第九幕


 第九幕



 熱いトルココーヒーを一口だけ飲み下したイーライは、そのカップを、やはり同じマイセン窯のソーサーの上に置いた。そして丸テーブルを囲む誰とも視線を合わせずに、訥々と語り始める。

「人生とは、まるでコーヒーの様なものだ。どれだけ砂糖を入れようともミルクを入れようとも、最後には苦味と酸味だけが残る」

 それはまるで、自分自身に語り掛けるような口調であった。

「長かった人生も終盤に差し掛かり、もはやいつ何時天に召されてもおかしくない年齢に達した私は、自分が何を遣り残しているのかを改めて再検討し始めた。そして度重なる検討の結果、アドルフ・ヒトラーと彼が党首を務めたナチ党が犯した人類史上稀に見る罪の数々は、過去の清算のみでは償い切れないと言う結論に至ったのだよ。それはつまり、早期の内に癌の病巣を切除して取り除くように、将来的に脅威となり得る若い芽は早めに摘んでおかなければならないと言う、至ってシンプルな結論だ」

「つまり何が言いたいんだ、鼻デカ爺さん?」

 バーバラが問うと、イーライはトルココーヒーをちびちびと飲みながら答える。

「ここ最近の世界情勢は顔を背けて鼻を摘みたくなるほどきな臭く、かつての冷戦終結前夜を髣髴とさせる程の緊張状態にある事は、無学無教養で無知蒙昧なキミ達ですらも理解している事だろう。ましてや私の様に、世界有数の諜報機関インテリジェンスたるモサドの中枢に身を置く者ならば尚更だ。口先だけの建前とは言え、それでも前任のオバマ政権まではグローバリゼーションを謳っていたアメリカ合衆国も、ドナルド・トランプが大統領に就任してからは自国第一主義を隠そうともしない。他方でヨーロッパ大陸に眼を向ければ、欧州諸共同体ECの遺志を継いで設立された欧州連合EUは加盟国間の経済格差と移民問題で崩壊寸前であり、プーチン大統領の独裁が続くロシアと北大西洋条約機構NATOとの関係は悪化の一途を辿っている。それに、最近になってようやく沈静化したものの、アラブ諸国でのイスラムISISの様な大規模テロ組織が再び台頭しないとも限らない。そして何と言っても最大の懸念材料は、政治の面でも経済の面でもその存在感を増す一方の某国と、その後を追うアジアやアフリカの発展途上国の数々だ」

 粉末状のコーヒー豆と同量の砂糖を溶かして煮出したトルココーヒーは甘苦く、それは確かに、喜怒哀楽を凝縮した人生の様な味であった。

「共産党による一党独裁が常態化し、未だに民主主義的な普通選挙すら行われない某国の現状は、まるでファシズムが台頭していた前世紀の独裁国家のそれによく似ている。つまり皮肉にも、かつてファシズムを標榜するイタリアやドイツと同盟関係にあった大日本帝国と戦った某国こそが、今は新世代のファシズムとも言うべき国家体制を確立しつつあるのだ。しかも支配地域であるチベットやウイグルでは漢民族の思想に反する他民族や宗教を弾圧し、再教育を目的とした収容所で強制労働に従事させ、ナチ党のホロコースト同然の絶滅政策を公然と行って止まない。そもそも、自国の軍隊を『人民解放軍』などと謳っている事こそが傲慢この上無い行為であり、また同時に欺瞞そのものなのだ。その実態を理解していれば、よほどの恥知らずでもなければ『人民』を『解放』する軍隊だなどとは口が裂けても言えない。なにせ、彼らが実際にやっている事は、軍事力による侵略そのものなのだからな」

「それを言ったら、イスラエルだって軍事力でもってパレスチナ人の土地を侵略しているじゃねえか。その点はスルーかよ、この二枚舌め」

「パレスチナの件は、イスラエルの内政問題だ。それに我々ユダヤ人は某国人とは違って、他の宗教や民族にも自治権を与えて平等に接している。決して排他主義的なファシストではない」

 イーライはそう言ってバーバラの反論を回避すると、トルココーヒーを飲みながら語り続ける。

「私はホロコーストの数少ない生還者の一人であるが故に、ファシズムが再び勃興する事を何よりも恐れている。先に述べた某国の動向に、モサドの副長官と言う地位を利用して眼を光らせているのもそのためだ。そして勿論、近年のヨーロッパ諸国で発言権を増しつつある急進的な右派政党もまた我々の監視対象であり、彼らがナチ党の後継者を自称するネオナチと結託するなどと言う事はあってはならない。だからこそ、その存在がネオナチの連中に知られれば新たなイデオロギー的シンボルとして担ぎ上げられかねない、アドルフ・ヒトラーの孫娘であるアデーレ・ヒトラーの拉致に踏み切ったのだ。これは死を目前にした私にとっての、万難を排して実行されるべき責務である」

 そう言い終えたイーライは空になったマイセン窯のカップを、ソーサーの上にそっと置いた。そしてバーバラとエマ、それにクンツの顔を順繰りにぐるりと睨め回した彼の表情は、まるで「文句があるなら言ってみろ」とでも言いたげな自負と自信とに満ち溢れている。

「それでわざわざイスラエルから海を越えて、アルゼンチンまでアデーレを拉致しに出向いたって訳か。あんな小さな女の子一人を掻っ攫うのに、大の大人がぞろぞろと大勢で雁首揃えて徒党を組むなんざ、大袈裟なこった」

「何とでも言え、根無し草。今しがた述べたように、今回の一件は、我々にとっては万難を排して行われるべき重大な責務だったのだ。どれほど大袈裟であっても、大袈裟過ぎると言う事は無い」

 バーバラの皮肉を、イーライは真っ向から否定した。そして真っ白なテーブルクロスが敷かれた丸テーブルを挟んで対峙する二人は、暫し無言のまま、互いの鋭い眼光でもって相手を射殺さんばかりに睨み合う。

「まあ何にせよ、アドルフ・ヒトラーの孫娘をアルゼンチンから拉致して来る事には成功した。正直言って、彼女を匿っていたナチ党の残党組織は、拍子抜けするほど無力な烏合の衆に過ぎなかったからな」

