第七幕


 第七幕



 バーバラ達三人と老人の眼の前、つまり真っ白なテーブルクロスが敷かれた丸テーブルの上には、フルコースの料理を嗜むための人数分の揃いの銀食器と白磁の皿が整然と並べられていた。どれも高価そうな、傷一つ無い、いかにも立派な食器である。どうやら推測するに、この部屋はイスラエル総領事館の晩餐室らしい。

「フルコースの第一歩は、食前酒からだ。ちょうど出来の良いシャンパンが手に入ったので、これを開けるとしよう」

 老人がそう言うと晩餐室の奥の扉が音も無く開き、シャンパンのボトルを手にした給仕が入室した。そして丸テーブルを囲む四人の前に置かれた小さなシャンパングラスにボトルの中身を注ぐと、静かに退室する。教育が行き届いた彼の所作や立ち居振る舞いには、一分の隙も無い。

「シャンパーニュ地方で醸造された、紛う事無き本物のシャンパンだ。アルコール度数は決して低くはないが、この程度の量であれば、そちらのお嬢さんが飲んでも問題無いだろう」

 未だ未成年のエマの方をちらりと見遣りながらそう言った老人は、手にしたシャンパングラスをゆっくりと眼の高さまで掲げると、乾杯の音頭を取る。

「我々の出会いと、そして別れを祝して」

 彼に倣って、バーバラ達三人もまたシャンパングラスを掲げてから、丸テーブルを囲む四人は揃って杯を傾けた。老人が言う「我々」に含まれているのが果たして誰と誰で、誰が含まれていないのか、それとも全員が含まれているのか、その詳細は彼自身にしか分からない。

「それでは、まずは私から自己紹介をさせてもらうとしよう。そのまま食前酒を楽しみながら、静かに聞いていてくれたまえ」

 シャンパンで喉を潤した老人は、改めて語り始める。

「私の名前は、イーライ・ヤコブソン。僭越ながら、イスラエル諜報特務庁、いわゆるモサドの副長官を務めている。ユダヤ人国家であるイスラエルの諜報機関の幹部と言う役職から推測出来るように、ユダヤ教を信仰する生粋のユダヤ人だが、生まれたのはポーランドのワルシャワだ」

 イーライと名乗った老人は半分だけ空になったシャンパングラスを丸テーブルの上に置くと、一息ついた。しかし彼の言う自己紹介の範疇は、彼自身だけに留まらない。

「キミは確か、クンツ・エルメンライヒだろう? ナチ党の親衛隊、つまり俗に言うSSの准将だったオットー・エルメンライヒの孫だ。生まれも育ちもアルゼンチンのサンタ・ロサで、ヒトラーの孫娘の実の叔父であり、彼女の世話役を務める後見人でもある。違うかい?」

 あっさりと正体を看破されたクンツはシャンパングラスを口につけたまま視線を泳がせ、言葉を失う。

「驚いたかね? キミ達の様なナチ党の残党どもはドイツの戦後処理から逃げ切ったと勘違いしているようだが、モサドを舐めてもらっては困る。オットーの様な、戦争に負けた途端に尻尾を巻いて祖国から逃げ去った小物を逮捕しても何の益体も無いから、泳がせてやっていただけだ。我々がその気になれば、キミの小学校時代の成績表だって簡単に入手出来るのだよ」

 イーライはそう言うと、不敵に笑った。そして今度は、丸テーブルの右隣に座るエマを見据える。

「そしてそちらの若いお嬢さんの名前は、エマ・ジリベールだ。生まれはフランスのリヨンで、五歳の時に両親が協議離婚した後に、親権を得た父親と共にイスタンブールに移住して来たね? しかし最近はまともに学校にも通っておらず、恋人のアパートメントを拠点にしながら遊び歩いてばかりいるのは感心出来ない。教育は、個人が獲得出来る最も大事な資産だ。人生の先輩として忠告させてもらうが、刹那的な生き方を改めて、真面目に学校に通いたまえ」

 エマもまた眼をまん丸に見開き、自分の経歴がつまびらかにされた事に驚いている様子だった。そして満足げなイーライは、丸テーブルを挟んだ向かいの席に腰を下ろすバーバラに視線を移し、少しだけ眉根を寄せる。

