サブウェイ

コヒナタ メイ

第1話

 「花井さん、電車無くなりますよ。…花井さん。」

何者かの声が除々に大きくなってきて、花井祐介は目を覚ました。顔をあげて目を瞬きながら正面にいる人物を見ると、声の主は花井の行きつけのバー「フラワーズ」のマスター三国だった。花井はうつろな目で「ああ、そうか」と声を絞り出し、腕時計を見た。時刻は夜の十一時を回っていた。


 花井は37歳、都内の医療機器製造会社に勤務していた。勤続15年、真面目で勉強熱心な彼は営業部の主任を務め部下や取引先からの信頼も厚かった。妻の有紀とは職場で知り合い10年前に結婚した。有紀との間に8年前に娘を授かり、留美と名付けた。花井が愛する有紀と留美は何にも代えがたい宝物だった。

 医療機器は特殊で専門的な知識が必要だった。苦労も多かったが、花井は自分の販売した機器が医療の場で役に立っていることにやりがいを感じていた。仕事は順調で楽しかったが、昨年、後輩の片桐が課長に昇進してから状況が変わった。片桐は昇進してからすぐに花井に過剰過ぎるノルマを与えたのだった。しばらく黙ってノルマをこなしていた花井だったが、片桐が与える花井へのノルマがあまりにも過剰なため、

「なんで俺にこんなことをするんだ。」

と、片桐に理由を訊ねたことがあった。片桐は、驚いた顔をして、

「花井さんぐらい優秀なベテランなら、こんなノルマなんてことないでしょ。期待してますよ。セ・ン・パ・イ。」

と言ってにやりと笑った。片桐は花井を気に入らないらしく、それからもずっと片桐の嫌がらせは続いたのだった。


 その日も朝から片桐の嫌がらせは始まっていた。出社した花井が自分のデスクを見ると、デスクの上に書類が山のように積まれていた。課長のデスクを見ると片桐が椅子を左右に回転させながらスマートフォンをいじっていた。

 「このヤロー。」花井は頭に熱い血液が流れてきたことを感じた。片桐の胸ぐらをつかみたい衝動にかられたが、何とか衝動を抑え椅子に座った。深く息を吸い込んだ花井はちらりと片桐を見て「今日中に片付けてやる」と心に決めた。花井はテキパキと書類をさばいていき、書類の山は昼には半分以下の高さになった。なんとか今日中に終わるだろうと思い、昼休みは部下と外食に出かけた。花井が外食から戻ると、デスクの上には新たな書類の山が立っていた。書類の山の上には“大至急、片桐”と殴り書きされた紙が置かれていた。「ふっざけんなよ!」花井は歯を食いしばりながら小さく叫んだ。乱暴にデスクの一番上の引き出しを開け、中から一通の封筒を取り出した。足を踏みならすように片桐のデスクまで行き、片桐の前に立った。片桐が椅子に座ったまま花井を見上げた。花井は封筒を片桐のデスクに叩きつけた。封筒には“退職願”と書かれていた。

「これで満足か!」

震える声で花井は片桐に向かって言った。片桐は”退職願”と書かれた封筒を黙って取り上げると花井の目を死んだ魚のような目で見ながら

「お疲れさまでした。」

と言った。口角が少し上がった片桐の口元は冷たく笑っているように見えた。花井は片桐に殴りかかる衝動を必死に抑えた。ぎこちなく、踵を返して自分のデスクに向かい、鞄を抱えると会社を後にした。

 会社を出たのは午後2時過ぎ、ファミリーレストランでビールを飲み始め、数件の居酒屋をはしごして、午後九時に行きつけのバー「フラワーズ」にたどり着いた。フラワーズに来るまでに浴びるほど酒を飲んだ花井はカウンターの止り木に坐り、カウンターに身を預けて寝てしまったのだった。


