第六幕
第六幕
ガラタ橋を臨む窓の向こうから聞こえて来るアラビア語によるアザーンに、バーバラは眼を覚ました。そしてベッドの上で半身を起こすと、すぐ隣ではエマとアデーレの二人が抱き合いながらすうすうと可愛らしい寝息を立て、彼女らの枕元に寝転がった黒猫のスィヤフは毛繕いに余念が無い。
「
バーバラはベッドの上で跪き、聖地メッカの方角に向かって頭を下げながらアラビア語でそう唱え、午前の礼拝である『ズフル』を終えた。お世辞にも敬虔とは言い難い、不真面目なイスラーム教徒であるバーバラらしい適当で大雑把な礼拝である。
「さて、シャワーでも浴びるか」
小声でそう独り言ちたバーバラは、幸せそうな寝顔を見せるエマとアデーレを起こしてしまわないように注意しつつ、寝室の床にそっと静かに降り立った。そしてバスルームへと向かう途中でちらりとリビングの様子をうかがうと、革張りのソファの上で眠っているクンツの寝苦しそうな姿が確認出来たので、ざまあみろとでも言いたげにほくそ笑む。同性愛者であるバーバラにとって、男などと言う不潔でがさつな生き物はその程度の扱いで充分なのだ。
脱衣所で下着を脱いで全裸になり、浴室に足を踏み入れてバルブを回すと、ステンレス製のシャワーヘッドから熱湯が
「ふう」
汗と埃と共に、前日にホテル・エルサレムで一暴れした際に蓄積された疲労感や緊張感もまた洗い流されて行くようで、なんとも心地良い。すると不意にバーバラは、磨りガラスが嵌め込まれたドア一枚向こうの脱衣所に、複数の人の気配を感じる。
「エマ?」
磨りガラスにぼんやりと浮かび上がる人影に向かって、バーバラが呼び掛けた。しかし奇妙にも、脱衣所からの返事は無い。
「エマ? クンツ?」
不審に思ったバーバラが再び呼び掛けた次の瞬間、脱衣所と浴室とを隔てるドアが勢いよく開いたかと思うと、こちらに銃口を向けた散弾銃の銃身が覗く。
「!」
果たして脱衣所に居たのはエマでもクンツでもなく、濃紺色の夜間迷彩服の上からケブラー製のボディアーマーとフェイスガード付きのヘルメットを装着し、ガスマスクで顔面を覆った二つの不審な人影だった。しかもその不審な人影は、こちらに向けてやけに大きなセミオート式散弾銃、つまりイスラエルのIMI社製のタボールTS12を構えている。
「動くな!」
不審な人影はタボール散弾銃を構えながら警告するが、かつてMIT《トルコ国家情報機構》の凄腕工作員だったバーバラの反応は、その警告よりも早い。彼女は一瞬にして身を翻すとタボール散弾銃の銃身を掴み取り、それを手元に引き寄せると、体勢を崩した夜間迷彩服の人影に殴り掛かった。しかしケブラー製のボディアーマーとフェイスガード付きのヘルメットに阻まれてしまい、幾ら殴りつけても、煉瓦の様に硬い筈のバーバラの拳がその威力を充分に発揮出来ない。
「糞!」
悪態を吐いたバーバラは素手による攻撃を一旦諦め、一糸纏わぬ全裸のままシャワーの湯が出しっ放しの浴室を飛び出すと、脱衣所を占拠した夜間迷彩服の二人に強引なタックルを敢行した。互いの手足が絡まり合うかのようにくんずほぐれつ揉み合いながら、バーバラも含めた三人がリノリウム敷きの床をごろごろと転がる。そして逸早く身を起こした全裸のバーバラはアパートメントの廊下へと続くドアを開け放ち、逃げ場の無い浴室に続いて、狭く身動きの取れない脱衣所からの退避に成功した。
「!」
だがしかし、廊下に退避したバーバラの無防備な顔面を、頑丈な軍用ブーツの分厚い踵による強烈な蹴り技が襲う。その蹴り技を上体を捻る事によって回避してみせたバーバラだったが、間髪を容れずに襲い掛かって来たカランビットナイフによる斬撃は彼女の体術をもってしても回避し切れなかった。鋭利なナイフの切っ先が頬を掠め、バーバラの褐色の肌に浅い裂傷を負わせる。
「ほう、俺のナイフをよく
首根っこを喉元から掻っ切られる致命傷こそ回避してみせたものの、それでも頬に裂傷を負ったバーバラを、カランビットナイフの主が褒め称えた。彼女の頬の裂傷から真っ赤な鮮血が滴り落ち、アパートメントの廊下を濡らす。
「てめえら、モサドか!」
全裸のバーバラが体勢を整えながら正体を看破した相手は、両手にカランビットナイフを手にした長身で体格の良い壮年の男性、つまり鼻の大きな老人と共にイスタンブール国際空港に降り立ったモサドの工作員であった。
「そこまで理解しているのなら、話は早い。大人しく投降しろ。そうすれば、人質を傷付けなくて済む」
カランビットナイフを構えながらそう警告した壮年の男性工作員の背後には、夜間迷彩服に身を包んだ他の工作員が立っており、背後から拘束したエマの首筋にベレッタ拳銃の銃口を押し当てている。
