第一幕


 第一幕



 トルコ共和国最大の都市イスタンブールの著名な観光地の一つ、ボスポラス海峡の金閣湾に架かる可動橋であるガラタ橋。北の新市街のカラキョイ地区と南の旧市街のエミニョニュ地区とを結ぶこの橋の上とその周囲は、今日もまた世界各地からの多くの観光客と地元民でもってごった返し、まるで祭典か祝宴の只中の様な喧騒に包まれていた。特にエミニョニュ地区側の橋の袂の人出は顕著で、名物である焼いた鯖の切り身を生のタマネギやトマトと共に硬いバゲットに挟んで食べる『バリック・エクメック』を売る水上屋台が立ち並び、より一層の賑わいを見せている。

 そんなガラタ橋を窓から臨む一軒のアパートメントの最上階の一室に、どこか近くのモスクから神の言葉であるアラビア語によるアザーン、つまりムアッジンと呼ばれる男性が発するイスラームの礼拝の時間を告げる声が届いた。


 神は偉大なり《الله أكبر》

 神は偉大なり《الله أكبر》

 神は偉大なり《الله أكبر》

 神は偉大なり《الله أكبر》

 神は唯一である事を証言する《أشهد أن لا اله إلا الله》

 神は唯一である事を証言する《أشهد أن لا اله إلا الله》

 ムハンマドは神の使徒である事を証言する《أشهد أن محمدا رسول الله》

 ムハンマドは神の使徒である事を証言する《أشهد أن محمدا رسول الله》

 いざや礼拝に来たれ《حي على الصلاة》

 いざや礼拝に来たれ《حي على الصلاة》

 いざや繁栄に来たれ《حي على الفلاح》

 いざや繁栄に来たれ《حي على الفلاح》

 神は偉大なり《الله أكبر》

 神は偉大なり《الله أكبر》

 神は唯一である《لا إله إلا الله》


 そのアパートメントの一室に置かれたベッドの上では下着姿の二人の女性と一匹の雌の黒猫が寝ていたが、アザーンを聞いた彼女らは怠惰な睡眠から覚醒すると、重い瞼をゆっくりと開いて意識を取り戻す。高価で頑丈なウォールナット材で出来たベッドはクイーンサイズで、二人と一匹が川の字になって並んで寝ても、さほど窮屈には感じない。

「おはよう、エマ」

 真っ白なシーツに覆われたベッドに横たわる二人の内、まず始めにそう言ったのは、部屋の中央寄りに寝る褐色の肌に長く艶やかな黒髪の長身の女性だった。ちなみに彼女がどのくらいの長身かと言うと、クイーンサイズのベッドからもう少しで足がはみ出すほどであり、しかも脚が長くてスタイルが良いのだから尚更背が高く見える。

「おはよう、バーバラ」

 ベッドの窓寄りで寝るもう一人の女性もまたそう言うと、その小さくて可愛らしい口から、やはり小さくて可愛らしいあくびを漏らした。こちらの女性は長身の女性とは対照的に、透き通るような真っ白な肌に短く切り揃えたプラチナブロンドの髪が魅力的な、細身の白人の少女である。そしてバーバラと呼ばれた褐色の肌の女性とエマと呼ばれたプラチナブロンドの少女とは、どちらからともなくベッドの上で半身を起こしながら身を寄せ合うと、互いの唇を静かに重ねた。しっとりと濡れた舌と舌とを絡め合う二人を、赤い革の首輪を巻いた黒猫が興味深げに見つめている。

「もうお昼過ぎちゃってるよ」

「ああ、それじゃあもうアスルの時間か」

 枕元に置かれていたスマートフォンで現在の時刻を確認したエマに、大口を開けて豪快なあくびを漏らしながらバーバラが言った。彼女が言う『アスル』とは、日に五回行われるイスラームの礼拝の内の、正午から日没までの時間に行われる午後の礼拝の事である。

