第九話
夕暮れが教室をオレンジ色に染め、影を伸ばしていく。
期日である5月1日の放課後。
この一年四組の教室には、俺たち以外の姿はない。
昼間は騒がしかった教室もいまは、静かな場所へと変貌している。
微かに聞こえてくるのは、校庭で部活を行う生徒のかけ声くらいだ。
「緊張してきた……」
教卓に背をもたれさせ、浅井先輩は張り詰めた表情を浮かべている。
「大丈夫ですよ浅井先輩! 落ち着いてください、深呼吸ですっ!」
「う、うん。ありがとう百瀬さん」
ファイトと言わんばかりに、胸の前に握りこぶしを作って鼓舞する未来。
「来ましたよ!」
教室のドアから廊下を伺っていたイトナが、小声で知らせてくる。
「えっ、も、もう⁉」
浅井先輩はひどく動揺し、いまにも逃げ出しそうな勢いだ。
しかし、そんな隙は与えない。ここまでして逃げられたら、たまったもんじゃない。
「じゃあ、頑張って下さい浅井先輩っ!」
「急ぐでござる」とアキバに招かれ、俺たちは急いでベランダへと移動する。
ここから隣のクラスのベランダまで行き、何食わぬ顔で廊下に出て下校する……と浅井先輩には説明したが、未来が告白シーンを見逃すはずもなく。
「よしっ。えへへ、生で見るの初めてっ」
カーテンを閉めて身を屈めれば、教室内から余程注意深く見られない限りバレないと立証済だ。変なところばっかり頑張りやがって。
廊下からはパタパタと、急くような足音が聞こえてくる。
足音はこの教室の前で止み、ドアを開けて一人の少女が教室へと入ってきた。
少女は浅井先輩の存在に気づくと、瞠目して動きを止める。
「……あの時の」
そう一言漏らすと、浅井先輩のもとへ一歩一歩、セミロングの髪を揺らしながら静かに近づいていく。整った鼻筋に色白の肌。大人しそうな印象を受けるため、あまり目立たないように思えるが、綺麗な人だ。
「えっと、この前はハンカチありがとう……ございます」
はにかみながら礼を言い、ポケットからハンカチを取り出して、浅井先輩は目の前の少女
──向井真梨奈へと差し出した。
「べつに敬語じゃなくてもいいよ」
くすっと笑う向井先輩。その額辺りには緑色に輝く髪飾りが。
小食なのだろうか、太ももは細っぽくて個人的に少し残念に──って痛ててててっ!
横で屈んでいる未来に、腕を思い切りつねられる。
「な・ん・で! クマはこんな時も女の子の太もも見てるかな⁉」
「ば、バカ! やめろ、バレるだろ!」
小声で言い争う俺たちの足元に転がってくるクー。
無機質な瞳と目が合い、一瞬で俺たちの背筋を凍らすことに成功する。
「二人とも。仲がよろしいのは結構ですが、いまは目の前に集中して下さい」
「バレたら告白どころじゃないでござるからね」
「「はい……」」
視線を戻すと、浅井先輩は委縮していて、一言も発せずにただ立ち尽くしていた。
浅井先輩の緊張を見てか、向井先輩は静かに笑って話を切り出す。
「わざわざ返してくれなくてもよかったのに」
「そ、そんな訳にはいきませんよ」
どぎまぎしながらも、浅井先輩は必死に言葉を返す。
「……ねぇ、どうして私だってわかったの? あれから一度も会ってないっていうのに」
「予言して貰ったんです。その、百瀬さんに」
「あの予言者の子か……でも、ホールに貼ってあった予言って……」
考えるそぶりをしたまま、徐々に顔が赤くなっていく向井先輩。
「えっと、君の名前って……?」
「あ、浅井優一です」
向井先輩は予言の内容を覚えているんだろう。浅井先輩の名前を聞いた途端、顔を伏せて押し黙ってしまった。遠目でもわかるくらい顔を紅潮させて。
「うぅ~向井先輩可愛いねぇ。きゅんきゅんするぅ~」
未来も顔を少し赤らめ、食い入るように中を覗いている。
大丈夫、そんな未来が一番可愛いぞ。……まぁ思っても口に出せないけど。
一方、アキバとイトナはまるで興味がないかのように、ベランダから外を眺めている。
「人の恋路なんて見て何が楽しいんですか。イラつくだけですよ。ねー、クーちゃん?」
「二次元になってから出直してくるでござる。ねー。クマ殿?」
おい、勝手に巻き込むな! 俺はそっち側の人間じゃない!
