肉屋のバーバラ

大竹久和

プロローグ


プロローグ



 新月の夜空の下で、碌に手入れもされていない田舎道の脇の枯れかけた街路樹の枝に一羽のスナイロオタテドリが佇み、細く尖った嘴でもって自身の羽毛を丹念に繕っていた。地球上でも南米大陸にのみ生息するこの鳥の無防備な姿が示唆するのは、ここがアルゼンチン共和国の小都市サンタ・ロサの郊外であると言う事と、今現在の時刻が街路から人影が消え失せた深夜二時だと言う事である。

 まるでこの世の音と言う音が消え失せてしまったかのようにしんと静まり返った深い深い闇の底に沈む街路の先には、こんな田舎町にはまるで似つかわしくない、地上三階建ての広壮で荘厳な屋敷が建っていた。その屋敷は背の高い煉瓦造りの壁と頑丈な鉄柵によって周囲をぐるりと取り囲まれており、それらが無言の重圧によって、侵入者を頑なに拒絶する。そして精緻な装飾が施された真っ白な漆喰壁も美しいこの屋敷は、未だこの国がスペイン王国の植民地であった時代に建てられた由緒正しい農場主の屋敷であり、件の農場が閉鎖された今も尚その威容を失ってはいない。

 そしてその屋敷から百mばかりも離れた街路の路肩に、砂埃で汚れたダイムラー社製の黒い大型バンが一台、音も無く停車した。車体の前後に固定されたナンバープレートの色と番号から推測されるのは、この大型バンが、ブエノスアイレスの小さな会社が所有するレンタカーだと言う事実である。

 やがて停車してからたっぷり十分ばかりが経過した頃に、不意にその大型バンのスライドドアが静かに開いたかと思えば、四つの人影が街路に降り立った。濃紺色の夜間迷彩服の上からケブラー製のボディアーマーとフェイスガード付きのヘルメットを装着し、物々しい暗視装置ナイトビジョンとガスマスクで顔面を覆ったその四つの人影は、物陰から物陰へと移動しながら屋敷に接近する。そしてよく見れば、彼ら四人の手にはやけに大きなセミオート式散弾銃、つまりイスラエルのIMI社製のタボールTS12が握られていた。接近戦で圧倒的な火力を誇る、装弾数十六発の強力な散弾銃である。

 数分後、鉄柵で出来た屋敷の裏門へと辿り着いた夜間迷彩服の四人は、その裏門をゆっくりと手で押し開けて屋敷の敷地内へと侵入した。そして雑草が生い茂る裏庭を通過すると、炊事場へと続く裏口を押し開けて屋敷の内部へと侵入し、そっと裏口を閉じる。ここまで来るのに裏門も裏口も施錠されてはいなかったし、屋敷の住人に姿を見られた形跡も無い。全ては手筈通りであり、事前に潜入させた内通者は、指示された仕事を見事にやり遂げていた。

 夜間迷彩服に身を包んだ四人が侵入した屋敷の炊事場は照明が落とされているために暗く、人の気配は無い。部屋の隅に置かれたゴミ箱から、腐ったジャガイモの匂いがぷんと漂って来る。するとその時、微かな足音がこちらに向かって近付いて来る事に気付いた四人は、咄嗟に冷蔵庫や調理台などの陰に身を隠した。その直後、炊事場と廊下とを繋ぐドアが開けられ、照明が灯されると同時に一人の男が姿を現す。それは着古したパジャマに身を包んだ中年の白人男性であり、炊事場に足を踏み入れた彼は冷蔵庫を開けると、余り物のソーセージをもりもりと食べ始めた。すぐ傍で息を殺しながら身を隠している夜間迷彩服の四人の気配には気付いていないらしく、無言のままソーセージを食べ続ける。そして数本のソーセージを食べ終え、水を一杯飲んで照明を落とすと、その白人男性は炊事場から姿を消した。どうやらなかなか寝付けずにいる内に腹が減ったため、炊事場までつまみ食いに来ただけだったらしい。再び闇と静寂に包まれた炊事場の物陰に身を隠しながら、四人はホッと胸を撫で下ろした。

