅野は未だ知らない。研修時、鵜ノ沢が見せた反転のみが、茅野の持つ情報だった。
歩き続けた二人は最奥に辿り着く。突き当たりに扉や壁は無く、古びた螺旋階段のみが階上へと伸びていた。茅野を待たせ、暮は階段の一段目に足を掛ける。体重を乗せると、見た目に反してしっかりとした感触があった。
「大丈夫。上れそう」
「行きましょう」
鵜ノ沢は落下したが、先へ進む道はこの階段しか残されていない。二人は薄暗い中、蠢く手摺りには触れず、足元を警戒しながら一段一段を踏んだ。
螺旋階段を上り切った先は、広々とした正方形の部屋だった。壁や床、天井に至るまで白い空間に、所々暗い赤がこびりついている。足を踏み出しかけた茅野を、暮が制した。
「……誰」
その一言で茅野は視線を上げた。暮の肩越しに、部屋の中央に立つ人影が見える。部屋と同じ真白い上着は膝丈ほどに長く、前が開かれた上着の隙間から真紅のシャツが覗いていた。その人物は、肩につかない程度の紫がかった黒髪を揺らして暮と茅野を振り向くと、深く息を吐いた。
「なんだお前ら」
「こっちの台詞。あんた誰」
冷たい声色に臆することなく、暮は言葉を返す。その声音から、茅野は相手が女だと察した。茅野は頭を少し傾けて、相手の全容を見た。大きなスリットが入った短いタイトスカートから、黒いストッキングを纏った脚が伸びている。踵の細いハイヒールを目にした茅野には、異形の巣に飛び込むには不釣り合いな服装に思えた。女の足元には動く気配のない異形と、ナイフや鋏、工具らしきものが並べられていた。
女は懐に手を入れる。暮が警戒し構えた。女の手にあったのは、小さな箱だった。更にその中から細い筒を一本手に取り、口に咥える。同時に取り出したライターで火を付け、深く吸い込んだ。
「邪魔が入ったか」
言うと、女は煙草を咥えたまま屈み、器具を拭いていく。その全てを白衣の下に仕舞い終えると、女は再び暮に視線を投げた。
「お前は? どこ?」
「は、」
「どこ所属かって聞いてんだよ。暴力なら」
ちり、と暮の毛先が散った。見開かれた暮の目に、鋭いものが迫る。
「
投げられたナイフを、暮は茅野ごと横に倒れ込み避ける。床に叩きつけられ呻く茅野に、暮は小声で怪我が無いか問う。茅野は小さく頷いた。
「ちょっと、いきなり酷くない!? 暴力じゃないよ! 話くらいさせて欲しいんだけど!?」
暮が叫ぶと、女は腕を組んだ。
「ふむ。お前らみたいな間抜けが殺し屋やってるとは思えないしな」
「……言うじゃん」
「事実だろ」
女は煙草の灰を落とし、再び咥えて吸い込む。吐き出された紫煙は、部屋の白に紛れて掻き消えた。
「何の目的で来た?」
暮は諦めたように溜息を吐き、口を開く。
「……俺らは調停。巣ができてるって聞いて壊しに来た。あんたは」
「趣味。ついでに巣の調査」
女は淡々と告げた。
「随分な趣味だね。輪切りになってたのもあんたがやったやつ?」
「ああ」
暮は女を睨んだ。目を逸らさずに、茅野にのみ聞こえるように言う。
「……たぶんあの人、切断とかの能力持ちだ。戦闘になったら厄介。もしそうなったら……美鶴は自分を守ることだけ考えて」
「何ごにょごにょ話してんだ。聞かれて困るような話か?」
「ちょっとした世間話だよ」
茅野が動くより先に掛けられた言葉に、暮は眉根を寄せたまま唇を歪ませた。
「俺らのことは話したよ。あんたは何者?」
女は短くなった煙草を投げ捨て、爪先で擦り潰した。
「機関所属の
「……そう。俺は暮、こっちは茅野」
女──鷹野は、未だ床に座り込む暮と茅野を交互に見た。鷹野の目がゆっくりと閉じ、そして開かれる。
「お前ら、ここに来るまでに誰か見たか?」
突如投げ掛けられた問いに、暮は一拍置いて首を振る。そうかと呟く鷹野をじっと見つめ、暮は立ち上がった。茅野もそれに倣い、暮の隣に立つ。
「こっちからも同じ質問していいかな」
「見ていないな」
「そう」
茅野の脳に、不自然な思考が割り込む。今のところこの女に敵意は無い、どうやらこの女も連れとはぐれているらしい、機関ならばひとまずは安全だ、と。戸惑う茅野が思わず暮に顔を向けると、暮は小さく驚き、そして困ったように笑った。
