イケニエは延期です?
夜。
ミリーが教えてくれた通り、真っ赤な月が沈むと、あたりは一気に暗闇に包まれた。
窓から見える夜空には無数の星が瞬いているが、月がないため、かなり暗い。
沙良は今、ミリーが用意してくれた薄ピンクのネグリジェを着ていた。
くるぶしまであるそれは、裾にかけてふんわりと広がっていてとても可愛い。
窓の外から星を見ていた沙良は、ドクドク音を立てる心臓の上をそっとおさえた。
―――いいですか、シヴァ様が食べに来たら……
昼間のミリーの言葉がぐるぐると頭の中で回っている。
ミリーは、おそらく今夜シヴァが来るだろうと言っていた。
そして、沙良は生贄として「食べられ」て、十七年の生涯に幕を閉じるのだ。
怖くないと言えば嘘になる。
でも、不思議と逃げ出そうとは思わなかった。
おそらくそれは、今日まで、生きていても死んでいても変わらないような人生を歩んできたからかもしれない。
いや―――
そもそも、沙良のこれまでの十七年は、果たして人生と呼べたのだろうか。
それほど希薄で、中身のない十七年だった。
思い出と呼べるものは何もなく、きっと今日の一日が、この十七年の中で一番中身が濃くて充実した一日だっただろう。
だから、心のどこかで、もういいかなと思っている自分もいた。
生贄にされるのは怖いけれど。
できれば痛くしないでほしいけれど。
でも、死ぬのはちょっとだけしか怖くない。
沙良はカーテンを閉めて、ベッドの淵に腰掛けた。
サイドテーブルには、「おやすみなさい」と言って去る前に、ミリーが煎れてくれたハーブティーがある。
大好きな香りが広がる薔薇のハーブティーに蜂蜜を少しだけ落として、沙良はゆっくりとそれを飲みほした。
ミリーに優しくされたのが嬉しかった。
今日まで、誰にも優しくしてもらえなかったけれど、はじめて誰かに優しくされた。
それだけで、いい日だったと思う。
人生最後の日が、いい一日でよかったと思う。
ガチャ
小さな音がして、沙良は顔を上げた。
ベッドから離れたところにある部屋の扉が静かに開いた。
会ったときと同じように冷たい目をした、背の高いシヴァが立っている。
シヴァの氷のような目は、少し怖い。
ドクドクと心臓が音を立てる。
(言わなきゃ……)
シヴァが「食べに」来たら言えとミリーに言われた。
夜眠るときの服なのか、ゆったりとした黒い服に身を包んでいるシヴァは、無言で沙良のそばまで歩いてきた。
人一人分ほど開けて、沙良の隣に腰を下ろす。
シヴァが腰を下ろしたので、ふかふかのベッドのマットが少し揺れて、沙良は体勢を崩しかけた。
どうにか倒れずに持ちこたえて、シヴァの顔をゆっくりと見上げる。
(言わなきゃ……!)
生贄になるときに言わなくてはいけない言葉だとミリーが言った。
ぐっと拳を握りしめる。
スっと息を吸い込んで、沙良は言った。
「お、おなみだ、くださいっ」
「―――」
シヴァの顔を見ると、眉間にしわを寄せ、ものすごく訝しげな顔をしていた―――
「お、おなみだ、くださいっ」
息を吸って叫んだあと、部屋には奇妙な沈黙が落ちた。
(あ……)
勢いよく言ったあとしばらくして、沙良はハッと気がついた。
(間違えた……)
おなみだ、じゃなかった。
(お情けだ……)
しまった、と思ったがもう遅い。
シヴァは奇妙なものを見るような目をして沙良を見つめていた。
おかげで、シヴァの瞳に感情が宿ったせいか、冷たさが半減して怖さが和らいだが、沙良は穴があったら入りたいほど恥ずかしかった。
(涙もらってどうするの……)
できることなら、ベッドの下にでも潜り込んで小さくなりたい。
顔を覆って赤面していると、ややあって、シヴァがはぁとため息をついた。
沙良は怖くて顔を上げることができずに縮こまる。
お情けくださいと言ったら、優しくしてもらえますよぉ―――、とミリーが言っていた。
きっと、痛くない方法で殺してくれるのだと―――そんな方法があればだが―――と思っていたが、間違えたからダメかもしれない。
「顔を上げろ」
シヴァが短く言った。命令することに慣れた声だった。
逆らうことを許さないような響きがあるその声に、沙良はビクビクと顔を上げる。
冷たい色に戻った双眸が、静かに沙良を見下ろしていた。
沙良はびくっと肩を揺らして、慌てて言った。
「さ、さっきのは、間違えた、んです! あの、おなみだ、じゃなくって、えっと……」
たどたどしく説明しようとするが、シヴァはうるさそうに、
「もういい」
と沙良の言葉を遮る。
うう、と沙良はうつむいた。
そんな沙良に向かって、シヴァの左手が延ばされる。
シヴァのひんやりした指先が頬に触れ、沙良は硬直した。
ついに殺されるのだ―――
その瞬間が目前に迫ればやはり怖くて、沙良は小刻みに震えだす。
頬に手を添えられ、ぐいっと顔を上げさせられる。
シヴァの端正な顔が、すぐ目の前に迫っていた。
(ああ―――)
これはあれだろう。
小説の中に出てきたヴァンパイアと呼ばれる人の生き血を吸う悪魔のように、首をかまれて生きたまま血を飲み干されてしまうのかもしれない。
痛いのだろうか?