アッラーは偉大なり《الله أكبر》」

 ベッドの上で跪き、聖地メッカの方角に向かって頭を下げながら、バーバラはアラビア語でそう唱えただけで礼拝を終えてしまった。この適当で大雑把な礼拝から察するに、どうやら彼女はお世辞にも敬虔とは言い難い、かなり不真面目なイスラーム教徒らしい。

「さて、腹が減ったな。さっさと飯にしようか」

 バーバラはそう言うと、黒いレースの下着を纏っただけの扇情的な姿のまま、クイーンサイズのベッドから寝室の床へと降り立った。

「スィヤフ、お前もお腹空いた? すぐにカリカリを用意してあげるからね?」

 白いレースの下着姿のエマもまたそう言うと、スィヤフと呼ばれた黒猫を胸に抱きかかえたまま、寝室の床に降り立つ。

「エマ、スィヤフに餌をやったら、ついでにチャイを淹れてくれ。あたしはシミットとケバブを用意する」

 そう言ったバーバラはアパートメントのキッチンに足を踏み入れ、冷蔵庫からフムスとドネルケバブが盛られた皿を取り出すと、数個のシミットと共にそれらをオーブンレンジに放り込んで加熱ボタンを押した。彼女の背後では猫用のドライフードの袋を手にしたエマの素足に、早く餌をよこせとでも言いたげな黒猫のスィヤフが、ごろごろと喉を鳴らしながら背中を擦り付けている。

「ああ、腹が減った」

 オーブンレンジで温め直したフムスとドネルケバブが盛られた陶器の皿、それに表面がぱりぱりに焼けたシミットが乗せられた銀食器の盆を両手に持ちながら、下着姿のバーバラはアパートメントの寝室へと取って返した。彼女の背後には淹れ立てのチャイが注がれた二人分のチャイグラスを手にしたエマと、猫用のドライフードを食べ終えた黒猫のスィヤフがぴったりと付き従う。そして再びクイーンサイズのベッドの上に横になった二人と一匹は、熱々のチャイと共に、遅い昼食をむしゃむしゃと食み始めた。

 バーバラが手にしたシミットとは、表面にたっぷりと白胡麻がまぶされた、丸いドーナツ状のトルコ風のパンの事である。この胡麻パンのシミットに、フムス、つまり茹でたヒヨコマメをニンニクや香辛料やオリーブオイルと共にすり潰したペーストを塗って食べるのが、彼女のお気に入りの朝食のメニューだ。

「エマ、もっとチーズを食え。チーズをたくさん食べると、乳がでかくなるぞ」

「バーバラ、そんな迷信を本気で信じてるの?」

「まさか。言ってみただけさ」

 胡麻パンのシミットとヒヨコマメのフムス、それに羊肉の屑肉の炙り焼きであるドネルケバブを適当に摘んでは口へと運びつつ、ベッドの上のバーバラとエマの二人は金糸細工が施されたチャイグラスに注がれた甘いチャイを少しずつ飲み下す。濃く煮出した紅茶であるチャイはトルココーヒーと並んでトルコ共和国の国民的嗜好品の一つであり、ラクやエフェスと言った酒類を別にすれば、食事の際には欠かせない必需品と言っても過言ではない。

 寝室の天井には照明を兼ねたシーリングファンが取り付けられ、五枚の羽をゆっくりと回転させながら、ともすれば高温多湿になりがちなイスタンブールの空気を絶えず循環させている。

「ふう、ごっそさん」

 やがて食事を終えると、バーバラは『ナルギレ』と呼ばれる水煙草を吸うための器具をベッドの脇から取り出し、その器具のクレイトップの上に甘い糖蜜で固められた煙草の葉と焼けた炭をそっと乗せた。すると炭によってじりじりと炙られた煙草の葉の煙が、水を湛えたボトルの中を通過しながら徐々に冷やされ、チューブの先端の吸い口から漏れ出し始める。その煙を、バーバラは肺の奥深くまでゆっくりと吸い込んで丹念に味わってから、天井に向かって静かに吐き出した。吐き出された紫煙はシーリングファンによって拡散され、ベッドと造り付けのクローゼット以外にはこれと言った家具も置かれていない広く小ざっぱりとした寝室の中をふわふわと漂う。

