第二幕


 第二幕



 ウルカースタジアムの正面に設置された大型液晶ディスプレイの真下で、フェネルバフチェSKのタオルマフラーを首に巻いたエマはスマートフォンを弄って暇を潰しながら、バーバラが迎えに来るのを今や遅しと待ち続けていた。激闘が繰り広げられた今夜のイスタンブールダービーはホームチームの圧倒的な勝利でもって幕を閉じ、意気揚々とスタジアムを後にするサポーターの一団が熱唱するチームの応援歌が、吹く風が少しだけ冷たい初秋の夜空に響き渡る。

 エマの頭上の大型液晶ディスプレイに眼を移すと、チームのスポンサーであるウルカー社のコマーシャル動画と今夜の試合のハイライトシーンとが交互に映し出され、それを観たフェネルバフチェSKのサポーター達は歓喜の声を上げて喜びを隠そうともしない。数年前までは、このスタジアムはかつてのチームのオーナーの名前にちなんでシュクリュ・サラジオウル・スタジアムと呼ばれていたが、高級チョコレート菓子で有名な菓子製造会社であるウルカー社が命名権ネーミングライツを獲得してからはウルカースタジアムと呼ばれている。

 するとその時、Z900RSに跨った褐色の肌の女性が姿を現すと、スタジアムを背にしながらスマートフォンを弄っていたエマの前で停車した。

「待たせたな、エマ」

 Z900RSに跨った褐色の肌の女性、つまり『肉屋のバーバラ』はそう言うと、ABS樹脂製のジェットヘルメットをエマに投げ渡す。

「遅かったじゃない、バーバラ。それで、仕事は無事に終わったの?」

「ああ、終わった。糞汚いデブが一匹と、碌にハジキも撃てない早漏野郎どもを四匹ばかり片付けるだけの簡単な仕事だったから、弾代を差し引いても今回は大儲けだな。明日か明後日あたりにでも、どっかのお高い店で贅沢なディナーを食いに行こうぜ」

 そう言いながらほくそ笑むバーバラのZ900RSのタンデムシートに、ジェットヘルメットを被ったエマは飛び乗るようにして跨った。そして二人を乗せたZ900RSは直列四気筒のエンジンを唸らせながら徐々に加速し、宵闇に沈むウルカースタジアムを後にする。

「フェネルバフチェ、万歳!」

 イスタンブールの街のアジア側とヨーロッパ側とを繋ぐ7月15日殉教者の橋をZ900RSで渡りながら、嬉しそうにそう叫んだエマは、首に巻いた贔屓のチームのタオルマフラーを海風に靡かせた。橋の欄干越しに臨む夜のボスポラス海峡は暗く冷たく、一度落ちてしまえば二度と浮かび上がっては来れないような、言い知れぬ不気味さをとうとうと湛えている。

「エマ、晩飯はどうする?」

 二人乗りのZ900RSでボスポラス海峡沿いの街道を走りながら、バーバラが尋ねた。

「今日は、ボルカンのお店のケバブが食べたい! 唐辛子とニンニクをたっぷり効かせたやつ!」

「よっしゃ、分かった! それじゃあちょっとばかり飛ばすから、振り落とされないようにしっかり掴まってろよ!」

 そう言ったバーバラはクラッチレバーを握りながらアクセルを全開近くまで一気に開け、Z900RSを急加速させた。スピードに乗ったZ900RSはバーバラとエマの二人をタンデムシートに乗せたまま、テールランプの光の尾を背後に従えながら、街道を走る車を次々と追い抜いて行く。そして新市街のカラキョイ地区を抜けてガラタ橋を渡り、旧市街のエミニョニュ地区に進入すると、スルタンアフメト・モスクのすぐ傍の一軒のレストランの前で停車した。観光客を相手に高額な料理を振る舞う店ではなく、地元民が家庭の味を求めて集うような、ひっそりとした地味な店構えである。