「エマ!」
愛するエマを人質を取られてしまっては、徒手空拳のバーバラに打つ手は無い。しかも気付けば廊下の玄関側にもリビング側にもタボール散弾銃を構えた複数の工作員の姿が垣間見え、全裸の彼女は完全に包囲されてしまっていた。
「糞、仕方ねえ。投降するよ。どこへなりとでも連れて行け」
観念したバーバラは両手を頭上に挙げて抵抗の意思が無い事を示すが、夜間迷彩服に身を包んだ工作員の一人が壮年の男性に近付き、直訴する。
「ベレルマン大佐、こいつは迂闊に近付くと危険です。無力化してから拘束しましょう。私にやらせてください」
「そうか、分かった。ならデボラ、お前がやれ」
ベレルマン大佐と呼ばれた壮年の男性に許可を得た夜間迷彩服の工作員は一歩前に出ると、タボール散弾銃を構えながらフェイスガード付きのヘルメットを脱ぎ、顔面を覆うガスマスクを外した。するとその夜間迷彩服の工作員、デボラの素顔が明らかになる。
「この顔と絆創膏に、見覚えがあるだろう?」
バーバラに向かってそう言ったデボラは大きな絆創膏が貼られた自身の顎を、恨めしそうに撫で擦った。つまりデボラとは、イェニカプ港とホテル・エルサレムでの邂逅において、二度にも渡ってバーバラに下顎を殴打されたブルネットの髪の女性その人である。
「よりにもよってお前かよ、この
「黙れ、この
トルコ語で毒突くバーバラにヘブライ語で毒突き返すと、デボラはタボール散弾銃の引き金を躊躇無く引いた。アパートメントの廊下に反響する銃声と共に射出された電極付きのスタン弾が全裸のバーバラの胸に着弾し、彼女の全身に高圧電流が流れる。しかしバーバラは床に膝を突いただけで、気を失いはしない。
「モサド特製のスタン弾の味はどうだ? まともに食らえば、野生のゴリラでも立っていられないほどの威力だ。しかしどうやら、お前はゴリラよりも頑丈らしいな」
「あいにくと、身体が資本の仕事なんでね」
バーバラは強がってみせるが、モサド特製だと言う触れ込みのスタン弾の威力は尋常でなく、彼女の顔は苦痛に歪む。
「しかし、幾ら頑丈でももう一発食らえば意識を保っていられまい。何か言い残す事があれば、聞いておいてやるぞ?」
「それじゃあ、シャワーの湯をちゃんと止めておいてくれ。出しっ放しのまま撤収されたら、来月の水道代が心配だ」
やはり強がってそう言ったバーバラにタボール散弾銃の銃口を向けたデボラは、再び引き金を引いた。二発目のスタン弾の直撃を食らったバーバラは意識を失い、アパートメントの廊下の床にどさりと崩れ落ちる。
●
昏倒したバーバラは、夢を見ていた。あまり思い出したくもないような、どこか陰鬱な気持ちになる、辛気臭くも忌まわしい悪夢である。そして夢の中の彼女は砂漠用のデジタル迷彩服と各種タクティカル装備に身を包み、サプレッサーとマグライトが取り付けられたH&K社製のHK416自動小銃を手にした状態で、トルコ陸軍が正式採用しているオトカコブラ軽装輪装甲車に乗っていた。
「どうしたお嬢ちゃん、良い子はもう寝る時間かい?」
彼女の隣に座る、やはりデジタル迷彩服とタクティカル装備に身を包んだ髪の薄い中年男性がからかうようにそう言ってほくそ笑むと、バーバラは不快感を露にする。
「あたしはお嬢ちゃんじゃねえぞ、この禿げ頭のインポ野郎が! その僅かに残っている毛も、全部毟り取ってやろうか?」
「わお! こりゃまた、なんて口の悪いお嬢ちゃんだ!」
髪の薄い中年男性はわざとらしく驚いてみせると、オトカコブラの車内で手を叩きながら、げらげらと声を上げて笑った。すると同じオトカコブラの車内で二人の会話を聞いていた三人の男達もまた、一緒になってげらげらと笑う。
「何を笑ってやがる! 笑うな、この種無しのインポ野郎どもめ!」
バーバラは口汚く罵るが、彼女が興奮すればするほど、デジタル迷彩服に身を包んだ四人の男達の笑い声の声量は増すばかりだ。
「歓談中に申し訳無いが、お楽しみはそこまでだ。もうすぐ国境から二㎞の作戦開始地点に到着する。ケスキン大尉、全員の装備と作戦の最終確認を行え」
各自の耳に取り付けられたワイヤレスイヤホン型の無線通信機の向こうから下された命令に、バーバラを含めた車内の四人全員に緊張が走る。
「ケスキン大尉から作戦司令室へ。了解した。これより装備と作戦の最終確認を行う」
バーバラをからかっていた髪の薄い中年男性が居住まいを正すと、真剣な眼差しと真摯な口調でもって返答した。どうやらこの男性こそが、作戦司令室が名指ししたケスキン大尉その人らしい。
「よし、野郎ども、それにお嬢ちゃん、装備を確認しろ! 銃は持ったな? 弾丸は装填されているか? 腰のナイフは研いであるか? ヘルメットは被り忘れてないな?
