私は何ができる?
増田朋美
私は何ができる?
雨が降って、はるといっても寒い日だった。かといって晴れてしまえば夏みたいに暑くなるし、本当にこの落差は何なんだろうかと思われるほど、暑い人寒い日の落差が続くのである。
そういう時、健康な人なら、エアコンをつけるなりして、何とかしのぐだろうが、そういうことができない人もいる。
「おばさん、ちょっとエアコンつけてくれる?」
佐藤絢子は、家政婦のおばさんにそういうことを言った。絢子は、一応一人で暮らしているということになっているが、いつでもどこでも何をするのも、人手がないと何もできないという体であった。だから、いつでも家政婦のおばさんがそばについている。
「はい、わかりました。絢子お嬢様。」
家政婦のおばさんは、エアコンをつけてくれた。
「本当にいやね。」
と、絢子はおばさんに言う。
「いやって何がですか?寒いのは、お嬢様は苦手ですか?」
家政婦のおばさんがそういうと、
「いいえ、そういうことじゃなくて、たかだか寒いから。エアコンでもつけてほしいと思ったときに、人手を借りなきゃいけないのは、ちょっと、悲しいなと思っただけよ。」
と絢子は答えた。
「仕方ないじゃないですか。でもお嬢様は、人手を借りるとはいえ、ちゃんと佐藤新聞もやっているし、著述家として、ちゃんと本を世の中に出すという仕事をしているんですから。お気に召さらず、そのままでいてくれればいいと思います。」
おばさんはそういうのであるが、絢子には、そういう励ましをされても、あまりうれしくないなと思われるのが現状であった。でも、おばさんに手伝ってもらわないと、衣食住何もできなくなってしまうのが、佐藤絢子という人間であることも間違いなかった。
「お嬢様にはまだできることはたくさんあると思いますよ。だから、ここで落ち込んでしまわずに、ずっと続けていてくれていいと思いますよ。」
おばさんはそういってくれるけれど、私は結局のところ、自分では何もしてないじゃないか、と言われるのがおちだなあと思う絢子であった。著述家と言っても、編集者の高橋さんに、口で言ったのを代筆してもらって書いている。パソコンもできないし、キーを打つのもできないし、鉛筆を握ることもできない。
「お嬢様、よかったじゃないですか。幸い、命があるんですから。動けなくはなったけど、それでもちゃんとやれることはあるじゃないですか。それでよかったと思いますよ。」
しまいには、おばさんはそんな話を始めたので、絢子はもう愚痴を言うのはやめにしようと思った。そう、どんなにつらくても、それだけは放棄してはいけないことはしっている。それは、やっぱり、放棄してはいけないのだと思う。
「ごめんなさい。おばさん。私、愚痴を言うのはやめにするわ。」
「はい。」
おばさんは、わかっているというように、裁縫箱を開けた。ちょうど、世間では発疹熱が流行っているから、おばさんが、それに合うようにマスクを作ってくれているのだった。まったく、マスクを着けてもらうのだって、自分ではできない。なんていう情けなさだろう。
せめて、一人で移動できたらなあと思うのだが、体のどこも動かない自分はそれすらできないのだった。自由になるのは口と手の指三本のみ。それは、絢子本人が一番わかっていないといけないのだけれど、一番つらいことでもある。
「佐藤さん、こんにちは。今日は、ひどく寒いですねえ。いやあ、なんだか春といううより、冬みたいだ。まったく雨が降るとそうなって、晴れると夏みたいになるんだから、たまったものではないですなあ。」
出版社の高橋さんが、そんなこと言いながら、絢子の部屋に入ってきた。絢子の住んでいるマンションはオートロックになっていない。というのはそうなると、絢子が移動できなくなるためで。自動でドアが閉まる前に、絢子が外へ出ることはできないのだ。
「さて、今日は、どこから代筆をしましょうか。えーと、昨日第四話を描いたから、第五話を作りますか?」
高橋さんは、よいしょとテーブルの前に座った。おばさんの動かしているミシンの音を伴奏に、絢子は今日も高橋さんと一緒に、執筆作業を開始する。絢子が口でいった、登場人物の動作や言葉などを、高橋さんは丁寧に書きとっていく。高橋さんは、時々、そういう書き方はおかしいのではないかと、編集者の立場からいうこともある。絢子は、そういわれれば、新しい書き方を提案する。その繰り返しで、絢子の執筆作業は続くのである。二時間ほどして、第五話の原稿は完成した。
