第1話 桃原ミコトと金属バット

 真夏の日差しが照り付けるマウンド。響き渡る声援。ずっしりと重たい金属バットの感触。仲間の熱い眼差しを、背中で感じた。何度拭いてもしたたり落ちてくる汗が目にしみる。それでも、目を見開き睨みつける先で、投手ピッチャーが大きく振りかぶった。

 それが、俺――鬼嶋鋼太郎きじまこうたろうの夏の終わりだった。


* * *


 夏休みも終わり、新学期を迎えていた。

 蝉の声が止み、校庭に赤く焼け落ちたような葉が積もり始めたころ、坊主だった俺の頭には短い髪が生えそろっていた。

 俺の坊主頭に見慣れていたクラスメイトは、最初のうちは動揺を見せていたが、もうそろそろ二ヶ月というころになると、「本当に野球部、辞めちゃったの?」と聞いてくるようなこともなくなった。

 毎日のように説得に来ていた野球部の先輩たちも、今はもうその姿を見せなくなり、同じ学年の元チームメイトに至っては裏切り者とでも言いたそうに冷たい視線を向けてくるだけ。

 一年から野球一筋で、他につながりなど持たずにきた。もともと、目つきが人一倍悪く、瀬戸内の港町育ちの肌は色黒。百九十センチはあるかという上背に、野球で鍛えたがっちりとした体つき。初対面で俺に近づいてくるのは、不良グループの勧誘くらい。野球部を抜けると、すっかり孤独になっていた。

 それでも、納得していた。罰のような気がしていた。あんな夏のあとで、安穏と自分だけ青春を謳歌しようなどと思えるはずもない。先輩たちの、チームメイトの青春を無残に終わらしておいて……。


「鬼嶋くん!」


 それは、放課後のことだった。

 階段を降りようかというとき、呼び止められ、俺は振り返った。


「ちょっと、話があるんだけど」


 肩で息をしながら、駆け寄ってきたのは、長い黒髪を一つにまとめた、セーラー服姿の先輩だった。その手には、なぜか金属バットが大事そうに握られている。


桃原ももはら先輩」


 ああ、そうだった。この人がいた――俺は苦い気持ちになって、つい、眉をひそめていた。

 桃原ミコト。野球部のマネージャー。いや、元マネージャーか。彼女も三年。夏の終わりとともに引退したはずだ。

 階段を背にした俺のすぐ前に立ち、桃原先輩は息を整えてから、きっと顔を上げた。

 まっすぐに切りそろえられた前髪の下、ぱっちりと大きく、澄んだ瞳がじっと俺を見据える。なんの遠慮もなく、じいっと食い入るように目を覗き込んでくるこの眼差しが、俺は苦手だった。特に、野球部を辞めてからは。責められているような気がしてしまう。

 強面、と言われる部類の俺が、年上といえど、小柄で華奢な彼女に臆する姿は端から見れば滑稽だろうな。


「野球部、戻ってきなよ」


 思った通りの……でも、久しぶりに聞いたフレーズだった。

 あからさまだ、と我ながら呆れつつもため息ついて、俺はそっぽを向いた。


「戻る気ないんで」

「なんで? まだ、最後の試合、引きずってるの?」


 俺はぐっと唇を引き結んだ。違う、とは言えなかった。そんな見え透いた嘘はもはや惨めすぎる。


「鬼嶋くんが気に病むことなんて、何もない。皆、そう言ってたでしょ。偶然、最後のバッターが鬼嶋くんだっただけで、鬼嶋くんのせいで試合に負けたわけじゃない」

「でも、俺が打ててたら、勝てたじゃないっすか!」


 つい、トゲトゲしい言い方になってしまった。

 桃原先輩がただ純粋に俺を心配してくれているのはよく分かっている。よく分かっているけど……。


「そうかもね」と桃原先輩は重苦しい声で言った。「でも、それでも負けたかもしれない。誰にも分からない。だから、おもしろい。スポーツはそういうものだって、鬼嶋くんも分かってるでしょ。なのに、なんでそこまであの打席にこだわるの?」


 俺は視線を逸らしたまま、閉口した。

 吹奏楽部が練習している音が、夕日で茜色に染まる校舎の中で響いていた。

 しばらくそうして、桃原先輩はふうっとため息ついた。諦めたようなそのため息に、俺は少しほっとした。これで解放される、と思った――のだが。


「もう荒療治だ」桃原先輩は気合の入った声でそう呟いてから、ぐっと俺に金属バットを押し付けてきた。「これ、使って!」

「は? 使ってって……」


 突然のことに、思わず受け取ってしまった……が、なんなんだ?


「鬼嶋くん、甲子園、一緒に行こう!」

「いや、だから、俺はもう野球やる気ないし……てか、先輩だって引退したんじゃ……」

「もう!」と、桃原先輩は子供のように頬を膨らませ、どん、と俺の胸を叩いた。「真面目か!」


 え、と思ったときには、俺の体はふわりと浮いていた。あ、落ちる。そう思ったときには手遅れだった。桃原先輩の姿が一気に遠ざかり、ものすごい速さで景色が流れていく。先輩に突き飛ばされ、俺はなすすべもなく、階段を落下していった。

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