第三幕


 第三幕



 イスタンブールの街の旧市街であるエミニョニュ地区の裏通りをぐるぐると迂回し、尾行されていない事を何度も丹念に確認してから、三人を乗せたZ900RSはバーバラが賃貸契約を締結しているアパートメントへと辿り着いた。埃っぽくて機械油の匂いが充満する薄暗いガレージの片隅にZ900RSを停めてエンジンを切ると、バーバラとエマ、それにエマの膝の上に乗っていた金髪碧眼の幼女とが地面に降り立つ。

「さてと、これからどうしたもんだろうな」

 あっけらかんとした口調でもってそう言ったバーバラは、イスタンブールの街の天を仰いだ。まるで、こう言ったアクシデントには慣れ切っているとでも言いたげな口調である。

「まずは、状況を整理しないとね」

 エマはそう言うと、Z900RSのタンデムシートから飛び降りた。彼女と一緒にコンクリート敷きのガレージの床へと飛び降りた金髪碧眼の幼女は、ホッと安堵の溜息を漏らす。

「まあ何にせよ、部屋に戻ってシャワーを浴びて、部屋着なりパジャマなりに着替えるとしようか。積もる話は、それからゆっくり聞けばいい」

 そう言ったバーバラの背中を眼で追いながら、エマと幼女の二人もまたアパートメントの最上階へと階段を駆け上がった。一階層分の全ての部屋をバーバラが借り切っているアパートメントの最上階は暗く静かで、彼女らが留守の間に侵入者が足を踏み入れた形跡は無い。

「とりあえず、シャワーを浴びて汗を流そう。エマ、その子を風呂場バスルームに連れて行って、存分に洗ってやってくれ。船旅がどれだけ長く続いたのか知れないが、正直に言うと、その子は少しばかり臭うぞ」

 バーバラに指示されたエマは、金髪碧眼の幼女と共にアパートメントのバスルームへと足を向けると、二人揃って脱衣所で服を脱いで全裸になる。そしてたっぷりのお湯と石鹸とシャンプーでもって、幼女の清らかな肢体の隅々に溜まった垢とフケと皮脂とを丹念に洗い流した。

 当然ながら、バスルームでシャワーを浴び終えた幼女はすっぽんぽんの全裸であり、着る物が何も無い。

「エマ、お前の下着と部屋着とをこの子に貸してやってくれないか? あたしのよりかは、サイズも趣味も合う筈だ」

 そう言われたエマから借りた、少しばかりぶかぶかの下着と部屋着とを身に纏った事によって、ようやく幼女は落ち着きを取り戻した。そして彼女が着ていたエプロンドレスと下着とを洗うために、エマがそれらをドラム式の洗濯機に放り込もうとすると、幼女は慌てて警告する。

「待って! ヴォーパルは洗っちゃ駄目!」

「ヴォーパル?」

 問い質すエマの手から、金髪碧眼の幼女は泥と埃で汚れたエプロンドレスを強引に取り上げた。そのエプロンドレスの胸元には小さな兎のぬいぐるみが安全ピンでもって縫い留められており、どうやらその兎のぬいぐるみこそが、幼女が言うところの『ヴォーパル』らしい。

「ヴォーパルって言うのが、この子の名前なの?」

 エプロンドレスからぬいぐるみを取り外したエマが、トルコ語が理解出来ないらしい幼女に英語で尋ねた。すると幼女はぬいぐるみを奪い取ると、ドイツ訛りの英語でもって声高に主張する。

「そう、この子がヴォーパル! クンツがね、ヴォーパルは大事なお友達だから、いつでも一緒に居なさいって言ってたの! そうすれば、必ずクンツが迎えに来てくれるんだって! だから、ヴォーパルは洗っちゃ駄目なの!」

 幼女はそう言うと、エマの手から奪い取った兎のぬいぐるみのヴォーパルをギュッと抱き締めた。細く小さな彼女の腕の中で、安っぽいポリエステル繊維で出来たヴォーパルは長い耳とふわふわの尻尾を風に揺らしながら、ガラスのビーズの瞳でもってこちらをジッと見据えている。