「ああ、堪んないね」

 水煙草による食後の一服はバーバラの数少ない趣味の一つであり、愛するエマと一緒に過ごすこの唯一無二の至福の瞬間を、彼女は何よりも大切にしていた。ちなみにバーバラが愛飲している水煙草の葉のフレーバーは、ヨルダン・ハシミテ王国のローマン社が製造する葉の内のネクタリン味である。

「なあ、エマ」

「何、バーバラ?」

「いや、何でもない」

「そう」

 水煙草は一般的な紙巻煙草とは違って、一回の燃焼時間が一時間から二時間程度と冗長であり、焦らず気長に味わうのが喫煙の際の醍醐味の一つだ。そしてベッドの上で寝転がりながらじっくりと水煙草を噴かすバーバラは、スマートフォンでもってお気に入りの動画をだらだらと鑑賞するエマと共に、怠惰な午後の一時を満喫する。無言のままそっと手を繋ぎ合う二人に、余計な言葉は必要ない。

 やがてクレイトップの上に乗せられていた煙草の葉が、ふっと音も無く燃え尽きた。室内に漂う紫煙を金色に輝く眼で追っていた黒猫のスィヤフが異変に気付き、何も無い虚空に向かって、興味深げに「にゃあ」と鳴く。甘く芳醇なネクタリン味の最後の一息を名残惜しそうに吸い終えたバーバラは、炭の火を揉み消してから、ボトルや吸い口と言った水煙草の器具一式をベッドの脇に仕舞い直した。すると彼女の隣に寝転がっていたエマがベッドの上で身を起こし、十代後半の少女特有の幼さとあどけなさが残る顔をバーバラの端正な顔に寄せると、二人は再び唇を重ね合う。

「すごく甘い。それに、ちょっとだけ苦い」

 水煙草を吸い終えたばかりのバーバラとのキスの味を、エマはそう評した。

「煙草の味は嫌いかい?」

「あんまり好きじゃないかな。だけど、バーバラとはずっとこうしていたい」

「ああ、そうだな。あたしもお前と、いつまでもずっとこうして抱き合っていたいさ」

 そう言ったバーバラは、女性にしては比較的逞しいその二本の腕でもってエマの華奢な身体を優しく抱き締め、プラチナブロンドの髪から漂う少女の香りにうっとりと酔い痴れる。勿論エマもまたバーバラの身体を抱き締め返し、彼女の愛情に応える事を決して忘れない。そしてひとしきりの抱擁を終えた二人はクローゼットの前まで移動すると、どちらからともなく外出着に着替え始めた。黒いレースの下着姿だったバーバラは、やはり黒いレースのキャミソールの上に黒い革のライダースジャケットを羽織ると、その豊満な尻をブーツカットのデニムジーンズに包む。

「バーバラ、今日はこれからお仕事でしょ?」

「そうだ、久し振りの仕事だ。それでエマ、お前はこれからどこかへ行くのか?」

「忘れたの? 今夜はイスタンブールダービーじゃない」

 呆れたようにそう言ったエマは、バーバラに向かって、彼女がサポーターを務めるフェネルバフチェSKの黄色と紺色のロゴマークが染め抜かれたタオルマフラーを拡げて見せた。フェネルバフチェSKとは、広義においてはイスタンブールを本拠地とする総合スポーツ施設の名称であり、狭義においてはスュペル・リグと呼ばれるトルコリーグ屈指のプロサッカーチームの名称である。そしてそのスュペル・リグで常にトップ争いを繰り広げているガラタサライSKとフェネルバフチェSKとの同郷チーム同士の試合こそが、エマが言うところのイスタンブールダービーであった。

