夢見る季節
増田朋美
夢見る季節
その日、春にしては珍しく寒い日で、たぶん冬に逆戻りしてしまったのではないかと、どこにいても人がつぶやくようなそういう日だった。そういうことは、今風の言葉を借りて言えば、異常気象というのだろうが、ほとんどの人は、単に寒いとか、そういう言葉を使って表現する程度しか、知識はもっていない。
専門的な知識があれば、解決できるだろうなと言えることは、日常生活でいっぱいあるのかもしれない。家族が全部やるよりも、お金を払って専門家に解決してもらう方が、はるかにはやく解決できる可能性もある。でも、そういうことは、ほかの国であれば、平気な顔して実行に移せるのであるが、日本というところは、どこかそうするのが恥であるとして、なかなか専門家に頼めないという事情があった。最も、早くから海外のものや思想に触れている若い人は、躊躇しないですぐできるかもしれないが、日本では人に頼らないということが、美徳であるという人が、まだまだ多いような気がする。
その日も、製鉄所では、水穂さんが、布団の上で静かに眠っていた。四畳半を怪物みたいに占めているピアノが、最近、主人に弾いてもらうことが少なくなったのを、つまらないと思っているのではないかという感じで置かれていた。
そんな中、ブッチャーが、いつもの通り製鉄所にやってきて、応接室の中を掃除していると、電話台に置かれた電話機が、大きな音を立ててなった。今時、誰でもスマートフォンを持っているのが当たり前だと言われる時代なのに、なぜか製鉄所では、今でも固定電話が置かれているのが、不思議なところだった。
「はいはい、もしもし。」
ブッチャーが電話を取ると、電話の相手は、若い青年であった。その人が誰であるか、ブッチャーはしばらく迷った。
「あ、須藤さんですか。あの、桂です。」
そういうこえは、なんだか若い青年であるはずなのに、しっかりして、大人のように見えるのであった。最も、そういう風に、演じていられる人もいるのかもしれないが。
「ああ、浩二君か。どうしたの、改まって電話なんかよこして。」
「ええ、あの、右城先生は、御在宅でしょうか。それとも、病院に行っているでしょうかね。もし、そうだったら、お帰りになったらで結構ですから、右城先生にお伝えしてほしいことがあるんですが。」
そういう浩二に、ブッチャーは何かあったんだろうかと身構えた。
「水穂さんなら、今寝てますよ。今起こしてきますから、ちょっと待っててください。」
「ああ、それなら、目が覚めたらでいいですから、お伝えしてほしいことがありましてね。」
浩二は、電話口で、ブッチャーにそういった。
「なんでしょうか。」
「ええ、あのうちのピアノ教室に通っている生徒さんで、ピアノ線が切れて練習ができなくなってしまった人がいましてね。それで、修理に出すことになったそうですから、あの、右城先生のピアノをお借りできませんでしょうか?」
ああなるほど、そういうことか。最近は、水穂さんもピアノを弾くことは少なくなったので、グロトリアンのピアノは宝の持ち腐れみたいになっている。
「ああ、そうですか。ちょっと待ってくださいね。今水穂さん、起こしてきますから。」
ブッチャーは、急いで受話器を横に置き、四畳半へ走って行って、水穂さんの体をゆすって、ちょっと、起きて下さい、浩二君から電話です、と言って彼を起こした。そして、水穂さんの体を支えて、応接室まで連れていき、ほら、出てくださいと、彼に受話器を渡す。
「もしもし、お電話変わりました。」
「ああ、右城先生、久しぶりに、お電話できて光栄です。あの、ちょっとお願いなんですけど、ブッチャーさんにもお願いしましたが、ピアノ線が切れて、ピアノが弾けなくなった生徒さんがいまして、、、。」
「ええああ、そういうことですか。なら、どうぞ使ってください。最近は体が思わしくなくて、ほとんど弾いていなかったものですから、音程は悪いかもしれないですけど。」
浩二がそう言いかけると、水穂さんは、にこやかに笑って言った。
「いいんですか先生。それに、僕は最後まで話していないのに、先生よくわかりましたね。」
と、浩二はそういっている。
「ええ、代理でピアノを貸してくれというのは、音大時代、よくあったんです。同級生たちが、よくそういうことを言い合っていました。」
と、水穂さんは言った。ブッチャーはそういうことかと、やれやれと汗を拭く。浩二君が、改まって電話をよこすなんて、何を頼みに来たんだろうと思ったが、そういうことだったのか。
「で、その生徒さんというのは、どういう人なんですか?」
と、水穂さんが聞くと、