 ぼーっとしながらその日を振り返っている花井の前に、三国がコップに入った水を置いた。三国は30代台半ばの背の低い痩せた男だった。口元には髭を蓄えていた。

「ありがとう」

花井はコップの水を一口飲んだ。八畳ほどの広さのこの店はカウンターしかなく、六つの止り木が並んでいた。天井からつり下がったスピーカーから「アズ・ティアーズ・ゴー・バイ」が流れていた。ローリングストーンズの曲が流れるこの店は、花井のお気に入りの場所だった。店の中には花井と三国しかいなかった。

「仕事辞めちゃったんだよ。」

花井はしゃがれ声で呟いた。三国はグラスを拭きながら、目だけで花井を見た。

「家に帰って仕事辞めたこと言ったら、有紀にすげー言われるんだろうな。」

花井は途方にくれるように言った。三国は花井の話を黙って聞いていた。

「だけど、我慢できなかったんだよ俺、どうしても我慢できなかったんだよ。」

コップを握りしめ、怒りに震えながら花井は言った。三国は拭き終わったグラスを壁の棚に戻しながら静かに言った。

「わかってくれますよ。奥さん、きっとわかってくれますよ。」

「そうかなぁ、わかってくれるかな。」

酔いが醒めてきた花井は三国を見つめて言った。

「大切なのはこれからどうするかじゃないですか。」

三国は花井を見つめて言った。

「そうだな。そうだよな。これからだよな。」

そう言って立ち上がった花井は、会計を済ましてバーを出た。10月の終わり、外はだいぶ冷え込んでいた。花井は両肘を抱えて軽く身震いすると、駅までの道を歩き出した。電柱にぶら下がった街灯が、控えめに路上を照らしていた。アジア系の外国人が電柱に寄り掛かってスマートフォンをいじっていた。花井は歩きながら、有紀に仕事を辞めたことを話している自分の姿を想像した。(有紀の奴相当怒るだろうな、俺の話なんて聞いてくれないだろうな。)花井は思った。有紀はやさしい思いやりのある女だったが、正義感が強く、理不尽なことは許さないタイプだった。今回の片桐が自分へ嫌がらせをしてきた話も、それに屈して退職してしまった自分のことも許してくれるとは思えなかった。花井は足を止め、下を向いて深いため息をついた。その時、胸ポケットのスマートフォンが鳴った。花井は胸ポケットからスマートフォンを取り出すと画面を見た。花井はスマートフォンの待ち受け画面を有紀と留美が「パーパ!」と言った瞬間を撮影した画像にしていた。画面の中の二人を見た花井は幸せな気分になった。有紀からラインメッセージが送られていた。

「まだ仕事?遅くなる?」

花井は(仕事辞めたこと書こうかな、いや、有紀が心配しちゃうな。家に帰って話した方がいいな。)少し悩んで

「今、飯田橋これから帰る。」

と有紀にメッセージを送信した。

 花井は小平市に住んでいた。会社は飯田橋にあるので東西線で高田馬場駅に行き西武新宿線に乗り換える。花井が飯田橋駅に着いたのは11時30分を過ぎていた。駅は空いていたが、改札口で中年の女性が駅員に何かを叫んでいた。何か、納得できないことがあったのだろう、耳障りな声で早口でまくし立てている。横目でその光景を見ていた花井は有紀の母、裕子のことを思い出した。裕子は花井に対して冷たかった。裕子は攻撃的な性格で有紀を大切に思っている分、花井に非があると花井を容赦なく攻めたてた。花井はホームに立って電車を待ちながら、裕子のことを考えていた。衝動的に仕事を辞めた自分に対して、裕子は激しく自分を責めるに違いない。