「ああ、そう言えばそうだったっけな。それじゃあ、スタジアムの前まで送って行ってやるよ」

 デニムジーンズを履き終えたバーバラはそう言うと、ABS樹脂製のジェットヘルメットをエマに投げ渡し、彼女自身もまた自分のジェットヘルメットを小脇に抱える。そして踵に拍車が取り付けられたカウボーイブーツを履き、メタルフレームのサングラスを掛けてから、アパートメントの一階の玄関へと足を向けた。階段を駆け下りる彼女の背中を、空色のキャミソールとデニムのショートパンツと言う軽装のエマが、フェネルバフチェSKのタオルマフラーを首に巻きながら追い掛ける。

「バーバラ、今日はどのバイクにするの?」

 アパートメントの玄関の脇のガレージで、透明なポリカーボネイト製のフェイスガードが付いたジェットヘルメットを被りながら、エマがバーバラに尋ねた。埃っぽくて機械油の匂いが充満する薄暗いガレージの中には、バーバラが所有する数台のバイクが整然と並んでいる。

「そうだな、今日の気分はこいつかな」

 エマの問いに答えたバーバラは一台の大型バイクのスタンドを起こし、電動式のシャッターを潜ってガレージの外に出ると、鍵穴に差し込んだイグニッションキーを回して直列四気筒のエンジンを始動させた。黒を基調とした車体に鮮やかなライムグリーンのラインが踊るその大型バイクは、日本のカワサキ社製のZ900RSである。

「エマ、後ろに乗れ」

 Z900RSに跨ったバーバラが、ジェットヘルメットを被りながら命じた。そして彼女の背後のタンデムシートにエマが腰を下ろし、バーバラが革のタクティカルグラブを穿いた手でハンドルを握ると、二人を乗せたZ900RSはイスタンブールの街路を走り始める。

「しっかり掴っていろよ、エマ」

「うん」

 やがて旧市街のエミニョニュ地区と新市街のカラキョイ地区を駆け抜けたZ900RSは、かつてのボスポラス大橋、つまり現在の7月15日殉教者の橋を渡ると、東のカドゥキョイ地区に建つウルカースタジアムの前で停車した。収容人数五万人を超すウルカースタジアムはフェネルバフチェSKのホームスタジアムであり、その周囲はレプリカユニフォームやタオルマフラーに身を包んだ多くのサポーター達で埋め尽くされている。

「それじゃあ仕事が片付いたら迎えに来るから、ここで待ってろよ」

「うん、バーバラ。お仕事頑張ってね」

 そう言ったバーバラとエマの二人は、スタジアムの正面に設置された大型液晶ディスプレイの真下で離別した。再びアクセルを開けたZ900RSに跨ったバーバラは市の中心部に車輪を向け、フェネルバフチェSKの熱心なサポーターであるエマは年間パスを手に、スタジアムの入場ゲートへと足を向ける。スタジアムの中からはガラタサライSKとフェネルバフチェSKの応援歌が漏れ聞こえており、どうやら既に両チームのサポーターによる応援合戦が始まっているらしい。そして警備員によるセキュリティチェックを無事通過したエマは顔馴染みのサポーター仲間達と共にゴール裏に陣取ると、試合の開始時刻を今か今かと待ち続ける。彼女の小さな胸は高鳴り、贔屓のチーム、つまりフェネルバフチェSKの勝利を心から願うばかりだ。

 程無くして陽が沈み、両チームの選手達がピッチ内に整列すると、五万人分の座席を埋め尽くした観衆は彼らを歓喜の声で迎える。そしてキックオフと同時にスタジアムのボルテージは最高潮に達し、同じイスタンブールを本拠地とする名門チーム同士の因縁の一戦の幕は切って落とされた。