「ええ、中年の女性です。名前は久保佐和子。子供のころ、ピアノを習っていたそうなんですが、また大人になったら始めたいって言って、僕のところに習いに来ているんです。まあ、本当は僕のピアノを貸してあげる方が理にかなっているのかもしれませんが、僕の家はほかの生徒さんもいて、ちょっとお時間がないものですからね。右城先生のピアノなら、どうかなと思いまして。じゃあ、本人も練習をしたがっているので、あの申し訳ありませんが、明日のお昼過ぎに、そちらへ伺ってもいいですか?」
やっぱりさすが若い人だ。やることなすことが早い。
「ええ、わかりました。じゃあ、お待ちしていますから。」
水穂さんは、そういうことをいった。ブッチャーは、明日また発作を起こさないか、心配であったが、浩二君の都合を考えると、そうもいかないなと思って黙っていた。
「ありがとうございます。うちの教室では、彼女、かなり実力のある生徒さんですから、練習ができないのはかわいそうだなと、僕も思っているのです。それでは、お願いします。」
「はい、わかりました。あしたよろしくお願いします。」
水穂さんは、そういって、電話をがちゃんと切った。またブッチャーは水穂さんを部屋へ戻して、眠らせてあげたのだが、明日浩二君の前で、大変なことにならないように、気を付けてくださいね、とだけ言っておいた。
翌日。お昼過ぎに、浩二がその生徒さんを連れてやってきた。水穂さんは、浴衣ではなく、しっかりと誰かと応対するときのための銘仙の着物を着て、来訪を待っていた。ブッチャーは一応彼のそばにいたけれど、水穂さんは、とりあえず発作を起こすこともなく、浩二とその女性の話に応じていた。
「初めまして。久保佐和子です。」
そういって静かに礼をする久保佐和子は、ちょっと疲弊していると思われる中年の女性だった。白髪は出ているが、それを染める余裕もないらしく、身なりはきちんとしているのに、何か事情がありそうな女性だった。
「ピアノをされてから、どのくらいになるんですか?」
水穂さんがそう聞くと、
「ええ、もう20年以上やっています。結婚する前までやっていたんですけど、結婚してやめて。そのあと、10年ちかく弾かなかったんですけど、なんだかまた恋しくなってまた始めて。まあ、音楽学校を出たというわけではないですけど、最近は、難しいショパンのバラードなんかにも挑戦させてもらっています。桂先生が、面白く指導をしてくれるので、結構ピアノは楽しいです。」
と、彼女は答えた。よくしゃべる女だなとブッチャーは思ったが、女というものはしゃべる動物だと考え直した。
「じゃあですね。一時から三時まで二時間、ここを貸してください。部屋代は、先生、どうしたらいいでしょうか。グロトリアンのピアノだから、一時間、三千円くらいですか?」
と、浩二がいきなりそういうことを言いだした。ブッチャーはそんな急に話を持っていくのかと驚いたが、水穂さんも浩二も当たり前のように話を続けている。
「ええ、頻度はどうします?週に一回くらいでよろしいですか?」
「はい。かまいません。右城先生のお体のこともありますしね。先生も、あんまり寝てばっかりではなくて、練習されている間は、起きていたらいかがですか。それでは、えーと、」
二人の話は、すぐにそういう風に進んでしまうものらしい。ブッチャーは、ちょっとついていけなかった。
「でも、僕に一時間三千円も取る資格はありません。千円で結構です。」
と、水穂さんがまた言う。
「ダメですよ、先生。グロトリアンと言ったら、超高級なピアノメーカーですから、それなりにお金を取らなきゃダメです。久保さんも、貸してくれるなら、ちゃんとお代は払うと言ってます。そうですよね。」
と、浩二が、佐和子さんに言うと、佐和子さんが頷いた。そういうことなら、やる気はあるんだなとブッチャーは思う。二人は、一時間三千円で、ピアノを貸し出すことに決めて、佐和子さんは、契約書にサインをした。
「じゃあですね、ピアノレンタルの記念に、またグロトリアンの初体験ということもあり、ちょっと弾いてみてくれますか?」
浩二がそういうと、水穂さんも聞いてみたいですねといった。佐和子さんは、じゃあ、お願いしますと言って、ピアノの椅子の上に座った。曲は、ショパンのバラード三番。のんびりした、割と明るいバラードで、悲劇的で破滅的なショパンのバラードにしては例外的なものであった。
「いやあ、なかなかいい感じじゃないですか。」
ブッチャーは、彼女の演奏に拍手をした。もちろん、二人の専門家にしてみたら、まだまだ改善の余地はあると思うけど、素人のブッチャーにしてみれば、しっかりした演奏になっていると思われる。彼女は、恥ずかしそうな顔をしていたが、ブッチャーの感想に、ありがとうございますと言ってくれた。