「そっか、その子と一緒に居なさいって言われたんだね。それで、そのクンツって言うのは誰なの? あなたのお父さん? それとも、お兄さん?」

 幼女の傍らに跪き、ぶかぶかの部屋着の胸元にぬいぐるみのヴォーパルを安全ピンで縫い留めてあげながらエマは尋ねるが、返答は芳しくない。

「クンツが、それは誰にも言っちゃ駄目だって」

 兎のぬいぐるみを抱えた幼女はそう言って、ふるふると首を横に振った。

「それじゃあ、あなたと一緒にボートに乗っていた、あの怖い女の人は誰? あなたはどこから来て、どこに連れて行かれようとしていたの?」

 エマは問い質すが、幼女は首を横に振りながら口を噤み、頑なに返答を拒む。

「それもやっぱり、クンツって言う人に口止めされているの?」

 この問いにだけは、幼女は首を縦に振った。

「参ったな、せっかく強引に助け出してやったってのに、これじゃあ何も分からないままか。仕方が無い、気は進まないが、迷子として警察に届け出る事にしようか」

「駄目! 警察だけは絶対に、絶対に駄目だって、クンツが言ってた!」

 警察への通報を提案したバーバラに幼女は食って掛かり、一層の激しさでもってぶんぶんと首を横に振る。どうやらクンツと言う人物から、警察には関わらないように厳命されているらしい。

「とにかく、今夜はもう寝よう。とっくに子供は寝る時間だ。さあ、寝室に移動するぞ」

 黒い革のライダースジャケットを脱ぎ捨てたバーバラはそう言いながら、ぶかぶかの部屋着を着た幼女をひょいと抱きかかえ、アパートメントの寝室へと足を向けた。抱きかかえられた幼女の腕の中では、彼女の大事な友達である兎のぬいぐるみのヴォーパルが無機質な笑みを浮かべている。そして彼女らが寝室に足を踏み入れると、ベッドの真ん中で寝ていた黒猫のスィヤフが眼を覚まし、見慣れぬ客である幼女に向かって「にゃあ」と鳴いた。

「猫ちゃんだ!」

 スィヤフの姿を見た幼女が歓喜と驚嘆の声を上げ、彼女を抱きかかえていたバーバラの手から逃れて寝室の床に降り立つと、碧色の瞳をきらきらと輝かせながら眼の前の黒猫ににじり寄る。

「猫ちゃん、おいで、おいで」

 そう言って手を差し出した幼女に、黒猫のスィヤフは背中の毛を逆立てて警戒しつつも、ゆっくりと忍び足で近寄った。そして差し出された幼女の指先の匂いを丹念に嗅ぎ、この小さな人間が自分に危害を加える外敵ではない事を確認すると、ごろごろと喉を鳴らしながら彼女の手に顔を擦りつける。

「猫、好きなの?」

「好き! 猫、大好き!」

 エマの問いに、満面の笑みを浮かべた幼女は、黒猫のスィヤフの頭や背中を優しく撫でてあげながら答えた。するとそんな幼女に、今度はバーバラが譲歩案を引き出すような口調でもって問う。

「そうか、お嬢ちゃんは猫が大好きか。そりゃ良かった。猫嫌いだったら、このイスタンブールじゃ生きて行けないからな。それと、その猫はスィヤフって名前だから、仲良くしてやってくれ。ところでお嬢ちゃん、どうやらクンツって奴から素性を明かさないように口止めされているらしいってのは理解したが、せめてお嬢ちゃんの名前くらいは教えてもらえないかい? そうでないと、お嬢ちゃんもあたしらも困るだろう? な?」

 バーバラの問い掛けに、幼女は子供ながらに頭の中身をフル回転させて、自分の名前を明かしたものかどうか逡巡した。そして意を決すると、おずおずと口を開く。

「……アデーレ……」

「アデーレ。いい名前だ」

 自分の名前を褒められた事が嬉しかったのか、黒猫のスィヤフを撫でながらにこにこと微笑むアデーレを、バーバラは改めて値踏みした。顎の高さで切り揃えられた艶やかな金髪と、別名トルコ石とも呼ばれるターコイズの様な碧色の瞳が美しい、未だ十歳にも満たないであろう見目麗しい白人の幼女である。