ケスキン大尉の号令に合わせて、オトカコブラ軽装輪装甲車の車内の四人は各自の装備の有無と状態を確認する。サプレッサーとマグライト付きのHK416自動小銃、同じくサプレッサーとマグライト付きのグロックC18拳銃、バークリバー社製のブラボーナイフ、その他各種タクティカル装備は全て問題無い。勿論四人とも全裸ではないし、排尿も排便も終え、遺書を書く事も
「よし、次は作戦の確認だ! まず最初に言っておくが、今回の作戦は俺達トルコ陸軍と、ここに居るお嬢ちゃんが所属するMIT《トルコ国家情報機構》との合同作戦だと言う事を忘れるな! つまり、仮に作戦が失敗でもすれば両方の組織の汚点となって、俺達は後々まで後ろ指を差される事になるだろう! それが嫌なら、何が何でも絶対に作戦を完遂するべく、心して掛かれ! いいな、野郎ども、お嬢ちゃん!」
「おう!」
声を張り上げて発破を掛けるケスキン大尉の言葉に、彼の三人の部下達とバーバラもまた呼応する。
「いいか、もうすぐ俺達は、シリアとの国境から二㎞の作戦開始地点に到着する! ここから国境を越えて一㎞ほど南下したアル・ダルバシヤの町の中心部の、この辺り一帯を治める部族長の屋敷が、今回の作戦の目的地だ! 先だってMIT《トルコ国家情報機構》がシリアの内通者から得た情報によれば、今ここに、アブドゥル・アル・カシムが匿われている! このカシムと言う糞野郎が何者なのか、全員理解しているな? ケマル曹長、こいつの正体を言ってみろ!」
「はい、大尉殿! この男は半年前にイスタンブールのショッピングモールにパイプ爆弾を仕掛けた、イスラム
ケマル曹長と呼ばれたケスキン大尉の部下の一人が、切れの良い声でもってはきはきと答えた。髭が濃くて精悍な顔立ちの、未だ若く逞しい男性である。
「そうだ曹長、その通りだ! そして俺達はこれから、このテロリストの糞野郎を拉致するために、アル・ダルバシヤの部族長の屋敷に夜襲を仕掛ける! 卑怯で卑劣なテロリストは法廷で裁かれ、相応の罰でもって罪を償わなければならない! さあ、基地での
やはり発破を掛けるようなケスキン大尉の合図でもって、バーバラら四人は停車したオトカコブラ軽装輪装甲車の後部ハッチが開くのと同時に、一斉に車外へと駆け出した。シリアとの国境まで二㎞地点の国道D950号線沿いには人の気配はまるで無く、新月の夜空は真っ暗で、点在する街灯のぼんやりとした灯りだけが文明社会の残滓の様に舗装された路面を照らし出している。
「可能な限り、無線は使うな」
ケスキン大尉の指示に従い、砂漠用のデジタル迷彩服に身を包んだ彼と彼の三人の部下達、そしてバーバラは、無言のまま前進を開始した。そして街道を外れて東に大きく迂回しながら、砂と岩以外には何も無い乾燥した砂漠地帯の闇夜の中を、シリアとの国境目指して歩き続ける。
「国境だ」
やがて何事も無く、彼ら五人はトルコ共和国とシリア・アラブ共和国とを隔てる国境へと辿り着いた。国境沿いには高さ四mばかりの鉄筋コンクリート製の防護壁と、更にその上を覆う鉄条網とが敷設され、国境を越えようと目論むバーバラらの行く手を阻む。するとケスキン大尉の部下の一人が防護壁に接近し、背負っていた伸縮式の梯子の準備を開始した。アルミ合金製で見掛けよりもずっと軽く、その上頑丈で、収納されている全ての箇所を延ばせば最延長五mにも達する簡便な梯子である。そしてこの梯子を二脚使い、五人は防護壁と鉄条網とを乗り越え、シリア・アラブ共和国の領土内へと足を踏み入れた。
「よし、ハヤト軍曹、お前はここに残れ。最悪の場合は、単独での帰還を許可する」
ハヤト軍曹と呼ばれた浅黒い肌の長身の部下をその場に残したまま、ケスキン大尉が先導するトルコ陸軍の兵士達とバーバラとの混成部隊は前進を再開する。幸いにも今現在のところ、闇夜に紛れて音も無く歩き続ける彼らの気配が、国境を警備するシリア・アラブ軍に勘付かれた様子は無い。
「おい、お前」
不意にバーバラが、隣を歩くケマル曹長に声を掛けた。
「何だ?」
「お前の名前、ケマルってんだな。そんな御大層な名前を背負っているくせに、未だ曹長止まりとはな。いつになったら将軍になって、大統領に任命されるんだ? あ?」
「嫌味はよせよ、お嬢ちゃん。こっちは名前負けしてるってしょっちゅう言われて、いい加減にウンザリしてるんだ」
ケマル曹長は
「それで、あんたの名前は何て言うんだい、お嬢ちゃん?」
「バーバラだ。姓でも名でもない、只のバーバラだ。バーバラって呼んでくれ」
「なるほど。覚えておくよ、バーバラ」
そう言ったケマル曹長とバーバラとは互いの名前を話の種にしながら、小声で笑い合った。そして夜の砂漠を歩き続ける内に、彼ら二人を含む四人が視界に捉えたアル・ダルバシヤの町の家屋の窓から漏れる仄かな灯りが、次第次第に大きく明るくなって行く。ここから先は地元の部族が支配する、言わば敵の勢力圏だ。
「町に着いたぞ。予定通り裏道を進み、この先の部族長の屋敷を目指す。決して地元住民に発見されないように、細心の注意を払え」