「いやあ、ありがとうございます。大変結構にできました。ここですと、わざわざ持ち帰って編集する手間がなくなるから、うれしいもんですなあ。」
と、高橋さんは、にこやかに笑って、原稿用紙を袋の中へ入れた。
「そうねえ。そういう風に良い方に取ってくれれば、うれしいんだけど。」
絢子はそういうが、なんだかそういわれるのは、うれしいという気がしない言葉だった。
「いいえ、本当にそうですよ。絢子さん。だって持ち帰って編集するのなんて、ほんとに大変ですからね。その手間がないというのは、本当にうれしいものですよ。」
と、高橋さんは、にこやかに言った。
「ええ、そうなんだけどね。高橋さん。あたしは、そういう気持ちじゃなくて、なんだかその言葉が本当にうれしいのかどうか、なんだかよくわからなくて、、、。」
「お嬢様。」
絢子がそういうと、家政婦のおばさんがちょっと強く言った。
「今あることを非難というか、文句を言ってはなりません。人というものは、与えられた環境で、一生懸命生きるべきです。」
「そうねえ。だけどごめんなさい。どうしてもつらくなってしまうときもあって。」
まあ確かにそうなんだけど、なぜか不満を持ってしまう絢子だった。
「だって、おばさんも、高橋さんも、みんな、私の意志ではなく、お父様が私に着けてくださっただけじゃないの。」
確かにそういえばそうなのである。絢子が実家を出ていくといったとき、父は、一人では何もできなくなってしまった彼女に、おばちゃんと編集者の高橋さんをつけてやったのだ。それは、今まで何もしてやることができなかった父が、せめてものはなむけにという意味でつけたのかもしれなかったけれど。
「そうですけど、今お嬢様はこうしてやっているんですから、ちゃんと一人前ですよ。大丈夫です。ちゃんと本を世の中に出してるし、佐藤新聞も作っているし、何も気にすることはありません。」
おばちゃんは、今さっき言ったことをもう一回言った。
「絢子さん、落ち込まないでください。それでは、原稿を持っていきますから、来週も、また楽しいお話を書いてくださいね。」
と、高橋さんは、原稿の袋をもって、にこやかに笑って、部屋を出ていった。
「ねえ、おばちゃん。」
お昼の時間になったことを確認して、絢子は、おばちゃんに言った。
「どうしたんですか?お昼ご飯なら、作ってありますから、今から出しますよ。」
と、おばちゃんはそういうのであるが、
「ちょっと外で食事しない?うちの中にいても、気が滅入るし。もう、非常事態宣言は解除されたんだから、それでいいじゃない。」
そういえば昨日、非常事態宣言は解除されたと、テレビのニュースでやっていた。それで、少しずつだけど、人が外に出るようになってきている。
「はいわかりました。じゃあ、近くのカフェでも行ってみますか。もしかしたら、営業再開したかもしれません。」
と、おばさんは言った。じゃあ、支度するわということができないのも絢子だった。普通の女の子だったら、服を着替えるとか、カバンを用意するとかするはずなんだけど、絢子は、それを全部誰かにやってもらわないとできない。
おばさんは、それをわかっていて、絢子を外出ようの車いすに移して、ひざ掛けをかけて、絢子がお気に入りの麦わら帽子をかぶせた。そして、オートロックになっていいないマンションのドアから絢子を出して、マンションのドアにカギをかける。
その車いすの操作だって、自分にはできない。おばさんに後ろから押してもらわないと。
それでも、マンションの中から出て、絢子は、黙って部屋を出た。とりあえず、道路を移動して、横断歩道を渡っていく。それだって、おばちゃんにやってもらう必要がある。動くのも止まるのも、押し釦を押すのも、何もかも。
横断歩道を渡って、バラ公園に来た。バラ公園は、近隣に遊園地ができてしまったせいで、若い人は利用しておらず、利用しているのは年寄りばかりだ。時々、木の下のベンチで、スケッチをしているお爺さんに、佐藤のお嬢様、今日はちょっと寒いですね、なんて声を掛けられる。お爺さんたちは、自分が誰なのか知っている。大きな製紙会社を経営している佐藤財閥のお嬢さんということ。本当はそれを口にしてもらいたくないんだけど、お年寄りでは仕方ないかなと思う。
しばらく、バラ公園を移動して、カフェの前に来た。カフェは営業を再開していた。本日より営業再開しますと張り紙がしてあった。あまりお客さんは多くないけれど、そのほうが逆に好都合だろう。
