第7話みっちゃく
「これ全員乗るの……?」
羽入さんはバス停にずらりと並んだ人の列を見て、目をぱちくりさせている。
英華大付属の周辺には役所や公共施設が多数ある。故に定時の夕方頃が駅へ向かうバスは最も込み合うのであった。
「この時間に乗るの初めて?」
「え? あ、うん。まぁ……歩いたほうが早いんじゃないかな?」
「でも歩くと疲れるし、30分以上かかるじゃん」
「そっか」
やがて道の向こうから赤い車体の路線バスがやってきた。乗車口がプシューっと音を立てて開かれる。
「わわ!?」
怒涛の如く人の波が動き出し、バスへ吸い込まれてゆく。手を伸ばして辛うじて、スマホで乗車決済を済ませる。
そのまま押され、流され、奥へ奥へ。
「ちょ、これ凄……! こ、こんなの初め……きゃっ!」
気づくと、この時間に初めて乗るだろう羽入さんは、人並みに押し流されていた。
なんだかとても苦しそうだった。
武人は人波をかき分けて、まっすぐ羽入さんへ向かってゆく。
「だ、大丈夫!?」
「きゃっ!?」
羽入さんの顔の横へ手を突いて、身体を支えた。窓際の座席はすでに埋まっていた。彼女は座席と、武人に挟まれる格好となっていた。最初はおびえていたが、ややあって近くに居るのが武人と気づくなり、安堵の表情を見せた。
「あ、ありがとう」
「いえいえ」
バスが走り始め、車内が揺れ始めた。武人は平然を装いつつ、腕を必死につぱって、羽入さんの壁になり続ける。
正直腕が痛かった。筋肉がプルプルしていた。それでもここで力を緩めてしまえば、とんでもないことになりかねない。
「ぐっ!?」
突然、車内が激しく揺れて、腕の力が少し抜けた。
ググッと羽入さんとの距離が縮まる。亜麻色の髪が目の前に。しかし彼女へ触れるか触れないかのギリギリの距離を保つ。
いつもの羽入さんの良い匂いが間近に感じられ、頭がクラクラする。
ガタン! と再びバスが揺れた。車窓からは道路工事の様子が見えた。どうやらアスファルトの張り替え中で、道が悪いらしい。
それでも姿勢を保ち続ける。
バスが停まった。また乗客が入ってきた。乗客が一斉に動いて武人の背中をぐいぐい押した。
羽入さんの真横に着いた腕が痛む。筋肉がガクガク震え出す。
「はぁ、はぁ、はぁ……んっ、はぁ……」
何故か羽入さんは息を荒くしていた。妙に色っぽい息遣いに一瞬腕の力が緩みかける。
「は、羽入さん、本当に大丈夫!?」
「はぁ……んっ……だ、大丈夫。大丈夫だから……」
その時再びバスがガタン! と揺れた。一瞬腕から全ての力が抜ける。
羽入さんの頭と匂いが更に迫る。
「くぉっ!!」
すぐさま腕を踏ん張って、耐えた。羽入さんを近くに感じる。だけど、まだ触れてはいない。
ギリギリセーフ。
車窓からは見覚えのあるコンビニが映った。駅まであと2分少々。
(耐えて見せる!)