 つまみ食いを終えた白人男性が炊事場を立ち去ってから更に数分後、夜間迷彩服の四人は無言のまま、活動を再開する。先頭に立つ一人が廊下へと続くドアを静かに開け、周囲に人の気配が無い事を改めて確認すると、足音を立てないように細心の注意を払いつつ炊事場から廊下へと移動し始めた。互いに三mから四mほどの間隔を維持しながら、一人目、二人目、三人目と暗い廊下に足を踏み入れる。しかし最後の四人目が炊事場を後にしようとしたところで、彼が手にしたタボール散弾銃の銃床が、ステンレス製の調理台の上に置かれていた空の寸胴鍋に触れてしまった。バランスを失った寸胴鍋はタイル張りの床へと落下し、がらんがらんと言う耳障りの悪い金属の反響音が、静寂に包まれていた屋敷中に響き渡る。

 この寸胴鍋ががなり立てた反響音を聞き付けて、屋敷の住人の多くが眼を覚ました。すると途端に、それらの住人が寝泊まりする部屋や廊下の照明が灯されて、夜間迷彩服の四人は人の気配に包まれる。

「こちらא《アレフ》1、アクシデント発生。作戦の継続の如何を問う」

 四人の内のリーダー格らしき一人が、耳元に装着された無線通信機に向かって、ヘブライ語でもって冷静に問い掛けた。すると間断無く、やはりヘブライ語の返答が彼の耳に届く。

「作戦は継続されたし。標的ターゲットの確保を強行せよ」

「了解」

 夜間迷彩服の四人はタボール散弾銃を構えながら廊下を急ぎ、やがて屋敷の北面に位置する石造りの階段へと辿り着いた。そして慎重に、だが素早くその階段を駆け上がると、最上階である三階の廊下に足を踏み入れる。

敵襲アハトゥン! 敵襲アハトゥン!」

 階段から程近い部屋のドアが開き、パジャマ姿のやや高齢の白人男性が廊下に姿を現すと、ドイツ語でもって警告の言葉を叫びながらMP40短機関銃を構えた。しかし彼が短機関銃の照準を合わせるよりも一瞬早く、夜間迷彩服の四人のタボール散弾銃の銃口から射出された銃弾が、高齢男性の胸に着弾する。それは、複数の弾頭を広範囲にばら撒く一般的な散弾とは違う、奇妙な銃弾であった。弾頭が散らばらずに一個の塊となっている点はスラッグ弾にも似ているが、その先端には極小の電極に繋がった二本の鋭い針が並んでおり、着弾と同時にそれらの針を通じて高圧電流が流れる一種のスタン弾である。

「!」

 スタン弾で撃たれた高齢男性は高圧電流によって悲鳴を上げる間も無く意識を失い、もはや骨董品とも言えるMP40短機関銃を手にしたまま、まるで糸が切れた操り人形の様にその場に崩れ落ちた。完全に脱力し切った高齢男性の身体を跨いで踏み越えた夜間迷彩服の四人は周囲を警戒しつつ、屋敷の廊下を奥へ奥へと走り続ける。そして最奥の部屋のドアの前に辿り着くと足を止め、そのドアを左右から挟み込んだ。

「א《アレフ》3とא《アレフ》4はこの場で廊下を確保し、退却に備えよ。俺とא《アレフ》2は室内に突入し、標的ターゲットを確保する」

 やはりヘブライ語でもってそう命令したリーダー格の一人が、年季の入った真鍮製のドアノブに手を掛けると、重く頑丈な樫の木で出来たドアをゆっくりと押し開けて中の様子をうかがう。ドアの隙間から垣間見える室内は照明が落とされており、今夜がちょうど新月な事も相まって、暗視装置ナイトビジョンが無ければ誰かに鼻を摘まれても分からないほど暗い。

