亜空間の娘とクランベリージュースの夢

GARBS. from 友引撲滅委員会

亜空間の娘

 亜空間のむすめ、クランベリーと機械について。

 僕はこの文章を、彼女を看取った記録として残そうと思う。




 目が覚めた。

 目が覚めてしまった。

 暖かい日差しで目が覚めた。目覚まし時計の轟音も、母親の怒声でもなく、ごく自然に目が覚めた。起き上がると、そこは最後に見た風景とは違う世界が広がっていた。よく言えばスタイリッシュで、悪く言えば殺風景である。

「おはようございます。お嬢様」

声をかけてきたのは、スーツを着た一人の男性だった。ストライプの黒地のスーツ。顔に見覚えがなかった。声は少しだけ低い。あなたは誰ですか、と言いかけて、私は自分自身の喉に力が入らないことに気づいた。思いのほか長く眠っていたのかもしれない。半日なのか。丸一日なのか。もしかしたら数日間なのか。ふと思い至り、ためしに喉元を抑えると心なしか細くなっていた。手元を見ると、綺麗に整えられて、ツヤツヤと光っている爪が十個そろっている。はて、どうしたものやら、とまわりを見回すが、時計も、カレンダーも、鏡もない。私に声をかけてきたスーツを着た男性と、私と、私が寝ているベッドと、そして得体のしれない機械の数々。これはファンタジー小説でよく見る展開だな、と思い、しばし茫然としていると、スーツの男性は「申し遅れました」と急に思い出したように言って、一歩だけ私に近づいて会釈をする。

「私はサブロウタ。あなたの孫に当たるものです」

おもむろにそう言われて、私は卒倒してしまったのである。


「孫と言われても実感がないと思います。何だか申し訳ありません」

看護士に喉のリハビリを兼ねた軽い運動をさせられている時、再び傍に寄ってきた自分の孫だというサブロウタは呑気に話し始めた。何だか申し訳ありませんじゃないよ、と言いたい気持ちは衰えた筋肉により遮断されて、悪意を持った目線だけを私は彼に投げた。

「だってまぁ、そろそろお目覚めになるとは思ってたんですよ。大おじいさま……あなたのお父様がそう言っていたので。いつ目覚めても印象が悪くないようにはしていたんですよ。着るものだって……」

言いながらサブロウタはスーツの襟を正すと、私の指導をしていた看護士が声をあげて笑う。

「急いでスーツを一そろい仕立て上げられて何事かと思いましたけどね。サブロウタさんはいつでもジャージですから。一体同じものを何着持っているんだか……フガ!」

看護士が妙な音を立てて黙ったので横を向けば、サブロウタが枕を看護師の顔に打ち付けていた。男性はこの時代でも化粧をしないのだろう。床に落ちた枕は綺麗なままだった。

「サブロウタさんってば、ひっどすぎる……。それはともかく、目覚めてから急に運動をするのもよくないので。凝り固まった筋肉は少しずつほぐしていった方がいいですから。とりあえず今日はこの辺で終わりにしましょう」

枕越しにサブロウタの拳が鼻に激突したらしい看護士は、鼻頭を真っ赤にしながらそう言った。




 看護士が去ったあと、私は自分が持っている「一番新しい」記憶はどんなものだったのかを生い立ちから考えてみた。

 この国に生まれた。生まれた家のことはよく思い出せない。両親のことも。兄弟はいたのだろうか。病気だと言われて育ったことは記憶にある。病気なので学校には行っていない。家庭教師から教育を受けさせる義務について教えられた時、私はこの義務を受けていないのではないか、と尋ねたことがあるが、この国はそういったことに理解があるから、学校に行ったことにはなるのだ、と言われて終わった。

 そうして私は、学校に行ったことになり、学校を卒業したことになった。

 病気だと言われていたので、最後の言葉を書くとしたらどんな色のノートがいいだろう、というくだらないことをよく考えていた。他にも、最後の言葉を聴かせるとしたらどんな言葉の羅列がいいのだろう、とか、今すぐに世界の終わりがくるとしたら何が口から出てくるのだろうか、とか。気まぐれに、何の変哲もないノートとボールペンを眼の前にしているこの瞬間に、この場所に隕石が落ちてきて何もなくなってしまったなら、とか。そういったことを延々と考えて日々を過ごしていた。