「どうした、鼻デカ爺さん。どうせ、あたしが何者なのかも知り尽くしてるんだろう?」

 猟奇的にほくそ笑みながらそう言ったバーバラは、自分のグラスに注がれたシャンパンをグッと一息に飲み干した。

「キミの名前は、バーバラ。イスタンブールの旧市街の路上に捨てられていた孤児であるが故に、本名不詳、生年月日不詳、両親の経歴不詳の謎だらけの人物だと言う事しか分からなかったよ。勿論バーバラと言う名前も本名ではなく、孤児院を脱走後のキミにトルコ国家情報機構の長官が名付けた、暗号名コードネームに過ぎない。まあしかし、そのトルコ国家情報機構での輝かしいキャリアの数々も、シリアでのトルコ陸軍との合同作戦の失敗でもって終止符を打たれしまうがね」

「なるほどなるほど、この短期間に急いで調べたにしちゃあ、ちゃんと要点は押さえているじゃねえか。褒めてやるぜ、鼻デカ爺さんよ」

 バーバラは疎らな拍手でもってイーライを褒め称えるが、称えられたイーライは不愉快そうに首を横に振る。

「私はキミの様な、どこの誰とも知れない根無し草は好かん」

 やはり不愉快そうにそう言ったイーライは、食前酒であるシャンパンを飲み干した。そして丸テーブルを囲む四人全員のグラスが空になると、再び晩餐室の奥の扉の向こうから給仕が現れ、食前酒に次ぐ最初の一皿が配膳される。

「今日のフルコースのはなを切る最初の料理、つまり前菜は、魚のムースと香菜のゼリー寄せだ。ムースはサーモンとヒラメの二種類の魚を用意させたので、それらの味と食感の違いを楽しんでほしい」

 イーライの言葉通り、皿の上には赤と白の二色の魚のムースが細かく刻まれた香菜を纏いながら、黄金色のゼリーの海に沈んでいた。そしてバーバラ達がその前菜を口に運ぶのを見計らって、イーライは語り始める。

「先にも述べたように、私はポーランドの首都であるワルシャワで生まれた。1928年の事だ。今キミ達が食べているムースの赤と白の色の組み合わせは、ポーランドの国旗の色を模している」

 言われてみれば確かに、バーバラ達の前に並べられた二種類の魚のムースはポーランドの国旗に見えなくもない。

「私の父と母は、ワルシャワのユダヤ人街で個人経営の小さな靴屋を営んでいた。私は彼らの二人目の子供で、上に兄が一人、下には妹が二人居たが、この二人の妹達の生死は今現在も定かではない」

 そう言ったイーライは、前菜の最初の一口を咀嚼した。

「私が生まれた頃のポーランドの隣国ドイツは、1920年に結党された国民社会主義ドイツ労働者党、いわゆるナチ党の黎明期にあたる。イタリアのムッソリーニ率いる国民ファシスト党を真似てミュンヘンでクーデター未遂事件を起こして失敗し、その首謀者として逮捕されたアドルフ・ヒトラーが僅か一年余りでランツベルク要塞刑務所から釈放され、獄中で口述筆記させた著書『我が闘争』が出版されたのが事件の翌年の1925年だ。ちなみに私も一度だけ、この『我が闘争』の原著を試しに読んでみた事があるが、ひどい欺瞞と自己愛に満ちた醜悪な書物だったよ」

 イーライはそう言って、顔をしかめる。

「そして私が生まれたちょうどその年に、ナチ党は初めての国会議員選挙に挑んだが、大敗した。当時のドイツは空前の好景気に沸いていたが故に、国民は野党による政権交代よりも、与党による現状維持を望んだのだよ」