 すると次の瞬間、パンと言う乾いた銃声と閃光を従えながら飛翔した一発の銃弾が闇を切り裂き、室内に足を踏み入れた夜間迷彩服の人影の胸に着弾した。暗い室内の中央には豪奢な天蓋付きのベッドが置かれ、そのベッドとドアとを遮るような格好でもって、銃口から硝煙が漂うルガーP08拳銃を構えた一人の若い白人男性が立っている。しかし残念ながら、彼が射出した拳銃弾程度ではケブラー製のボディアーマーを貫通する事は出来ず、夜間迷彩服の人影には傷一つ与える事は出来なかった。

「賊め、動くな! 大人しく銃を捨てて投降しろ!」

 ルガー拳銃を構えた若い男性は夜間迷彩服の二人を睨み据えながらドイツ語で警告したが、幾ら強がってみせても、明らかに形勢は不利である。そして暗闇に眼を凝らしながらよく見れば、彼の背後のベッドの上には、小さな人影が鎮座していた。それは袖口や襟元にフリルとレースがあしらわれたエプロンドレスに身を包んだ、金髪碧眼の見目麗しい白人の幼女である。どうやらこの部屋はこの幼女の寝室で、室内には彼女と若い白人男性の二人しか居ないらしい。

「こちらא《アレフ》1、標的ターゲットを発見した。これより確保する」

 無線通信機に向かってヘブライ語でそう報告した夜間迷彩服の人影は、ルガー拳銃を構えた若い男性に、スタン弾が装填されたタボール散弾銃の照準を合わせた。するとその人影を、背後に立つもう一人の人影が制する。

「よせ。標的ターゲットに当たる」

 そう言ったリーダー格の人影は、手にしたタボール散弾銃を逆手に持つと部屋を縦断し、身を挺して金髪碧眼の幼女を守ろうとする若い男性に小走りで接近した。

「動くな! 動くなと言っているんだ!」

 若い男性は再びドイツ語で警告すると、手にしたルガー拳銃の引き金を続けざまに三度引き絞る。しかしケブラー製のボディアーマーとフェイスガード付きのヘルメットによって全身を防護した夜間迷彩服の人影には、彼が射出した三発の拳銃弾も、まるで通用しない。それどころか逆に、人影から「邪魔だ!」と罵られると同時に、逆手に持ったタボール散弾銃の銃床の角でもって左のこめかみをしたたかに殴られてしまった。薄い皮膚越しに頭蓋骨が強打される鈍い音が部屋の隅々にまで反響し、若い男性はがくりと脱力すると、その場に膝から崩れ落ちる。

「クンツ!」

 ベッドの上の幼女が涙眼になりながら、崩れ落ちつつある若い男性の名を呼んだ。

「アデーレ……」

 若い男性もまた幼女の名を呼ぶが、頭部を損傷した彼の意識は急速に薄れ、やがて高価なふかふかの絨毯が敷かれた屋敷の床に突っ伏したまま動かなくなる。

「クンツ! クンツ、しっかりして!」

 尚もドイツ語でもって泣き叫ぶアデーレと呼ばれた幼女を、夜間迷彩服の人影の内の一人は、無言のまま背後から強引に抱え上げて動きを封じた。そしてもう一人の人影がタクティカルベストのポケットからポンプ式の薬剤のスプレー缶を取り出すと、その中身を幼女の鼻と口に向かって数回噴霧する。すると幼女の意識は次第に混濁し、夜間迷彩服の人影から逃れようとばたばたと暴れていた手足の筋肉が弛緩し始め、やがてぐったりしたまま意識を失った。噴霧されたスプレー缶の中身は、外科手術などの際に麻酔薬として使われるジエチルエーテルである。