 枕元においてある時計が単三型の電池で動くように、絵本の中に出てくる大きな家にある置き時計が振り子で動くように、人間は血の巡りによって生かされている。この血の巡りが止まってしまったら私は死んでしまうのだ。私は直感的に知っていた。

 その一方で、病気だと言われていた割には、私は自分の血の色を知らなかった。

 自分には何色の血が流れているのだろうかと疑問に思い、手を切ってみてもいいですか、と尋ねたことがある。手を切ってもいいですか、自分には何色の血が流れているのか知りたいと言えば、それは困りますね、とメイドらしき老婆は困った顔をしていた。

「あなたの血は私と同じ赤色をしていますよ」

そう言って、彼女は腕をまくりあげて白い肌に浮き出た血管を見せてくれた。私の腕にも同じような血管が浮き出ていて、肘の裏あたりに指を当てると脈を感じることを教えてくれた。


 病気だと言われていたので、私はよく体を切られていた。


いつだって切られる時は眼の前が暗転してわからなくなる。真っ暗な世界から起き上がると、身体に付けられた傷はいつだって塞がっている。

 住んでいる国には患者に病状を包み隠さず話すのがよいという風潮があり、家族はそれに則って、私は自らの病状を一つ一つ主治医から聴かされていた。

「……では、次は頭の手術になりますね」

何かを表すのであろう赤色でマッピングされた人体の見取り図。健康診断で良く見る、白抜きの人間の絵だ。腹以外に全て何かしらのマークが付けられている。

「次の入院は、少し長くなるかもしれませんので」

主治医は言いながら、頭に×印を付けた。どうして長くなるのかは教えてくれなかった。




「ここはまぁあなたのご実家にあたるんですけど。あなたが眠っている間に改装やら増築やらを繰り返しているので昔とは全然違う建物だと思っておいた方がいいですね」

翌日、サブロウタは看護士が言っていたジャージを着て私の前に現れた。今私とサブロウタがいる場所について説明にきたようだった。

「特にお体に不調などはありませんか?」

いいえ、と私は首を横に振って答える。むしろ元気すぎるくらいだ。喉の筋肉がまだ弱っているから、という理由でご飯は食べさせてもらえなかったけれど、栄養が入っているという点滴を打ってもらっていた。サブロウタの頭は銀髪でキラキラと輝いていて、私にはテグスみたいに見えた。テグスで出来たカツラなのかもしれない。めちゃくちゃに耐久性のあるカツラだと思うと吹きだしてしまった。

「はぁ?人の顔を見て笑うのやめてくれません?」

あのテグス一本一本に釣り針をつけて、イワシだとかアジだとかを釣り上げてみたい。さぞかしたくさんの魚が釣れるに違いない。サブロウタは頭を動かして餌をまるで生きているように振る舞わせるのだ。親の眼を盗んで動画サイトを閲覧していた時、針がいっぱい刺さったマスクを被って頭を振っている男の人をみたことがある。あんな風にあたまをふるのだろう。大海原の眼の前で。

「だから何で笑うんですか。声が出たらちゃんと説明してもらいますからね!」

サブロウタは漫画に出てくる架空の人物のように顔を真っ赤にして怒っている。この人の血もきっと赤いのだろう。そう思うと少しだけ安心した。


 頭の手術をすると決まった晩のことを思い出していた。その日の夜は、いつも静かな家がもっと静かになっていた。まるでお葬式のようだった。家族の顔はよく思い出せないけれど、皆が悲しそうな雰囲気を醸し出していた気がする。つ、つ、と私は当時を思い起こすようにベッドに寝そべり、空中に絵を書いていく。ここにテーブルがあった。これはお父さんらしき人で、これはお母さんらしき人で、これはメイドらしき人で、ここに私がいる。四人での食卓。

 その日の夕食はそれまでにないほどにたくさん食べた。肉、魚、野菜、ケーキ。いろんなものを食べさせてもらった。最後に飲ませてもらったクランベリーのジュースは真っ赤で、血みたいに見えた。私は吸血鬼になった気分でそれをお代わりする。

「これはすごくおいしいのね」

言うと、お母さんらしき人が悲しそうな顔をする。また飲みたいね、と言ったが返事は帰ってこなかった。


 いつから口からご飯を食べていないのだろう。

 サブロウタは私に食事を毎日運んでくる。食事という名前の点滴を運んでくる。それを私の腕に刺すのは看護士だけれど、何個も何個も点滴を付け替える間、サブロウタは私に色んな話をしてくれる。今日庭に咲いた花の名前、ここではないどこかの国で飛んでいる鳥についての雑学、点滴に入っている栄養素の話。たまに看護士にからかわれて、その度に看護士は枕を投げつけられ、その度に枕は床に落ちた。その度に呆れた看護士が拾って枕を洗う。だから私の枕はいつも清潔に保たれているのだ。サブロウタが枕を投げる腕はいつもジャージで覆われていて、頭はいつもテグスみたいな髪の毛をしている。


