第二章 巣窟
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暎和出版オフィスビルの一室で、茅野は四度目の朝を迎えた。時計は7時を指している。起き上がり、朝支度ついでに洗濯機を回してから机に向かう。茅野は机に備え付けられた小さな本棚から、一冊の本を取り出した。数学IIと書かれたその本には、方程式やグラフの隣に簡潔に書かれた説明文が載っていた。茅野はタブレットのメモを起動し、要点をまとめて書き留めていく。通信制高校の編入学はまだ先だが、入学に先んじて教科書だけでも手元にあった方がいいだろうと、東堂が取り寄せたものだった。紙を捲る音とペンが画面を叩く音が響く。しばらくして、洗面所の扉越しに電子音が鳴った。茅野は立ち上がり、乾いたシャツを洗濯機から取り出してハンガーに掛けていく。残っていたタオルを畳み終え、時計を見ると8時を過ぎていた。茅野は教科書を閉じ、部屋を出た。
オフィスには東堂、三門、鵜ノ沢が揃っていた。朝の挨拶と共に運ばれたパンとクリームスープを頬張っていると、東堂が口を開いた。
「今日はね、美鶴くんと夏生くん、それから千弘くんにお仕事があるんだ」
暮の名を聞き顰め面をする鵜ノ沢には目もくれず、東堂は続ける。その表情は真剣だった。
「異形が巣を作ってた。第三区画だよ。三人にはそれを破壊してもらう」
「はぁ!? 巣!?」
鵜ノ沢が机を叩き立ち上がる。
「そう。放っておいたらまずいからね。千弘くんには先に行ってもらってる。現地で合流してね」
話についていけずにいる茅野が黙って見ていると、力尽きたように椅子に体重を預けた鵜ノ沢が補足した。
「……異形は普通単体行動をするもんなんだ。ただ、たまに統率をとった行動するやつらが出てくる。そいつらの住処を巣って呼ぶんだ」
「巣を放置すれば
「その巣の統率個体は?」
「Ⅳ型だよ」
茅野と鵜ノ沢に緊張が走った。研修時に茅野が見たⅢ型や、この二日で繰り返された巡回で戦ったⅠ型、Ⅱ型よりも大きい異形。茅野はその姿形の想像ができないでいた。
「でも社長、何も茅野まで行かす必要は」
東堂は静かに首を振った。
「紅くんには他に大事な仕事がある。僕も他の仕事で行かなきゃならない。戦力は多いほうがいいよ」
鵜ノ沢は舌打ちを一つ落とした。一瞬の後、はっとしたように顔を上げる。
「あいつ、先行してんだよな……長いこと一人にしといたらまずい。行くぞ茅野」
焦った様子で出発の用意をする鵜ノ沢に続いて、茅野もまた慌ててカーディガンを羽織った。オフィスを出ようとする二人を、東堂と三門が見送る。
「茅野さん。鵜ノ沢さん。無茶はしないでください。無事に帰ってきてくださいね」
「うん。美鶴くん、夏生くんも千弘くんも、三人揃って帰ってくること。社長命令だからね。……気をつけて」
茅野は二人に頷き、茅野を呼ぶ鵜ノ沢の元へと駆けた。
第三区画は茅野の研修で訪れた第五区画と似てはいたが、廃墟となったビル群は崩壊があまり見られず、地面にも瓦礫は少なく歩くのに不都合は無かった。周囲を警戒しつつ慎重に奥へと進む鵜ノ沢と茅野は、一つのビルの陰に身を屈めた人影を発見した。音無く駆け寄り、二人もまた同じように屈み込む。
「状況は」
「あれ、あの向かいのビル。あそこに巣食ってるっぽいね。Ⅳ型が一、Ⅲ型が六……確認できた限りだけど。ⅠとⅡは数えきれなかった」
「そうか」
暮の報告に眉を顰めた鵜ノ沢が、茅野へと顔を向ける。
「茅野、お前が相手するのは小物だけでいい。相手できるやつだけ潰しとけ。Ⅲ型よりでかいのは俺らでやる」
暮が鵜ノ沢の言葉に続く。
「Ⅳ型相手しながら美鶴を守りきれる保証は、正直ない。俺と夏生、二人がかりならいけるかもだけど、その間は放ったらかしになっちゃうから。それに、Ⅳ型以外だってこれだけ数が多ければ充分脅威だ」
茅野は異形の巣になっているというビルを睨んだ。割れた窓から中の様子が見られないかと目を凝らすも、動く気配のひとつも感じられない。それどころか、第三区画に到着してから暮の元に辿り着くまでにも、茅野は異形の姿を見ていない。こういった荒れた場所には小型がうろついていてもおかしくない、異形と出遭わないほうがおかしいと、茅野は改めて強く警戒した。