アル・ダルバシヤの町に到着した四人は人眼を避けるように物陰から物陰へと移動しつつ、ひっそりと静まり返った深夜の町の人気の無い裏通りを、足音を殺しながら歩き続ける。そして誰にも見咎められる事無く、一軒の屋敷の裏口の前まで辿り着くと、四人は闇の中で足を止めた。この屋敷こそ、イスタンブールのショッピングモールにパイプ爆弾を仕掛けたテロリストであるアブドゥル・アル・カシムが匿われている、ここら一帯を治める部族長の屋敷である。
屋敷の裏口の木製の扉の脇に身を潜めたケスキン大尉が、見張りや監視カメラが存在しない事を確認すると、手信号でもって二人の部下達に突入を命じた。勿論突入とは言っても、大仰に扉を破壊して、銃を乱射しながら強引に押し入れと言っている訳ではない。この作戦は極秘裏の内に
突入を命じられたケマル曹長が裏口の扉を開けようとドアノブに手を掛けるが、当然のように内側から施錠されているので、ノブを回しただけでは扉は開かない。そこで彼はタクティカルベストのポーチの一つから数種類のピッキングツールを取り出し、それらを鍵穴に差し込んで、解錠を試みる。すると僅か数分後、カチャリと言う微かな金属音と共に錠が外れ、木製の扉がゆっくりと開いた。
裏口の扉から覗く屋敷の内部はとうに灯が落とされており、一寸先も見えないほど暗く静かで、人の気配は無い。
「よし、行け」
決して声を発する事の無いまま、手信号と唇の動きだけでもってケスキン大尉に命じられたケマル曹長を先頭に、ヘルメットに装着された
やがて四人は音も無く屋敷の階段を上ると、中庭を囲む二階の廊下を渡り、一番奥の突き当たりの部屋の扉を二人一組になって左右から挟み込んだ。事前に内通者から得た情報によれば、アブドゥル・アル・カシムは部族長の庇護の下、この部屋を
再びケマル曹長が、ドアノブに手を掛ける。しかし今回の扉は屋敷の裏口のそれと違って施錠されてはおらず、真鍮製のノブを回してからそっと押すと、暗闇の中で小さくきいと言う金属音を立てながら簡単に扉は開いた。そしてやはり音も無く室内へと侵入した四人は、
「
やはり手信号と唇の動きだけでもって、
「三、二、一、今だ!」
まず初めに右手の指を三本立て、それを一定のリズムに合わせながら一本ずつ減らす事によってタイミングを計ったケスキン大尉の無言の号令に従い、バーバラら三人は一斉にカシムに飛び掛かった。バーバラは彼の両足首を、ケマル曹長は両手首を掴んでベッドに押さえつけ、抵抗出来ないように動きを封じる。そして最後の三人目は薬剤を染み込ませたタオルでカシムの口と鼻とを塞ぎ、叫び声を上げさせないと同時に、彼を昏睡させようと試みた。
「!」
寝ていたところを突然襲われたカシムは眼を覚まし、何が何だか分からないままベッドの上で藻掻き暴れるが、三人掛かりで取り押さえられてしまっては身動きはおろか声を出す事すらもままならない。そして口と鼻とを塞ぐタオルの下でもごもごと言葉にならない言葉を発している内に、タオルに染み込ませた薬剤、つまり麻酔薬の一種であるジエチルエーテルを吸い込んだ彼の意識は次第に混濁し始める。
「……」
やがてカシムの手足はぐったりと脱力し、恐怖と驚愕の色に染まりながら見開いていた眼がとろんと虚ろになると、ものの一分と経たない内に完全に意識を失った。やや小柄な彼の身体は、外科手術の麻酔薬としても利用されるジエチルエーテルの効果によって、もはやぴくりとも動かない。そこで事前の打ち合わせ通り、ケマル曹長を含めたケスキン大尉の二人の部下達が意識の無いカシムの脇の下と膝の下に腕を通して抱え上げ、屋敷からの脱出を計る。
「バーバラ、今度はお前が先導しろ」
「!」
果たして、そこに立っていたのは未だ十歳にも満たないと思われる、小さな幼女であった。米ディズニー社製の女の子向けのキャラクターがプリントされたピンク色のパジャマに身を包み、おそらくはこの屋敷の主である部族長の孫かひ孫であろう彼女は、つぶらな瞳をまん丸に見開いたままバーバラをジッと凝視している。どうやらこの幼女だけが屋敷の内部で起こっている異変に気付き、たった一人きりで、この部屋まで様子を見に来てしまったらしい。
「撃て、バーバラ!」
ケスキン大尉が、室内の人間のみに聞こえるくらいの小声でもって命じた。作戦の遂行に支障を来たし、任務達成の妨げとなる存在は、たとえそれが幼い子供であろうと速やかに排除するのがセオリーである事は論を俟たない。だがしかし、レズビアンのロリコンと言う歪な性癖を拗らせたバーバラはHK416自動小銃の銃口を幼女に向けたまま、その場に立ち尽くす。
「撃て! 早く!」
少しだけ声を張り上げながら、ケスキン大尉が重ねて命じた。だがそれでも、HK416自動小銃を構えたバーバラは引き金に指を掛けたまま躊躇するばかりで、その指を引き絞る事が出来ない。たとえ作戦を完遂するのに必要な正義のための犠牲であれど、もし仮に彼女が引き金を引いてしまえば、この無辜の幼女の頭部は石壁に叩きつけられた熟れたザクロの様に真っ赤な汁をぶちまけながら粉々に砕け散ってしまうだろう。そんな無情で無慈悲な行為を実行に移す事は、MIT《トルコ国家情報機構》の工作員として厳しい訓練を積んだバーバラであっても、決して容易ではない。すると幼女は覚悟を決めかねるバーバラより先に我に返ると、サプレッサーが装着されたHK416自動小銃の銃口を眼の前に突き付けられたまま、有らん限りの声量でもって絶叫した。