 先に口を開いたのは、イーライだった。彼をして「無力な烏合の衆」呼ばわりされた組織の一員であるクンツは、悔恨と屈辱、それに恥辱の念でもって顔面を紅潮させながら唇を噛む。

「しかし、密入国に利用した貨物船の都合で立ち寄ったここイスタンブールで、想定外の事態が起きる。根無し草、それにお嬢さん、キミ達二人の介入だ。まさか百戦錬磨のメトツァダの隊員が、幾らMIT《トルコ国家情報機構》の元工作員とは言え、一介の一般人の女一人にこうもあっさりと手玉に取られるとは思いもよらなかったからな。しかも二度にも渡って近接戦で敗北し、せっかく拉致して来たヒトラーの孫娘を奪還されてしまったのだから、彼らの上官としては海よりも深く恥じ入るばかりだ」

 イーライはかぶりを振りながら、深い溜息を漏らした。

「ともあれ、済んだ事を嘆いていても仕方が無い。とにかくイスタンブールに寄港したメトツァダが壊滅的な打撃を被ったとの報せに、本来ならばテルアビブの本庁舎で吉報を待つべき私とここに居るベレルマン大佐、それに彼が指揮する銃剣キードーンの一個中隊が、急遽として馳せ参じたと言う訳だ。根無し草、キミならば、銃剣キードーンの名を聞いた事くらいあるだろう?」

「ああ、知ってるさ。泣く子も黙る、モサドの暗殺部隊だろ? 聞いた話だと爆弾を仕掛けた車輌を標的ターゲットが乗った車輌に横付けし、二輌纏めて木っ端微塵に吹っ飛ばすのが暗殺の常套手段だった筈だが、そこのマッチョのチンカス野郎みたいな格闘戦が得意な奴も雇われてやがったんだな」

 バーバラがそう言うと、彼女に『マッチョのチンカス野郎』呼ばわりされたベレルマン大佐はタボール散弾銃を手にしたまま眉根を寄せる。どうやら堅物らしい彼は、バーバラの発言が気に障ったらしい。

「俺は純粋な愛国心と信仰心に従い、自ら進んでモサドに所属している。お前の様な無法者のチンピラ風情とは違って、金で雇われて人を殺している訳ではない」

「人を殺すのに、是非も何も無えよ。それにお前だって、飯を食って屋根付きの家でベッドで寝るための給料くらいは貰ってんだろう? だったら理由がどうであれ、金が目当てで人を殺しているも同然だ。違うか?」

「黙れ、このレズビアンの邪教徒が。お前の様な異常性癖の変態と言葉を交わしているかと思うと、それだけで虫唾が走る」

「何だとコラ? てめえこそナルシストの腐れユダ公のくせに、人の性癖にケチつけてんじゃねえぞ? あ?」

 ベレルマン大佐とバーバラは互いを口汚く罵り合い、睨み合った。するとそんな二人を他所に、丸テーブルの上座に座るイーライから見て右隣に腰を下ろしたエマが、片手を小さく挙げながらおずおずと尋ねる。

「あの……それでお爺さん、アデーレは今どこに居るんですか? あなたは彼女をどうするつもりなんですか?」

「なあに、悪いようにはせん。あの子には新しい名前と経歴を与え、我々の庇護の下、一人のドイツ系ユダヤ人として第二の人生をスタートさせる。決してアドルフ・ヒトラーの孫娘だなどとして世間に注目される事も無く、控えめで慎ましい、それなりに幸福かつ平穏無事な人生だ」

「そしてそのまま誰に顧みられる事も無く、やがて年老いてよぼよぼの婆さんになってから、黙って静かに死んでくれって訳か。いかにもユダヤの豚どもが考えそうな、グロテスクな筋書きだな」

 エマとイーライとの会話に割って入ったバーバラが、嫌味ったらしい口調でもってモサドの遣り口を非難した。

「黙れ、根無し草。キミが何と言おうと、それが最善の方策だ。これ以上の世界のファッショ化を食い止めるためにも、またあの子自身の栄えある人生ためにも、呪われしアドルフ・ヒトラーの系譜は闇に葬った方が良いに決まっている。そのくらいの事は、無学無教養で無知蒙昧なキミでも理解出来るだろう?」

 諭すような口調でもってそう言ったイーライの言葉の意味するところを、バーバラもエマも、そしてベレルマン大佐に銃床で殴打されてからは無言を貫いているクンツもまた熟慮する。ここでモサドに抵抗してアデーレを力尽くでアルゼンチンに連れ帰り、何であれば彼女がアドルフ・ヒトラーの孫娘である事を公表するか、それともイーライの提案を呑んで平穏無事な人生を遅らせるかを天秤に掛けているのだ。

「……鼻デカ爺さん、一つだけ要求がある」

「何だ? 行ってみろ、根無し草」

 熟慮を重ねた末に、三人を代表してバーバラが口を開き、要求する。

「最後にもう一度だけ、アデーレに会わせてくれ」

 彼女の要求に含まれる「最後」と言う簡潔な単語を深読みするならば、暗にイーライの提案を呑み、彼と彼が所属するモサドにアデーレを託す事を意味していた。つまりそれは取りも直さず、事実上のバーバラらの敗北宣言に等しい。

「いいだろう」

 イーライは勝ち誇るでもなく淡々と了承すると、スーツの内ポケットからスマートフォンを取り出し、その液晶画面を数回タップして通話を開始する。そして画面の向こうの誰かに「彼女を連れて来い。今すぐにだ」とだけ言ってから、半ば一方的に通話を終えた。

「今、こちらに連れて来させている。到着するまで待ちたまえ」

 暫しの間、晩餐室の丸テーブルを囲む四人は、重く息苦しい沈黙を維持しながらアデーレの到着を待ち続ける。そしておよそ五分ばかりも経過した後に、廊下へと続く扉が開くと、仕立ての良いダークスーツに身を包んだ総領事館の職員に連れられたアデーレが姿を現した。彼女が着ている、おそらく総領事館側が用意したと思われる濃紺色のワンピースの胸元には、小さな兎のぬいぐるみであるヴォーパルが安全ピンでもって縫い留められている。どうやらメトツァダと銃剣キードーンによってバーバラのアパートメントから拉致された際にも、このぬいぐるみだけは肌身離さず持ち歩き続けていたらしい。