「攻めろ攻めろ! 走れ走れ!」

 熱狂的なサポーターが集まるゴール裏でタオルマフラーを頭上高く掲げながら声を張り上げるエマは、愛するチームと選手の応援に余念が無い。勿論それは彼女の周囲を埋め尽くす無数のサポーター仲間達もまた同様であり、皆が皆、それぞれの言葉でもって声援を送り続ける。そしてフェネルバフチェSKのエースストライカーが先制ゴールを挙げ、スタジアムが熱狂に包まれているちょうどその頃、同じイスタンブールの街の一角ではまた別の事件が勃発しようとしていた。だがしかし、その事実を知るのはこの広大なウルカースタジアムの中でも、一人の少女に過ぎないエマ一人だけである。

 かつてトルコ共和国の都市部では合法ギャンブルであるカジノが数多く運営され、観光と並ぶ貴重な外貨獲得の手段として国の庇護を受けていたが、十数年前の政変を境にそれらのカジノの運営は法律で禁止されてしまって久しい。しかし違法になったからと言ってこの世からカジノが消え失せてしまう事は無く、むしろ非合法的な組織の資金源として地下に潜り、この国が抱える新たな社会問題と化していた。

「糞! また負けた!」

 市の中心部から程近い一軒の大型高級ホテルの一室で、高価そうなスーツに身を包んだ恰幅の良い一人の中年男性が怒声を張り上げると、忌々しげな表情でもって天を仰ぐ。

「この俺様がここまで負けるなんて、こんなのイカサマに決まってる! そうだ、イカサマだ! そうだろう? あ?」

 怒り心頭の中年男性はそう怒鳴りながら詰め寄り、不快感を露にするが、緑色のフェルトが張られた木製のバカラテーブルの前に立つ女性ディーラーは意に介さない。

「お客様、ゲームを続けられますか?」

 アラブ系らしい浅黒い肌の女性ディーラーは、手にしたカードを華麗にシャッフルしながら中年男性に尋ねた。ここはホテルの最上階に設けられた非合法のカジノルームであり、広壮で豪奢な造りの室内は、違法賭博の場に相応しい一癖も二癖もありそうな老若男女で賑わっている。

「糞! もうチップが無え! おい、お前ら! 今日はもう帰るぞ!」

 中年男性はそう言うと、でっぷりと脂肪の詰まった腹の贅肉をぶるぶると震わせながら、バカラテーブルの席を立った。そして四人の若い男達を背後に従えた彼は混雑するカジノ内を足早に縦断し、地下駐車場への直通エレベーターの前で足を止める。

「ユルドゥズ様、またのお越しをお待ちしております」

「もう来ねえよ! 糞!」

 カジノのオーナーらしき初老の男からユルドゥズと呼ばれた恰幅の良い中年男性は罵声と共にエレベーターに乗り込んだが、彼は過去に何度もそう言いつつ、この闇カジノに足繁く通う習慣を正す事が出来ないでいた。

「おい、ケマル!」

「はい、ボス。何でしょうか?」

 地下駐車場へと下降するエレベーターの中で、ケマルと呼ばれた四人の若い男達の内の一人に、ユルドゥズは命令する。

「ハムザの店に電話しておけ! これから行くから、美味い飯を用意しておけってな!」

「了解です、ボス」

 不機嫌そうなユルドゥズに命令されたケマルはスーツのジャケットの胸ポケットからスマートフォンを取り出すと、ハムザの店とやらに電話を掛け始めた。どうやら若い男達はユルドゥズの部下か何からしく、彼の護衛も兼ねているのか、四人が四人とも背が高くて身体が大きい。

「ああ、糞、腹が立つ! 今夜は朝まで飲むぞ! お前らも覚悟しておけ!」

 直通エレベーターがホテルの地下まで降下し、アンティークな蛇腹式のホームドアが開くと、ユルドゥズは先頭に立って歩き始めた。地下駐車場にはホテルの宿泊客の自家用車が整然と並び、ガスや上下水道の配管が剥き出しになった天井は薄暗く、辺りはしんと静まり返っている。非合法の闇カジノに出入りする顧客の車が多数を占めるためか、並んでいるのはトルコ共和国の国産車ばかりではなく、日本やヨーロッパの会社が製造する高級車も少なくない。そしてそんな地下駐車場の外れに停められていたユルドゥズが所有するBMW社製の高級スポーツ車が視界に入ったところで、その車のボンネットの上に腰を下ろしている大柄な人影に気付いた彼は、眉根を寄せる。