 そこまで言い終えたイーライのナイフとフォークを持つ手が、不意に止まった。

「しかし翌年の1929年、私が未だ一歳の時に、状況は一変した」

「1929年って言うと、世界恐慌の年か」

 意外に博識なバーバラが指摘すると、イーライの手は再び動き始める。

「ああ、そうだとも。アメリカ合衆国の金融危機に端を発した世界恐慌の余波でもって、ドイツ議会の与党であった社会民主党は景気の悪化を押さえ込む事が出来なかったばかりか、大胆な失業者対策に打って出たナチ党と共産党に支持率を奪われた。そして1932年の国会議員選挙で第一党に躍り出たナチ党の党首であったヒトラーは、翌年には首相に任命される。まあ、彼の首相任命の背後には保守的な右翼思想の持ち主であったヒンデンブルク大統領の思惑や、財界や富裕層が忌避する共産党の躍進などの複雑な要素が絡み合っていたと言うのが、現在の定説だがね。つまり、決して当時のナチ党が、ドイツ国民の過半数以上の支持を得ていた訳ではない。国政の混乱に乗じて議会の実権を掠め取った、言わば火事場泥棒の様なものだ」

 そう言ったイーライは、嘲笑うようにふんと鼻を鳴らした。一方でナチ党を軽蔑される格好になったクンツは、良い顔をしない。

「ここで、私の祖国に話を戻そう。当時のポーランドは幸いにも国家元首であるユゼフ・ピウスツキが提唱した開発独裁と言う国策が功を奏し、世界恐慌の下でも好景気を維持していた。しかしその好景気も、長くは続かない。1935年、つまり私が七歳の時にピウスツキが死去すると、あっと言う間に不況に陥ってしまったのだから、後進の政治家どもが如何に無能だったかがうかがい知れると言うものだ。事実、私の両親が営む靴屋もこの時期に規模を縮小しているのだから、他人事ではない」

 イーライは苦虫を噛み潰したかのような口調でもって忌々しそうにそう言うと、拳を握り締める。

「そして私と私の家族、更にはポーランドに住む全てのユダヤ人の運命の分岐点となったのが、1939年のドイツ軍によるポーランド侵攻だ。未だ盛夏を過ぎたばかりの九月一日に国境を越えて攻め込まれたかと思えば、僅か一ヶ月も経たない内に首都ワルシャワが陥落し、秋風が吹き始めた十月六日には議会が降伏勧告を受け入れている。全くもって、嘆かわしい。だがしかし、何にせよこうしてポーランドは、秘密裏に独ソ不可侵条約を締結していたドイツとソ連とによって分割統治されたのだ」

 生まれ故郷であるポーランドの国旗を模した二種類の魚のムースの残りを、イーライは銀食器のナイフでもって真っ二つに切断した。それはまるで、ドイツとソ連と言う二つの大国の思惑によって引き裂かれた祖国の窮状を憂う彼の胸の内を反映した、ある種の隠喩メタファーの様にも見える。

「さて、それではここで少しばかり時間を遡って、アドルフ・ヒトラーと言う男の半生を振り返ってみよう」

 魚のムースの最後の一切れを嚥下したイーライはそう言うと、口直しのミネラルウォーターを一口だけ飲み下した。

「今更言うまでもない事だとは思うが、ヒトラーは生粋のドイツ人ではない。彼はオーストリアのブラウナウで生まれ育ち、やはり同国のリンツの小学校を卒業した後に、父親の勧めでもって職業訓練所の色合いが強い実科中等学校へと進学している。しかしその実科中等学校も成績不振と素行不良によって半ば強制的に退学させられ、その結果としてヒトラーは実質的には小学校しか卒業していない、近代以降の先進国の国家元首としては類を見ない程の無学無教養の身だ」

「なるほど、学歴だけを見れば、あたしとヒトラーは同じ小卒の身の上だな。だとしたら、あたしも歴史に名を残す稀代の独裁者になれると思うかい?」

 ほくそ笑むバーバラの皮肉交じりの疑問を、イーライは敢えて無視する。

「実科中等学校を退学させられたヒトラーは、家族が住むリンツからオーストリアの首都ウィーンへと移住すると、今度は一転して芸術の世界に傾倒し始める。そして画家、もしくは建築家を志してウィーン美術アカデミーの門を叩き、入学試験に挑むが、二年連続して不合格の烙印を押されたのを最後にオーストリア各地を点々とする放浪生活者に身をやつした」