「ボルカン、ベイティ・ケバブを二人分だ! それに鶏肉のピラウと、チョバン・サラタスもな! ああ、勿論エフェスも持って来いよ!」

 さほど広くもないレストランに足を踏み入れ、手近なテーブル席にどっかと腰を下ろすなり、バーバラはメニューも見ずに注文した。彼女が真っ先に注文した『ベイティ・ケバブ』とは、串焼きにした牛肉や羊肉をラバッシュと呼ばれるパンに巻いてから再度炙り焼きにした料理であり、この店では大量の唐辛子とニンニクが混ぜ込まれたヨーグルトソースを掛けた状態で提供される。そしてそのベイティ・ケバブと共に、米料理のピラウと生野菜のサラダの一種である『チョバン・サラタス』がテーブルに運ばれて来ると、腹を空かせたバーバラは貪るような健啖ぶりでもってそれらに齧りついた。勿論、彼女の向かいの席に腰を下ろしたエマもまた、料理を口に運ぶ手を止めない。

「おい、ボルカン! エフェスのお代わりだ!」

 運ばれて来たエフェスビールを注いだグラスの中身を、バーバラはぐびぐびと一気に飲み干した。そして豪快なげっぷを漏らすと、更にもう一本、お代わりを要求する。ちなみにエフェスビールとは、イスタンブールに本社を置くエフェス社が醸造しているビールのブランド名であり、酒豪を自称するバーバラの大好物でもあった。

「それでエマ、今夜の試合はどうだった? 勝ったのはどっちだ?」

「へっへーん! 今夜は我らがフェネルバフチェの勝利! 前回の雪辱を果たしたね!」

「そうかそうか、それは良かった。それじゃああたしに、その試合の模様を詳しく教えてくれよ」

 バーバラに請われたエマは興奮冷めやらぬ様子で、今夜のイスタンブールダービーのハイライトシーンの数々を微に入り細に入り、身振り手振りを交えながら嬉々として語り始める。そしてバーバラはエフェスビールが注がれたグラスを傾けつつ、贔屓のチームの活躍を語り続けるエマの幸せそうな姿を見るにつけ、この上無い充実感と充足感に胸が満たされるのだった。酒と水煙草以外には趣味らしい趣味を持たないバーバラにとっての、何物にも代え難い至福の瞬間である。


   ●


 やがて空になったエフェスビールの瓶が十本ばかりもテーブルの上に並び、勝利に酔い痴れていたエマもまた落ち着きを取り戻した頃合を見計らって、ようやく二人はボルカンの店を後にした。しかしどれだけ大量のビールを胃に流し込もうとも、自他共に認める酒豪であるバーバラに酔った様子はまるで無く、その足取りは素面しらふの偉丈夫の様にしっかりしている。

「バーバラ、今夜はもう、このまま真っ直ぐ帰っちゃうの?」

「いや、そうだな、ちょっと酔い覚ましに海でも見に行こうか」

 ABS樹脂製のジェットヘルメットを被りながらそう言ったバーバラが、ボルカンの店の前に停めてあったZ900RSに跨ってエンジンを始動させると、エマもまたジェットヘルメットを被ってからタンデムシートに跨った。勿論バーバラが口にした「酔い覚まし」と言う理由は方便でしかなく、単に彼女は、エマと一緒に海を見に行きたいだけである。

「それで、どこまで行くの? イェニカプ港?」

「ああ、そうだ。イェニカプ港で深夜の海デートだ」

 そう言って行き先を確認し合ったバーバラとエマの二人を乗せたZ900RSは、ボルカンの店から西南西の方角に二㎞ばかりも走ると、マルマラ海に面するイェニカプ港の埠頭に辿り着いた。日中は長距離フェリーや豪華客船を利用してイスタンブール観光を楽しむ人々で賑わうこの港も、夜も深まったこんな時分では猫の子一匹出歩いてはおらず、凪いだ海の上を吹き渡る潮風が頬に冷たい。そしてそんな無人の埠頭の縁の防波堤の上に、バーバラとエマはそこらに転がっていた数本のビール瓶を数十㎝間隔で規則的に並べた。