カフェの入り口は自動ドアではなかった。おばさんが、ドアを開けてくれて、絢子は中に入る。マスターに挨拶して、一番奥のテーブル席につかせてもらう。マスターは、注文が決まったら言ってね、と言って、厨房に戻っていった。
おばさんにメニューを見せてもらって、絢子はサンドイッチと、コーヒーをお願いした。マスターが、にこやかな顔をして、はい、かしこまりました、という。すると、いきなり隣のテーブルの人が話しかけた。
「あ、佐藤財閥の、佐藤絢子さんですね。確か、お父様が実業家でいらっしゃる。」
隣のテーブルのひとは女性だった。普通のひとなら、自分の名前を知られると、知っているんですか私のこと、とかそういうことをいうと思うのだが、絢子は著名人の父の手前、自分の名がそういう風に知られていてもおかしくなかった。
「ええ、まあそうです。あなたは?」
「ええ、わたくしは、富士市役所障害福祉課次長の浅井と申します。」
とその人は言った。確かに、公務員らしい言い方だった。絢子はそういうお役所の人は、嫌いというわけでもないのだが、ほかの障碍者からの話を聞くと、お役所の世界にはいきたくないなと思ってしまうのである。
「こんなところでお会いして、失礼かもしれませんが、あの、今日は、ちょっとお話したいことがございますのですが。」
と、浅井はそういうことを言いだした。
「はあ、なんでしょうか。」
絢子は、唯一自由である口を動かして、彼女にそういうことをいった。
「あの、私どもでやっている、機関紙があるのですが、それにちょっとコメントというか、ご意見を書いていただきたいのですけれども。そうすれば、富士市の障碍者福祉はこれだけ進んでいるということをアピールすることができますし、もっと良いことになるのではないでしょうか。どうでしょう、一筆、描いてもらえないでしょうか。」
と、浅井さんは、早口にそういった。それはちょっと、やりたくなかった。そういうお役所に関与することは、したくなかった。
「どうでしょう。佐藤さんに、何か富士市内の福祉について、何かアピールと言いますか、コメントと言いますか、それを書いていただきたいんですけれども。お願いできませんか。」
そういうお願いには、応じたくなかった。大体の人は、仕方なくやってしまう。そうしないと、生活がままならないことがその理由である。そして富士市は、障碍者福祉が進んでいるというようにわざと書く。そうすることによって、ほかの障碍者たちがだまされるということもある。絢子は、そういうことを何回もほかの障碍者たちから聞いていた。
「いいえ、私は、描きません。そういうことはしたくないんです。そういうことをなさるなら、ほかをあたってくれませんか。」
絢子は、浅井さんにそういうことをいった。
「どうしてですか。佐藤さんのような著名な方なら、皆さん喜んでくれると思うんですけれど。それで、富士の福祉制度のことを書いていただけましたら、地域の障害のある方だって、喜ぶと思うのですが?」
浅井さんは、まだそういうことを続けた。
「でも、私は、確かに喜ばせることは書きますけれども、本当のことを描きたいんです。だって、福祉制度の申請だって、みんな何も言う通りにしてくれないじゃないですか。私は、いいのかもしれないけど、ほかの障害のある人たちが、なんていうか。ほかのひとから、私、聞くんですよ。役所の人たちは、何もしてくれないって。それがどうしたらいいのかも何も教えてくれないって。そういう人たちをほめてたたえるコメントなんて、私はしたくありませんね。」
絢子は正直に答えた。
「まあなんて人でしょう。私たちが、こうしているのに、それを断るなんて。」
と、浅井さんは、ちょっと驚いたというか、頭に来たような感じでそういうことをいった。そんな回答を障碍者がするなんて、思ってもいなかったのだろうか。それとも、自分たちのしていることを、過大評価してくれないから、怒っているのだろか。
「いいえ、私は、描きません。だって現実問題、富士は、ほかの市に比べると、意識が遅れているというかなんというか、そういうところがありますもの。例えば、ほかの町ですと、車いすが入っても当たり前のように受け止めてくれるところもあるのに、こちらではまるで私たちは見世物じゃないですか。そういうところから、富士市は、ほかの町より優れているなんて、絶対にかけませんわ。」
絢子は、とにかく彼女に伝わってほしくて、そういうことをいった。