漆黒の闇の底に沈んでいた屋敷の隅々にまで幼女の叫び声が反響し、悪魔も見過ごすほどの沈黙と静寂を、一瞬にして破り捨てる。
「ああ、糞! なんてこった! こうなったら仕方が無い、このまま合流地点まで強行突破だ! バーバラ、お前が先導しろ! ケマル曹長とアルトゥン兵長は、
もはや息を殺しての隠密行動は意味を為さないと判断したケスキン大尉が、大声で命じた。そして絶叫し続ける幼女の脇を駆け抜けながら、先頭に立つバーバラ、昏睡状態のアブドゥル・アル・カシムを抱え上げたケマル曹長とアルトゥン兵長、それにケスキン大尉の四人は屋敷からの撤退を開始する。
「総員、裏口は無視して正面玄関に向かえ! 屋敷の正門から表通りに出たら、車輌を調達するぞ!」
「了解!」
「バーバラ、撤退用の車輌を探せ! 車種は何でもいい! とにかく今は、エンジンが掛かる車輌を探すんだ!」
やはりケスキン大尉の命令に従い、力任せに蹴り開けた屋敷の正門からアル・ダルバシヤの町の表通りへと躍り出たバーバラは、手近な路肩に違法駐車されていたトヨタ社製のピックアップトラックの窓ガラスをHK416自動小銃の銃床でもって叩き割った。叩き割られたガラスの破片が煉瓦敷きの路上に散乱し、草木も眠る丑三つ時の町並みをぼんやりと照らし出す街灯の灯りによって、きらきらと光り輝く。そして運転席に飛び乗った彼女はイグニッションキーの鍵穴に、非合法な手段で入手した強制解錠が可能な
「よし! お前ら、早く乗れ! 急げ!」
運転席でハンドルを握るバーバラに急かされながら、ケスキン大尉が助手席に、ケマル曹長とアルトゥン兵長の二人が昏睡状態のアブドゥル・アル・カシムと共に後部座席に乗り込むと、トヨタ社製のピックアップトラックは間髪を容れずに発進した。だがその間にも、幼女の叫び声を耳にした部族長の屋敷の住人達が続々と眼を覚まし、カラシニコフ式自動小銃を手に手に同胞たるカシムを奪還せんと集結し始める。そして屋敷を飛び出した彼らの第一陣が、走り去ろうとするバーバラらを乗せたピックアップトラックに照準を合わせて、自動小銃を乱射した。
「糞! 危ねえ!」
ハンドルを握りながら悪態を吐くバーバラの背後で、カラシニコフ式自動小銃の銃弾を浴びたピックアップトラックのリアガラスとフロントガラスが耳を
「頭を下げろ! ケマル曹長、アルトゥン兵長、カシムを守れ!」
助手席のケスキン大尉が身を屈め、彼自身もまた銃弾から身を守るために姿勢を低く保ちながら、後部座席に座る二人の部下達に命じた。素人考えからすると、カシムを守れと言う命令は道理に反するようにも聞こえるが、それは決して正鵠を射た見識ではない。あくまでも今回の作戦は、アブドゥル・アル・カシムと言う名の一人のテロリストを法廷に立たせ、正規の手続きに則って罪を償わせる事こそが最終的な目的である。つまり、ここでうっかりカシムを死なせてしまうかどうかが作戦の成否そのものを左右する重要な分岐点であり、場合によってはバーバラら四人の生死の如何よりも優先されるのだ。
「バーバラ、このまま国境まで一気に突っ走れ!」
「言われなくたって分かってるよ! それよりも、後ろを見張っててくれ!」
そう叫んだバーバラが運転するピックアップトラックは、アル・ダルバシヤの町の北端を東西に走る国道712号線を横断すると、真っ暗で荒涼とした闇夜の砂漠地帯へと足を踏み入れる。当然ながら砂と岩ばかりの砂漠地帯は全く舗装されていないので、少しでもハンドル操作を誤ればタイヤが岩に乗り上げて車体そのものが横転しかねず、オフロード仕様ではないこの車輌では下手に速度を上げる事が出来ない。
「追手だ!」
今度は後部座席のケマル曹長が、割れたリアガラス越しに背後の様子を確認しながら叫んだ。そして彼の言う通り、バーバラがバックミラーを覗くと、数台の車輌に分乗した男達の一団がこちらに向かってカラシニコフ式自動小銃を乱射しながら追って来るのが見て取れる。
「糞! あっちはカシムが死んでもお構いなしかよ!」
興奮した野生の猿の様な喚声を上げながら追って来る男達の一団の姿に、ピックアップトラックの運転席のバーバラが毒突いた。どうやら彼女らとは違って、正規軍ではない男達は連れ去られたカシムを人質とは考えていないらしく、場合によっては敵と一緒に死んでしまっても構わないものと判断したらしい。
「このままじゃ国境に辿り着く前に追いつかれる! もっと速度を上げろ! アクセルペダルを限界まで踏み込め!」
「やってるよ! 砂でタイヤが空回りしてんだ! それにこの暗さじゃ、危なっかしくてこれ以上の速度は出せない!」