 サブロウタの血はきっとあのクランベリージュースのように赤い。


 それから暫く経った。私は少しずつ声が出るようになった。

「頭の手術をしたの」

もう何度目かわからない点滴の時、私はまだ回復しきっていない喉でそう言った。サブロウタは珍しく何も話さなくて、黄ばんだ本を黙々と読んでいた。

「へぇ」

私が言ったことにまるで興味がないように、サブロウタは返事をした。

「そこから眠ってしまったのかも」

点滴液が一定のリズムで落ちて体に入り込んでいく。

「真っ赤なクランベリージュースが飲みたい」

私は問いかけるでもなくぼんやりと言った。喉を赤く染め上げたい。吸血鬼のような牙はなくていい。ただ喉を赤く潤してみたい。吸血鬼みたいに。

「そっか」

サブロウタはそっけなく返事をして、少しだけ乱暴に本を閉じた。


 朝、昼、夜と繰り返し訪れる点滴のルーチン。私とサブロウタと看護士以外いない不可思議な空間。鳥の声も、草木が揺れる音も、喧騒もなにもない。

 私はどこにいるのだか次第に分からなくなっていた。少しずつ出るようになった声であの青く浮かんだ血管を見せてくれた老婆を呼んでみた。少しずつ動くようになった足で、廊下を歩いてみた。それでも、冷たく些細な音も反響させる廊下だけが眼の前に広がっているだけで返事も気配もない。


 私はいつから病気だったのだろう。


 病気だと言われた割には、どこも痛くもかゆくもなかった。問題なく歩けたし、問題なく食事をとることができた。時々走っておこられたりもした。


 私はいつから病気だったのだろう。


 ここが私の実家だというのならば、何かしら記録が残っていないだろうか、と私はふと思いついてしまった。幸い、私が走る度に怒声を上げていた老婆はいない。何となく踊りたくなったけれど、まともなステップをひとつも踏めない私だけれども、ほの暗い記憶の中にあるスキップで廊下を辿ることにした。なんとなく自由になった気がしたから。

 いや、元から自由だったのかもしれない。

 廊下の置物ひとつひとつに挨拶をする。花瓶にも、銅像にも、壁にかけてある絵にも、全部にお辞儀をする。こんばんは。はじめまして。これからもよろしくお願いいたします。私はこんなに元気です。

 しばらくそうやって進んでいくと、真っ暗な廊下の先に一つだけ明かりが零れている扉が見えた。老婆かしら。看護士かしら。もしかして。

「サブロウタ?」

ノックをするという文化は私の頭から消え失せていた。誰も居ない学校を探検する、浮足立った感覚。舞台女優になったような気分で、私は軽やかに彼の名前を呼んだ。


「なんですか」と答えたのはサブロウタではなかった。


 看護士が立っている。たくさんの画面には、よくわからないグラフが海の波のように流れていく。色とりどりのケーブルが、蛇のように看護士の足元で渦を巻いている。

「もうそんなに元気になってしまって」

僕はとても光栄に思います、と言いながら、看護士は一歩ずつ私に近づいてきた。

「サブロウタ、」

「僕はしがない看護士です。お嬢様」

白衣は血ではない何かで汚れている。ピッピッピッという規則的な電子音が響いたその先にあるのは、見慣れたテグス。

 え、という声が出る。看護士は無表情でテグスの塊を持ちあげた。

「これは貴方の愛しのサブロウタです」

 たいへんによくできているでしょう、と彼は家庭教師のような声で言った。




□   □   □



 亜空間のムスメ、クランベリージュース、機械のみる夢。

 僕は、書いた文章にそう名付けることにした。

「ここの命が尽きるまで、誰にとっても等しい、人類を生む神の子宮となって生きるのです。内臓をひとつずつ人工のものに替えていって最後に子宮だけを残す。空の柩は未来への架け橋になるでしょう」

この子は社会的に死んだことになる。空の柩。空の霊柩車。何も入っていない墓、形だけの追悼を。

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