大声でツッコむわけにもいかず、気を取り直して教室に視線を注ぐ。
「すいません……迷惑ですよね」
俯いたままの向井先輩に向かって、寂しげな表情を浮かべる浅井先輩。
声は震えていて、いまにも泣き出しそうだった。
「でも、ハンカチは返せてよかったです。ありがとうございました」
頭を下げ、足早に去って行こうとする。
二人がすれ違う時、向井先輩の小さな口が開かれた。
「球技大会。サッカーだったよね、君」
「えっ? は、はい」
思わぬ質問に、キョトンとした顔で立ち止まる浅井先輩。
「ど、どうして知ってるんですか?」
「浅井君の三回戦の対戦相手がうちのクラスだったから」
三回戦というと、浅井先輩が最後のゴールを決めるも、体勢を崩してケガを負った試合。
けど、点差はかなりのもので、ボロ負けだったと言っていた。
「あの試合見ていたんですか……恥ずかしいですね」
羞恥に悶えて目線を逸らすも、
「ううん。恥ずかしくなんてなかったよ」
真剣な眼差しを向けられ、浅井先輩は思わず息を飲む。
「うちのクラスってサッカー部多いんだ。結局、球技大会も優勝しちゃったし。だからさ、それを知ってる三年の他のクラスなんか、最初から諦めてて本気で試合やらないんだよね。違う学年のクラスも、前半にいっぱい点とられたらやる気なくなって、適当にやり始めるの。でも……」
教室から出ようとしていた浅井先輩のもとに一歩、また一歩と近づいていく。
「──君はそうじゃなかった」
二人の距離はぐっと縮まり、少し動けばお互いの身体に触れてしまいそうなほどに。
「……そ、それは諦めが悪かっただけで、褒められることなんかじゃ全然。最後の一点だってまぐれみたいなものですし」
「けど、そのまぐれは諦めなかったからこそのものでしょ?」
「うっ」と気恥ずかしそうに、目線を下げる浅井先輩。
「かっこいいと思ったよ、浅井君のこと。……大切なハンカチをあげてもいいと思うくらいにはね」
照れ笑いを浮かべる向井先輩は「でも」と付け足し、
「こうやって話すことが出来たし、返してもらえてよかったかも、なんて」
自分の手元に帰ってきたハンカチを大事そうに握りしめ、今日一番の笑顔を振りまく。
「あっ、あの……! 向井先輩、よかったら……」
腹をくくったのか、浅井先輩は決死の表情で声を張る。
夕焼けも相成り、顔は太陽のように真っ赤だ。
横で覗く未来も、なぜか浅井先輩に負けず劣らず赤面している。
「頑張って浅井先輩……!」
窓に置いている両手は震えている。やはり、気が気でないのだろう。
でも、もうどうすることも出来ない。ただ見守っているしかないんだ。
俺は安心させるように、未来の頭を軽く撫でる。
さらさらとして触り心地がよく、撫でるたびに甘い香りが鼻腔を掠めた。
「く、くくくくまぁっ⁉ な、なんで、なな、なで、撫でぇ⁉」
壊れたロボットのように、意味不明な言葉を発する未来。
緊張のし過ぎでおかしくなったのだろうか。ふーっ、ふーっと荒い呼吸を繰り返している。
「大丈夫さ、きっと」
そう呟き、俺はもう一度ゆっくりと長い髪を撫でる。
「……うん。そうだねっ」
落ち着きを取り戻したのか、鈴の鳴るような声で、
「ありがと、クマ」
耳元で囁かれたその言葉はひどく蠱惑的で、こんな状況下でもドキドキしてしまった。
頭をゆるりと振り、無理やり意識を現実に引き戻す。
告白の答え次第では未来の退学が決まるんだ。目を逸らすわけにはいかない。
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