口論寸前のケマル曹長やバーバラらを乗せたピックアップトラックは、がたがたと車体を上下左右に揺らしながら、微かな星明かりとヘッドライトの光の輪に照らし出された砂漠地帯を走り続ける。しかしこのままでは遠からず、追手である男達を乗せた車輌に捕捉される事は、火を見るよりも明らかであった。何であれば追って来る車輌の内の一輌は軍用のオフロード車であり、オンロード車であるピックアップトラックよりも、砂漠や沼地と言った悪路の走行に適しているからである。
「せめて、カシムの身柄だけでも国境の向こうに送り届けられれば……」
ケマル曹長が口惜しげにそう呟くと、突如としてバーバラはブレーキペダルを踏み込み、真っ暗な砂漠のど真ん中でピックアップトラックを停車させた。
「どうしたバーバラ? 何故停まる?」
「いいから全員の
「車を降りろだと? それで、お前はどうするんだ?」
「あたしはここで踏み止まって、追って来る糞野郎どもを足止めする! その間に、お前らとカシムは国境を越えるんだ!」
ケスキン大尉の問いに対してそう返答したバーバラは、予備の
「馬鹿な事を言うんじゃない! このままお前も一緒に、俺達全員で揃って国境を越えるぞ!」
「馬鹿な事を言ってんのはお前の方じゃねえか! このままじゃカシムも含めてあたしら全員が殺されるか、運が良くても捕虜にされるのがオチなんだよ! だったら犠牲は最小限に抑えるべきだし、その最小限の犠牲をあたしが買って出てやるって言ってんだ、この禿げ頭のインポ野郎が! それにあの時、子供を咄嗟に殺せなかったのは、あたしの責任だ! だから、汚名を
バーバラの提案は理に適ってはいたが、ケスキン大尉はトルコ陸軍の将校であると同時にMIT《トルコ国家情報機構》との合同作戦の指揮官として、また一人の男として、その提案を安易に支持する訳には行かない。
「どうしても犠牲が必要だと言うのなら、俺が残る! お前はケマル曹長とアルトゥン兵長と共に、カシムを連れて逃げろ!」
「ふざけてんじゃねえぞ! 指揮官が作戦の途中で戦線離脱してどうする! この状況ではあたしが残るのが一番の得策だって事を、その禿げ頭の中の少ない脳味噌で今すぐ理解しろ! 理解したら、さっさと
バーバラに怒鳴りつけられたケスキン大尉は堅く眼を瞑り、一瞬だけ逡巡した。そして眼を開けると意を決し、タクティカルベストのポーチの中の予備の
「死ぬなよ」
最後にそう言い残したケスキン大尉は、アブドゥル・アル・カシムを抱え上げた二人の部下達と共に降車し、トルコ共和国とシリア・アラブ共和国とを隔てる国境を目指してその場を走り去った。そして暗闇の中へと姿を消す彼らの背中を見送ると、ハンドルを握るバーバラはピックアップトラックをその場で強引にUターンさせ、カラシニコフ式自動小銃を乱射する男達を乗せながら接近して来る車列と対峙する。
「さて、ここからが正念場だ」
そう独り言ちたバーバラはアクセルペダルを目一杯まで踏み込み、割れたフロントガラス越しに片手で構えたHK416自動小銃を乱射しながら、まるで太平洋戦争末期の米海軍の戦艦に特攻する大日本帝国海軍のゼロ戦を彷彿とさせる突撃を敢行した。このタイミングではブレーキペダルを踏もうともハンドルを切ろうとも、もはやどちらの勢力の車輌の回避行動も間に合わない。
「この童貞のチンカス野郎どもが! 女のまんこの味も知らないまま、薄汚い血反吐と糞尿を漏らしながらとっととおっ死にやがれや!」
バーバラの下品で侮辱的な罵声が合図となって、彼女が運転するピックアップトラックとアル・ダルバシヤの町の男達が分乗した車列とが真正面から激突した。闇夜に轟く衝撃音と火花が飛び散り、森閑とした空気を震わせながら、互いの車輌が横転して砂と岩の上をごろごろと転がる。そして横転した車輌から逸早く這い出したバーバラはピックアップトラックの車体を盾にしつつ、カラシニコフ式自動小銃を手にした男達の一団を次々と排除し始めた。また同時に、彼女は銃撃戦を繰り広げながら、軽快かつ軽妙なリズムに合わせて声高らかに歌う。
働け働け♪ 金だ金♪
働け働け♪ 金だ金♪
働け働け♪ 楽しいお金♪
楽しいお金だ♪ 働け働け♪
働け働け♪ 急げ急げ♪
働け働け♪ 焦れ焦れ♪
働け働け♪ 急げ急げ♪
焦って急いで♪ 働け働け♪
おはよう♪ おはよう♪ おはよう♪
おはようジル♪ おはようジャック♪
文句は言わず♪ 戻ってこい♪
おはよう♪ おはよう♪ おはよう♪
おはようジム♪ おはようフレッド♪
死ぬまで働け♪
お金は諸悪の根源♪ お金は罪の果実♪ お金は万物の根源♪
スーツを着ろ♪ そうすれば入れてもらえる♪
おはよう♪ おはよう♪ おはよう♪
用件は何♪ 用途は何♪
働いて♪ 稼いで♪ また作れ♪
退屈♪ 退屈♪ 退屈だ♪
一日中働け♪ パンを稼げ♪ くたばって死ぬまで♪
お金は諸悪の根源♪ お金は罪の果実♪
金♪ 金♪ 金がお前を狂わせて♪ 最後は精神病院行き♪
働け働け♪ 金だ金♪
働け働け♪ 金だ金♪
働け働け♪ 楽しいお金♪
楽しいお金だ♪ 働け♪ 働け♪
働け働け♪ 急げ急げ♪
働け働け♪ 焦れ焦れ♪
働け働け♪ 急げ急げ♪
焦って急いで♪ 働け♪ 働け♪