「さて……問題はどうやって潰すかだけど」
呟いた暮に、鵜ノ沢がビルから目を逸らさず問う。
「お前の能力でなんか分かんねえの」
暮はわざとらしく、大きな溜息を吐いた。
「はぁーあ……夏生ってば本当考え無しにものを言うよねえ。俺のは人間にしか使えないよ、社長と試したもん」
「……試したっつってもⅡ型止まりだろ。Ⅳ型なら使えるかもしれねえだろうが」
鵜ノ沢の声に苛立ちが混じる。茅野は、嫌な予感がした。
「夏生ってバカぁ? 使えたとしてそれでもし俺が向こうに感化されでもしたらどうすんの、それとも夏生はこれ以上敵を増やしたいわけ?」
鵜ノ沢に釣られてか、暮もまた苛立ちを隠さずにいた。
「うるせえな、そうなったらお前の自制心が足りなかったっつーことだろ」
「救いようのないバカだよね本当、少しは頭使ったら? カラスのほうが賢いよ、っていうか未だに精神作用への応用すらできない脳筋夏生に言われたくないし」
「はっ、ハナっから精神にしか使えねえ能力持ちなくせに何言ってんだか、戦闘じゃ役に立てねえのによ」
二人の声量が上がる。茅野は今になって、東堂の人選に文句を言いたくなった。
「上等、そしたら今すぐ試してあげるよ俺が異形の味方になったら真っ先に潰してあげるからね夏生ぃ?」
「こっちこそ上等だっての、そうなったら遠慮なくお前をブチのめせるからなあ!?」
茅野は謎の頭痛を覚え、項垂れた。意図せず落ちた視界の端、Ⅱ型が物陰からこちらの様子を窺うように身を潜めているのに気付いた。もはや警戒とは程遠い音量で言い争いをする二人を、茅野は手を挙げて制した。
「鵜ノ沢さん、暮さん」
「何!?」「何だよ!」
同時に放たれた怒声、しかし茅野のほうへ振り向いた鵜ノ沢と暮もまたⅡ型の存在に気付く。二人は、這いずり逃げようとする異形を冷たく見下ろし、またも同時に、片足を上げた。
「邪魔すんな!」「邪魔しないで!」
異形は二本の足で呆気なく踏み潰され、ぐちゃりと音を立て動かなくなった。茅野は肉塊となった異形に対し、場違いな哀れみを抱いた。
異形という第三者の出現で少し落ち着いたらしい鵜ノ沢と暮は、間を置いて、顔を見合わせた。
「……これ、偵察かも」
「……
暫しの沈黙。やがて、暮がひとつ咳払いをした。
「……仕方ない。たぶん今ので俺達がいることはバレたし、正面突破するよ二人とも」
鵜ノ沢は眉根を寄せ、頭を掻いた。
「ああ。とりあえずの目標はⅣ型の撃破と、可能な限り他のやつも潰してく。……でいいか」
「そうだね……」
茅野は黙って頷いた。巣への正面突破より、数多くの異形より、鵜ノ沢と暮に対して大きな不安を感じていた。
異形の巣となっているビルに扉は無く、門のように開かれていた。しかし中は日のある時間帯にも関わらず暗く、入口より先は見通すことができない。鵜ノ沢が足元の小石を拾い上げ、ビル内へ投げ入れる。石は、静かに消えた。中を覗き込もうとした茅野を制し、暮は首を振った。
「中、どうなってるか分かんないかも。下手に突っ込むと危ない」
「……異境になってるかもな」
耳慣れない単語に茅野が首を傾げると、暮は内部を睨んだまま口を開いた。
「要は、異形の居心地が良いように改造されちゃった空間ってこと。ビルの見た目は当てにならないと思ったほうがいい。異空間、ってやつだよ」
「でも結局、入ってみないと分からねえだろ」
「だから美鶴に先行かすのは止めたんだけど?」
暮と鵜ノ沢が睨み合う。茅野は刺のある言い方をする暮と、怒りを露わにする鵜ノ沢を交互に見つめた。茅野の視線に気付いた二人は気不味そうな顔をして、再びビル内部へと視線を戻した。
「……俺が行く。なんかあったら任せたぞ」
「分かった。美鶴は守るよ」
一歩を踏み出そうとする鵜ノ沢を、茅野は呼び止めた。
「鵜ノ沢さん、その……気をつけて、ください」
茅野の小さな言葉に、鵜ノ沢は笑顔で返した。
「ありがとな、茅野。ちょっと様子見て大丈夫そうならすぐ戻」
鵜ノ沢が、消えた。
「ちょ、ちょっと夏生!? 夏生!」
「鵜ノ沢さん!」