「それじゃあ、あたしもシャワーを浴びて来る。エマ、その間にアデーレを寝かしつけておいてやってくれ」

 そう言ったバーバラは、エマとアデーレを寝室に残したままアパートメントのバスルームに足を向けた。そして脱衣所で服を脱ぎ、褐色の肌も露な全裸になると、熱いシャワーの湯を全身に浴びる。がっしりとした筋肉に覆われた長い手足や、より一層の色素が沈着した乳首を頂点とした豊かな乳房を水滴が伝い落ち、今日一日の汚れと疲れの全てが洗い流されて行くかのように心地良い。

「お待たせ」

 シャワーを浴び終えたバーバラが寝室に戻ると、クイーンサイズのベッドの上ではエマとアデーレと黒猫のスィヤフが横になり、既にすうすうと寝息を立てながら眠ってしまっていた。互いに抱き合うような格好でもって眠る二人と一匹は、全員が全員、まるで天使の様な寝顔である。

「アデーレか……エマの時と同様に、また面倒な事に首を突っ込んじまったかな?」

 下着姿のバーバラはそう独り言ちながらキッチンに足を向け、冷蔵庫からエフェスビールの瓶を取り出すと、その中身をごくごくと一息に飲み下した。そしてアパートメントの天井に向けて豪快なげっぷを漏らし、空になったビール瓶を不燃物のゴミ箱に放り込んでから、再び寝室へと足を向ける。

「おやすみエマ、アデーレ、スィヤフ」

 既に就寝している二人と一匹を起こさないように注意しながらベッドに横になったバーバラは、リモコンでもって寝室の照明を落とすと、そっと眼を閉じた。彼女らの頭上では、五枚羽のシーリングファンが音も無く回転し続けている。


   ●


 翌朝、バーバラが眼を覚ますと、既にエマとアデーレとスィヤフの姿はベッドの上から消えていた。

「エマ?」

 廊下の向こうのキッチンの方角から、胡麻パンのシミットが焼ける香ばしい匂いがぷんと漂って来る。どうやら早起きしたエマが、バーバラのために朝食を用意してくれているらしい。すると寝室に、黒猫のスィヤフを胸に抱きかかえたアデーレが姿を現した。

「バーバラ、おはよう! エマ、バーバラ起きたよ!」

 いかにも子供らしい元気溌剌とした声でそう言ったアデーレは、抱きかかえていたスィヤフを床に下ろすと、今度はバーバラに抱きつく。

「おはよう、アデーレ。エマはキッチンかい?」

「うん、エマは朝ごはん作ってるよ! 呼んで来る?」

「いや、いい。あたしがキッチンに行こう」

 そう言ったバーバラはベッドから寝室の床へと降り立つと、再び黒猫のスィヤフを胸に抱きかかえたアデーレと共にアパートメントのキッチンへと移動した。リビングと一繋がりになっているキッチンでは、バーバラと同じく寝間着代わりの下着姿のエマがオーブントースターでシミットとケバブを焼き、朝食の準備に余念が無い。

「おはよう、エマ」

「おはよう、バーバラ」

 起床の挨拶を交わし合ったバーバラとエマの二人は、そのまま互いの身体を固く抱き締め合うと、そっと唇を重ねた。女同士でありながら熱い抱擁と接吻でもって愛情を確認し合う二人の姿を、同性愛と言う性癖が未だ理解出来ない幼い子供でしかないアデーレは、不思議そうに見上げている。しかしそんなアデーレを他所に、バーバラとエマとの接吻はたっぷり一分間ばかりも続いた。

「さあ、それじゃあ朝飯にしようか」

 バーバラはそう言うと、エマが温め直したシミットとケバブとヒヨコマメのフムスとを、アパートメントの最上階のリビングへと運ぶ。そして聖地メッカの方角に向かって適当で大雑把な礼拝を終えた彼女ら三人は、熱く甘いチャイと共に、テーブルの上に並べられたそれらをむしゃむしゃと食べ始めた。どうやら初めて口にするらしいトルコ料理に、未だ幼いアデーレは興味津々である。

「それでバーバラ、今日はこれからどうするの?」

 フムスを塗ったシミットを頬張りながら、エマが尋ねた。

「本当だったら昨夜の仕事の報酬で贅沢なディナーでも食いに行くつもりだったんだが、こんな小さな子供連れじゃ、それも難しいな。それにアデーレの素性はまるで分からないままだし、警察にも行きたくないって言うんだったら、やる事は一つだけだろう?」