「ごめんください。」
そんなことを言っていると、また一人の女性の声がした。あれ今日はバカに来客が多いなあと思ってブッチャーが玄関に行くと、宅配弁当の配達会社の社員が、今月の弁当の注文について、聞きに来たのだった。この宅配弁当も、水穂さんにとっては貴重な食料だから、ブッチャーは真摯に応答するが、四畳半からピアノの音が聞こえてきたので、なんだかうれしくなった。
彼女の契約書の内容によれば、彼女は水曜日に来訪することになっていた。あの時の楽しそうな表情を見て、彼女は練習を楽しみでしょうがないという感じで来るんだろうな、とブッチャーは思ったが、その水曜日。彼女が製鉄所にやってきたのは、予定していた一時のぎりぎりになる時間だった。あれれ、もっと楽しそうに来るはずでは?と思われたが、そういう表情もしていない。その日も、バラード三番を練習していったが、なんだか演奏に覇気がなく、楽しそうな演奏ではなかった。どうしたんだろうか。とブッチャーが思いながら、庭掃除をしていると、
「あの、先生。せっかく、グロトリアンのピアノを貸していただいて、申し訳ないですが。」
と、彼女が水穂さんにそういうことをいっているのが聞こえてきて、ブッチャーは急いで、ふすまに耳を傾けた。
「あの、やっぱり、この話は、なかったことにしていただけないでしょうか。私、桂先生が言うほど、ピアノがうまくありませんし、あの時は、先生が、勢いで決めてしまったようなところがあったので。」
という彼女にブッチャーはちょっと怒りが生じた。これでは、水穂さんや浩二君のことを無視したことになるじゃないか。急いでブッチャーは、箒を置いて、ふすまを開けてしまう。
「ええ、かまいません。僕は、人の生活に何かいう権限はないので。」
と、水穂さんはそういっている。また、びっくりしすぎて、発作でも起こさないか、ブッチャーは心配で仕方なかったが、それはなさそうだった。
「ちょっと待ってくださいよ。こないだ、あれだけ一生懸命やっていたのに、もう終わりにしてしまうのですか?それって何か、無責任なところがありませんかね。」
ブッチャーは、急いでそういうが、
「いえ、かまいません。望みはかなうことよりも叶わないことのほうが、多いですからね。そういうことは慣れていますから、大丈夫ですよ。」
と、水穂さんは、にこやかに言った。もう慣れちゃったって、水穂さんそういうことじゃないでしょう?とブッチャーは言うけれど、水穂さんは、慣れているという感じだった。
「水穂さん、人が良すぎるのも、いい加減にしてください。それよりも、大事なことってあるじゃありませんか。久保さんでしたっけ。あなたも、いい加減な人だな。だって、浩二君や、水穂さんたちが、あれだけほめてくれたのに。」
ブッチャーはそう一般論を言うが、
「いいえ、僕は大丈夫です。ことわられるなんてざらにあることですから、気にしないでください。ただ、問題は、桂さんの方でしょう。若い人は、こうなると、衝撃が大きいですから、、、。」
という水穂さん。ブッチャーは、浩二君のことではなくて、俺のことは頭のどこかに入れてくれないだろうかと思ったが、水穂さんはそんな余裕はないかと思われて、それは言わないで置いた。
「水穂さん、俺、水穂さんは人が良すぎというか、もうちょっと、ピアノを貸したんだからと怒ってもいいと思うのですが、、、。」
とブッチャーはそういうことをいった。本当は、誰よりも、この契約を破棄されて怒ったのは、ブッチャーだったのかもしれない。
同時に、がらがらと玄関の引き戸を開ける音がした。
「あの、すみません。」
水曜日は来客の多い日だろうか。ブッチャーはちょっと嫌な気がしながら、玄関に向かった。玄関に行くと、宅配弁当会社の社長の土師熙子さんが、そこにいた。熙子さんは、確か年は85歳を超えている、おばあさんなのだが、髪はしっかり白髪を染めてあるし、服装も緑色の色無地の着物を着て、銀の帯を締め、身なりもしっかりしている。
「土師さん。どうしたんですか?」
「ええ、今月の宅配弁当のことでちょっと確認したいことがありまして。それでお宅へ伺わせていただいたんですが。」
「あ、ああ、そうですか。それじゃあ、ちょっと食堂で待っててもらえませんかね。玄関で待たせておくのも、あれですから、お茶でも飲んで待っていてください。」
と、ブッチャーは熙子さんを中へ招き入れた。さすがに彼女を玄関先で待たせてしまったら、ちょっと申し訳ない気がするので。