「おい、そこのお前! そいつは俺の車だぞ! その汚いケツをさっさとどけろ!」

 ユルドゥズが捲くし立てるように罵声を浴びせると、大柄な人影は高級スポーツ車のボンネットの上から腰を浮かせ、地下駐車場のコンクリート製の床へと降り立った。降り立つ際の衝撃でもって、スポーツ車のサスペンションがぎしぎしと軋む。そしてその人影は黒い革のライダースジャケットとブーツカットのデニムジーンズに身を包んだ長身の女性、つまり褐色の肌のバーバラであった。

「なんだ、女か! 悪いが、今は酒と飯の時間だ! 女は要らねえ! とっととどこかへ行っちまいな!」

 バーバラを闇カジノの客目当ての娼婦か何かと勘違いしたのか、ユルドゥズは羽虫を追い払うような侮辱的な仕草でもって、この場から立ち去るように促す。勿論バーバラは娼婦ではないが、このホテルの周囲では客引きに熱心な娼婦や男娼の姿が数多く見受けられるので、彼が勘違いしたのも無理はない。だがそんなユルドゥズを見据えたバーバラはサングラスの奥の瞳を輝かせると、獲物を眼の前にした獰猛な肉食獣さながらに、真っ白な歯を剥きながら猟奇的にほくそ笑む。

「おいデブ、お前がケスキン一家のウマル・アリ・ユルドゥズで間違い無いな?」

 ほくそ笑むバーバラに侮辱交じりに名指しされたユルドゥズの表情が、一瞬にして固く強張った。彼の背後に付き従っていた四人の若い男達が一斉に腰を落とし、いつでも飛び掛かれるように体勢を整えると、スーツの懐のショルダーホルスターからそれぞれの拳銃を抜く。

「……おい女、お前、誰に雇われた?」

 ケスキン一家、つまりイスタンブールに拠点を置くターキッシュマフィアの幹部である事を看破されたユルドゥズが、バーバラに尋ねた。しかし彼女は腰のホルスターから二挺の大型拳銃を素早く抜き、その行為をもって返答とする。

「ボス、車の陰に!」

 護衛である若い男の一人が叫び、地下駐車場に停められていた手近な車の陰にユルドゥズを突き飛ばした。するとそれを合図にしたかのように、四人の護衛達とバーバラとの銃撃戦の火蓋は切って落とされる。奇しくもそれは、遠く離れたウルカースタジアムのピッチ上で、エマが観戦するイスタンブールダービーの後半戦のキックオフの笛が主審によって吹かれたのと全く同時であった。

「さあさあさあさあさあ! この糞野郎ども、お楽しみの殺し合いの時間だ! お前ら全員、血反吐を吐いておっんじまいな!」

 敵を挑発するように罵声交じりの雄叫びを上げるバーバラの右手には『モンティ』、左手には『パイソン』の銘が刻まれた一挺ずつのフルオート射撃が可能な大型拳銃、つまりドイツのモーゼル社製のモーゼルM712が握られている。そしてクリント・イーストウッド演じる西部劇のカウボーイよろしく、二挺拳銃のガンマンを気取る彼女はモーゼル拳銃を乱射しながら、地下駐車場を逃げ惑う四人の護衛達を見る間に追い詰めた。

「糞! 相手はたった一人だ! 応戦しろ! 囲め!」

 ユルドゥズの護衛達も手近な車輌を盾にしながら、それぞれが手にしたコンシールドタイプの小型拳銃でもって撃ち返すが、猟奇的にほくそ笑むバーバラは一向に怯まない。それどころか彼女は余裕綽々とでも言いたげに、お気に入りの歌をご機嫌な調子で口ずさみ始める。