「……つまり?」

 問い返すエマに、グラス一杯のチャイを飲み干したバーバラは、意味深にほくそ笑みながら答える。

「やる事が決まっていないなら、決まるまでは全力で遊ぶってのが正しく自由な人間の生き方だ。だから今日は丸一日、三人で力の限り遊びまくるぞ。きっとアッラーも、そう望まれているに違いない」

「遊びに行くの? ほんと?」

 バーバラが口にした「遊びまくる」と言う言葉に、行儀良く手でちぎりながらシミットを食べていたアデーレの顔がぱあっと綻んだ。

「ああ、そうだ。飯を食い終わったら遊びに出掛けるぞ。準備をしろ」

「やった!」

 アデーレは歓喜の声を上げ、シミットを口に運ぶ手の動きを早める。どうやら一刻も早く朝食を食べ終えて、今すぐにでも遊びに出掛けたくて仕方が無いらしい。

「そんなに焦らなくてもいい。ゆっくり食え。未だ今日と言う日は始まったばかりだ」

 そう言ったバーバラは二杯目のチャイを一息に飲み干し、口の中に残っていたシミットとケバブを胃の中へと流し込んだ。そしてエマとアデーレと共にリビングから寝室に足を向けると、昨夜の内に洗って乾燥させておいたそれぞれの外出着に着替える。

「ヴォーパルもね、一緒に遊びに行くの!」

 洗濯されてすっかり綺麗になったエプロンドレスに身を包んだアデーレはそう言いながら、小さな兎のぬいぐるみであるヴォーパルを、安全ピンでもって胸元に縫い留めた。

「そうだね、ヴォーパルはあなたの大事なお友達だもんね」

 エマがアデーレの頭を撫でてやると、撫でられたアデーレは天使の様な笑顔でもって嬉しそうに微笑む。

「よし、それじゃあ準備が出来たところで、さっそく出発するか! さあ、急げ急げ!」

 黒い革のライダースジャケットを羽織ったバーバラの言葉を合図に、まるで競い合うようにして、三人はアパートメントの最上階を後にした。何をするにしても競争が好きな歳頃であるアデーレは、大喜びで彼女とエマの後を追う。そして階段を駆け下りて一階のガレージに足を踏み入れると、バーバラとエマはジェットヘルメットを、未だ子供なので頭が小さなアデーレは予備のハーフヘルメットを被ってから、バーバラの愛車であるZ900RSに三人揃って跨った。

「出発!」

 強引な三人乗りのZ900RSは、旧市街のエミニョニュ地区に建つアパートメントを出発すると、ケネディ通りから高速道路へと合流する。

「それでバーバラ、これからどこに行くの? モスク? 博物館? それとも、トプカプ宮殿?」

 真っ青に澄み渡る秋晴れの空の下、照りつける陽光を反射してきらきらと輝くマルマラ海を左手に臨みながら、タンデムシートに跨ったエマが尋ねた。するとバーバラは背後の彼女に向かって、さも当然とでも言いたげな口調でもって答える。

「幾ら世界的な観光名所だからと言っても、カビ臭くて退屈なモスクや博物館や宮殿に連れて行ったって、子供は喜びゃしないさ! 子供が喜ぶイスタンブールの観光名所と言ったら、あそこしか無いだろ!」

 声高らかにそう言い放ったバーバラが運転するZ900RSが辿り着いたのは、マルマラ海沿いのフロリヤ地区に建つショッピングモールに併設された、イスタンブール水族館であった。

「なるほど、水族館か」

 駐車場に停めたZ900RSのタンデムシートから地面へと降り立ったエマは納得し、アデーレを抱きかかえたバーバラと共に、チケット売り場の行列の最後尾に並ぶ。そして大人二人分と子供一人分のチケットを購入した三人は、興奮のあまり今にも走り出してしまいそうなアデーレを先頭に、水族館の館内へと足を踏み入れた。