長い廊下を歩くと、四畳半からせき込む声がする。ブッチャーは、急いで四畳半に走っていった。熙子さんも、それについて行く。お年を召しているのに、足が速かった。
ブッチャーが、四畳半に入ると、水穂さんは、布団に座ったまま、苦しそうにせき込んでいた。急いでブッチャーは、出すものを出しやすくするように、背中をたたいてやって、口にタオルをあてがった。それを見ていた熙子さんが、急いで枕元の吸い飲みをブッチャーに渡した。タオルが赤く染まって、ブッチャーは吸い飲みの中身を水穂さんに飲ませた。幸い、布団が汚れるほどの発作ではなかったので、ブッチャーはほっとする。薬を飲むと水穂さんは、楽になったのかうとうと眠りだしてしまったので、ブッチャーと熙子さんが、布団に寝かせて、かけ布団をかけてやった。
「熙子さん、ありがとうございます。手伝っていただいて。」
「いいえ、大丈夫よ。」
熙子さんはそれだけ言う。そういえば熙子さんも、息子さんをなくした時そうしたと言っていた。そこは言わないほうがいいとブッチャーは思った。久保佐和子さんが、とても驚いた顔をして、それを見ているのを、ブッチャーはちょっと憎々しげな目で見た。
「あの、何か大事なお客様だったんでしょうか。もしかしたら、ピアノのお稽古をされていたとか?」
と熙子さんが言った。
「もし、お邪魔してしまっていたら、私は、また明日に伺いましょうか?」
「いや、お稽古ではなくて、ちょっと変な話をしていたんです。ピアノを貸してくれと言って、来てくれたんですけど、急に辞めたいと言い出して。」
ブッチャーは、熙子さんにそういうことをいってしまう。熙子さんは、それで何が起きたのか顛末を知ってくれたようで、なるほどという顔をした。
「どうして、いきなりやめるなんて言いだしたんですか。理由を教えてください。そうでないと、浩二君が、かわいそうですよ。」
と、ブッチャーは、水穂さんが本来言うはずだったセリフをもう一回言う。
「教えてください。水穂さんには目が覚めたら伝えますから。」
「ええ、私の父がね。」
と、佐和子さんはそういうことを言いだした。
「はあ、父がどうしたんですか?」
「ええ、父が、人様にピアノを借りるというのは、いけないことだからやめた方がいいって、そういうことをいうものですから。うちは、普通の家のような自由はありません。父が言うことはその通りにしないと。ピアノやってたのはそういう父から逃げたいという気持ちからやっていたんです。」
佐和子さんはやっと本当のことを話してくれた。
「そうですか。そういう家がまだあるんですね。人に頼らないで、自分でやっていることを、勇ましくてかっこいいとする家。昔は多かったけど、今はそういう風潮は何もないんですよ。そんな、人間、失敗しない人なんていないもの。」
応答してくれたのは熙子さんだった。ブッチャーはこういう時、お年を召してくれた人がいるのはいいことだと思った。こうして適した答えをすぐに言ってくれるのは、年長者ならではでもあるからだ。
「だから、失敗しないことはないんだから、素直に好きなことは続ければいいのよ。それをしてれば、年を取ってから、人に迷惑をかけないで済むわ。」
「そうですよ。熙子さんの言う通り、好きなことを親にダメと言われたからと言ってあきらめちゃだめです。少なくとも、あなたは、ショパンのバラードをあれだけ弾きこなせたんだから、きっと、ピアノだってあなたに演奏されることは嫌がりませんよ。だから、契約通り、思う存分ここで練習してくれていいんじゃありませんか?」
とブッチャーは言うのだが、
「いいえ、それは、あたしの家では通用しないんです。だって、父は、あたしが思うように動くことで、初めて自分の平和を保っているようなものですから。私だけじゃありません。ほかの家族もそうです。父の言う通りにみんなが動いて、何もトラブルも起こさず、人に迷惑をかけず、お金も使わないで生きているのが、私たちの家の一番の幸せです。」
と、佐和子さんは言った。
「そんなことないと思いますけどね。俺は少なくとも、佐和子さんが責任を持てるなら、何をやってもいいと思いますが、それではいけないということですか?」
ブッチャーが聞くと、
「ええ、そういう家庭ですから。そうしなきゃいけないんです。」
と佐和子さんは答えた。
「そうね、誰でもその家庭の色というものはあるものね。」
熙子さんが、そういうことをいっている。なんでそう達観してしまうのかなとブッチャーは思ったが、
「でも、そうしなければ家が回っていかないんでしょ。それもわかるわよ。つまり、個人として生きることが、認められていないのね。そういう家って昔はけっこうあったけど、今は、めずらしいから、なかなか理解されないものね。」
