第十一話
夜が近づいてきて、ほの暗い帰り道。
青白く光る月と街頭に照らされ、歩調を合わせて家路を辿っていく。
「──1型2色覚?」
未来はゆっくりと足を止め、こちらへと振り返る。俺は静かに頷き、
「多分な。青や黄色は問題なく見えるが、赤と緑がくすんだ黄色のように見えて区別がつかない、赤色盲とも呼ばれる色覚異常なんだと思う」
「でもさ、本当にその赤色盲ってやつなの? 色盲って結構珍しいイメージあるけど」
「案外そうでもないんだ。女性は五百人に一人の割合だが、男性は二十人に一人。症状の度合いの違いはあるだろうが、クラスに一人や二人はいる計算になる」
「うえぇ⁉ そ、そんなに多いんだ……。え、クマはいつから気付いてたの?」
「いつからと言われてもな……腑に落ちないことが積み重なって、かな」
ずっと違和感を覚えてはいたが、その正体には中々辿りつけなかった。
未来のあの言葉が無かったら、未だに答えまでたどり着けなかったかもしれない。
「まずはハンカチの刺繍だ。浅井先輩は『折りたたんだまま洗った』と言っていたが、それはない。……アキバ、お前のそのTシャツが折りたたんで置いてあったとする。その上に少しだけ醤油を垂らしてしまった。さぁどうする?」
「そんなの念入りに洗うに決まってるでござろう」
「汚れた面だけか?」
「否! 裏移りの可能性があるでござるから、一度広げて──あ」
「そう。血のついたハンカチを洗うんだ。浅井先輩はかなり血が出たと言っていたし、裏移りだってしているかもしれない。返すつもりならなお、折りたたんだまま適当に洗うはずがないだろ?」
俺が生地にインクが染みていないか確認したのと同じで、血が他の箇所にも付いていないかなんて、真っ先に気にすることの一つだろう。
刺繍は特別大きくはないが、見落とすという程小さくもない。
だから、浅井先輩はきちんと見たうえで、イニシャルの存在に気付けなかったのではと疑問を持った。
「そして、ハンカチの持ち主について聞いた時だ。浅井先輩は『二年生じゃないことはたしか』だと言っていた。同じ学年の人だったら顔でわかるからか、と俺も聞き逃していたんだが、普通そんなことを言うはずがない。なぜなら、球技大会ではみんな体操着を着ているんだから」
「! そうですね。体操着を見れば、少なくとも学年色はわかります」
クーを無理やりスクールバッグに押し込みながら、イトナは舌を巻く。
「二年生は青、一年生は赤で三年生は緑。体操着を見た時点で一つの学年までは絞れるはずなんだ。なのに浅井先輩はそうしなかった……いや、出来なかったんだ。赤と緑の区別がつかないから」
最初に未来に敬語を使ったのもこれが理由だろう。
俺たちは上履きの学年カラーで二年だと判断したが、浅井先輩は俺たちの上履きを見ても一年なのか三年なのか判断できなかった。だから、念のため敬語で話しかけてきたんだ。
「あと、浅井先輩は焼肉に対して乗り気じゃなかったうえに、生のまま食べようとしたり、焦げたものを食べようとしていた。答えは単純だったんだ。焼肉に慣れていないからなんかじゃなく、焼き加減がわからなかったから」
実際、赤色盲の人は焼肉に行くと、生かそうじゃないかの判断がつかないため、連れの人が焼いたものしか怖くて食べられないらしい。知らなかったとはいえ、浅井先輩には悪いことをしてしまったかもな。
「だから、浅井先輩は色覚異常なんじゃないかという結論に至った。赤い髪飾りが緑に見えるとなると、元から緑の髪飾りのモノと似た色に見えるってな。そうしたら該当する人物はたった一人、梨の髪飾りをつけていた向井先輩ということになる。丸い形にへたの部分があって、赤と緑の二択だったら、そりゃリンゴと思うからな」
浅井先輩はこちらにわかりやすいと思って教えてくれた情報だったのだろうが、皮肉にも混乱を招いてしまったのだ。
「一時はどうなるかと思いましたが、無事に予言は的中しましたし、よかったですね」
スクールバッグに入れることを諦めたのか、クーの頭が飛び出たままだ。知らない人が見たら相当怖いだろうなコレ。
「うんっ! 皆、本当にありがとねっ!」
可愛らしくペコっと頭を下げ、誠意を見せる未来。
俺的には、その笑顔が見られるだけで十分なんだが──
「拙者はこっちの道ゆえ、さらばでござる」
「私とクーちゃんもこっちなので。みなさん、また明日です」
十字路に差し掛かり、俺たちはそれぞれの帰路へとつく。
「じゃあね二人とも、また明日っ」
アキバたちと別れを告げ、俺と未来は肩を並べて歩き出す。
ここから隣接するお互いの家までは、五分足らずで到着してしまう。
比較的短い時間だが、俺は未来とのこの時間が結構好きだ。学校じゃ二人きりになれる機会なんて滅多にないし。
「ふんふふん、ふーん♪」
機嫌良さそうに、鼻歌交じりで歩く未来。
生き物のようにぴょんぴょんと揺れるロングヘア―が可愛らしい。
「やけに機嫌いいな」
「当たり前じゃんっ。わたしたちが恋のキューピットになって、二人を結ばせたんだよ? 嬉しいに決まってんじゃんっ」
スクールバッグをバシバシと俺の背中に当てて、なおもテンションの高い様子。いや、なんで叩かれてんだ俺?