『冗談じゃないよ、有紀に相談もなく仕事辞めて、これからどうするんだよ!』

鬼の形相で自分に向かって詰め寄ってくる裕子の姿を花井は思い浮かべた。頭の中で裕子の声が大きく鳴り響いてきた。

 ホームに電車が入ってきた。ヘッドライトがゆっくり大きくなってくる。花井は電車に吸い込まれるようにホームの先へと歩を進めた。ホーム先端のステップに花井の足がかかろうとした瞬間、花井は自分の右の上腕に強い痛みを感じた。何者かが自分の右腕を掴んだようだ。花井は掴まれた右腕を軸によろけながら回転し、右腕を掴んだ者を見た。右腕を掴んだのは初老の駅員だった。駅員は花井を鋭い目で見ていた。電車が警笛を鳴らしながら花井の背後を通過していった。花井はホームの先端から少し離れて

「すいません。」

と駅員に向かって言った。駅員は掴んでいた手を離した。停車した電車のドアが開き、花井は電車に乗り込んだ。花井は自分が電車に飛び込むところだったことを思いかえすと、心臓の鼓動が高鳴り、背中全体に悪寒を感じた。うつむいていた顔を上げ、車窓から駅員を見ると駅員は花井のことを見ているようだった。花井は駅員から目をそらした。チャイムが鳴り、ドアがしまると電車が走り出した。


 その夜、家に帰った花井は有紀に仕事を辞めたことを話した。花井に突然退職のことを打ち明けられ、最初は戸惑った有紀だったが、花井が会社で片桐に執拗なパワーハラスメントを受けており、発作的に辞表を提出したのであって、決して家族のことをないがしろにしたわけでないことを理解してくれた。ただ、有紀は泣きながら、ずっと苦しい思いをしていたのであれば、もっと早く自分に打ち明けて欲しかったと言われ、花井も泣きながら謝罪し、早くほかの会社を見つけて今まで以上に頑張って働くことを約束した。

 

 翌日から花井は転職先を探した。花井は37歳という年齢の転職は順調にいかないだろうと覚悟していたが、以前に取得していた医療情報の資格が役に立ち、花井は希望通りの医療系商社に就職できた。その会社は前に勤めていた会社よりも規模が大きく、待遇も良かったため、裕子から文句を言われることはなかった。すべてが順調に進んだ花井は、前の会社であんなに苛立っていた自分を思うと、やるせない気持ちになった。しばらくして、偶然街で出会った同僚から片桐の話を聞いた。傍若無人に振舞っていた片桐だったが、女性社員と不倫関係となり、妻と別れない片桐に業を煮やした女性社員が、社長に二人の関係を洗いざらい告白してしまい、片桐は退職に追い込まれたとのことだった。花井は片桐に対して恨みを持つことはなかった。それよりも、彼を職場管理者として育成しなかった会社に対して憤りを覚えた。


 花井が片桐に辞表を叩き付けてから一年が過ぎた十月のある日、飯田橋にある病院で商談を終えた花井は、臨界地域にある勤務先には戻らず、直接家に帰るつもりだった。飯田橋の駅前に立った花井は一年前の夜の出来事を思い出した。あの時、自分が電車に飛び込んでいたらと思うと、あの時と同じように背中全体に悪寒が走った。自分を助けてくれた駅員に一言お礼が言いたくなった花井は、近くの洋菓子店で菓子を買い、飯田橋駅の改札へ行って駅員のことを訊ねた。改札で対応してくれた若い駅員は業務日誌を取り出してきて、その夜の担当者を探した。

「初老の痩せた人なら杉野さんですね。十ヶ月前に定年退職しています。」

駅員は言った。花井が杉野さんに世話になったのでお礼を言いたいというと、駅員は杉野の住所を教えてくれた。時刻は午後4時を回っていた。駅で一言お礼を言って帰るつもりだったが、定年退職した身であれば家にいるだろう。花井は日暮里にあるという杉野の家を訪ねることにした。