どこからともなく、バイブレーターの振動音が響いた。
真後ろの乗客がコートのポケットからスマホを取り出す。
「あっ……」
ポンと乗客の肘が武人の背中を押しただけで、絶妙なバランスは一瞬で崩壊した。
「んっーー!?」
羽入さんの頭が武人の胸にぶつかった。腹の辺りにが柔らかい感触がむにゅんと触れた。
更に衝撃の影響なのかなんなのか、羽入さんの白くて細い指が背中に回っている。
まるで抱きついているかのような。しかも羽入さん自ら。
「ご、ごめん!」
なんとか振り解こうと身をよじるが、乗客がぎっしり詰まった車内では身動きが取れず。
「んんっー! んーっ!!」
羽入さんも胸の中でジタバタしている。見ようによっては、甘えて縋り付いているようにも見えるがーーいやいや、そんなことを考えている場合じゃない。
「んーーーっ……!」
「羽入さん?」
その時、胸の中の羽入さんから力が抜けた。ずっしりと彼女が武人へ遠慮なく寄りかかってくる。
「大丈夫?」
「……」
「ちょ!? マジでどうしたの!?」
バスが停車し、窓には見慣れた歩道橋が映る。乗客が乗車時のように怒涛の如く流れてでゆく。
「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ……」
「降りるよ?」
どうやら一人では歩けないらしい。しかたなく、羽入さんへ抱き着かせたまま、バスを降りてゆくのだった。
●●●
「ごめんね、迷惑かけて……」
ペットボトルのお茶を飲み干した羽入さんは、ようやく息が落ち着いたらしい。
どうやら熱気にやられたようだった。
二人は電車を数本乗り過ごし、歩道橋の下にあったベンチで休んでいたのだった。
「いえいえ。しっかし今日は激混みだったね」
「そだね……なんかあるのかな?」
「花見とか?」
「お花見?」
「俺んち、公園の近くなんだけどここ何日か花見客で一杯なんだよね」
「そっかぁ。確かに今って桜満開だもんなぁ」
羽入さんは街路樹として植えられている桜を見上げて呟いた。
何気ないことなのに、彼女の綺麗な横顔が夜桜にマッチしていて、胸が大きく高鳴る。
そうなると、否が応でもバスの中でのことを思い出してしまう。
まさか出会って24時間も経たないうちに、彼女を抱きしめることになってしまった。
近くに感じた彼女の匂い、柔らかい身体の感触が未だに残っている。思い出すとどうにかなりそうだった。
「小津くん?」
「あ、いや、なんでも! あ、明日からはさ、乗る時間を早めようか? 今日は寄り道したから、ラッシュに巻き込まれちゃったわけだし!」
言葉を出すことで、よこしまな気持ちを払しょくする。幾分か楽になった。
「そうしたほうが良いね。じゃあ、明日はHR終わったらすぐに集合にしようか?」
「そうしよう!」
明日も一緒に帰れるらしい。今日のようなトラブルが無くても、十分にうれしい。
ふと、ロータリーにたつ時計が、そろそろ電車の到着時間を告げている。
そろそろ帰らないと、夕飯を食べそびれてしまう。
「俺、そろそろ行くけど、羽入さんの電車は?」
「未だだからもう少しここで休んでゆくよ」
できることなら羽入さんの電車が来るまで待っていたい。だけどその提案をする勇気がわかない。
「そ、そっか。じゃあ、今日はこれで……」
「日は色々とありがとね」
「こちらこそ。また明日」
「うん! また明日ね! よかったら今日の私の演技どうだったか、いつでも良いから聞かせてね!」
笑顔の羽入さんに後ろ髪を引かれつつ、武人は踵を返す。
(慣れないとな)
●●●
制服を脱ぐのも億劫だった。着替えるのも今日はなんだか面倒だった。
着替えのことなんかよりも、胸の鼓動の方が気になって仕方がない。
家に帰った羽入さんは、リビングのソファーへうつ伏せに倒れこみ、クッションへ顔をうずめている。
「恥ずかしいよぉ! 卒業公演じゃできたのになんなのぉー!」
枕へ向かって心からのシャウト。そうすると一瞬はすっきりしたものの、すぐに恥ずかしさに似た不思議な熱い感覚が胸にこみ上げてくる。
羽入さんは声優養成所の卒業公演でヒロインを演じた経験があった。主役の男性とは恋人という設定だったので、強く抱きしめあったりもした。
その時は、そういうことなど割と平気だと思っていた。
しかし今日はどうか?
「男の子ってあんなに硬いんだ……」
意図せず抱き着いてしまった小津 武人の身体は思った以上に固く、そして逞しく感じた。
彼の感触が未だに体中を駆け巡っていて、ぼーっとしていると、頭がどうにかなりそうだった。
「ただいま……風邪か?」
背中へ帰宅した父親が声を投げかけてくる。
「大丈夫ー」
「そうか?」
「うん」
「早く着替えろよ」
「わかった……」
父親はそれだけ言い置いて、リビングを過って行く。
これ以上、このままの体勢でいては、制服がしわしわになってしまう。
それはみっともない。ようやくクッションから顔を上げる。リビングの空気が少し冷たく、火照った顔には丁度良かった。
(小津くんっていい人だなぁ……)
自分勝手な羽入さんのお願いを聞いてくれたばかりか、おいしそうにサンドイッチを食べてくれたり、ゲームを教えてくれたり……まだ出会って間もないのは確か。
だけど一緒にいるのが楽しいし、緋色を演じる羽入さんにとってはとてもいい経験になっていると思う。
「付き合ってくれてる小津くんのためにも頑張らないと!」
のぼせている場合じゃない。敢えて声に出して、自分へ言い聞かせる。
「ファイト、私! 明日もやったるぞい!」
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