「……後で説明するよ」
囁かれた言葉の意味を飲み込めないまま、茅野は鷹野へと視線を戻した。
「俺らは統率個体を探して倒さなきゃならない。先行かせて貰っても?」
暮は鷹野の背後にある扉を指差した。
「止める理由はねえ。好きにしろ」
「どうも」
軽く頭を下げ、にこやかに通り過ぎる暮を、茅野が追う。鷹野の視線を感じながら、茅野は白い部屋を出た。
扉の先は青緑色の淡い光に照らされた、展示室のような部屋だった。両側にガラス張りのケースが置かれており、その中にはⅠ型の異形が一匹ずつ格納されている。怪訝な顔をする茅野の隣で、暮は俯き肩を震わせた。
「……なんで、ついてくるんですかね」
茅野が振り返ると、間隔を開けて鷹野が立っていた。鷹野は不思議そうに首を傾げた。
「なんでって、あの部屋通ってきたならあたしが同じ方向から来たって分かるだろうが。少しは考えてものを言え」
「ぐ」
「頭は使わねえとただの荷物だぞ」
「うぐ」
「それに、脳ってのは若いうちに使っとかないとボケるのも早」
「あーもー! 俺が悪うございました!」
暮は鷹野の話を遮り、自棄になって叫んだ。肩で息をする暮に溜息を吐き、茅野は部屋を見回した。
異形が展示されたガラスケースの前には、プレートが固定された台が置かれている。近づくと、プレートには『14H12JP1L113』と記載されている。後ろから覗き込んだ暮に視線で尋ねると、首を振って心当たりが無いことを示した。
「やっぱり、異形の研究自体はだいぶ昔からされてたんだな」
プレートとガラスケースを見比べ、隣り合うプレートの文字を読みながら、鷹野が納得したように呟いた。
「どういうこと?」
「この成り損ない共は、百年前には原型ができてたってことだ」
鷹野の言葉が理解できず、茅野と暮は顔を見合わせた。鷹野はこれ以上自分達に情報を与える気はない。茅野はまたも不自然に思考した。二度目の違和感に、茅野はこめかみを指で軽く押した。
部屋は奥に向かって長く伸びており、三人はケースの間を歩く。進むにつれて、ケースの中に入れられた異形は大きいものになっていった。茅野は他のケースを見るが、大きさの異なるⅠ型がいるのみで、Ⅱ型やⅢ型の姿は見当たらない。
「異形が異形を閉じ込めてる……?」
暮の呟きに、鷹野が首を振った。
「これは再現だ。巣が異境化した時点で、こいつらはこの中に居た」
「再現?」
「何も知らないんだな」
哀れむような視線を投げる鷹野を、暮は歯を軋ませて睨みつけた。
「すいませんねえ何も知らなくて」
「戦ってる相手のことくらい少しは調べたらどうなんだ」
「ぐうう」
睨み合う鷹野と暮を置いて、茅野は部屋の先を眺める。続いているガラスケースのうち、最奥の一つに違和感を覚えた。
「……暮さん」
「何、美鶴……」
茅野の視線の先を辿った暮が、言葉を失った。人よりも大きいⅠ型が入ったガラスケースの向かい側、同じ大きさの異形が入っていたのだろうその場所は、ガラスが砕け散り、中は空になっていた。ぬめりのある液体が、奥に位置する扉へと細く続いている。
「一番でかいのが、出てった……ってことなのかな」
暮の言葉を否定する者はいなかった。扉に耳を当てるが、物音は無い。暮は茅野と鷹野の顔を順に見た。二人は小さく頷く。暮は、そっと扉を開けた。
扉の先は、研究室を思わせる部屋に繋がっていた。それなりに広さはあるのだろうが、雑多に置かれた棚や器具が息詰まる狭苦しさを感じさせる。今時珍しい蛍光灯が、じりじりと音を立て点滅していた。床には異形の残骸らしい肉塊が散乱している。
「…………」
「嘘、でしょ」
どす黒い赤に塗れたタイル張りの床に、同じ赤に濡れた二人の人間が倒れていた。一人は、茶色の長い髪を一つに結った、鷹野と同じ白衣を着た男。もう一人は。
「……鵜ノ沢、さん」
脱ぎ捨てられた赤いジャケットの上に横たわる、鵜ノ沢だった。
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