 俺は木こりさイイ男♪ 夜は睡眠昼仕事♪

 奴は木こりさイイ男♪ 夜は睡眠昼仕事♪

 伐採作業だ飯食って♪ 便所でスッキリだ♪

 週の中日はショッピング♪ 紅茶とスコーンもね♪

 伐採作業だ飯食って♪ 便所でスッキリだ♪

 週の中日はショッピング♪ 紅茶とスコーンもね♪

 奴は木こりさイイ男♪ 夜は睡眠昼仕事♪

 伐採作業だランランラン♪ 押し花大好きよ♪

 すてきなドレスで気合い入れ♪ 男を漁るのよ♪

 伐採作業だランランラン♪ 押し花大好きよ♪

 すてきなドレスで気合い入れ♪ 男を漁るのよ♪

 奴は木こりさイイ男♪ 夜は睡眠昼仕事♪

 伐採作業にハイヒール♪ 可愛いブラジャーつけて♪

 すてきな女になりたいわ♪ めざすは愛しのママ♪

 伐採作業にハイヒール♪ 可愛いブラジャーつけて♪

 すてきな女になりたいわ♪ めざすは愛しのママ♪


 それは英国放送協会BBC製作の往年のコメディ番組『空飛ぶモンティ・パイソン』の挿入歌の一つである、有名な『木こり《ランバージャック》の歌』であった。この陽気で能天気な歌に呼応するかのように、バーバラが構えた二挺のモーゼル拳銃の銃口から射出された数多の銃弾が、四人の護衛達の脳天を次々と吹き飛ばして行く。どうやらバーバラと護衛達とでは、射撃の腕前にしても体捌きにしても、その力量の差は歴然としているらしい。そして数分後、ホテルの地下駐車場の硬く冷たいコンクリート製の床には真っ赤な鮮血とくすんだピンク色の脳漿とが盛大にぶちまけられ、まるで性格検査の一種であるロールシャッハテストの図版の様な不気味な模様が描き出されていた。

「なんだ、もう終わりか? どいつもこいつも、まるで手応えが無え早漏野郎どもばっかりだな! ほんとに金玉ついてんのか? あ?」

 勝ち誇るバーバラの周囲には屠殺された豚の様な四つの死体が転がり、彼女は脳天が吹き飛ばされたそれらをサングラスのレンズ越しに睨み据えながら、尚も猟奇的にほくそ笑む。そしてモーゼル拳銃『モンティ』と『パイソン』の弾倉マガジンを再装填すると、地下駐車場の床を濡らす鮮血と脳漿でもってお気に入りのカウボーイブーツが汚れてしまわないように注意しつつ、オペル社製の大型セダンの陰に隠れていたユルドゥズに背後から歩み寄った。

「おいデブ! そんな所に隠れてんじゃねえよ、この金玉が縮み上がった腰抜けが!」

 罵声混じりにブーツの爪先でユルドゥズの尻を蹴り上げると、頭を抱えて蹲っていた彼は「ひいっ!」と野良犬の様な悲鳴を上げながら、恐怖と困惑でもって全身をがたがたと震わせる。

「お前の手下の早漏野郎どもは全員ぶっ殺してやったから、次はお前が死ぬ番だ! 覚悟しな!」

 そう言ったバーバラにモーゼル拳銃の銃口を向けられたユルドゥズは、猫に追い詰められた鼠の最後の悪足掻きとばかりに、文字通り這うようにしてその場から遁走した。そして足をもつれさせながら自分が所有するBMW社製の高級スポーツ車の元へと駆け寄ると、その運転席に乗り込んでエンジンを始動させようとするが、指が震えてしまってなかなかスタートボタンを押す事が出来ない。

「逃がすかよ!」

 次の瞬間、そう叫んだバーバラが、高級スポーツ車の運転席の窓ガラスを革のタクティカルグラブを穿いた拳で叩き割った。甲高い破砕音と共に割れたガラスの破片が周囲一帯に飛び散り、地下駐車場の照明の灯りを反射してきらきらと光り輝く。そして車内に腕を突っ込んだ彼女はユルドゥズの髪の毛と襟首を鷲掴みにすると、彼の首から上だけを窓枠の外に強引に引きずり出した。

