エピローグ
目が覚めると、白い天井が広がっていた。
ベッドの上で仰向けになっているのだとわかり、目だけ動かして場所の確認をする。
様々な薬品。綺麗に整頓された机。身長計や体重計。消毒液のような匂いが鼻腔をかすめる。どうやら、保健室で寝ているらしい。
頭はまだ痛むが、動けそうだったので上半身を起こす。すると、横の方から柔らかい声で、
「起きて大丈夫なの? まだ寝ててもいいよ?」
「……未来?」
制服に着替えた未来がベッドの横にパイプ椅子を置き、心配そうに俺を見つめていた。
目の周りが少し赤みがかっていて、ストールには濡れた跡が残っている。
「急に倒れたって聞いたから、すっごく心配したんだよ。軽い脱水症状だろうから、水分取って寝てれば大丈夫だってさ。もぅ、暑い時には水分が大事ってのは常識でしょ?」
子供にするような優しい注意をして、未来は俺がいつも飲んでいるお茶のペットボトルを差し出してくれた。
「……こういう時は普通スポーツドリンクとかじゃないのか?」
「も、文句言うならあげないよぉ⁉」
「ありがたく貰います」
喉を鳴らしながら、一気に飲み込んでいく。冷たい液体が喉に染み渡った。
「おー、いい飲みっぷり。もう少しじゃんっ。イッキ! イッキ!」
間違っても病人にする掛け声じゃないだろ。殺す気か。
「そういや先生は?」
「用があるから少し席外すってさ。だから、わたしがお守り役だよっ」
胸を叩き、自信あり気な顔を見せる。
「さんきゅ。でも、もう大丈夫だ。先生が戻って来たら俺らも戻ろう」
未来はホッとしたように胸をなでおろし、紫水晶に似た綺麗な瞳でまっすぐ俺を見入る。
「……ありがとねクマ」
「なんだ、そんなに改まって」
「浦見先輩から話は聞いたよ。一人で頑色々張ってくれたんでしょ? 水分取るのを忘れちゃうくらいに。だから、ありがとだよ」
花が咲くような満面の笑み。見た瞬間に疲れが吹っ飛んでいくような気がした。
そして未来は、少し考えるようなそぶりを見せてから恥ずかしそうに、
「……ね、ねぇクマ。ご、ごごご褒美とか、その……欲しい?」
緊張しているのか言葉がどもる未来。顔は真っ赤だ。
「なんだかわからんが、貰えるなら欲しい……けど」
「わ、わかった……っ!」
ぎごちなく首を縦に振り、上履きを脱いでベッドに登ってくる未来。
ギシッと、ベッドの軋む音が聞こえた。
「……一回だけだからね?」
小さな口からは艶やかな声が出された。照れているせいか瞳は潤んでいて、その姿に俺は釘付けになってしまった。夕暮れの保健室。周りには人の気配すらしない。思わず生唾を飲み込む。ゆっくりと未来はベッドの上で正座をし、ストールを外した。
「え、えっと。その、初めてだし……ど、どうしたらいいのか……わかんない、けど……こうでいいの、かな?」
膝の上をぽんぽんと叩く未来。恥ずかしそうに目は伏せている。
「きょ、今日だけだよっ! その、わたしのために頑張ってくれたんだし……特別に」
スカートから覗く太ももは実に柔らかそうで、自然と吸い寄せられていく。
「じゃあ……お言葉に甘えて」
こてん、と頭を未来の膝の上に乗せ、人生初のひざまくらを体験した。
う、うおぉ……! き、気持ちいい! いいなこれ……女の子の柔らかさがダイレクトに伝わってくる。ふわっというよりは、もちっとした柔らかさだ。すべすべの肌に、香る甘い匂い。天国という文字がこれほど似合うものなんてないんじゃないか? それくらい、心地よくてたまらなかった。
頭を仰向けにすると、目前にはこれでもかというくらい強調される双丘の存在。
「……絶景だな」
「え? あ、ちょ、ちょっと! 上向くのは禁止ぃぃぃ!」
「ちぇー。しょうがないなぁ……」
俺はうつ伏せになり、未来の太ももに顔を埋めた。
「うあぁぁぁぁ! 埋めるなぁ──っ!」
ゴキッ。
「うぐぅ!」
強制的に首を横に曲げられ、鈍い痛みが走る。
「痛ってえな! じゃあ、どうすりゃいいんだよ?」
「ふ! つ! う! にしてればいいでしょぉ⁉」
これ以上すると強制終了される恐れがあるので、素直に横に向き直り、堪能を再開する。
未来は柔らかい笑みを浮かべながら、俺の頭を撫でてくる。恥ずかしいし、こそばゆいが幸福感で満たされていく。