「見てな」

 埠頭の入り口付近に停められたZ900RSの傍らまで戻ると、そう言ったバーバラは腰のホルスターからモーゼル拳銃を抜き、その照準を並べられたビール瓶の内の一本にぴたりと合わせる。彼女が立っている位置から防波堤までの距離はおよそ五十mほどで、精密射撃に不向きな拳銃でもって射的遊びに興じるには、少々難易度が高過ぎると言わざるを得ない。しかしバーバラが躊躇無くモーゼル拳銃の引き金を引くと、パンと言う乾いた銃声と共に射出された銃弾は狙いをたがえずビール瓶を撃ち抜き、粉々になったガラス片が防波堤の向こうの海面に飛び散った。

「わあ、すごいすごい」

 バーバラの射撃の腕前にエマは感嘆し、ぱちぱちと手を叩いて惜しみない拍手を送る。

「よし、次はエマ、お前がやってみな」

「あたし? えっと、上手く出来るかな?」

 得意げなバーバラからモーゼル拳銃を手渡されたエマは、その拳銃をいかにも素人臭い腰が引けた姿勢で構えると、ビール瓶に照準を合わせて引き金を引いた。だが大方の予想通り、銃弾は見当外れの方角へと飛んで行ってしまって、ビール瓶は微動だにしない。

「そうじゃない、もっとこう、腰をしっかり据えて構えるんだ。教えてやるから、もう一度構えてみろ」

「こう?」

 再びモーゼル拳銃を構えたエマの背中に自分の身体を密着させたバーバラは、文字通り手取り足取りのレクチャーでもって、拳銃の正しい撃ち方を教え込む。

「肩幅に開いた両足の踵の中央に骨盤を乗せ、更に上半身をその骨盤の上に乗せるイメージを頭の中で描きながら立ち、重心をしっかりと安定させるんだ。そして軽く肘を曲げたまま、銃弾が発射される際の後方への反動を受け止めるために、銃身を前方に向かって突き出すようにして構える。この時、緊張して力み過ぎると却って手が震えて狙いが定まらないから、関節から適度に力を抜く事を忘れるなよ」

「関節から力を抜く……」

 バーバラのレクチャーに従って、エマはモーゼル拳銃を構え直した。

「よし、そうだ。そのままゆっくり慎重に、ビール瓶に狙いを定めろ。焦らなくてもいい。上手く狙いが定まらないなら片眼は瞑っても構わないが、この時もやっぱり、緊張して力み過ぎないように注意しろ。常に自然体である事を心掛けるんだ」

 エマが構えたモーゼル拳銃の銃口から延びた射線が、五十m先の防波堤の上のビール瓶を正確に捉える。

「撃て」

 自然体を維持したまま、力み過ぎないように注意しつつ、エマは引き金を引いた。すると亜音速で射出された銃弾はビール瓶の首の部分を僅かに掠めながら空を切り、的中して割れたり砕けたりする事こそなかったものの、衝撃波によって瓶はゆらゆらと揺れる。

「やった! 当たった! 見て、バーバラ! 当たったよ!」

「いいぞエマ、上出来だ。今の感覚を忘れずに反復練習を怠らなければ、いずれは百発百中を誇る名射手も夢じゃないぞ」

 褐色の肌のバーバラは、エマのプラチナブロンドの髪を優しく撫でながら、彼女の射撃の腕前を褒め称えた。そしてそのまま二人は身体を寄せ合い、慈愛に満ちた視線を絡ませ合うと、どちらからともなく唇を重ねる。

「エマ……」

「バーバラ……」

 仄白い月明かりに浮かぶ無人の埠頭の片隅で、想い人の名前を呼び合った二人は体格差も歳の差も気にせずに、心からの熱い抱擁を交わした。無粋で装飾過多な言葉でもって言い表さずとも、こうして互いの肉体の境界線が曖昧になるまで抱き締め合えば、これ以上の愛情表現はこの世に存在しない事を彼女らは知っている。しかし愛し合う二人の蜜月の時間は、残念ながら、そう長くは続かない。バーバラとエマの貸し切り状態だったイェニカプ港に一台の車輌が進入して来ると、抱き締め合う二人の姿をヘッドライトの光の輪で照らし出しながら埠頭を直進し、防波堤の手前で静かに停車した。