「……でもさ、どうして初めから言ってくれなかったのかなぁ」
歩みを止めたかと思うと、闇に飲まれつつある空を見上げながら、言葉を投げかけてきた。
「人には言いたくないことの一つや二つあるもんだろ」
仮に、過去に色覚異常で嫌な経験をしていたりしたら、トラウマになっていることだってありえる。しかし、最後には俺たちに話そうとしてくれた。今回の件で信用を勝ち取れたということなのだろうか。
「……クマにもさ、あったりするの? わたしに言いたくないこととかさ」
「いま関係なくないか、それ」
「いいの、教えてよ」
不貞腐れたように、ジト目で威圧をかけてくる。なぜ攻められているんだ俺は。
「そういう未来はどうなんだよ」
「えっ⁉ わ、わた、わたしは……」
虚を突かれたように、しどろもどろする未来。
暗くてあまり表情は伺えないが、心なしか紅潮しているようにも見える。
「あるよ。言いたくないことじゃないけど、言えないこと。……だって、いまの関係が壊れたらごにょごにょ」
相変わらず後半になるにつれ聞き取れなくなるが、珍しいことでもないし、いいか。
「そうか。ま、無理には聞かんから安心しろ」
言いたいけど言えないことだったら、俺にもあるしな。
「……そういえば、未来の作戦って何だったんだ?」
「さくせん?」
そんな異国語を聞かされたような顔しなくても。
「ほら、告白が上手くいかなかった場合、いい方法があるって言ってたろ?」
「あー……うん、そんなこともあったねぇ」
「おい、まさか策なしだったのか?」
「ちっ違うもんっ! いざとなったらって案は本当にあったもん」
顔を赤くして必死に反論してくる未来。そんなにムキにならんでも。
「だったら教えてくれよ」
「い、言えないことは無理には聞かないって言ったばっかじゃんっ! わたしだって……その、考えた案が出来なかったことだけは、ちょっと残念なんだから……」
未来はもじもじと口ごもり、俺から顔を背ける。
「なにが残念なんだ?」
「うにゃぁ────っ! な、ななななんでこんな時ばっか聞こえてんのさぁ!」
「いや、そんなこと言われても……未来も偶には自分の考えた案を披露したかったのか?」
未来は「は~あ」と露骨に大きなため息を吐き、
「んもぅ。そういうことじゃないよ。ほんと、クマは自分に向けられたことはわかんないんだから……ばーか」
「なんの話だよ?」
「クマが全然ダメって話だよぉ! この鈍感ミステリーオタク!」
そんなやり取りをしているうちに、もう自宅の前へと到着してしまう。
まだまだ話し足りないが、外で長話をするのも未来に迷惑か。
「じゃあ、未来また──」
別れの挨拶をして家に帰ろうとしたとき、ふと袖を掴まれた。
「どうした?」
「えっとね、今日はなんだか帰りたくないなぁ、なんて」
「自宅の前まで来て何を言ってるんだお前は。おばさんと喧嘩でもしたのか?」
「だから、そういうことじゃないよ、ばか……」
途切れる会話。
辺りは静謐に包まれ、遠くでぼやけるテールランプが美しく揺れている。
闇は深さを増し、夜の顔を覗かせていた。
「約束、覚えてる?」
澄んだ声は、静寂に染み入りそうなくらい小さい。
「それって、なんでも一つ言うことを聞いてくれるって約束か?」
未来は俯きながら、コクンと無言で頷く。
「え、えっちなのはダメだけど、そ、そのギリギリみたいなの、とか……えっと、一歩手前というか……まずは、なるべき関係になるというか……と、とにかくそんな感じっ!」
「おい、訳わからんぞ。例えばどんなんだ?」
「た、例えばっ⁉ それは……その……うぅ」
耳まで真っ赤にして見悶える未来の頭からは、湯気が出そうな勢いだ。
未来はちらっと俺の顔を伺うように、上目で静かに見据えて、
「──キス、とか」
潤んだ瞳は、薄暗い闇に浮かぶ一粒の紫水晶のようだった。