お金は諸悪の根源♪ お金は罪の果実♪ お金は万物の根源♪
金払え♪ さもなきゃお前をぶち込むぞ♪
一日も休まず働け♪
働き働け♪ 人生は放っておけ♪
何かは聞くな♪ 何故かは聞くな♪ ただ死ぬまで働け♪
お金は諸悪の根源♪ お金は罪の果実♪ お金は万物の根源♪
死神がやって来る♪
人生は公園での馬鹿歩き♪
暗くなってから喉に突き付けられたナイフ♪
人生は酷いジョークで悪ふざけ♪
言葉を喋って真っ暗になる♪
お金は悪の果実♪ お金は罪の根源♪ 楽しいお金を奪えばリッチになれる♪
人生は糞で勝ち目は無い♪
お金は諸悪の根源♪ 何故かは絶対聞くな♪ お金は悪の果実♪
死ぬまで働け♪
それはやはり、英国放送協会BBC製作の往年のコメディ番組『空飛ぶモンティ・パイソン』のライブ公演での挿入歌の一つである、『馬鹿歩きの歌』であった。そして興奮の絶頂に達したバーバラは猟奇的にほくそ笑みながら、物陰に隠れた敵の一団は安全ピンを抜いた
「相手はたった一人だ! 囲め! 囲め! 囲んで袋の鼠にしろ! 決して背中を見せるな! 背中を見せたら撃たれるぞ!」
しかしカラシニコフ式自動小銃を手にしたアル・ダルバシヤの町の男達は気勢を上げながらバーバラを包囲し、牽制射撃を繰り返しつつじりじりと前進する事によって、その包囲網を次第に狭め始める。
「ようし、いいぞ、この童貞のチンカス野郎どもが! 前の穴も後ろの穴もおっぴろげて纏めて相手をしてやるから、どんどん掛かって来い!」
やはり下品で侮辱的な罵声でもって、HK416自動小銃を手にしたバーバラは自分を取り囲む男達を挑発した。するとそんな彼女の名を呼ぶ声が、どこか遠くから聞こえ始める。
●
自分の名を呼ぶ声に、バーバラは夢の世界からゆっくりと覚醒した。
「バーバラ! バーバラ!」
眼を覚ました彼女の視界一杯に、心配そうにこちらを見下ろすプラチナブロンドの髪のエマの、可愛らしくもどこか儚げな泣き顔が広がる。
「……エマ?」
「ああ、良かった! なかなか起きないから、このままずっと眼を覚まさないんじゃないかと思って、心配したんだから!」
「心配するなエマ、あたしは不死身だ。たとえ誰に何をされようと、絶対にお前を残して死にゃしねえよ」
バーバラはそう言いながら半身を起こすと、現在の自分達が置かれた状況を確認すべく、視線を巡らせて周囲を見渡した。さほど広くもない飾りっ気の無い部屋に簡易ベッドが数床置かれ、その内の一つに彼女は寝かされていたらしく、さっそくその簡易ベッドからリノリウム敷きの床へと降り立つ。室内にはバーバラとエマ、それに彼女が寝かされていたのとは別の簡易ベッドに腰掛けたクンツの姿が確認出来るが、一緒に囚われた筈のアデーレはどこにも見当たらない。
「糞、あいつら念入りに縛りやがって。これじゃ便所でケツも拭けねえじゃねえか」
愚痴を漏らすバーバラの言葉通り、自由を奪うと同時に精神的に屈服させる目的でもって、彼女ら三人の両手首はナイロン樹脂製の結束バンドで縛られていた。
「エマ、ここがどこだか分かるか?」
「ううん、目隠しされて車でここまで連れて来られたから、あたしにも分かんない。だけど多分、未だイスタンブールの市内だとは思う」
「そうか。糞、どうやら逃げ道は無さそうだな」
自分達が何らかの施設の一室に監禁されている事を改めて再確認したバーバラは、忌々しそうに舌打ちを漏らす。彼女らが監禁された部屋は壁も床も天井も分厚いコンクリート製で、窓は無く、唯一の出入り口である鉄扉は固く施錠されていて押しても引いてもびくともしない。しかもご丁寧な事に、天井に埋め込まれた照明器具には格子状の鋼鉄製の保護カバーが取り付けられているため、蛍光灯を割って得たガラス片を武器や道具にする事も不可能だった。つまり、如何に『肉屋』と呼ばれるバーバラの煉瓦の様に硬い拳をもってしても、自力での脱出は不可能である。
「しかもなんだ、この糞ダサい格好は。あたしの趣味じゃねえぞ」
そう言ったバーバラの言葉通り、アパートメントの廊下で拘束された際には全裸だった筈の彼女も、気を失っている間に安物の無地のTシャツとハーフパンツに着替えさせられていた。どうやら一糸纏わぬ全裸のままでは、さすがのモサドも、捕虜としても人質としても扱いかねたらしい。
「クンツ、お前は何か知らないか?」
バーバラは駄目元で尋ねるが、簡易ベッドに腰掛けたクンツは首を横に振る。
「残念ながら、私にも何も分かりません。寝ていたところをいきなり背後から目隠しをされて両手を縛られ、そのままここまで連行されて来たんです。覚えているのはリビングのソファが硬くて、やけに寝苦しかった事くらいですよ」
「糞、本当に何の役に立たない童貞インポ野郎だな、お前は」
同じ境遇であるエマの事は棚に上げて、バーバラはクンツだけを口汚く罵った。一方で罵られたクンツは、不満げに肩を竦める。
「アデーレ、大丈夫かな……」
「心配するなエマ、きっと大丈夫さ」