 イーライはミネラルウォーターをもう一口飲み下し、乾いた喉を潤した。

「それにしてもアドルフ・ヒトラーと言う男は、奇妙な二面性を併せ持つ不思議な男だ。放浪生活者に身をやつした彼は兵役から逃れるために隣国ドイツのミュンヘンへと移住したが、その結果として、彼の地で徴兵忌避罪の容疑でもってオーストリア当局に逮捕されている。しかしその反面、逮捕の僅か半年後に第一次世界大戦が勃発するとバイエルン陸軍に自ら志願し、リスト連隊の伝令兵として従軍しているのだから訳が分からない。果たして彼は戦争が好きなのか、それとも嫌いなのか、さっぱりだ」

「オーストリアの兵役には就きたくないが、ドイツ軍の軍人には憧れている。そう考えれば、矛盾はしない筈だが?」

 バーバラが反論すると、イーライは首を横に振る。

「そうであれば、とっととドイツ国籍を取得すればいいだけの話だ。元々ヒトラーはドイツ系の血筋なのだから、その気になれば国籍くらい簡単に取得出来ただろう。にもかかわらず、彼はヒンデンブルク大統領によって首相に任命される直前の1932年まで、ドイツ国籍を取得していない。これを矛盾と言わずして、何と言おう?」

「さあな。そいつはヒトラー本人に聞いてくれ」

 イーライの問いに対してそう返答したバーバラは、匙を投げるように肩を竦めてみせた。

「ユダヤ人に対する態度もそうだ。ヒトラーの思想の根底に流れていたのが優生思想に基いた社会ダーウィニズムと民族主義と反ユダヤ主義の三つの理念であった事は疑いようがないが、彼は若い頃から反ユダヤ主義的な発言を繰り返す一方で、画家を志していた頃にはユダヤ人の画商と交流を深めていた時期もある。それにまた、オーバーザルツベルクの彼の別荘のコックもユダヤ人だった。こう言った事実から判断するに、どうもヒトラーは自らの主義主張を実践するためのロードマップを最初から思い描いていた訳ではなく、その時その時で場当たり的に状況を処理しようとしていたようにも見受けられる。……キミは、これまでに『シオンの賢者の議定書』と言う書物の表題を耳にした事は?」

「いや、初耳だ」

 バーバラが素っ気無く返答すると、イーライは解説する。

「この『シオンの賢者の議定書』と言う書物は帝政時代末期のロシアで生まれ、1920年代初めからドイツ内外で出回ったでたらめな内容の書物、言わば偽書だ。そしてその内容を一言で言ってしまえば、ユダヤ人がユダヤ教の教義の下に世界を支配しようと各地で暗躍していると言う、実に安易で安直な信じる価値の欠片も無い陰謀論の一種だよ」

 イーライは吐き捨てるようにそう言うが、事はそれだけでは終わらない。

「しかし残念な事に、この偽書の内容を当時の多くの人々、それも指導者的立場にあった知識人達が信じてしまった。その中にはヒトラーに影響を与えたウィーン市長のカール・ルエーガーや、反セム主義運動を主導したゲオルグ・シェーネラーも含まれていただろうし、もしかしたら、ヒトラー本人も読んでいたのかもしれない。どちらにせよ若き日のヒトラーは反ユダヤ主義に染まり、彼の思想を実現するための機関であったナチ党は、政権を奪取するとまず最初にユダヤ人をゲットーに隔離した」

 そう言い終えたイーライは、そっと右手を挙げた。するとそれを合図に給仕が現れ、丸テーブルを囲む四人が食べ終えた前菜の皿を静かに下げると同時に、新たな料理の皿を配膳する。

「前菜に続く料理は、スープだ。本来ならばフランス式のフルコースでは海老や蟹のビスクが供されて然るべきなのだろうが、私は敬虔なユダヤ教徒なので、食に関する戒律であるカシュルートに従って甲殻類を食べる事が出来ない。そこで今日は例外的に、牛乳や生クリームなどの乳製品を加えない、シンプルな南瓜かぼちゃのポタージュスープを用意させてもらった」