「おっきなお魚さんがいっぱい! すごい! すごい!」

 館内に足を一歩踏み入れるなり、アデーレの興奮は頂点に達する。

「どうだ、すごいだろう? ほら見ろ、でっかいサメだ。お前なんか、一口で丸呑みにされちゃうぞ、アデーレ。怖いか? ん?」

 この水族館の目玉である巨大水槽の前に立ったバーバラはそう言って、興奮しっ放しのアデーレをからかった。長身のバーバラに肩車をしてもらった彼女の眼の前を、大小様々な世界中の海洋生物と共に、体長十mにも達する巨大なジンベイザメが悠々と泳いでいる。

「うわぁ……」

 生まれて初めて水族館を訪れたらしい小さなアデーレは、あまりの興奮と感動に、完全に言葉を失ってしまっていた。巨大水槽を泳ぐジンベイザメだけでなく、その他のサメやエイや海亀や美しい熱帯魚、それに南米アマゾンを再現したエリアの貴重な蛙やアナコンダなどが、彼女の耳目を楽しませる。そして大喜びのアデーレを連れたバーバラとエマの二人もまた手を繋いで館内を巡り、久し振りに訪れた水族館の展示物の数々を存分に楽しんだ。

「どう、アデーレ? 楽しかった?」

「楽しかった……」

 水族館の出口から退館したエマに尋ねられたアデーレは半ば放心状態で、その足取りもふわふわとして覚束ず、むしろ混乱して眼を回してしまっているようにすら見受けられる。どうやらバーバラの目論見通り、イスタンブール水族館は子供を楽しませる場所としての使命を見事に果たしてくれたらしい。

「さあ、それじゃあ次の場所に行くぞ。二人とも、早く乗った乗った」

 駐車場に停められていたZ900RSに跨ったバーバラはジェットヘルメットを被りながらそう言って、エマとアデーレの二人に乗車を促す。

「バーバラ、次はどこに行くの?」

「次? 次もどこか、楽しい所に行くの?」

「ああ、そうだ。ちょうど飯時だし、今日は運良く好天に恵まれた事だから、眺めのいい場所で昼飯にしよう」

 タンデムシートに跨ったエマとアデーレの問いに対して、敢えて明言を避けるような曖昧な返答を口にしたバーバラは、愛車であるZ900RSを発進させてイスタンブール水族館を後にした。ガソリンタンクの上に無理矢理跨ったアデーレが、次第に遠ざかって行く水族館に向かって、名残惜しそうに手を振って別れを告げる。そして三人を乗せたZ900RSは再び高速道路に合流すると、ローマ帝国時代に建設されたヴァレンス水道橋の下を潜りながら旧市街を北上し、やがてガラタ橋の袂のエミニョニュ桟橋で停車した。

「まずは、飯の調達だ」

 頑丈なチェーンロックでもって桟橋の鉄柵にZ900RSを固定し終えたバーバラはそう言うと、エマとアデーレを背後に従えながら水上屋台の一つに歩み寄り、店主に注文する。

「一番でかい鯖を挟んだバリック・エクメックを三つとドネル・ケバブを二つ、それとペプシコーラを三つ、大至急だ」

 そう言い終えてから一分と経たない内に全ての注文の品が準備されたので、バーバラは総額八十トルコリラばかりの代金と引き換えにそれらを受け取った。彼女が注文した『バリック・エクメック』とは、焼いた鯖の切り身を生のタマネギやトマトと共に硬いバゲットに挟んだ鯖サンドの事であり、ここガラタ橋の名物の一つでもある。

「わざわざここまで来たのは、これを食べるためだけじゃないよね?」

 鯖サンドとペプシコーラを手渡されたエマが、バーバラに尋ねた。すると彼女は桟橋の上を歩き始め、エマとアデーレについて来るよう手招きする。

「言ったろう? 眺めのいい場所で昼飯にしようって」

 ほくそ笑みながらそう言ったバーバラが足を向けたのは、桟橋に停泊するクルーズ船のチケット売り場であった。どうやらここからクルーズ船に乗って、ボスポラス海峡を遊覧しながら昼食を食べようと言う魂胆らしい。