「アデーレ!」

「クンツ!」

 彼女の名を呼ぶクンツの元に、アデーレは駆け寄った。そして実の叔父と姪の関係である二人は、ギュッと固く抱き締め合う。

「アデーレ、大丈夫か? 怪我は無いか?」

「うん、あたしは大丈夫。クンツは? クンツは、怪我は無い?」

 叔父と姪とは互いの無事を確認し合いながら、何度も何度も頬にキスし合った。しかし歳下である筈のアデーレは、叔父であるクンツよりも、むしろ達観したような大人びた表情を見せる。

「ねえクンツ、でも、あたし達お別れしなくちゃいけないんでしょう?」

 それは十歳にも満たない幼女が口にするには、あまりにも悲しい言葉であった。

「……ああ、そうだな。私達はここで、お別れせざるを得ないのかもしれない」

 ややもすれば口篭り気味になりながらそう言ったクンツは、何か後ろめたい負の感情に心を囚われたのか、実の姪であるアデーレから眼を逸らす。

「それってやっぱり、あたしのお爺ちゃまが悪い人だったからなの?」

「違う! 総統閣下は、決して悪い人などではない! ただ、その、閣下は若い頃にほんの少しだけ、うっかり間違いを犯してしまったんだ。その間違いで多くの人が傷付き、怒り、そしてここに居られるご老人も怒っている。だからアデーレ、あなたが総統閣下と同じ間違いを犯さないように、これからは私達とは離れて暮らさなければならないんだ。寂しくなるが、我慢しておくれ」

「……うん、分かった。だったらあたし、我慢する。我慢してたら、きっとまたクンツとも会えるよね?」

「ああ、会えるさ。きっとまた、会える日が来る」

 それは何の保証も無い希望的観測に過ぎなかったが、怯える幼女を安心させるための方便を口にしたクンツとアデーレの二人は、再び熱い抱擁を交わし合った。そしてたっぷり五分間ばかりも抱き締め合った後に、最後に互いの頬にキスし合ったかと思えば、残酷なる別れの時間は唐突に訪れる。

「さて、それではそろそろ、私が主催する昼食会と回顧談の幕を下ろさせてもらおう。最後にその子との別れの挨拶を終えたら、客人であるキミ達三人は、速やかにここから退出してくれたまえ。ああ、それと、そこの根無し草。今回は特別に、キミが私の部下達を殺した事は不問に付してやろう。こちらもイスラエル本国から遠く離れた他国の領内で、非合法な活動に心血を注いでいる身だ。わざわざ事を公にして、探られたくない腹を探られる訳にも行かない」

 冷淡な口調でもってそう言ったイーライの言葉通り、アデーレはクンツだけでなくバーバラやエマとも熱い抱擁を交わすと、互いに短い別れの挨拶を交換し合った。そして囚われの身であるアデーレが総領事館の職員に連れられながら晩餐室から姿を消すと、間を置かずにブルネットの髪のデボラが先導するモサドの工作員が四人ばかり入室し、バーバラら三人を強制的に退出させるための準備に取り掛かる。

「これを頭から被り、両手を前に出せ。分かっているだろうが、抵抗すれば、その場で射殺する」

 そう警告したデボラから受け取った麻袋を被った三人は、触覚以外の五感を奪われた状態のまま、両手首をナイロン樹脂製の結束バンドでもって固く縛られた。そして各自の両足首を縛っていた結束バンドを切断されると、この晩餐室まで連れて来られた時と同様に、タボール散弾銃の銃口で背中を小突かれながら歩く事を強要される。

「それで、今度はあたしらをどこに連れて行こうってんだい? 飯の次は風呂か? それとも、歯を磨いてからベッドでお寝んねか? ああ、そう言えばお前ら、ちゃんとあたしの部屋のシャワーの湯は止めておいてくれたんだろうな? もしも出しっ放しのまま撤収してたら、水道代の請求書はモサドの本庁舎に送るぞ」

「黙って歩け! この売女ゾーナーめ!」

 おどけるような口調でもって自分達をからかうバーバラを、ブルネットの髪のデボラがヘブライ語による侮蔑の言葉を交えつつ、背後から怒鳴りつけた。しかしバーバラは幾ら怒鳴られようと一向に黙る気配も無く、麻袋の下で軽口を叩きながら、イスラエル総領事館の廊下を歩き続ける。

「そこで止まれ!」

 やがて同じ建物の中をぐるぐると数百mも歩き回らされ続けた末に、高圧的な口調のデボラの命令によって、バーバラら三人は視界が遮られた状態のまま立ち止まった。そして重い扉が開く際のぎいぎいと言う金属が軋む音が耳に届いたかと思えば、微かな陽光と戸外の風の肌触り、それに土の匂いとが、頭から被った麻袋越しにひしひしと感じ取れる。

「歩け!」

 再びの命令に十歩ばかりも前進すると、麻袋越しに感じ取れる陽光と土の匂いとがその濃さを増し、どうやら既にバーバラらは総領事館の建屋の外に足を踏み出したらしい。

「よし、止まれ!」

 デボラの命令に従って足を止めるのとほぼ同時に、バーバラとエマ、それにクンツの三人は、頭からすっぽりと被っていた麻袋を乱暴に剥ぎ取られた。麻袋を剥ぎ取られた事によって周囲の様子が確認出来るようになってみれば、そこはやはり総領事館の建屋の外であり、頭上からさんさんと照りつける陽光が暗闇に慣れた眼に眩しい。そして三人の手首を縛っていた結束バンドをナイフのセレーションで切断したデボラは、吐き捨てるような口調でもって「とっとと失せろ」と言うと掌を下に向けた手で空を振り払い、総領事館の敷地から出て行くように促す。