 確かに四人の前に並べられたスープ皿の上では、南瓜かぼちゃのポタージュスープが鮮やかな山吹色に輝いていた。

「そちらのお嬢さんも、さすがに『ゲットー』が何かくらいは知っているだろう?」

 不意にイーライに問い掛けられたエマは、少しだけ逡巡すると、慎重に言葉を選びながら答える。

「えっと……ユダヤ人が強制的に住まわされた地域……ですよね?」

「その通りだとも、お嬢さん。ナチ党はドイツ領内の各地に作ったゲットーにユダヤ人を強制的に隔離し、その周囲を背の高い煉瓦壁や鉄条網でもってぐるりと囲って、人や物資の出入りを厳しく制限した。そして当然ながら、私が生まれ育った首都ワルシャワにもドイツ軍のポーランド侵攻の翌年にワルシャワ・ゲットーが作られ、私と私の家族もまたそこでの生活を余儀無くされたのだよ」

 そう言ったイーライは遠い眼をしながら、白磁のスープ皿に盛られたポタージュスープをスプーンですくった。

「こうして具の無いスープを見ると、私は今でもワルシャワ・ゲットーでの貧しい食生活を思い出す。あそこは幼い私が経験した、最初の地獄だった。勿論あの頃飲んでいたスープはこんな濃厚で芳醇なご馳走などではなく、もっと薄くて味気無い、まるで只の塩水の様な貧相極まりない代物だったがね」

 イーライはそう言うと、スプーンですくったポタージュスープを上品に、音を立てずにすする。

「ワルシャワ・ゲットーは本当に不潔で危険で、しかも何よりも最悪だったのが、深刻な物資不足によって誰も彼もが飢えていた事だ。これは例えではなく、実際にゲットー内を歩けば餓死した老人や子供の骨と皮だけになった死体がそこかしこに転がり、その死体に僅かに残った肉や内臓をこれまた痩せ細った野良犬やドブネズミが貪り食っていたのだから、救われない」

 老人や子供の死骸が害獣の餌に成り果てる様を想像してか、エマは眼の前のスープから顔を背けた。しかしそんな彼女を他所に、イーライはワルシャワ・ゲットーの惨状を語り続ける。

「未だ子供だった兄と私は手を繋ぎながら、ユダヤ人である事を証明する黄色いダビデの星が縫い付けられたシャツを着たままゲットー内を朝から晩まで彷徨い歩き、とにかく何でもいいから食べられる物を探して時間を潰したものだ。哀れな乞食同然に道行く人々に頭を下げて金品を恵んでもらったし、時には生ゴミが捨てられたゴミ箱を漁って残飯を口にした事や、食料品店の店頭の商品や配給所の倉庫の備蓄品をくすね取った事も、一度や二度ではない。キミ達は想像出来るかね、腐って緑色になったジャガイモの味を? あれほど不味い物を食べなければ生きて行けなかったのは、後にも先にもゲットーで暮らした二年間だけだ。まあ、その後は食べたくても食べられない、第二第三の地獄である収容所生活が待っているのだがね」

 やがてイーライはスープを飲み終え、スプーンを置いた。そしてテーブルナプキンで口周りを拭いつつ、丸テーブルの左隣に座るクンツに尋ねる。

「そこのキミ、親衛隊を標榜するキミならば、いわゆる『マダガスカル計画』が何を意味するかくらいは知っている筈だ。その概略を解説してみたまえ」

「マダガスカル計画とは……ナチ党が発案した、ユダヤ人の集団移住計画です。パリ陥落によってドイツの支配下に置かれた仏領マダガスカル島に全ヨーロッパのユダヤ人を追放しようと試みましたが、連合王国から制海権を奪取出来なかったのと、輸送のための船舶が確保出来なかったがために、この計画は頓挫しました」

 クンツの解説を聞いたイーライは、小首を傾げた。

「ふむ、まあ、百点満点で七十点と言ったところかな。正確に言えばマダガスカル島へのユダヤ人の集団移住計画は、ナチ党が独自に発案したものではない。十九世紀末にドイツの政治思想家で、反ユダヤ主義者でもあったパウル・ド・ラガルドによって提唱されたのが、その起源とされている。そしてナチ党はこのラガルドの案を再燃させると同時に、ヒトラーもまたこれを了承したが、結局は机上の空論のまま頓挫してしまったのはキミが言う通りだ」