「お船に乗るの?」

「ああ、そうだ。船の上で海を眺めながら食う飯は最高だぞ?」

 アデーレの問いに、人数分のチケットを購入したバーバラが答えると、三人は桟橋からクルーズ船へと乗り込んだ。二階建てのクルーズ船のデッキからは、世界各地からイスタンブールを訪れた観光客や地元民で賑わうガラタ橋と、その橋が架かる金閣湾が一望出来る。

「アデーレは、お魚さんは好き? それとも、お肉の方がいい?」

「あたし、お魚さん、食べられるよ?」

 エマの問いにそう答えると、アデーレは手渡された鯖サンドを頬張った。そして嬉しそうに「美味しい」と言うと、クルーズ船から眺めるイスタンブールの街並みに眼を見張る。

「どうだアデーレ、良い街だろう? 気に入ったか?」

 バーバラがペプシコーラを飲みながら尋ねると、アデーレは年甲斐も無く、感慨深そうに答える。

「あたしね、お家の外に出たの、これが初めてなの。これまではずっと、お家のお庭までしか外に出してもらえなかったから」

 それは好奇心旺盛で自由奔放な年頃の幼女が口にするには、あまりにも悲しく、また同時にひどく哀れな言葉であった。たとえ人間に従属する事を強いられた家畜や愛玩動物であっても、もっと自由に戸外を歩き回る権利を与えられて然るべきである。

「なるほど、そうか。それじゃあこの景色を、今の内に、もっと眼に焼き付けておけ」

 そう言ったバーバラは再びアデーレを肩車すると、クルーズ船のデッキの上で背伸びをしながら立ち上がった。視点が高くなった事によって視野がより広がったアデーレが、手にした鯖サンドをむしゃむしゃと頬張りながら歓喜の声を上げる。

「すごい、お城だ! バーバラ、エマ、お城が見えるよ!」

 バーバラに肩車されたアデーレは、ボスポラス海峡を遊覧するクルージングのちょうど折り返し地点の岸辺に建つルメリ・ヒサルを指差しながら、人眼もはばからず大声で叫んだ。ルメリ・ヒサルは十五世紀のオスマン帝国時代にメフメト二世が築いた城塞で、築城から五百年以上が経過した今日も尚、ローマ帝国の首都コンスタンティノープルを攻略せんとする威容を少しも損ねてはいない。

「お城だ……。王子様、居るかな……?」

「残念だが、今はもう王子様は居ないな。アンカラの官邸に大統領が住んでいるだけだ」

 期待外れのバーバラの返答に、アデーレは嘆息しながら気落ちする。

「なんだ、そっか。王子様が居たら、囚われの身のあたしを助け出してくれると思ったのにな」

 そう言ったアデーレは、やはり年甲斐も無くがっくりと肩の力を落とし、ルメリ・ヒサルの更に向こうの空の彼方へと眼を向けた。それはまるで、何物にも縛られない一羽の鳥に生まれ変わって自由に大空を羽ばたいて行ってしまいたいとでも言いたげな、なんとも寂しげな眼差しである。

「王子様は居なくても、あたしとエマが、怖い大人達からお前を助けてやっただろ? 贅沢を言わずに、今はそれで我慢しておけ」

「うん!」

 気を取り直したアデーレは元気良くそう言うと、長身のバーバラに肩車されたまま、残りの鯖サンドを頬張った。爽やかな秋晴れの空の下で食べる鯖サンドは、この上無い格別のご馳走である。そして彼女ら三人を乗せたクルーズ船は第二ボスポラス大橋とも呼ばれるファーティフ・スルタン・メフメト大橋を過ぎた辺りでUターンし、全ての鯖サンドとドネル・ケバブを食べ終える頃には、エミニョニュ桟橋へと帰還していた。

「よっしゃ、ここらで一枚、三人で記念写真でも撮っておくか!」

「賛成! 一枚と言わず、何枚でも撮っちゃおうよ!」

 各自のスマートフォンをポケットから取り出したバーバラとエマは、青く美しいボスポラス海峡や金閣湾を背景に収めながら、自撮りによる写真撮影の腕前をここぞとばかりに競い合う。勿論アデーレもまた二人に混じって、場慣れしていないぎこちない表情や身振りながらも、スマートフォンのレンズに向かって幼女らしく可愛らしいポーズを決めてみせた。そして最後は三人揃って一枚の写真に収まり、本日のイスタンブール観光の記念とする。