行方知れずのアデーレの身を案じ、両の瞳にうっすらと涙を滲ませるエマに寄り添いながら、バーバラが慰めの言葉を掛けた。勿論その言葉には何の保障も裏付けも無く、言うなれば無責任で無根拠な只の虚勢に過ぎなかったのだが、それでも彼女は涙ぐむエマの姿を黙って見過ごす訳には行かない。
やがてバーバラが眼覚めてから二時間余りが経過した頃だろうか、重く頑丈な鉄扉がようやく開いたかと思えば、濃紺色の夜間迷彩服に身を包んだモサドの工作員が四人ばかり姿を現した。そして四人の先頭に立つ工作員がバーバラ達三人に人数分の麻袋を投げ渡すと、高圧的な口調でもって命令する。
「その袋を頭から被り、我々の誘導に従って歩け。無駄な抵抗はするな。万が一抵抗すれば、我々はお前達を射殺する事も厭わない」
そう命令した先頭に立つ工作員は、ブルネットの髪を短く刈った若い女性、つまりデボラであった。彼女の顎に貼られた大きな二枚の絆創膏の痛々しさが、バーバラの拳の硬さを如実に物語っている。
「これでいいかい、モサドのお嬢さん?」
麻袋を被ったバーバラはそう言いながら腰を振っておどけてみせる事によって、モサドの工作員であるデボラを暗に挑発した。しかしデボラは挑発には乗らず、バーバラの背中にタボール散弾銃の銃口を強く押し当てると、さっさと歩き始めろとでも言いたげに舌打ちを漏らす。
「それで、どこまで行けばいいんだい? このまま家に帰してくれると、手間が省けるんだけどな」
麻袋によって視界が塞がれ、しかも結束バンドで両手首を縛られた状態で歩かされながら、やはりおどけるような口調でもってバーバラが尋ねた。
「さっさと歩け。無駄口を叩くな」
しかしデボラは舌打ち交じりにそう言ってバーバラの背中を銃口で小突き続け、
「よし、そこで止まれ」
やがてたっぷり数百mばかりも同じ建物内をぐるぐると歩き回らされた末に、デボラに命じられたバーバラとエマ、それにクンツの三人は足を止めた。視界が塞がれているために周囲の様子はうかがい知れないが、足の裏に伝わって来る柔らかな感触からして、今現在三人が立っている部屋の床には厚く高価な絨毯が敷かれている事が推察出来る。
「!」
ややもすれば強引に剥ぎ取るような格好でもって、バーバラ達三人は被っていた麻袋を脱がされた。暗闇に慣れた眼に、防弾ガラスが嵌め込まれた窓から差し込んで来る陽射しが眩しい。そして次第に眼が慣れて来ると、彼女ら三人が連れて来られたのが、比較的豪奢な造りの広い部屋である事が判明した。
モザイク模様の板敷きの床は分厚いペルシャ絨毯に覆われ、見上げるように高い天井からは光り輝く荘厳美麗なシャンデリアが吊り下がり、その直下の部屋の中央には真っ白なテーブルクロスが敷かれた大きな丸テーブルが置かれている。そして四脚の椅子に囲まれた丸テーブルの上座にあたる窓辺の席には、既に一人の、仕立ての良いダークスーツに身を包んだ老人が腰掛けていた。やけに鼻が大きな、眼鏡を掛けた禿げ頭の老人。つまりそれは、今から十数時間前にベレルマン大佐と共にイスタンブール国際空港に降り立った老人である。
「よく来たな。まあ、掛けたまえ」
老人は丁寧だが威圧感のある英語でもってそう言うと、バーバラ達に丸テーブルを囲む椅子に座るように促した。促されたバーバラとエマ、それにクンツの三人は、やはり豪奢な造りの椅子に黙って腰を下ろす。そしてデボラを含めたモサドの工作員達が三人の両足首を新たな結束バンドで縛り、自由に歩き回る事が出来ないようにしてから、手首を縛る結束バンドをナイフのセレーションでもって切り落とした。
「楽にしたまえ。ただし、変な気は起こさない事だ。少しでも不穏な動きを見せれば、ここに居るベレルマン大佐がキミ達を容赦無く撃ち殺す。私としても、この部屋をキミ達異教徒の血で汚したくない」
そう警告した老人の傍らにはタボール散弾銃を手にした長身で体格の良い壮年の男性、つまりベレルマン大佐が窓を背にしながら立っており、バーバラ達三人を睨み据えて無言のまま威圧する。勿論老人に言われるまでもなく、ナイロン樹脂製の結束バンドで両足首を縛られているために、彼女ら三人は立ち上がる事もままならない。
「もういいぞ、デボラ。お前達メトツァダは、私が呼ぶまで部屋の外で待機していろ」
「しかし副長官、それではあまりにも無用心では……」
デボラは抗言しようとするが、歳の割には眼光の鋭い老人に睨まれた彼女は口篭り、言葉を濁す。そして副長官と呼ばれた老人に命令された通り、彼女は他の工作員達を背後に従えながらすごすごと引き下がって、部屋を後にした。ちなみに『メトツァダ』とは、モサド内部で組織された特殊工作部隊の名称である。
「さて、それではキミ達三人を、私が主催する昼食会に招待するとしよう。このイスラエル総領事館付きのシェフに存分に腕を振るわせたフルコースの料理と、私の回顧談を心行くまで楽しんで行ってほしい。ああ、事前に言っておくがキミ達に拒否権は無いから、そのつもりでいるように」
老人はそう言うと、やけに大きな鼻をふんと鳴らした。そして宣言通り、彼が主催する昼食会の幕が開ける。
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