 及第点が与えられたクンツも、彼が敬愛するヒトラーとナチ党を批判され続けているので、今更喜びはしない。

「それにしても、どれだけ贔屓目に見ても本当に馬鹿げた計画だ。碌なインフラ設備も基幹産業も無いアフリカの孤島に、およそ一千万人にも及ぶヨーロッパ中のユダヤ人を無理矢理集団移住させて、一体何が出来ると言うのだろう。そんな事をすれば早晩、政治も経済も文化も破綻し、現地のユダヤ人社会は立ち行かなくなる。それとも、はなからそれがナチ党の目的だったのか? いやいや、だとしたら、あまりにもやり口が回りくど過ぎる。つまりこのマダガスカル計画の立案から頓挫までの一部始終もまた、アドルフ・ヒトラーと言う男の、場当たり的な状況処理能力の証左ではなかろうか」

 そう言い終えたイーライが、丸テーブルを囲む四人全員のスープ皿が空になった事を確認してから右手を挙げると、音も無く現れた給仕が新たな料理の盛られた皿を配膳する。

「スープに次ぐ魚料理は、スズキのポワレだ。ここイスタンブールは黒海とマルマラ海に挟まれた港町でもあるので、今朝陸揚げされたばかりの新鮮なスズキを調理させた。是非とも時間を掛けて、ゆっくりと味わって行ってくれたまえ」

 イーライの言葉を合図に、バーバラら三人は、高温のオリーブオイルでもって表面をカリカリに揚げられたスズキの身にナイフを入れた。

「ところでそちらのお嬢さんは、確かバプテスト派の信徒だった筈だが? そうだね?」

「え? あ、はい」

 唐突に自身の宗派を看破されたエマに、イーライは尋ねる。

「それでは『イクトゥス』とは何か、ご存知かな?」

「イクトゥス? えっと……知りません」

 エマの返答に、イーライはかぶりを振って落胆を露にした。

「未だ子供だとは言え、キリスト教徒ともあろう者がイクトゥスを知らないとは、まったくもって嘆かわしい。いいかね、お嬢さん。ここで言う『イクトゥス』とはギリシャ語で『魚』を意味し、また同時に、初期のキリスト教とその信徒を意味するシンボルでもあった。つまり隠喩メタファーとしての魚こそが、キリスト教徒が古代ローマ帝国による迫害と弾圧を逃れるための隠れ蓑だったのだよ」

 イクトゥスの意味について講釈を垂れたイーライは、銀食器のナイフで切り分けたスズキのポワレをジッと見つめる。

「先程も述べた通り、私は生粋のユダヤ人であると同時に、敬虔なユダヤ教徒だ。唯一神ヤハウェを信奉しながら、安息日にはユダヤ教の教会であるシナゴーグに通い、聖典であるタナハとタルムードに記述された戒律に従って生きている。男子の成人式を意味するバルミツヴァも、ワルシャワ・ゲットー内のシナゴーグで行った。さて、それでは何をもってしてユダヤ人はユダヤ人と定義されるのか、分かるかね?」

 イーライの問いに、エマは無言のまま首を横に振った。

「まず第一の定義はユダヤ民族の血を引いているか否か、つまり、人種的な意味でのユダヤ人だ。そして第二の定義はユダヤ教徒か否かと言う、宗教的な意味でのユダヤ人であろう。この二つの定義から鑑みるに、ユダヤ民族であると同時にユダヤ教徒でもあるこの私は、疑いようのないユダヤ人だ。しかし我が同胞の中にはユダヤ民族でありながらユダヤ教徒でない者や、逆に、ユダヤ教徒でありながらユダヤ民族でない者も存在する。このような曖昧な立場にあるユダヤ人を果たして何と呼ぶべきかはさて置いて、ここでは一旦、ヒトラーとナチ党が如何にしてユダヤ人を定義したかについて論じよう」

 スズキの切り身の一片を口に運んで咀嚼し、それを嚥下してから、イーライは語り始める。

「1935年九月、ドイツ議会は『ドイツ国公民法』と『ドイツ人の血と名誉を守る法』と言う、二つの法律を制定した。これら二つを纏めたものを、俗に『ニュルンベルク人種法』と呼ぶ。そしてこの法律によってドイツ領内でのユダヤ人が定義され、彼らからの公民権の剥奪と、他の人種との婚姻及び性交の禁止が決定された。信じられるかね? セックスをする相手の人種が、法律でもって限定されたのだよ? 現在の先進国の倫理観からは考えられない事だが、当時はそれがドイツの常識だったのだから、これはもう人権思想の敗北としか言いようがない」