「言われなくったって、こんな狭くて臭え場所はこっちから願い下げだよ、このユダヤの売女オロスプが!」

 バーバラはバーバラでトルコ語による侮蔑の言葉を交えつつ、いかにも不服そうに罵詈雑言を漏らしながら、イスラエル総領事館の敷地とそれに接する裏路地とを隔てる鉄扉を潜り抜けた。モサドが貸し与えた安物の無地のTシャツとハーフパンツを着たままの彼女の背後に、エマとクンツの二人が続く。そして三人全員が敷地の外に出ると鉄扉が閉められ、電子ロックでもって固く施錠されると、デボラら四人のモサドの工作員達は総領事館の建屋の中へと姿を消した。

「……さて、これからどうしたもんかな」

 デボラら四人の工作員達が姿を消すと、イスラエル総領事館の裏手に取り残されたバーバラとエマ、それに守るべき姪であるアデーレと離別したクンツの三人は途方に暮れ、天を仰ぐ。なにせバーバラだけでなくエマもクンツも着の身着のままの状態でここまで拉致されて来たので、タクシーを拾って帰宅しようにも、財布もスマートフォンも持ち合わせてはいないのだ。

「バーバラ、クンツ、とりあえず大通りまで歩いて行こっか」

 気を取り直したエマが、残る二人を先導しながら歩き始める。ここは繁華街からは遠く離れたビジネス街の一角なので、イスタンブールの街の中心部に向かうタクシーを拾うには、五百mから一㎞ばかりも歩かなければならない。そこでとぼとぼと三人並んで裏路地を歩いていると、後方から近付いて来た一台のセダン型の乗用車がバーバラらを追い抜いたかと思えば、路肩に車体を寄せて静かに停車した。するとその乗用車の運転席側の窓が開き、褐色の肌の一人の男が顔を出す。それは中折れ帽とトレンチコートに身を包んだ初老の黒人男性、つまりバーバラのMIT《トルコ国家情報機構》時代の直属の上司であり、彼女の育ての親を自認するケネス・パーキンスであった。

「よう、バーバラじゃないか。こんな辺鄙な所で出会うとは、奇遇だな」

「何が奇遇だ、この腐れアメリカ人が。どうせお前の事だから、あたしらが拉致されていたのも何もかも、とっくの昔に全部お見通しなんだろう?」

 ケネスの白々しい嘘をあっさりと看破したバーバラは、彼の乗用車に近付くと断りも無しにドアを開け、さも当然と言った素振りのまま後部座席にどっかと腰を下ろす。

「おいおい、幾ら俺とお前が見知った仲だからって、他人の愛車に勝手に乗るなよな。それに、そのダサい格好はなんだ? お前ともあろう者が、モサドの連中に身包み剥がされたか? ん?」

「腐れアメリカ人風情がうるせえって言ってんだよ、糞が。それに、わざわざこんな所まで車で迎えに来たって事は、どっちにしろあたしらをアパートメントまで送り届けるつもりだったんだろう? だったら無駄口を叩いてないで、とっととアパートメントに向かいな」

「なるほど、確かにその通りだ。反論の余地も無い。それじゃあそっちの二人もぼーっと突っ立ってないで、さっさと車に乗りな。ほら、早く早く」

 ケネスがげらげらと笑いながら、運転席側の窓越しに、車外のエマとクンツの二人に向かって手招きをした。そこで二人もまた後部座席へと乗り込むと、ケネスはゆっくりと乗用車を発進させる。

「それでバーバラ、イスラエル総領事館の居心地はどうだった? 何か美味い飯でも食えたか?」

 乗用車を運転しながら、ケネスが尋ねた。すると後部座席のバーバラが、溜息交じりに彼の問いに答える。

「そうだな、飯だけは豪勢で美味かった。しかしそれ以外は一国の総領事館とは思えない、酷いもんだったな。特に案内された部屋のベッドの寝心地の悪さは、最悪だったと言ってもいい。それにせっかくの美味い飯も、ユダヤ人の鼻デカ爺さんの気持ち悪い思い出話を聞かされながらの昼食会だったから、どうにも食った気がしねえや」

「そいつは災難だったな。それじゃあ帰宅する前に、どっかで何か食ってくか?」

「ああ、そうしてくれ。出来れば何か、甘いもんが食いてえ」

 バーバラがそう要求すると、ケネスは乗用車のハンドルを切って、目指すべき目的地をイスタンブールの新市街であるカラキョイ地区へと変更した。バーバラのアパートメントが在る旧市街のエミニョニュ地区とはガラタ橋を挟んで対峙する、イスタンブールの新たな中心部となるべく開発が進められている地区である。そして海外からの観光客は足を踏み入れないであろう入り組んだ路地に進入した末に、やがて四人を乗せた乗用車は、一軒のカフェの前で停車した。

「よくこんな店知ってたな、アメリカ人。いい歳したおっさんのくせに、実は甘いもんが好きなのか?」

 そう言ったバーバラの言葉を裏付けるかのように、カフェの扉を開けて敷居を跨いだ途端、店内に充満している甘ったるい菓子の匂いに思わず噎せ返りそうになる。つまりそれ程にまで、さほど広くもないカフェのショーケース内には所狭しと、トルコの名産品の一つである種々雑多な菓子の山が築かれていたのだ。

「いらっしゃいませ、パーキンスさん」

「よう、デニズ。景気はどうだ?」

 笑顔と共に出迎えてくれた馴染みの店員に気さくに挨拶を返すと、ケネスは彼に続いて入店したバーバラら三人に注文を促す。

「お前らの出所祝いだ、今日は特別に俺が全部奢ってやる。好きな菓子と茶を選びな」

「ああ、そうさせてもらおう」

 バーバラらはそう言うと、ショーケースの中を物色し始めた。カフェの店内は中央の通路を挟んで、左手には菓子の山が築かれた幾つものショーケースが並び、右手にはそれらを賞味するための数脚のテーブルと椅子が並ぶ。そして各自が食べたい菓子と飲み物を選んでからテーブル席に腰を落ち着ければ、彼女らが注文した品々を乗せた皿を、デニズと呼ばれた店員がテーブルまで配膳してくれた。配膳された皿の上には眼にも鮮やかな色とりどりのバクラヴァやナッツ入りのロクム、それにハルヴァやゴディヴァのチョコレートと言った甘い菓子と共に、やはり砂糖をたっぷりと溶かしたチャイやトルココーヒーが並ぶ。