と熙子さんは言った。
「だったら、どうするんですか。浩二君にはどう伝えるのですか。俺、せっかく来てくれたのに、無責任なことはしたくないんですけど。」
「そうね、でも、そういう事情があるって聞けば、わかってくれるわよ。それよりも、ばれた時にお金を出さんと言われた時のほうがもっと怖いでしょうしね。それを言えば、先生もわかってくれると思うわ。その時に、もうしませんではなくて、また、来れるようになったら必ず来ますと言えば、ちょっと和らいでくれるかもしれないわよ。」
ブッチャーが言うと、熙子さんは答えた。
「確かに、家が円滑にいくのは大切だけど、自分の意志まで消してしまうことはないと思うんだがなあ。」
「いいえ、まだ、個人が個人として認められていない家は結構あるのよ。昔ながらの家ってそうなりやすいと思うわよ。ほら、働かざる者食うべからずとか、誰のおかげで食べさせてもらっているのかとか、そういう言葉だってあるわけだから。きっと、お父様のお金で食べさせてもらっているという弱みもあるんだろうし。それで、あなたは、お父様の言うことに逆らえないんでしょう。それなら、そうすればいいわ。そして、いつか一人で動けるようになるのを待つことよ。それを捨てないでいれば、ひっそりだけど趣味は続けられるから。」
「そうですか、、、。」
確かにそういう理屈もわかるのだが、ブッチャーはそういう人の話を、まだそういう人がいるのかと思って聞いていた。
「古いですね。」
と言いかけたが、
「いいえ、まだまだ古い方が、残ってるわよ。新しいことをやっている家庭なんて、ほんの一握りよ。」
と熙子さんが言った。
「あたしもそうだったんだから。私の夫も、私を管理するのが好きな方だったからね。夫が死ぬまで私は管理され続けたわ。どこへ行ったのかも、いちいち報告して、何を買ったのかも、何円使ったのかも報告して。世間では、夫がいるから、幸せなように見えるけど、何もそんなこと感じなかったわよ。だから、そういう時は良き妻を演じるようにしたの。そうすることで平穏を保ってたわ。私が、本当にやりたいことをやり始めたのは、80を超えて、夫が死んでから、やっとできるようになったのよ。」
「そうなんですか?そのくらいにならないと、やりたいことってできないものですかね。」
「そうよ。若い時か、年を取ってからのどっちかよ。それ以外の人間は自分のことは二の次で家族のことを一番に考える人間でいないと。欧米では好きなことやってもいいのかもしれないけど、日本はそうじゃないから。家族のことを一番に考えられる人が、一番かっこよくて、自分のために生きようとする生き方は一番ダメ。」
熙子さんは、そういうことをいった。
「あなたも覚えておくといいわ。若い人はそこを勘違いするから、親と衝突したり、近所とトラブルを起こしたりするんだと思うわよ。」
「熙子さん、俺たち、どうしたらいいんですか。やりたいことを捨てて、家族のために一生懸命ということは確かに必要なのかもしれないけど、自分を捨てて、というのは、俺はちょっと性に合わない気もするんですけどね。」
ブッチャーが聞くと、熙子さんは、年長者らしく、にこやかに言った。
「だから、良き妻、良き母、良き息子を演じていればそれでいいの。そして、やっとやりたいことを許される年まで、窮屈かもしれないけど、そうやって生きることよ。ただ、私見たいに、料理がすべてという生き方も、どうかと思うけど、少なくとも日本社会では、自分を主軸に置く人は、まずは初めに嫌われるからね。みんな、それができないから他人を言い合って、ダメにするのよ。だから、どれだけ問題がないと見せかけることが何より重要なのよ。」
「そうですよね。私の気持ちをわかってくれて、ありがとうございます。」
と、佐和子さんは、やっとわかってくれたという顔で、にこやかに笑った。
「ええ、焦らないで、自分のやりたいことをしっかりやれる日まで、我慢していきましょうね。あたしも、本当につらかった。でも自分が生きていくためだもの。家庭にしがみつかなきゃ、ここでは生きていかれないわ。だから、やがて来る春の夢を、夢見る季節と考えて、今は一生懸命生きましょうね。」
「ええ、ありがとうございます。本当にありがとうございました。」
そういう佐和子さんをブッチャーは複雑な気持ちで見た。大人になると、そういう風に悟りを開いてしまうという。そういうことが、生きていくということなんだろうか。
夢見る季節 増田朋美 @masubuchi4996
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