 イーライの深い溜息が、晩餐室に響き渡った。

「さておき、先に述べた『ニュルンベルク人種法』におけるユダヤ人の定義から、アドルフ・ヒトラーと言う男の価値観が如実に垣間見える。この法律ではユダヤ人を、当人の祖父母まで遡った血の濃さによって、四分の三以上の『完全ユダヤ人』から『四分の一ユダヤ人』までの三種に分類した。つまり信仰する宗教に関係無く、純粋に人種的側面のみにより、ユダヤ人か否かを決定したと言う訳だ。この点からヒトラーの反ユダヤ主義は宗教的側面に左右されない、純粋なる優生思想に基く、極めて血統主義的なものだった事がうかがい知れる」

 スズキのポワレの二切れ目にフォークを刺しながら、イーライは改めて、自身の思い出話を始める。

「私の兄には、私と私の家族がワルシャワ・ゲットーに隔離される以前から親しくしている、ローマカトリック教徒の友人が居た。名前はユリアン・コーエンと言う赤毛のポーランド人で、顔中がソバカスだらけだった事を鮮明に覚えている。ユリアンは兄の友人ではあったものの、人種的にも宗教的にもユダヤ人ではなかったため、ゲットーに隔離される事無くワルシャワ市の中心部に住んでいた。そして私はこうして魚を、つまりイクトゥスを眼にする度に、若くしてこの世を去った彼の事を思い出してしまうのだよ」

 そう言ったイーライの眼差しは寂しげで、どこか沈痛な面持ちであった。

「ユリアン自身はユダヤ人ではなかったにもかかわらず、彼は困窮する我々の身を案じて、毎日ゲットーの傍にまで来て私や私の兄を励ましてくれた。それは純粋に、ユリアンが人種や宗教に拠らない価値観の持ち主であると同時に、実直で正義感と友情に篤い好青年であったからだと思う」

 不意にイーライはナイフとフォークを丸テーブルの上に置くと、スーツの胸ポケットから万年筆を抜き取り、そのペン先でもって左手首に巻かれた腕時計の文字盤を叩いた。硬く冷たい金属同士が触れ合うチンチンと言う耳障りな音が、静謐なる晩餐室の壁や天井を反響する。

「飢餓と伝染病が蔓延し、何百何千と言う数の人間が毎日ばたばたと死んで行く劣悪な環境のゲットーで、どうして私と私の家族が生き残る事が出来たか分かるかね? それはこうした万年筆や腕時計、それに黄金や宝石などの貴金属をユリアンに頼んでゲットーの外で食料と交換して来てもらい、その食料を糧に、綱渡りをするような危うさでもって命を繋いだのだよ。誰にも見つからないように息を殺しながらゲットーの末端の路地裏に集った我々は、ドイツ軍が敷設した鉄条網越しに表通りのユリアンと落ち合い、そこで食料の受け渡しを行った。もし受け渡しの現場を誰か大人に見つかれば、あっと言う間に食料を奪い取られてしまう。当時のゲットー内はたとえそれが大人だろうと子供だろうと関係無く、弱者は強者から一方的に搾取されるだけの、まさに生き馬の眼を抜くような有様だったのだ。ちなみに食料と交換するための万年筆や時計や貴金属などをどこから調達したかについては、いくら時効が成立しているとは言え、私の名誉のために聞かないでおいてくれたまえ」