「……クマも大概お人好しだよねぇ」
ひとり言のように未来は呟いた。
「わたしのことお人好しっていうけど、そうなったのはクマのせいでもあるんだからね?クマって文句を垂れても、最終的には助けてくれるじゃん。いっつも頑張ってくれるから、わたしも頑張んなきゃって思っちゃうんだよっ」
「なんだそれ。俺は未来と違って誰彼かまわず助けてるわけじゃない。……未来だから助けたいんだ」
「……わたしだから、か」
上を向くと怒られるので、未来の表情は伺うことはできない。赤くなっているであろう俺の顔を見られないで済むのはよかったが……。
「クマ。あの日のことさ、冗談じゃなかったって言ったら……どうする?」
「あの日って?」
「浅井先輩たちが結ばれた日だよぉ」
「あー……」
いま思い出してみても、なかなか恥ずかしいことをしようとしたな。
でも、アレが冗談じゃなかったとすると……。
「ぶーっ。時間切れ」
「おい、そんなの聞いて──」
言いかけた俺の頬に、なにか生暖かくて柔らかいものが触れた。
思わず俺は飛び退いて、未来から距離を置く。
頬を押さえると、まだ感触が残っている気がした。
「な、ななな! み、未来⁉」
未来は恍惚とした顔で、唇に手を触れている。
「ま、まさか……!」
「ふふっ。……さぁ、どうでしょうねぇ」
未来は二本の指を、俺の頬に優しく触れさせる。
それは、先ほどの感触にとても似ていて──
「あ! 未来、お前っ……!」
「あはは! 見事に騙されたねー。……なぁに? ほっぺにちゅーされたと思った? ふふっ。経験ないクマは指との違いもわからないのかぁ~」
「ち、違っ……!」
自分でもわかるくらいテンパっている。
未来は悪戯っぽい笑顔を浮かべながら近づいて来て、俺の耳元で囁く。
「──そう簡単には、してあげないんだから」
艶を含んだ鈴の転がるような声に鼓膜を揺らされ、脳天にまで響くような感覚に襲われた。その言い方だと、いつかはしてくれそうな意味にも捉えられるが……。
「お、クマ殿目覚めたでござるか」
保健室のドアを開けて、アキバとイトナが入ってきた。
「心配したでござるよ」
「そうですよ。クマちゃんさんが倒れたと聞いて、未来さん泣きじゃくって大変だったんですから」
「う、うわぁぁ! イトナちゃん、それは言わないでよぉ────っ‼」
ジタバタと両手を動かしながら、イトナのもとへと走る未来。
「隠すことないじゃないですかー。ねー、クーちゃん」
「泣きすぎて浦見先輩も若干引いていたでござるからな」
「うえぇ⁉ そ、そんなことないよぉ!」
「なんだ未来。そんなに心配してくれたのか」
「ち、ちがっ! いや、心配はしたんだけど……でもべつに、その、うぅぅ……うっさい! クマのバ──────カッ‼」
「おい! 俺が罵倒される要素無かったよないま⁉」
暖かい笑いに包まれる保健室。いつもと変わらない日常。
無事にみんなの笑顔を守れたんだと、今更になって実感してきた。
「え、えっとみんな……!」
未来は意を決したようにベッドから立ち上がり、一人一人順番に目配せをしていく。
「き、今日は本当にありがとう! え、えっと……こんなわたしだけど、ずっと、ずっと一緒にいて欲し……ううん、一緒にいるでしょうっ‼」
追い風のように、未来の後ろの窓から心地よい風が吹いた。
ストールは軽やかに舞い上がり、天女の羽衣を彷彿とさせる。
「どうして予言みたいに言うんだよ?」
「みたいじゃなくて予言だよ。もー、鈍感なんだからっ」
髪を手でおさえながら、穏やかな笑顔を作っている。
風になびく髪の端が、西陽に透けて優しく光っていた。
「あぁ、そういうことか」
俺たちは互いに顔を見やり、言葉なく笑みを浮かべる。
予言だったら──俺らが実現しなきゃいけないからな
「そうだよ。だって……」
未来は紫水晶のような瞳を輝かせながら、こぼれるような笑みを湛えた。
「わたしの予言は──100%なんだからっ」
予言者なのに予言ができなくなったんで、自分たちで実現させてみることにした みやびなり @miyabi-nari
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