「それじゃあ後は陽が沈むまで、ここカパルチャルシュで買い物と洒落込もうか」

 そう言ったバーバラに先導されながら、彼女とエマとアデーレの三人は、別名グランドバザールとも呼ばれる屋内市場のカパルチャルシュに足を踏み入れた。この市場に立ち並ぶ露店の大半は観光客目当てのぼったくり店ばかりで、その事実を熟知している地元民がここで買い物をする事は殆ど無いが、財布の紐を固く締めたままウインドウショッピングを楽しむには絶好の場所である。

「どうだアデーレ、綺麗だろう?」

「綺麗……」

 露店の店頭に並べられた、色とりどりのトルコランプやペルシャ絨毯と言った伝統的な工芸品や宝飾品を眺めながら、アデーレがほうっと羨望の溜息を漏らした。どうやら彼女は未だ十歳にも満たない幼い子供でありながらも、その心は既に一人前の淑女らしく、自らの美貌をより一層引き立ててくれるそれらの品々に心奪われて止まない。

「どうしたの、アデーレ? これ、気に入っちゃったの?」

「うん、このちっちゃいの、綺麗で可愛い!」

 エマに尋ねられたアデーレが足を止めたのは、トルコ共和国内の観光地では必ず売られている、トルコ土産の定番中の定番であるナザール・ボンジュウを売る露店であった。ナザール・ボンジュウとは眼球を象った青いガラス製の魔除けの一種で、大人が両手で抱え上げるほどの大きな物からピアスやネックレスに加工された小さな物まで、その種類は千差万別である。

「そうか、アデーレはそれが気に入ったのか。だったら今日の記念に、好きなのを買ってやるぞ」

「ほんと? ほんとに買ってくれるの?」

「ああ、本当だとも。嘘じゃない。ただし、ガラスは重くて荷物になるから、どれか一つだけだ。値段は気にせず、焦らずに、自分が一番欲しい奴をじっくり選べ」

 バーバラにそう忠告されたアデーレは、露店の隅から隅まで、棚と言う棚をひっくり返さんばかりの意気込みでもってナザール・ボンジュウの山を吟味した末に、やがて一つの商品に白羽の矢を立てた。そして眼を輝かせながら、バーバラを呼ぶ。

「これ! あたし、これが欲しい!」

 それは六枚の花弁を持つ大輪の花、もしくは放射状に光を放つ星を象ったような意匠の、繊細な金細工が施された小さなブローチであった。

「そうか、それに決めたか。よし、約束通り、そいつを買ってやろう。……おい、店主! こいつを買うから、幾らまで安くなる? あ? 値札に書いてある値段なんて、あたしには関係ねえよ。幾らまで安くなるか、こっちはそれを聞いているんだ、このボケが。こっちも素人じゃない、生粋のイスタンブールっ子なんでね。下手な演技は通用しねえぞ、こら」

 アラブ系らしき露店の男性店主を相手に、バーバラは脅迫紛いの強引な値引き交渉を続ける。そしてたっぷり十分間ばかりの口論の末に交渉は妥結され、小さなナザール・ボンジュウが中央に輝く金細工のブローチの所有権は、晴れてアデーレに移譲された。ちなみに最終的にブローチの代金としてバーバラが支払った金額は定価の四分の一以下であったので、このカパルチャルシュのぼったくりぶりがうかがい知れると言うものである。

「はい、アデーレ。良かったね」

 エマがそう言いながら、露店の店主から受け取ったブローチをアデーレに手渡した。嬉しさのあまりきらきらと眼を輝かせる彼女の小さな手の中で、更に小さな金細工のブローチもまた光り輝く。

「それじゃあ失くさないように、このヴォーパルに留めておいてやろう」

 バーバラは金細工のブローチを、兎のぬいぐるみであるヴォーパルの胸元にピンで縫い留めた。つまりアデーレの胸元にヴォーパルが安全ピンで縫い留められ、そのヴォーパルの胸元にブローチが縫い留められた格好である。