「糞、いいところで邪魔しやがって」

 せっかくのエマとのロマンティックなラブシーンに水を差される格好になったバーバラは悪態を吐き、忌々しそうに舌打ちを漏らす。しかしそんな彼女を他所に、停車した車輌の助手席が音も無く開いたかと思えば、一人の男性が夜の埠頭に降り立った。バーバラとエマが立っている位置からではその相貌をはっきりと確認する事は出来ないが、男性は仕立ての良い三つ揃えのダークスーツに身を包み、彼が乗って来た車輌はベンツ社製の高級大型車である。これから夜釣りやナイトクルーズを楽しもうと言う行楽客にしては、いささか不自然な出で立ちと言わざるを得ない。

 すると不意に、埠頭から海の方角に向かって、ベンツの高級大型車はヘッドライトを数回パッシングさせた。その行為はまるで、沖で待っている誰かに合図を送っているようにも見受けられる。

「何だ?」

 バーバラが訝しんでいると、真っ暗な水平線の彼方からこちらに向かって、何らかの人工的な物体が接近して来るのが見て取れた。それはそこそこ大きな一艘の白いプレジャーボートであり、夜だと言うのにサーチライトも灯さずに航行している点がやけに不自然ではあったが、この辺りではよく見掛ける種類のボートである。そして埠頭の突端から延びる桟橋に停泊したそのボートは、やはり航海灯も灯さずに、船内が真っ暗なままエンジンを切って動きを止めた。

「バーバラ、あのボート、何か変じゃない?」

 エマもまたバーバラと同様に、突然現れた場違いなベンツの高級大型車と真っ暗なプレジャーボートとを交互に見遣りながら訝しむ。するとボートから桟橋に二つの人影が降り立ち、仄白い月明かりの下を、高級大型車の方角へと静かに歩き始めた。手を繋いで桟橋を歩く二人の内の一人は、見るからに幼い、未だ小さな子供である。

「ああ、確かに変だ。こんな時間にあんな小さな子供が出歩いているなんて、まともな親なら許さないだろうな」

 次の瞬間、そう言ったバーバラと、今にも高級大型車に乗せられようとしている子供との眼が合った。その子供は袖口や襟元にフリルとレースがあしらわれたエプロンドレスに身を包んだ金髪碧眼の幼い女の子、つまり白人の幼女である。

「そこのあなた、助けて!」

 眼が合った瞬間を見計らったかのように英語でもってそう叫んだ白人幼女は、もう一人の人影と繋いでいた手を強引に振り払うと、バーバラの元へと駆け寄ろうと脱兎の如く走り始めた。そしてベンツの高級大型車との間の五十mばかりの距離を全速力で駆け抜けた末に、彼女は抱き合っていたバーバラとエマの背後に身を隠す。

「待ちなさい! 待ちなさいってば!」

 手を振り払われた人影が幼女を追いながら、やはり英語でもって声高に警告した。埠頭の中央の明るい場所にまで姿を現したために判明したが、その人影はブルネットの髪を短く刈った若い女性であり、Vネックの綿のシャツの上から厚手のコーデュロイのジャケットを羽織っている。

「アデーレ、逃げちゃ駄目じゃないの。さあ、一緒に車に乗りましょ? ね?」

 ブルネットの髪の女性はそう言って手を伸ばすが、バーバラの背後に身を隠した幼女は応じない。

「やだ! ねえあなた、助けてくれない? この人、人さらいなの! このままじゃ、あたし、誘拐されちゃうの!」

 幼女は嗚咽混じりにそう言って、初対面のバーバラとエマに助けを求めた。

「この子はこう言っているが? お前は本当に誘拐犯なのか?」

 バーバラは流暢な英語でもって幼女を連れ去るか否かの是非を正すが、ブルネットの髪の女は動じない。

「そんな、誘拐犯だなんて滅相もない。あたしはこの子の母親です。この子、あたしや主人が眼を離すとすぐにこうやって、どこかに走って行っちゃって困ってるんですよ。それに、最近はごっこ遊びがお気に入りらしくて、あたしを怖い人さらいに見立てて鬼ごっこをせがむんです。ほら、小さい子供って、現実と空想の区別がつかなくなるじゃないですか? さあ、アデーレ、お家に帰りましょ? ね?」