「さあ、俺の奢りだ。遠慮せず食ってくれ」

 得意げなケネスとは対照的に、バーバラとエマ、それにクンツの三人の口数は少ない。

「アデーレ、今頃どうしてるかな……」

 カフェの店内の一角で、甘く芳醇なシロップに漬けられたバクラヴァをちびちびと口に運びながら、エマが心配そうに呟いた。そんな彼女の細く華奢な肩を、隣に座るバーバラがそっと優しく抱き寄せる。

「大丈夫だって、そう心配するな。たとえアデーレがアドルフ・ヒトラーの孫娘だとしても、あんな小さな子供を無下に扱うほどモサドの連中も人でなしじゃないさ」

 バーバラはそう言ってエマを宥めるが、宥められたエマはそんな曖昧な理由では納得が行かないらしく、その表情が晴れる気配は無い。

「ううん、だけど、やっぱりこんなの間違ってる! あたしだったら、自分の本当の名前も生い立ちも捨てさせられた上に、見知らぬ外国で一人ぼっちで生きて行くなんて人生は絶対に耐えられない! アデーレを血の繋がった家族や大事な人と離れ離れにさせる権利なんて、あの人達にだって無い筈でしょう? ねえ、そうじゃない? あたし、何か変な事言ってる?」

 憤慨したエマは興奮冷めやらぬ様子で、カフェの店員や彼女ら以外の客の視線を一身に浴びるのもいとわず、大声で捲くし立てた。

「結局、他人の人生を自分達の都合で奪うだなんて、あの人達がやっている事はヒトラーとそれと何も変わらないじゃないの……」

 幼いアデーレを奪い取られた事がよほど悔しかったのか、喉の奥から絞り出すような声でもってそう言い終えたエマは拳を固く握り締めながら肩を震わせ、ぽろぽろと涙を零し始める。

「ああ、そうだなエマ。お前の言う通りだ」

 バーバラはエマの意見に全面的に同意し、彼女の小ぶりで形の良い頭を優しく撫でながら、その頭を覆うプラチナブロンドの髪にそっと唇を寄せた。身嗜みには人一倍気を使うエマが愛用しているダヴィネス社製のシャンプーの爽やかな香りが辺りに漂い、彼女を愛して止まないバーバラの鼻腔粘膜を心地良くくすぐる。

「ねえバーバラ、あたし達が初めて出会った日の事、覚えてる?」

 バーバラの腕の中で、エマが尋ねた。

「ああ、忘れるもんか。あたしとお前の、大事な記念日だからな」

「だったら、あの日のあなたが何を考えて、どんな気持ちだったか、今ここで思い出してみてくれる?」

「あの日の事を思い出すか……」

 エマに促されたバーバラは、過ぎ去りし日の残滓に思いを馳せる。


   ●


 比較的温暖な気候に恵まれたイスタンブールの街も、真冬ともなれば、雪が降る事も決して珍しくはない。そしてバーバラとエマの邂逅の瞬間は、そんな小雪が舞う二月十四日の、日没間も無い逢魔が時に訪れた。

「うう、寒い寒い。雪なんて降ってんじゃねえよ、糞が」

 昨夜から降り続くみぞれ交じりの雪に対して罵声を浴びせたバーバラは、黒い革のライダースジャケットの襟をぴんと立てると、寒さに震えながら家路を急ぐ。普段ならばたとえ真冬であっても愛車であるカワサキ社製のバイクを手放さない彼女だが、さすがに不安定な二輪車での雪中行軍は無謀と判断したらしく、この日ばかりは徒歩での移動を余儀無くされていた。そして宵闇に沈みつつあるイスタンブールの街の、人気の無い裏路地の薄暗がりの中を歩く彼女の腰のホルスターからは、微かに硝煙の匂いが漂う。つまりそれは取りも直さず、バーバラが生業としている殺しの仕事を、たった今しがた完遂し終えたばかりである事を意味していた。勿論その生業の間も、彼女自身はかすり傷一つ負ってはおらず、まさに『肉屋』の面目躍如である。

「?」

 そろそろガラタ橋の袂に差し掛かると言うところで、視界の隅に何か気になるものを捉えたバーバラは、不意に足を止めた。見れば橋の手前のバス停の、冷たいステンレス製のベンチに腰を下ろした一人の少女が凍るように真っ白な息を吐きながら、スマートフォンを弄って時間を潰している。それは一見すると、単にバスが到着するのを待っているだけの、どこにでも居る普通の少女だった。しかし彼女の姿にバーバラは一抹の違和感を抱き、またその違和感の正体にもすぐに気付く。と言うのも、少女はこんな寒空の下に居ながら防寒用の上着も着ておらず、更には靴すらも履いていないのだ。薄手のシャツ一枚とデニムジーンズしか身に付けていない身体は寒さに凍え、雪道を歩いて来たのであろう靴下のみを履いた足は、冷たい氷水が染み込んでぐっしょりと濡れている。

「おい、そこのメスガキ」

 雨除けの屋根に覆われたバス停に歩み寄ったバーバラは、ベンチに座る凍える少女に声を掛けた。スマートフォンの液晶画面から顔を上げた少女の顔は、彼女が白人である事を差し引いても病的に青白く、血の気の失せた唇は紫色に染まりつつある。このままでは遠からず、濡れた靴下に覆われた足の指が凍傷を負うか、最悪の場合は凍死してしまう事は想像に難くない。

「……何?」

 バーバラの呼び掛けに対し、か細い声でもって弱々しげに応えた少女の眼は虚ろで、どうにも焦点が合っていないように見受けられる。

「お前、靴はどうした? この糞寒いのにこんな所にそんな格好でジッとしていると、凍え死ぬぞ」

「……そう。だったら、死んじゃえばいいんじゃないのかな」

 虚ろな眼の少女は自暴自棄になったかのような捨て鉢な口調でもってそう言うと、再びスマートフォンの液晶画面に視線を移した。しかしその液晶画面をスワイプする手の指からも血の気が失せ、あまりの寒さに小刻みにぶるぶると震えてしまい、思うようにスマートフォンを操作する事が出来なくなってしまっているらしい。すると少女に接近したバーバラは身を屈め、彼女の脇の下に腕を差し入れたかと思えば、ベンチから強引に立ち上がらせる。