言葉もなく見つめ合うと、艶めかしいまでの美しい顔が、目と鼻の先に広がっていた。
淡い桜色の唇は薄く濡れ、電灯に照らされ煌々としている。
思わず目線を逸らしてしまうが、柔らかそうな唇が頭にこびりついて離れない。
「じゃ、じゃあ……」
未来は胸の前で手をぎゅっと握りしめ、言葉の続きを待っているようだった。
その表情はまるで、本当に期待しているようにも見え──
「な、なんちゃってっ!」
「──は?」
バーンという擬音が、背後に見えそうなテンションで放たれた衝撃発言。
「も、もももう、本当の訳ないじゃんっ、じょ、冗談だよ冗談! だから、その、いまのは忘れてぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇえっ!」
「お、おい未来!」
俺の制止を振り切って、未来は自宅の門扉を開けて中に入ろうとする。
咄嗟に腕を掴むと、そのまま俺がバランスを崩してしまい、超至近距離で未来と見つめ合う体勢に。ほんの数センチ動いたら唇が重なってしまうくらいの距離で、お互い体が固まってしまった。
真っ赤になっているであろう顔に、暖かい吐息が当てられる。
「……くま」
薄い唇が小さく開き、蕩けたような表情で囁きかけてくる。
そして全てを俺に委ねるように瞼を閉じ、唇をきゅっと結んだ。
俺は喉を鳴らし、何度も呼吸を整える。
「……未来」
情感を込めて呟くと、未来はビクッと細い肩を跳ねさせ、強く目をつむった。
自分の顔を未来の顔へゆっくり近づけていき、唇と唇を──
「あら、お帰りなさい二人とも~」
一瞬で雰囲気をぶち壊すような、呑気な声が背後から聞こえてきた。
スーパーの買い物袋を両手に持ち、陽気な笑顔を振りまく。……未来のお母さんだ。
「見て見てこの立派な大根、安かったのよ~。……あら、どうかした?」
俺は飛びのくように距離を取り、平然を装う。
しかし未来は、その場で立ち尽くして涙目のまま震えた声を発する。顔は茹でダコのように真っ赤だ。
「なっ、お、おお、おか、おおおおかあさんっ‼」
「どうしたのよ? もー、変な未来ね。すぐご飯にするから、早く帰って来なさいよ?」
事情が呑み込めない未来のお母さんは、門扉を開けて軽い足取りで家へと入っていく。
なんてベタな……アキバが大好物な展開だろこれ。
「く、くくく、くくくくく」
顔をうつ向かせた未来が、バグったように「く」を連呼してくる。
「くく、クマ……あのあの、えっとね、いまのは……その、なんというかね……お、お願い忘れてえぇぇぇぇぇぇぇぇえ‼」
大声を出して、玄関へと駆け出す未来。
「お、おい未来!」
「冗談でしたぁ────────────っ‼」
俺が反応する前に、今度はしっかりと家の中へ逃げ込んでいった。いや、それよりも──
「いま冗談だって言ったよな……?」
待て待て待てっ! 冗談だったら超危なかったぞ⁉
未来は自分の魅力をもっと知るべきだ。本当に冗談じゃ済まないところだったんだ!
だとしたら、本気にしてた俺恥ずかしすぎんだろ……それにしてもやばい。雰囲気に飲まれてマジでしてしまいそうだった。うわぁ。夜のテンションって怖いわ。そりゃあ、殺人鬼も夜に人を殺すってもんだよ。人殺しのゴールデンタイムだもの。
羞恥に悶える俺を、心地いい風が撫でる。
火照っている身体をほどよく冷ましてくれるような、少し肌寒い風だった。
「本当にしたら、未来のやつどうしたんだろ」
……考えても仕方ないか。未来が冗談だというなら、きっとそうなのだろう。
どれだけ考えても答えが出るわけがない。それに、順序というものだってあるしな。
せっかくだし、またの機会にとっておけばいいか。
いつか──この想いを伝えた時とかに。
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