「やだ! やだやだやだ! ねえ、あなた、助けて! お願い!」

 尚も幼女は、バーバラに助けを請うた。するとバーバラは、幼女の母親を名乗ったブルネットの髪の女性に問う。

「トルコ語が喋れないって事は、お前、この辺のトルコ人じゃないな? 観光客か?」

 そう問いながら、バーバラは幼女を匿うような格好でもって、彼女とブルネットの髪の女性との間に割って入った。するとブルネットの髪の女性は、虫も殺せなさそうな朗らかな微笑と共に、事も無げに答える。

「ええ、年に一度の家族旅行も兼ねて、観光でトルコまで来ました。ここは本当に、良い国ですね。だけど、ついついはしゃぎ過ぎちゃって、こんな時間までナイトクルーズを楽しんじゃったのは失敗だったかしら? 早くホテルに帰って、子供を寝かしつけてあげないとね」

 しかしブルネットの髪の女性がそう言い終えるのとほぼ同時に、バーバラは彼女のジャケットの襟を掴むと、その胸元を素早く捲り上げた。ジャケットの下に隠されていたショルダーホルスターから、コンシールドタイプの小型拳銃が覗く。

「トルコ人の警察官でもない只の観光客が、どうして拳銃なんか隠し持ってるんだ? それともあれか? 今時の子連れのナイトクルーズってのは、拳銃が無いと参加出来ないのかい?」

 皮肉交じりにバーバラがそう問い質した次の瞬間、ブルネットの髪の女性の表情が豹変した。つい今しがたまでの朗らかな笑みなど嘘のように、その眼は一瞬にして殺戮者の光を放つ。そして小型拳銃を抜こうとショルダーホルスターに手を伸ばすが、その手が小型拳銃のグリップを握ったその刹那、煉瓦の様に硬いバーバラの右の拳が彼女の下顎を殴り抜いた。夜のイェニカプ港に、ごきんと言う鈍い殴打の音が響き渡る。

「させるかよ!」

 骨が砕けんばかりの人並み外れた膂力でもって下顎を殴り抜かれたブルネットの髪の女性は白眼を剥くと、まるで糸が切れた操り人形の様にその場に昏倒した。彼女の手を離れた小型拳銃が地面の上をからからと転がり、バーバラはそれを拾い上げる。

「ベレッタM70か……随分と珍しい銃だな」

 そう言いながらベレッタ拳銃のスライドを引いて、バーバラは薬室を確認した。真鍮製の薬莢に覆われた.22LR弾が装填された、正真正銘の実銃である。

「こんな物騒な物を持ち歩いておいて、何が観光客だ、この腐れ売女ビッチめ!」

 バーバラは罵声を浴びせると、足元に転がったまま気を失っているブルネットの髪の女性の脇腹をブーツの爪先で力任せに蹴り飛ばす事によって、愛するエマとの蜜月の時間を邪魔された憂さを晴らした。しかし彼女が自分の事を棚に上げている間にも、五十m先のベンツの高級大型車の傍らに立つダークスーツの男性はジャケットの内ポケットからスマートフォンを取り出し、あまり聞き慣れない言語でもって何かを叫んでいる。

「おっと、あいつら増援を呼びやがったぞ、糞」

 桟橋に停泊した真っ暗なプレジャーボートの船体がゆらゆらと揺れ、三つの新たな人影が上陸した事に気付いたバーバラが、舌打ち交じりに悪態を吐いた。月明かりに浮かぶ着膨れしたシルエットと、重心を深く落としながらこちらに駆け寄って来るその姿勢から察するに、それらの人影が銃火器でもって武装している事は明白である。

「エマ、その子を連れて逃げるぞ! バイクに乗れ!」

 ベレッタ拳銃を真っ暗な海に向かって投げ捨てたバーバラはそう言うと、愛車の一つであるZ900RSに跨ってエンジンを始動させた。彼女の背後のタンデムシートに、金髪碧眼の幼女を膝の上に乗せたエマもまた大急ぎで跨る。そして桟橋に上陸した新手の武装集団に捕捉される前にアクセルを全開にしたZ900RSは、バーバラとエマと幼女の三人を乗せたままイェニカプ港の埠頭から走り去っていた。

 宵闇に沈むマルマラ海沿いの街道を、Z900RSの赤いテールランプの光の軌跡が明るく照らし出す。

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