「何? 何なの?」

「いいから、あたしの部屋まで来い。その格好のままじゃバスに乗ったって、どこにも行けやしねえよ。それにお前、バス代は持ってんのか? どうせ文無しなんだろ? だったらせめて、あたしの部屋で温まって行け」

 バーバラはそう言うと、少女が着ている薄手のシャツの襟首を背後から鷲掴みにし、腕尽くでもって歩かせ始めた。長身で筋肉質なバーバラの膂力によって捻じ伏せられる格好になった少女は、じたばたと暴れてその手から逃れようとするものの、抵抗空しくずるずると引き摺られながら歩かされるばかりである。

「痛い! 痛いってば! 大人しくするから、乱暴にしないでよ!」

 そう懇願した少女が抵抗する意思を完全に放棄し、自分の要求に従って歩き始めた事を確認したバーバラは、彼女の襟首を掴む手から力を抜いた。

「よし、それじゃあ馬鹿歩きでも駆け足でも何でもいいから、とにかくあたしについて来い」

 そう命じたバーバラに先導されながら無言でガラタ橋を渡り切った二人は、やがて旧市街のエミニョニュ地区に建つアパートメントに足を踏み入れると、最上階を目指して階段を上る。

「まずはそこのバスルームでシャワーを浴びて、急いで身体を温めろ。その間に服を洗って乾燥させておいてやるし、なんならもっと暖かい服も毛布も貸してやる。そんな濡れた服を着たままじゃ、最悪の場合は肺炎になってコロッとおっぬからな」

 命令同然のバーバラの指示に従い、やはり無言のまま脱衣所で濡れた衣服を脱いだ少女は、浴室に移動してからシャワーを浴び始めた。みぞれが降りしきる雪空の下を歩き続けたおかげで芯まで冷え切った身体を伝い落ちる熱湯と、その熱湯が、未だ幼さを残す少女の薄く柔らかな皮膚をひりひりと焼く感触が何とも言えず心地良くて、思わず恍惚の声が漏れる。

「足の小指の指先まで、充分に身体を温めろよ。そうでないと、寝ている内に体温がぐんぐん下がって風邪をひくぞ」

 磨りガラスが嵌め込まれたドア一枚向こうの脱衣所で、少女が脱いだ衣服をドラム式の洗濯乾燥機に放り込みながら、バーバラが忠告した。洗濯乾燥機に放り込まれた衣服はどれもぐっしょりと濡れて氷の様に冷たく、こんな薄っぺらい布きれ一枚程度では、もはや防寒着としての体を成してはいなかった事は想像に難くない。

「あたしもシャワーを浴びるから、お前はそこに置いてあるバスローブを着て、リビングのストーブの火にあたって身体を温めていろ。それと腹が減ったから、キッチンの冷凍庫の中の冷凍ピザを、あたしとお前が食う分だけオーブンで温めておいてくれ。二人分だから、まあ、Lサイズを二枚だな。冷凍ピザ、お前も食うだろ?」

 脱衣所で衣服を脱いで全裸になり、シャワーを浴び終えた少女と入れ替わりで浴室に足を踏み入れながらそう言ったバーバラは、脱衣カゴの上に用意しておいたバスローブを指差す。そして磨りガラスが嵌め込まれた浴室のドアが閉められ、バーバラが熱いシャワーを浴びている隣で、充分に身体を温め終えた少女はバスローブに袖を通した。

「ぶかぶか……」

 果たして長身のバーバラが用意した彼女のバスローブは大判で、未だ十代も半ばと思われる細身で小柄な少女には、まるでサイズが合っていない。しかしそんなバスローブを無理矢理着込み、ずるずると裾を引き摺りながらリビングに向かうと、火が入れられた薪ストーブの前で暖を取る黒猫のスィヤフが少女を出迎えた。

「猫ちゃん、あなたも寒いの?」

 そう言った少女は抱え上げた黒猫のスィヤフを膝の上に乗せると薪ストーブの真正面に陣取り、一人と一匹とで身を寄せ合いながら、煌々と燃え上がる炎にジッと眼を凝らす。

「ねえ、猫ちゃん、あたしの悩みを聞いてくれる?」

 アパートメントのリビングの室温をじわじわと上昇させる薪ストーブの火にあたりながら少女がそう言うと、彼女の膝の上で身体を丸めたスィヤフはにゃあと鳴いた。するとその鳴き声を合意と判断したのか、少女は訥々と語り始める。

「あたしね、今日もまたパパと喧嘩して、家を飛び出して来ちゃったの。こんなに寒い日なのに、後先も考えないで家出しちゃった。だって、パパはあたしの事は放っておいて仕事ばっかりしているくせに、たまに家に帰って来ると文句ばっかり言うんだもん。あたしがやる事なす事に難癖付けて、あれをやれだとかそれはやるなだとか、とにかく家に居る間はずっと怒ってばっかり。ほんと、嫌になっちゃう」

 少女がそう独り言ちながら膝の上のスィヤフの背中を撫でてやると、彼女の言葉を理解しているのかいないのか、スィヤフは再びにゃあと鳴いた。すると少女はそんなスィヤフに、答が返って来ない事を熟知しつつ、敢えて尋ねる。

「猫ちゃん、あたしと顔を合わせたら怒ってばっかりなのに、どうしてパパは離婚した時にママから親権を奪い取ってまであたしを引き取ったのか、あなたは分かる? あたしには、パパが何を考えているんだか、これっぽっちも分かんない。こんな事になるんだったら、あたし、ママに引き取られたかったな」

 寂しげな声色でもってそう言い終えた少女は両手で顔を覆い、声を殺しながら、しくしくと泣き始めた。彼女の両の瞳から溢れ出た熱い涙が頬から顎へと伝い落ち、バスローブの柔らかな生地を濡らす。