「ヴォーパルは、お前にとっての大事な友達だったよな? だからそのヴォーパルと一緒に、このブローチも大事にするんだぞ?」

「うん! 大事にする!」

 満面の笑みを浮かべたアデーレは、元気良く頷いた。

「さてと、それじゃあ買い物も終わったし、そろそろ帰るとするか。飯は宅配ピザでも注文して、家でゆっくり食う事にしよう」

 そう言ったバーバラがハンドルを握るZ900RSに跨った三人は、世界各地からの観光客で賑わうカパルチャルシュを後にし、自宅であるアパートメントへの帰路に就く。ほんの数時間前まではあんなに青く澄み渡っていた秋空も、気付けばすっかり陽が傾いてしまっており、東の地平線からは星も疎らな宵闇が迫りつつあった。そしてカパルチャルシュからも程近い、窓からガラタ橋を臨むエミニョニュ地区のアパートメントに帰還すると、エマは近所のアメリカンピザのチェーン店に宅配ピザを注文する。

「今ちょっと混んでるから、届くのは一時間後くらいだってさ」

 スマートフォンからピザを注文し終えたエマが、配達が遅れる旨をバーバラとアデーレに伝えると、二人が待つリビングのソファに腰を下ろした。そしてゆっくりと身体を横たえ、隣に座るバーバラの太腿の上に自分の頭を乗せると、そのまま膝枕の体勢でもってピザの到着をジッと待つ。一方のバーバラは無言のまま、そんなエマの短く切り揃えられたプラチナブロンドの髪を優しく愛おしそうに撫でながら、互いの愛情を再確認するのだった。

 やがてピザを注文し終えてから三十分ばかりも経過した頃、不意にバーバラは侵入者の気配を察知し、聞き耳を立てる。

「誰か来た」

「ちょっと早いけど、ピザがもう届いたんじゃない?」

「いいや、違う。足音を殺しながら歩くピザ屋なんて、聞いた事も無いだろう?」

 そう言ったバーバラは膝枕の体勢を解き、ソファから腰を上げると、モーゼル拳銃を手にしたままアパートメントの玄関へと足を向けた。そしてドアの鍵を敢えて開錠し、次第に接近しつつある侵入者を息を殺しながら待ち構える。

「エマ、アデーレ、お前達は下がってろ」

 バーバラが小声で警告している間にも、姿の見えない侵入者はアパートメントの最上階に足を踏み入れ、外廊下に面したドアのノブに手を掛けた。ここまで接近されれば、戦闘行為に関してはド素人であるエマもアデーレも、ドア一枚隔てた外廊下に立つ何者かの気配をそれとなく感じ取る。そして静かにノブを回し、施錠されていないドアをゆっくりと開けると、侵入者は薄暗い玄関にその姿を現した。それは一人の若い白人男性であり、その手にはルガーP08拳銃が握られている。

 しかし次の瞬間、待ち構えていたバーバラは侵入者の腕を掴み取ると、その腕を素早く背後に捻り上げた。そしてルガー拳銃を奪い取り、更に肩と肘と手首の三箇所の関節を可動域の反対側に折り曲げながら、アパートメントの玄関の床に組み伏せる。こうなってしまっては如何に侵入者が抵抗しようともバーバラの関節技から逃れる術は無く、下手に抵抗すれば、却って自由を奪われるばかりだ。

「あたしのねぐらに土足で踏み込むとは、いい度胸だな。それでお前、どこの何者だ? 正直に白状しねえと、このまま頭を吹っ飛ばすぞ?」

 モーゼル拳銃の銃口を首筋に押し当てながらバーバラは警告するが、彼女に組み伏せられた侵入者は「痛い! 痛い!」と男らしさの欠片も無い悲鳴を上げるばかりで、どうにも埒が明かない。するとそんな侵入者の姿を柱の影から覗き見たアデーレが、彼の名を呼ぶ。

「クンツ!」

「……アデーレ……」

 侵入者である若い白人男性は、クンツと呼ばれた。それはアデーレに、自分の素性を隠すように口止めし、また同時に警察には関わらないように厳命した男の名である。

「なるほど、お前がクンツか」

 バーバラが、床に組み伏せたクンツの顔をじろじろと観察しながら言った。彼の左のこめかみには大きな絆創膏が張られており、その周囲にじっとりと玉の様な脂汗を滲ませながら、関節を可動域の逆方向に捩じ上げられたクンツは苦悶の表情を浮かべ続ける。

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