「その肌の色と二挺拳銃の大女……さてはお前……噂に聞いた『肉屋』だな?」

 ぎりぎりと首を締め上げられ、眉間に皺を寄せながら苦悶の表情を浮かべるユルドゥズの問いに、バーバラは答える。

「ああ、そうだ。あたしが『肉屋のバーバラ』だ。だがそれを知ったところで、お前の運命はこれっぽっちも変わらないがな」

「考え直せ……俺ならお前に、雇い主の二倍の金を払うぞ……」

「残念ながら、あたしらみたいな信用商売ってのは、報酬の額でころころと尻尾を振る相手を変える訳には行かないんでね。お前を殺すと決めたら最後、お前を殺す以外の選択肢は無いんだ。さあ、命乞いは終わったか? アッラーへは懺悔し終えたか? 死ぬ前に歯は磨いたか?」

「この売女オロスプめ……」

「それがお前の最後の言葉だ。その言葉を胸に、死んじまえ」

 そう言い終えたバーバラはユルドゥズの顎を掴むと、高級スポーツ車の窓から引きずり出された彼の首から上を、百八十度反対側に向かって力任せに捻り上げた。首の骨がへし折れる際のごきんと言う鈍い音が地下駐車場の壁や床に反響し、柔らかな頚椎と気道とがぶちぶちと捻じ切れる生々しい感触が彼女の手に伝わる。

「ふう」

 頭と身体とが正反対の方向を向いた状態のまま、BMW社製の高級スポーツ車の窓枠に首を引っ掛ける格好でもって、ユルドゥズは絶命した。彼を死に至らしめたバーバラは返り血で服が汚れないようにある程度の距離を取ると、白目を剥いたユルドゥズの死体の眉間にモーゼル拳銃の照準を合わせ、パパパンと三発の銃弾を続けざまに撃ち込む。撃ち込まれた銃弾によって脳髄を完全に破壊されたユルドゥズは、どれ程腕の良い医者が救急救命措置を施そうとも、もう二度と蘇生する事は無い。

 抹殺対象の死を確認したバーバラは二挺のモーゼル拳銃『モンティ』と『パイソン』を腰のホルスターに納めると、デニムジーンズの尻ポケットからスマートフォンを取り出し、受話器の向こうの誰かと通話を開始する。

「もしもし? ああ、あたしだ、バーバラだ。ユルドゥズのデブはぶっ殺しておいてやったから、残りの報酬はあたしの口座に振り込んでおいてくれ。ああ、そうだ。一週間以内に入金が確認出来なかったらお前ら全員ぶっ殺すから、忘れずに振り込んでおけよ。じゃあな」

 通話を終えたバーバラはスマートフォンを尻ポケットに仕舞い直し、カワサキ社製の大型バイクであるZ900RSに跨るとエンジンを始動させ、その場を後にした。静謐な空気に包まれたホテルの地下駐車場には脳天を吹き飛ばされた血まみれのユルドゥズと、彼の護衛を務めていた四人の若い男達の無残な死体が音も無く転がっている。そしてちょうどその頃、東のカドゥキョイ地区のウルカースタジアムではフェネルバフチェSKのエースストライカーが決勝打となる追加点を挙げ、満員の観客でごった返すスタジアムは興奮の坩堝と化していた。勿論言うまでもなく、フェネルバフチェSKの熱心なサポーターであるエマはタオルマフラーを頭上に掲げながら、贔屓のチームの応援に余念が無い。しかしウルカースタジアムが熱狂に包まれる一方、ハムザの店には電話で席を予約した筈の客がいつまで経っても来店しないので、店主のハムザ・バラミールは途方に暮れていた。

 こうして今夜もまた何事も無かったかのように、トルコ共和国最大の都市イスタンブールの夜は更けて行く。

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