「なるほど、お前があんな所にあんな格好で座りながら凍えていたのはそう言う理由だったのか、この家出娘め」

 いつの間にかシャワーを浴び終え、もうもうと湯気が立ち上る褐色の肌の上からタオル地のバスローブを羽織っただけの格好で少女の背後に立っていたバーバラが、小首をうんうんと頷かせながら言った。黒猫のスィヤフに語り掛けていた言葉の全てを彼女に聞かれていた少女は、喉から心臓が飛び出るかと思うほど驚くと同時に、どうにもばつが悪くて仕方が無い。

「それで、頼んでおいた冷凍ピザは温めておいてくれたんだろうな? ……なんだ、温めてねえじゃねえか、糞。まったく使えねえメスガキだな、お前は」

 キッチンのガスオーブンレンジの中が空っぽである事を確認したバーバラは口汚く罵ると、冷凍庫から取り出したLサイズの冷凍ピザ二枚を放り込み、点火ツマミを反時計回りに回して火を点けた。そして冷凍ピザが解凍され、ガスの炎によって次第に焼き上がりつつあるのを横目に、冷蔵庫で冷やされていたエフェスビールをぐびぐびと飲み下す。

「ほら、お前も食え、家出娘。ああ、言っておくが、猫には食わすなよ。塩気のあるもんを食わすと、肝臓の病気になるからな」

 やがて二枚の冷凍ピザが焼き上がると、バーバラはそれぞれ八つに切り分けられたそれらの内の一切れをおもむろに頬張り、更にもう一切れを少女に向けて差し出した。差し出された冷凍ピザを受け取った少女はよほど空腹だったのか、トマトソースとモッツァレラチーズとバジルの葉を乗せただけの簡素なマルゲリータピザを、がつがつと貪るようにして食べ始める。そして彼女の膝の上の黒猫のスィヤフが冷凍ピザを頬張る少女の口元を物欲しそうに見つめていたが、人間の食べ物を猫に与えるほど少女も馬鹿ではない。

「腹が減ってたんなら、遠慮せずに残りも食え。それとチャイも淹れてやるから、ちょっと待ってろ」

 そう言ったバーバラが淹れた甘いチャイを飲みながら、少女は一切れまた一切れと、焼きたてのマルゲリータピザを胃袋の中へと流し込んで行く。熱々のピザからは焦げたトマトソースとモッツァレラチーズの濃厚かつ芳醇な香りがぷんと漂い、その香りに鼻腔粘膜を刺激されてしまっては、否が応にも食欲が増進されて止まない。

「げっぷ」

 気付けばバーバラと少女の二人は、Lサイズの冷凍ピザ二枚をあっと言う間に食べ尽くしてしまっていた。そしてエフェスビールを五瓶か六瓶ばかりも飲み下したバーバラだけでなく、口の周りをトマトソースまみれにした少女もまたげっぷを漏らす。どうやら二人とも、充分に腹は膨れたらしい。

「さて、そろそろお前の濡れた服も乾いた頃だ。寝間着が必要ならあたしのを貸してやるから、下着だけでも着替えて来い。それと、今夜はここに泊まって行け。どうせ、泊まる場所なんて無いんだろ? そして今日の事を親なり保護者なりに暴露するかどうかは、お前の自由だ。好きにしろ」

 バスローブ姿のバーバラは少女に向かってそう言うと、くるりと踵を返し、廊下へと続く扉に足を向ける。

「それじゃあ、あたしは寝室で水煙草を吸ってるから、下着を着替えたら寝間着を取りに来い。リビングのソファで寝るなら、毛布も貸すぞ。それと、ストーブには一度に薪をくべ過ぎるな。火事になるか、火が消えて一酸化炭素中毒で死ぬぞ。分かったな」

 ぶっきらぼうな口調でもってそう言い残すと、バーバラはリビングから姿を消した。どうやら彼女は寝室で、水煙草による食後の一服を楽しむつもりらしい。そこで黒猫のスィヤフと共にリビングに取り残された少女は一旦バスルームへと移動し、ドラム式の洗濯乾燥機の中から取り出した乾きたての下着に着替えると、廊下を渡った先の寝室の扉をノックして返事を待つ。

「入れ」

 バーバラの了承を得た少女は扉を開け、アパートメントの寝室へと足を踏み入れた。広く小ざっぱりとした寝室の中央に置かれたクイーンサイズのベッドの上にバスローブ姿のまま寝転んだバーバラは、水煙草を吸うための『ナルギレ』と呼ばれる器具を使って、食後の一服を楽しんでいる。

「寝間着はそこにスウェットのシャツとパンツが入っているから、好きなのを選べ。毛布は一番下の段だ」

 ぷかぷかと紫煙を吐き出しながらそう言ったバーバラは、造り付けのクローゼットを指差した。彼女が愛飲するネクタリン味の煙草の葉の甘い香りがシーリングファンによって拡散され、間接照明に照らされた寝室の中は仄白くけぶっている。

「……あなた、どうしてあたしを助けてくれたの?」

 ベッドの上で水煙草を吸うバーバラに、少女が尋ねた。するとバーバラは寝室の天井を見上げて寝転がったまま、意味深にほくそ笑みながら答える。

「あたしは筋金入りの同性愛者、つまり女しか愛せない生粋のレズビアンで、しかも十代の若い娘が大好きなロリコンだ。だから寒空の下で今にも死にそうな不幸な女の子を黙って見殺しにするなんてのは、あたしの性癖が許さなかったってだけの話さ」

 ややもすれば自嘲気味にそう言ったバーバラは、頭上で回転し続けるシーリングファンに向かって、一際大きな紫煙の塊をふうっと吐き出した。

「本当に、理由はそれだけ?」

「他に何か、理由が必要か?」

 少女の問いにそう答えたバーバラは、やはり意味深にほくそ笑む。すると少女は少しばかり逡巡してから、自らもまたバーバラが寝転がっているクイーンサイズのベッドの上へと滑り込んだ。

「どうした?」

 今度はバーバラが問い、少女が答える。

「あたしもここで、今夜はあなたと一緒に寝てもいいでしょ?」

「別に構わないが、あたしは今言ったように筋金入りのレズビアンでロリコンだぞ。そんなレズビアンのロリコンと一緒に寝るって言うのがどんな結果を生むか、分かってるんだろうな?」