「こちらא《アレフ》1、標的ターゲットを確保。これより撤退する」

 無線通信機に向かってそう報告した夜間迷彩服の人影のリーダーは、腰のタクティカルベルトに提げていた予備のガスマスクを幼女の顔に装着すると、意識の無い彼女の細く小さな身体を両手で抱え上げた。それは自分よりも体重が軽い者を抱く時にのみ可能な横抱き、つまり俗に言うところの『お姫様抱っこ』の格好である。そして寝室を後にした彼女と彼ら三人は、再び屋敷の廊下に出ると、周囲の安全を確認しながら残り二人の夜間迷彩服の人影と合流した。幼女からクンツと呼ばれた若い白人男性は頭部に大きな裂傷を負い、寝室の絨毯の上に昏倒したままぴくりとも動かない。

「א《アレフ》3とא《アレフ》4は撤退を先導しろ。א《アレフ》2は殿しんがりを務め、俺と標的ターゲットを守れ。催涙手榴弾の使用を許可する」

 廊下で待機していた夜間迷彩服の人影の内の二人は、幼女を抱え上げたリーダーの許可を得ると、安全ピンを抜いた数個のM7A3催涙手榴弾を屋敷の階段の方角に向かって次々に放り投げた。すると手榴弾からはクロロアセトフェノンを主成分とする催涙ガスが噴出し、石造りの階段を転がり落ちながら、見る間に屋敷の廊下を乳白色に煙らせる。そして当然ながら、ガスを吸い込んだ屋敷の住人達の顔面は真っ赤に紅潮して涙と鼻水まみれになると、夜間迷彩服の四人を迎え撃とうと身を隠していた柱の陰や曲がり角で激しく咳き込みながら悶え苦しむ。住人達の殆どは中高年の白人男性で、彼らの手にはMP40短機関銃やルガーP08拳銃が握られていたが、強力な催涙ガスを吸ってしまってはそれらの銃火器で応戦するどころではない。

「恨むなよ、爺さん達」

 リーダーからא《アレフ》3と呼ばれた夜間迷彩服の人影が、小走りで廊下を駆け抜けながら屋敷の住人の一人をタボール散弾銃のスタン弾でもって無力化すると、流暢なヘブライ語で呟いた。閉鎖空間である屋敷内一杯に催涙ガスが充満しているとは言え、軍用のガスマスクを装着した夜間迷彩服の四人と彼らに拉致された金髪碧眼の幼女は、その影響を一切受けない。しかも暗視装置ナイトビジョンによって暗闇の中でも視界が確保されているのだから、闇討ち同然の夜襲を掛けられる格好になった屋敷の住人達に勝ち目は無く、一方的に蹂躙されるばかりである。

「急げ急げ! 警察が到着する前に町を出るぞ!」

 そう言って発破を掛けたリーダーを援護しつつ、行く手を阻む屋敷の住人達をスタン弾で撃ち倒しながら来た道を引き返した夜間迷彩服の四人は、遂に炊事場の裏口から戸外へと逃げおおせた。そして雑草が生い茂る裏庭を通過し、鉄柵で出来た裏門を音も無く潜り抜けると、意識の無い金髪碧眼の幼女を拉致したまま真っ暗な街路を走り続ける。

「こちらא《アレフ》1、撤退完了。標的ターゲットに損害無し。敵対勢力の追撃無し。これより、速やかに帰還する」

 やがて百mばかりの道程を疾走し、街路の路肩に停められていたダイムラー社製の黒い大型バンに乗り込んだ夜間迷彩服の四人は、拉致した幼女の無事を確認してから無線通信機の向こうの何者かに報告した。そしてエンジンを始動させた大型バンは街路を抜け、首都ブエノスアイレスへと続く国道5号線に合流すると、三十分後にはサンタ・ロサの町からその姿を消していた。

 予期せぬ夜襲に騒然とする屋敷の傍の街路樹の枝の上では一羽のスナイロオタテドリが佇み、細く尖った嘴でもって、自身の羽毛を丹念に繕い続けている。

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