少しずつ血を吸われて、体が干からびていくのだから、もちろん痛いはずだ。
自分の血が飲まれていく姿を想像して、沙良の瞳にうっすらと涙が盛り上がった。
「い、痛くしないで……」
蚊の鳴くような声で告げると、シヴァがぴたりと動きを止めた。
鼻の頭がくっつきそうなほど近くにシヴァの顔がある。
涙でその顔はぼやけるが、驚いているような顔をしていた。
ひくっ、と沙良はしゃくりあげた。
「『お情け』ください……」
ぽろっと沙良の瞳から涙が零れ落ちる。
「何を言っているんだ、お前は……」
シヴァの声が、戸惑ったような響きを宿していた。
沙良の頬に添えられたままのシヴァに手に、沙良の涙が伝う。
「ごめんなさい……」
謝れば、もっと変な顔をされた。
―――その時。
ぷくくくくくくっ
笑いをかみ殺すような声が聞こえた。
シヴァはぐっと眉を寄せると、沙良から手を離し、扉の方を振り向く。
「そこでなにをしている」
聞いたものを凍り付かせるのではないかと言うほど冷たい声でシヴァが問えば、部屋の入り口のドアが開いて、ひょこっと一つの顔が現れた。
真っ赤な背中までの長い髪をそのまま垂らし、胸元の大きく開いた黒のスリップドレスを着た、びっくりするくらいの美女だった。
彼女は我が物顔で部屋に入ってくると、沙良の隣に座って、シヴァから守るように沙良の頭を抱きしめた。
「ぷぐっ」
彼女の豊満な胸元にぎゅうっと抱き込まれて、沙良は息ができなくなって慌てた。
彼女はすぐに気が付いて腕を緩めてくれたが、それでも沙良を抱きしめたまま離さない。
「いやぁねぇ、女心のわからない阿呆って」
くすくすくす―――、と彼女は笑いながら言う。
沙良は彼女の腕の中で顔を上げた。
「ミリアム」
舌打ちが聞こえてきそうなほど忌々し気にシヴァが呼ぶと、彼女―――ミリアムは沙良の顔をのぞき込んで微笑んだ。
「ごめんなさいねぇ、お兄様ってば、ほんっと朴念仁なのよ」
その茶目っ気あふれる表情が、少しだけミリーの顔を思い出させたが、そんなことよりも沙良はミリアムの言葉に驚いた。
「おにいさま?」
「ん? あそこの仏頂面の朴念仁のことよ」
沙良はぱちぱちと目を瞬いてから、ミリアムとシヴァを交互に見た。
ということは、この美女は魔王様の妹ということだ。
(……似てない)
失礼だが、沙良はそう思った。
愛嬌たっぷりの目の前のミリアムと、周りの空気すら凍らせそうなシヴァ。
どこにも似通ったところがない。
びっくりして涙が引っ込んだ沙良は、ミリアムに抱きしめられたまま、どうすることもできずに二人のやり取りを見守るしかなかった。
「何しに来た」
「何しにって、かわいい沙良ちゃんが、お兄様にいじめられてるのを助けに来たのよぉ」
「………」
「あら。睨んだって怖くないわよ」
「出て行け」
「やぁよ」
ミリアムは、よしよし、と沙良の頭をなでる。
「沙良ちゃんもこーんな怖い男と二人っきりになりたくないわよねぇ?」
「あ、えっと……」
沙良は恐る恐る不機嫌そうなシヴァの顔を見て首をすくめた。頷けるはずがない。
ミリアムはふふん、と勝ち誇ったように鼻を鳴らした。
「だいたいねぇ、なにが生贄よ。信じられないわ。ばっかじゃないの?」
「………」
シヴァの双眸が、いまにも人を射殺せそうなほど鋭くなる。
だが、さすがは妹。ミリアムはどこ吹く風だ。
「こぉんなに怯えさせて。女心がこれっぽっちもわからない朴念仁なお兄様には、沙良ちゃんは『食べ』させてあげないわよ!」
ミリアムは爪の先まできれいに調えられた指で、ビシッと扉を指した。
「―――退場!」
(ひぃ!)
ミリアムが退場! と告げた途端、シヴァの周りの温度が数倍低くなった気がした。
思わずミリアムにしがみついてぷるぷる震えていると、シヴァが「はあ」と息を吐きだした。
シヴァは黙って立ち上がると、不機嫌なオーラをまき散らしながら部屋を出ていく。
ぱたん、と小さな音を立てて扉が閉まると、ミリアムがにっこり微笑んだ。
「これで今夜は平和だから、ゆっくりお休みなさいな」
沙良は茫然とミリアムを見上げた。
―――生贄初日、どうやら命拾いしたようです。
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