 イーライはジョークのつもりなのかもしれないが、そのジョークに付き合わされる格好になったバーバラら三人はくすりとも笑わない。

「しかし残念ながら、別れの日は唐突に訪れた。ある日、いつものように鉄条網越しに食料を受け渡している現場を、たまたまゲットーの周囲を行進していた親衛隊員の一団に見咎められてしまったのだ。当時はナチ党の傘下にあった突撃隊員や親衛隊員、それにヒトラーユーゲントの少年達やドイツ国防軍の兵士達などがそこら中を始終行進していたとは言え、運が悪いにも程がある。そして我々三人は脱兎の如く、二手に分かれて逃げた。兄と私とはゲットーの中心部に向かって駆け出し、ゲットーの外に身を置いていたユリアンは市街地の方角に向かって駆け出したが、彼が身を隠すよりも早く親衛隊員が小銃の引き金を引いたのだろうね。逃げ惑う兄と私の背後から銃声が聞こえて来たのを最後に、二度とユリアンが姿を現す事は無かった。仮に鉄条網が新鋭隊員の行く手を阻んでくれなかったら、兄と私もユリアンと同じ運命を辿っていただろう。親衛隊が敷設した鉄条網によって、当の新鋭隊の隊員の凶弾から逃れる事が出来るとは、まったくもって皮肉な結果としか言いようがない」

 己の運命を嘲笑うかのように、イーライは苦笑した。しかしその苦笑いからは、ユーモアのセンスは微塵も感じ取れない。

「返す返すも、ワルシャワ・ゲットーは本当に本当に酷い場所だった。皮膚の上や毛髪の中を這い回るノミシラミにまみれながら飢えと寒さに耐え忍び、誰もが利己的になって食料を奪い合わなければ、一日たりとも生き延びる事が出来ない。そんな地獄の中でも決して希望を失わなかったのは、ひとえに、血の繋がった大事な家族が一つ屋根の下で一緒に居る事が出来たからだ。そうでなければ幼い私や私の二人の妹達などは早々に生きる事自体を諦め、野垂れ死んでしまっていた事だろう」

 そう言ったイーライがスズキのポワレの最後の一口を嚥下し、やがて丸テーブルを囲む四人全員の皿が空になる。

「だがそれも、ワルシャワ・ゲットーが完成してから二年余りが経過した、1942年の夏までの話だ。この年の一月に、ベルリン郊外のヴァンゼーにおいてナチ党の親衛隊大将を務めるラインハルト・ハイドリヒが会議を主宰し、ユダヤ人問題の最終的解決、つまりヨーロッパ大陸における全ユダヤ人の絶滅が決定された。また三月にはオズヴァルト・ポール親衛隊中将によるポール指令が発令され、強制労働による抹殺と絶滅がユダヤ人問題の至上命題となると、各地のゲットーに隔離されていたユダヤ人の絶滅収容所への移送が本格化する」

 空になった皿を前にしたイーライは、より沈痛な面持ちになった。

「こうして、ワルシャワ・ゲットーのユダヤ人住民達は、続々とポーランド東部のトレブリンカ絶滅収容所へと移送され始めた。ヘウムノ、ベウジェツ、ソビブルに続く、四番目の絶滅収容所だ。そしてゲットー内にはユダヤ人評議会と言う名ばかりの自治組織が存在したが、その構成員の大半は数少ない富裕層とその家族から成り立っており、ゲットーを管理する親衛隊の傀儡同然だった彼らは住民の移送を容認してしまったのだよ」

 溜息混じりにそう言い終えたイーライがそっと右手を挙げると、給仕が新たな皿を配膳する。配膳された白磁の皿の上には、ミンチ状の生の牛肉が卵黄と共に薬味を添えて盛られていた。

「フルコースの最初の肉料理は、牛肉のタルタルステーキだ。この中に、生肉は苦手だと言う者は居られるかな? 居られなければ、新鮮な生の牛肉の風味と舌触りを、是非とも堪能して行ってほしい」

 イーライの勧めで、バーバラら三人は、丸い円筒状に成型された生の牛挽肉にナイフを入れる。

「さて、ここからが私の回顧談の本番戦だ。これまでの前置きなどとは違い、その内容は、益々をもって凄惨を極める格好となる。常識的に考えれば食事中にするような話ではないのかもしれないが、先にも述べたようにキミ達に拒否権は無いので、最後まで心して聞くように」

 晩餐室の丸テーブルを囲むバーバラとエマ、それにクンツの三人を睨み据えながらそう言ったイーライもまた、牛肉のタルタルステーキにナイフを入れた。そして切り分けた牛挽肉の一辺をフォークでもって口に運びつつ、改めて語り始める。

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