「うん、そのくらい分かってる。あたしだってもう子供じゃないんだから」

「言うね、子供のくせに」

 バーバラはそう言うと、隣に寝転がった少女の肩を抱き寄せながら、再び水煙草の煙を天井のシーリングファンに向かって吐き出した。ネクタリン味の煙草の葉の甘い香りが、広い寝室中に充満する。

「そう言えば、お前の名前を未だ聞いてなかったな。お前、名前は何て言うんだ?」

「あたしはエマ。エマ・ジリベール。それで、あなたの名前は?」

「バーバラだ。名前でも名字でもなく、本名でも仮名でもなく、それでも誰もがあたしの事をバーバラと呼ぶ。それと、そこの猫の名前はスィヤフ。黒猫だからスィヤフ、分かり易いだろう?」

 自己紹介を終えたバーバラが指差す先、つまり寝室の扉の前にはエマと一緒に入室した黒猫のスィヤフがちょこんと前足を揃えて座っており、ベッドの上の二人を見上げながらにゃあと鳴いた。

「よろしくね、バーバラ、スィヤフ」

「ああ、よろしくな、エマ」

 互いの名を呼び合ったバーバラとエマはバスローブを脱ぐと唇を重ね、肩を抱き、身を寄せ合う。もはや二人にとって、余計な言葉は必要無い。


   ●


 エマと出会った冬の日の出来事を思い出しながら遠い眼で虚空を見つめていたバーバラは、自らの名を呼ぶ声でもってハッと我に返った。今現在の彼女が身を置く場所はアパートメントの寝室のベッドの上ではなく、イスタンブールのカラキョイ地区に在るカフェの一角である。

「ねえバーバラ、あたし達が初めて出会った日の事は思い出した?」

 バーバラの名を呼んでいたのは、彼女の腕に抱かれたエマであった。そして彼女は、改めてバーバラに問い掛ける。

「あの日のあなたはすごく優しくて、不幸な女の子を黙って見殺しにする事なんて出来ないって言ってたじゃない! 自分の性癖が、それを許さないって! 他に理由なんか要らないって! だとしたら、あの時の気持ちが今でも変わっていないなら、アデーレを見殺しにする事もあなたの性癖に反する行いなんじゃないの?」

 エマは人目も憚らず、狭いカフェの店内で大声でそう叫び、バーバラに詰め寄った。詰め寄られたバーバラは期待に満ちた眼差しのエマから視線を逸らしつつも、今ここで自分が立ち上がるべきか否か、激しく葛藤する。すると彼女は不意に、ぽかんと呆けたような表情のままこちらを見つめているクンツの存在を察知した。

「おいクンツ、お前、何をぼんやりした馬鹿面でこっちを見てやがる。イギリス兵からドイツ語の殺人ジョークでも聞かされたか?」

 バーバラが英語で問うと、クンツはばつが悪そうに背筋を伸ばし、襟を正す。どうやら彼は、トルコ語によるバーバラとエマとの会話が理解出来ていなかったらしい。

「ねえクンツ」

 今度はエマが、やはりクンツにも理解出来るように英語で問う。

「あなたはアデーレを失って、悲しくないの? アデーレと離れ離れになる事に、本当に心から納得しているの?」

 エマの問いに、クンツはテーブルの上で組んだ自身の両手を真剣な眼差しでもって凝視しながら、暫し逡巡した。そして言い難い事を敢えて言う時の様に一つ一つ言葉を選びつつ、ゆっくりと口を開く。

「正直に言ってしまえば、私はアデーレがモサドによって拉致された際に、これでいい厄介払いが出来たと思ってしまった事は否めません。総統閣下の実の孫娘と言う彼女の立場はナチ党復権のシンボルでもありましたが、それと同時に、かつての親衛隊が総統閣下の命令で行った数々の悪行から逃れられなくなる、ある種の精神的な枷でもありました。ですからその枷が取り払われる事は、私が総統閣下とナチ党と言う過去の亡霊から逃れられる、数少ないチャンスでもあったのです。彼女の実の叔父である私にとって、そんな発想に至る事自体が倫理や道徳に反する行いなのでしょうが、それが嘘偽りの無い事実であった事は認めざるを得ません」

 偽らざる内心を吐露し終えたクンツは、沈痛な面持ちのまま頭を抱えた。彼は彼で、実の姪であるアデーレの処遇を如何にすべきかと言う苦悩と葛藤とが、心の中でぐるぐると渦巻いているのであろう。だがそんなクンツに、エマは容赦しない。

「クンツ、アデーレをアドルフ・ヒトラーの孫娘だとかナチ党復権のシンボルだとか言った色眼鏡で見ないで、彼女を一人の人間として改めて見つめ直しなさい。そうすれば、本当に自分が為すべき事が自然と見えて来る筈だから。そうでしょう?」

 このエマの一言で、その場に居合わせた全員の覚悟が決まった。

「……そこまで言われちゃ仕方無え、やるか!」

 まずバーバラがそう呟いて、他の三人に目配せする。

「ええ、やりましょう!」

「モサドから、アデーレを助け出そう!」

 クンツとエマも彼女に同調し、ときの声を上げた。すると最後の一人であるケネスが含みのありそうな笑い声を上げながら手を叩き、三人を鼓舞する。

「よっしゃ、決まったな! それじゃあさっさとアパートメントに帰って、アデーレ救出作戦の準備をするぞ! なんせ、モサドはこの上無く手強い! しっかり準備して行かないと、返り討ちに遭うかもしれないからな! おっと、その前に、せっかく注文した菓子と茶は残さず全部飲み食いして行けよ? 俺の奢りなんだから、食べ残しだけは絶対に許さねえからな!」

 笑いながらそう言ったケネスの言葉を合図に、バーバラとエマ、それにクンツの三人はカフェのテーブルの上に並べられた各種の菓子や茶を手に取り、それらを胃袋の中へと流し込み始めた。腹が減っては戦は出来ぬと言うが、これからまさに、彼女らは死地へと赴くのである。

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