 杉野の家は大通りから細い路地を5分ほど歩いたところにある古い一軒家だった。花井は玄関の引き戸を開け、

「ごめんください。」

と声をかけた。

「はーい。」

奥様だろうか、女性の声が聞こえ、奥から割烹着を着た小柄な初老の女性が現われた。

「突然お邪魔してすみません。私、花井祐介と申します。杉野良夫さんは御在宅でしょうか?」

花井は女性に訊ねた。女性は一瞬驚いた表情をしたが、すぐに

「はい、杉野に何か御用でしょうか?」

と花井に訊き返してきた。

「以前、杉野さんにお世話になったもので、近くに来たものですから、ご挨拶をと思いまして。」

と言った。女性は笑顔で

「まぁ、そうでしたか、どうぞお入りください。」

と言って花井を招き入れた。花井が玄関を上がると、女性が先に歩いて案内した。杉野の家は古びていたが、こぎれいな印象だった。廊下の右側に小さな庭があり、垣根の倍ほどの高さがあるモミジの枝には四十雀が止まっていた。女性は奥の部屋の前まで来て止まった。花井も止まると女性は部屋の障子を開けて、

「こちらです、どうぞ。」

と言った。花井は会釈して部屋に入った。六畳の部屋の中心にはちゃぶ台があった。杉野は部屋にいないようだ。女性が部屋に入ってきて、押入れから座布団を出して、しゃがみながらちゃぶ台の前に置いた。

「どうぞお座りください。お茶を入れてきます。」

花井は座布団の上に座ると右側の壁を見た。そこには仏壇があった。仏壇の中には杉野の上半身を撮影した写真が入った遺影が置かれていた。

女性が急須と茶碗を置いたお盆を持って部屋に入ってきた。花井のはす向かいに座り、茶碗に茶を注いだ。

花井は女性に

「杉野さんは亡くなられたのですか?」

と訊ねた。女性は深く頷き、話し始めた。

「私は杉野の妻で秋子と申します。主人は半年前に癌で他界しました。定年の数か月前に体調を崩して病院に行ったところ、お医者様から末期癌なので、すぐに入院するように勧められましたが、あの人は俺は定年まで勤め上げるんだと言って、入院せずに痛み止めをもらって働き続けました。定年退職してからすぐに入院しましたが、すでに手遅れの状態で、まもなく息を引き取りました。」

秋子は言い終わると、お茶を一口飲んで微笑みながら、再び話し始めた。

「主人は仕事のことを家で話しませんでした。ただ、1年前にホームから電車に飛び込みそうになった男の人のことは話してくれました。『あの男はどうしただろうか、家族もあるだろうに…。』と言っていました。私たちは子宝に恵まれませんでしたから、主人はちょうどその男の人に自分の息子の姿を重ね合したのかもしれません。」

死の淵にある者に救われた自分の命。花井は胸にこみ上げるものを抑えきれずに涙を流した。秋子に向かって頭を下げ、震える声で言った。

「すみません、1年前に杉野さんに命を救ってもらったのは私です。もっと早くにお礼に伺うべきでした。」

花井の腿の上に置いた手の甲に涙が落ちた。

「頭をお上げください。あなたが謝ることはございません。」

秋子は目頭を手拭いで押さえながら、

「花井さんがこうしてお礼に来て下さって、主人はきっと草葉の陰から喜んでいますよ。」

と言った。花井はしばらく泣き続けた。

数分泣いて気持ちを落ち着けた花井は

「すみません、これつまらない物ですが。」

と言って菓子折りを差し出した。秋子は

「まぁ、すみません。」

と言って、菓子折りを受け取ると仏壇の前に持っていき、仏壇の上に置いた。

「お線香をあげさせてください。」

花井は秋子に言った。

「お願いします。」

秋子は会釈しながら言った。

花井は仏壇の前で正座し、遺影を見た。遺影の中の杉野は目を見開き、口を真一文字に閉じていた。

仏壇の前で手を合わせ、目を閉じると、あの夜の杉野の鋭い目が花井の脳裏に蘇ってきた。「死ぬんじゃない」杉野の目はそう訴えていたのだと思えた。

花井は杉野の冥福を祈った。


静寂に包まれた部屋に、庭のモミジに止まった四十雀の甲高い声が響いた。



                    了

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