茅野と暮の呼び掛けに応えたのは、足元よりも下、地下にあたる位置からの呻き声だった。
「夏生ー! 大丈夫ー!?」
「痛ってぇ……あ、ああ! こっちは大丈夫だ!」
内部の様子は外からは窺えない。しかし茅野には、地下室が存在するようなビルには見えなかった。暮は深く息を吐いた。
「こうなると夏生一人にしとくほうが危ないな。……行くよ美鶴。いい?」
向けられた視線を真っ直ぐに返し、茅野は頷いた。暮は、念のためと茅野に自身のコートの裾を掴ませた。鵜ノ沢の声は、もう聞こえない。茅野は意を決して、暮と同時に足を踏み出した。
外から見た暗さが嘘のように、茅野には周囲がはっきりと見えた。廊下らしい細長い部屋は、天井の高さは一般的な建物と変わらないが、その一面が脈打つ肉に覆われている。退紅色のそれに沿うように、壁には血管にも見える歪なパイプが大小数え切れないほど這っていた。茅野が床に目を落とすと、継ぎ目のない錆びたチェッカープレートが続いていた。茅野が怪訝な顔をする隣で、暮は辺りを見渡した。
「……夏生? どこ?」
返事は無い。暮は薄く目を伏せ、しかしすぐに真剣な表情を取り戻した。
「美鶴、ごめん。計画変更。先に夏生と合流するよ。こっちは二人いるしまだなんとかなるけど、もし夏生が一人でⅣ型と遭っちゃったらやばいから」
「……はい。鵜ノ沢さんを、探しましょう」
茅野は暮に首肯を返して、掴んだままだった暮のコートの裾を放した。部屋を見回しながら、暮の慎重な歩みに続く。先が見えないほど長い一本道をしばらく進んでいると、右側に鉄製の扉が現れた。暮は茅野を背後に、薄く扉を開けて中を覗き込む。
「…………何、これ」
驚いた表情で固まる暮にどうすべきか迷い、茅野は暮の言葉を待った。暮はゆっくりと、大きく扉を開く。
「何もいない。いない、んだけど」
扉が完全に開かれ、茅野にもその部屋の中が見通せた。廊下と同じ外観の部屋は八畳ほどで、物は置かれていない。しかし、床を埋め尽くすそれらに、茅野は言葉を失った。
数え切れないほどの小型の異形が、輪切りになって、散らばっていた。
「来ねえな……」
もしくは、入っては来たが別の場所に飛ばされたか。鵜ノ沢は経過時間を考え、茅野と暮は同じビル内にいると結論付けた。二人がはぐれていないことを祈り、鵜ノ沢は辺りを見渡した。
落下した鵜ノ沢は尻から着地したものの、柔らかいものを下敷きにしたらしく怪我は無かった。壁や天井の代わりとばかりに周囲を囲む肉壁に、鵜ノ沢は床もまた肉でできたものなのだろうと推測する。人肌ほどにあたたかい床に気味の悪さを感じ、立ち上がるため体勢を立て直そうと手をついた、瞬間。
「うぐぅ」
床が呻き、鵜ノ沢は飛び跳ねるように距離を取った。警戒し、構えたところで鵜ノ沢は気付く。今、自分が立っている地面は硬い。鵜ノ沢が先程まで座り込んでいた場所に恐る恐る目を遣ると、白い衣服に身を包んだ、人間が倒れ伏していた。
「え!? あ、お、お前、大丈夫か!? なんでこんなところに!?」
鵜ノ沢は慌てて駆け寄り、倒れている人物の肩を揺すった。明るい茶色の長い髪が頭の高い位置で一つに括られているが、体格と声からして男だろうと鵜ノ沢は判断した。
「うう、ん……」
「おい、しっかりしろって」
「んん……?」
男は揺すられた勢いに任せてごろんと転がり、眠たげに目を擦ろうとして、ずれた眼鏡に指を擦り付けた。やがてはっきりと目を開けた男と鵜ノ沢は、無言のまま見つめ合っていたが、一拍置いて男が飛び起きた。男の額が、鵜ノ沢の顔面に直撃する。
「ぶっ!?」
「あだっ!」
二人は声にならない悲鳴をあげ、頭を押さえた。涙目になりながら、震えつつも男へ視線を戻そうとすると、勢いよく両肩を掴まれた。
「ちょっ」
「たっ、大変なんだ!」
鵜ノ沢の両肩を力強く揺さぶる男の、髪色と同じ茶色の瞳が、不安げに揺れていた。
「鷹野くんとはぐれちゃったんだ!」
その一言を聞き、自身の置かれた状況がひとつも掴めないまま、鵜ノ沢は男に対して妙な親近感を覚えつつあった。
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