「浅井次長さん、あなたたちには十分すぎるくらいやっているように見えるけど、まだまだ、私たちから見れば足りないところは多すぎます。今日、ここまで来るとき、道路を渡ろうにも、道路がデコボコすぎて大変だったり、横断歩道に合図でもつけてくれないと、渡り切れないという危険性もありますわ。だから、富士市の福祉制度というものは決して進んでいるとは言えませんよ。もう少し、私たちのようなものがいるってことを考慮していただかないと。」
そういう絢子だが、浅井次長は、今度こそ頭に来たんだと思う。目を吊り上げて、こういうセリフを言った。
「働けない。生活する手段がない。着物は誰のおかげで買ってるの!」
それが絢子にとって一番嫌いというか、一番返答のできないセリフであるということを、浅井次長さんは知っているのだろうか。それとも、単に頭に血が上っただけなのだろうか。そういうことはわからないけど、絢子たちは、このセリフを言われてしまうから、お役人の勧めに従わなければならない。確かに絢子が来ているのは、小紋であるが、それだってちゃんとわけがあるのだった。
「ええ、着物は、家政婦のおばさんが買ってくれています。なぜなら、洋服より着物のほうが、寝転がったまま着用できるからうれしいだけです。洋服ですと、上着とスカートと二度手間なのに、着物だと一度で済むから助かると、おばさんが言っています。」
絢子は理由を正直に答えた。
「障碍者のくせに、そんな贅沢して、働きもしないで、よくのうのうと断れるわねえ!」
と、浅井次長さんはそういうことをいうが、絢子は苦しいけど対抗しなければならない顔をして、
「ええ、私は、事実に反することは書きたくありませんし、ほかの障害のある人をだましたくもありません。そういうことは、私はしたくないんです。働きもしないかもしれないけれど、私たちは、そういうことをいわれて、苦しい気持ちになることはできます。そういわれて、苦しいことをかたりあって、本当にそうだね、つらいよねと言い合うことは、私たちでしかできません。だから、お役所の方に協力しようといううことは、私にはできないんです。」
と、言った。
「まったく、自分の立場というか、置き位置がまったくわかってないわね。誰のおかげで食べさせてもらっているのか、ちゃんとわかってないのかしら。著名人の娘の手前、自立しているように見えて、実際は、他人に頼らなければ何にもできない、ただのダメな人なのよ、あなたは。」
浅井さんは、絢子にそういったが、絢子は、それでもじっと耐えた。こういうことを言う人には、何を言っても通用しないことを、絢子は経験で知っているし、ほかの障碍者たちも口をそろえて言う。お役人というのは、そういうことをいう人が本当に多い。なぜそうなってしまうかは知らないけれど、お役人というものはえらいのだということを、子供のころから教育される日本では、そういうことになってしまっているらしい。
「ねえ、それなら、今一度、誰のおかげで生きているか、考え直してみない?そしてそのためにはどうするか、考え直してみない?」
と、浅井次長さんは、そういうことをいった。でも、絢子は、彼女の話に乗る気にはなれなかった。誰のおかげで生きているか、答えは明白だ。でもそれを明らかにしてしまうことは、多くの障碍者たちが抱えている問題を、さらけ出してしまうことになり、より差別を助長してしまうことになるのだ。
「いいえ、私は、自分のために仕事をします。誰のおかげで生きているかなんて、考えたくもありません。たとえ、普通のひとのように利益を生み出すことはできないとしても、私は、自分のために生きているから、誰のおかげで生きているかなんて、今更考えたくもありません。」
絢子は、にこやかに笑って、浅井次長さんの言葉を交した。浅井次長さんは、本当に、いやな障碍者ね、とあきらめてテーブルから立ち上がった。絢子は、よかったわ、と一言いって、浅井次長さんが立ち去るのを眺めていた。
「お嬢様、よくやられましたね。」
と、家政婦のおばさんがそういうことをいう。
「お嬢様が、自分の力で生きているということができるようになるのが、家政婦の務めだと私は、自負しております。それは、貴族令嬢であってもなくても同じことですよ。」
私は何ができる? 増田朋美 @masubuchi4996
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